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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[811]2002年2月5日
miki
[816]2002年2月5日
いわ
[817]2002年2月5日
Issie
[38498]2005年3月11日
Issie
[67259]2008年11月12日
伊豆之国
[68630]2009年2月16日
Issie

[811] 2002年 2月 5日(火)09:06:00miki さん
飛び地
飛び地も結構多いですよね。
1.三重県に囲まれた和歌山県北山村
これは新宮市との結びつきが影響しています。
2.東京都町田市に囲まれた神奈川県川崎市麻生区岡上
...これらは都道府県が影響していますね。
[816] 2002年 2月 5日(火)20:24:16いわ さん
飛び地
私の住む練馬区にも飛び地があります。
それほど大きくはありませんが、
練馬区西大泉町(余談ですが、これ以外の西大泉は西大泉1~6丁目と表記します)は埼玉県新座市片山3丁目に囲まれています。
しかしながら、ここに何があって何ゆえ飛び地なのかは存じません(;^_^

>神奈川県川崎市麻生区岡上
私はこの地区の事情をよく存じ上げないのですが、
地図だけ見ると南側に隣接するのが奈良町、緑山ですから、
横浜市青葉区でもよさそうですけどね。
ちなみに岡上が川崎市であるために、
玉川大学は農学部の一部が「神奈川県川崎市麻生区」
工学部などが「神奈川県横浜市青葉区」
教養学部、農学部などが「東京都町田市」にあります。
3つの市にまたがる大学って他にありますかね?
[817] 2002年 2月 5日(火)21:18:45Issie さん
Re:飛び地
> 2.東京都町田市に囲まれた神奈川県川崎市麻生区岡上

これは明治以来,この地区が麻生(あさお)区本体の柿生(かきお)地区とセットで扱われてきたからです。
まずその前に,現在では町田市は東京都で川崎市は神奈川県と,お互いに別々の都県に分かれていますが,1893年までは南は現在の町田市から西の奥多摩,東は現在の西東京市や世田谷区の千歳地区や砧地区まで,いわゆる「三多摩」は神奈川県でした。ただ,現在の町田市は南多摩郡,岡上を含めて現在このあたりで川崎市や横浜市になっている区域は都筑郡というように,両者の間には都県境ならぬ郡境が通っていました。

岡上地区は江戸時代以来,1878年の郡区町村編制も1889年の町村制施行も通して単独で「都筑郡岡上村」を構成していました。けれども,やはり極小自治体でしたから,村役場などは単独で設置せず隣接の町村と共同で設置することになりました。
もともと岡上村は北隣の鶴川村と一番結びつきが強いのですが,ここは南多摩郡でした(現在は町田市)。南隣の田奈村(長津田村+奈良村=現・横浜市青葉区および緑区)は同じ“都筑郡”なのですが,間にちょっとした峠があって(TBSの緑山スタジオやこどもの国の裏山)この2つの村はお互いに背を向けています(現在も)。そこで,岡上村は同じ都筑郡内で一番近い柿生村とペアを組むことになったのです。
1939年に横浜市が何度目かの市域拡張を行い,田奈村をはじめとする都筑郡の町村のほとんどは横浜市に編入されました。しかし,小田急沿線の柿生村と岡上村は横浜市には編入されず,同じ小田急や南武線(当時は私鉄の南武鉄道)沿線の橘樹(たちばな)郡の町村と一緒に川崎市に編入されました(このときに都筑郡と橘樹郡が消滅)。
そんなわけで,岡上地区はペアを組んでいる柿生村に引っ張られて,横浜市ではなく川崎市に編入されて飛び地となったのです。

むしろ問題は,岡上と柿生の間に挟まっている町田市三輪地区の方かもしれません。
幕末から明治にかけて,ここが(南)多摩郡であったために東京府となり,現在町田市がここに割り込んでいるのです。
ここが都筑郡であったなら,おそらくは岡上地区と一緒に柿生村の一部となり,そのまま順当に川崎市に編入されて岡上地区が飛び地となることはなかったでしょう。
この三輪地区の帰属が一番不自然なのですね。
[38498] 2005年 3月 11日(金)21:40:35Issie さん
多摩区
前にも申したことがあるのですが,この季節,私たちの職場は超繁忙期です。
おまけに,来週はお仕事で沖縄へ行くこともあって,うちんとこのHPも放ったらかしです。
次回更新は4月1日頃を目標にしましょうか。

[38388] hmt さん
「まあるい緑の山手線」

最初に“刷り込まれた”影響が大きいですね。

さう。
おそらく,「山手線」をどう読むかと言う問題は,それぞれの人の「東京」との関わり方を映す鏡であるようにも思っています。
「トーキョー・ネイティブ」の人には「やまのて線」の方が親しいでしょう。
戦後の一定の期間に「山手線」に濃厚に接した人には「やまて線」の方が親しいかもしれません。
「やまのて線」が“公式に”「正し」くなったのは,私の小学生だった頃でした。
「やまて線」と「やまのて線」のどちらが親しいか,というのは面白いテーマかもしれませんね(既に,誰かが調査していそうな気がするけれど)。

[38371] 音無鈴鹿 さん
南豊島郡幡ヶ谷村は甲州街道以北ですけれど「渋谷区」ですねぇ。

や,うっかり。
そう言えば,十二社(←おや,MS-IME で「じゅうにそう」と打ったら出てこなかったぞ。…って,MS-IME が物知らずなのは今に始まったことではないけれど,現存行政地名でなければ,まあしかたないか…)から方南町へ向かうバスが通過する「本町」が,「渋谷区本町」であることを忘れていました。
…ところで,この「本町」とは,どこの「本町」なんでしょうねえ。

[38467] hmt さん
多摩

「三多摩」については,私も hmt さん と同じ感覚を持っています。
直接には神奈川県から東京府に移管された「西・南・北」の3郡を指していたところから始まるのでしょうが,より意味を持つのは,
東京府 ないし 東京都 の中で「東京23区」あるいは,その前身である1932年の市域拡張以降の「大・東京市」,さらに旧北多摩郡の砧・千歳両村を編入した世田谷区を含めて,この「区部」に対する概念ではないかと考えます。

さて、本題の川崎市多摩区。
ここは近世以降は武蔵国橘樹(たちばな)郡ですが、[2035] Issieさん によると、
さらに以前はこのあたりも多摩郡だったらしい
とあります。

とはいえ,問題の「多摩区」がここまで遡るか,というと,そうではないだろうなとも思います。
下流側4区の命名パターンからすれば,「稲田区」でもよかったような気がしますが,「生田」や「柿生/麻生」に対する配慮でもあったのでしょうかね。

日野市、多摩市、稲城市に続く多摩川南岸だし、ここの人達は南多摩との一体感があるかもしれません。

何回か触れていることですが,
現在,東京都の町田市に属している「三輪」地区が,このあたりの境界を錯綜させる原因の1つと言えるような気がします。
なぜここが「東京都」か,と言えば「三輪村」が近世以来「多摩郡」に属していたからです。
もし,ここが隣接する「岡上村」や「上麻生村」と同じ「都筑郡」所属であれば,自然と「柿生村」の一部となり,そのまま「川崎市」へ編入されたことでしょう。現在あるような 岡上 の「川崎市飛地」も生ずることはなかったはずです。
丁寧なことに,町田市(旧南多摩郡鶴川村)の「三輪」と「能ヶ谷」の境界は,鶴見川の旧河道なのですね。

いや,それよりも,
三多摩が東京府に“奪われる”事件さえなければ,「同じ神奈川県」として“ボーダーレス”な交流が維持されたろうと思います。

そんな昔に遡らなくても、このあたりは「多摩丘陵」です。

地形区分にかかわる呼称と,行政区分とは必ずしも一致しません。

新潟県の長岡市街から見た「西山」は「刈羽郡」から「三島郡」に属していますが(間もなく長岡市と柏崎市になってしまうけれど…),地形の世界ではしばしば「頸城丘陵」に含まれます。

かつて「空知支庁(管内)」の東部山地に分布していた炭田は「石狩炭田」と呼ばれていましたね。「空知郡」(←上川支庁管内の富良野盆地も含む)もまた「石狩国」に属していたことによる呼称なのでしょうが,「石狩支庁」の管轄範囲で考えると,やや違和感を覚えます。

地形上の「多摩丘陵」には,保土ヶ谷・戸塚の国境(東海道の権太坂)や,鎌倉・金沢(六浦)間の朝比奈切通し周辺の丘陵地域まで,つまり武蔵の多摩郡を遠く離れて,都筑郡や久良岐郡,そして相模国の鎌倉郡にまで広がる範囲まで含まれることがあります。
[67259] 2008年 11月 12日(水)00:02:09伊豆之国 さん
飛び地の電話番号
このところ「飛び地」の話題で賑わっている様子なので、私もここで「飛び地」にまつわる話題を‥

横浜市と、私の住む町田市とに周りを囲まれた川崎市麻生区岡上地区。私が町田市民になる以前から不思議に思っていた場所です。以前ここが「なぜ町田市に編入しないのか」という疑問に対し「川崎のほうが町田より税金が安いから」だという噂を聞いていたのですが、どうやら「柿生(現・麻生区)との歴史的つながり」があるらしい、と思っていたところ、このサイトの初期の頃にあったIssieさんの書き込み[817]からその経緯が納得できたようです‥。
ところで、この岡上地区ですが、電話の市外局番は、大部分は以前から川崎市の「本体」と同じ(044)になっています。逆に
岡上と柿生の間に挟まっている町田市三輪地区
が、川崎局番(MA)になっていて、川崎MAの地域は「飛び地」にはなっていません。結局[817]にあるように
三輪地区の帰属が一番不自然
なのかもしれません‥。

ところで、電話の市外局番にも「飛び地」になっているところがあります。近年では市外局番の3桁化が進み、全く離れた異なるMAの地域同士が同一市外局番(に偶然なってしまった)というところが増えているのですが、MAも同じ区域なのに、同じ市外局番の区域が別の市外局番の区域を挟んで「飛び地」状になっているところがあります。その一つは、調布市と西東京・東久留米・清瀬の各市(042-4xx、隣接市区との間に一部出入りがあります)。武蔵野・三鷹両市(0422)を挟んでお互いに「飛び地」になっています。MAは武蔵野・三鷹両市も合わせて「武蔵野三鷹MA」として同一で、調布市と北側各市との間の通話は以前は市外局番が必要だったと記憶していますが、現在は不要になっているようです。あと一つ、鎌倉・茅ヶ崎・綾瀬の各市と寒川町(0467)。藤沢市(0466)を間に挟んで3ヶ所に分かれています。こちらも藤沢市と合わせて同じ「藤沢MA」になっており、こちらも同様に以前は市外局番からでしたが、現在は市内局番からかけられるようになっているようです。もっともどちらも同一MAならば市外局番も統合して3桁にすればよさそうなものですが。

[67243]EMMさん、[67239]オーナー グリグリさん、[67207]星野彼方さん
すでにご存知かもしれませんが、北陸鉄道は、石川線の末端部分・鶴来-加賀一の宮間を来年10月末限りで廃止するとの届けを出したとのことです。利用客の減少と施設の老朽化が理由ということですが、無人になったとはいえ、加賀一の宮駅の風格ある駅舎、何とか残せないものでしょうか。因みに私は7年前に白山比■神社を参拝したときに利用しています(■は「口へんに羊」)。
[68630] 2009年 2月 16日(月)23:32:14Issie さん
飛び地「岡上」
下の書き込み([68629])のついで。

ずっと以前,川崎市の飛び地として有名な 岡上地区 について,
“背中合わせ”で隣接している 旧・田奈村(現横浜市青葉区) よりも,間に東京府(都)の 旧・鶴川村(現町田市) をはさんだ 旧・柿生村 との結びつきが強くて,そのせいで柿生村ともども川崎市に編入されて飛び地となった。むしろ,間にはさまった鶴川村(町田市)の 三輪地区 が(南)多摩郡に属していることが不思議…
という意味の書き込みをしたことがあります。
これに関連して,「新編武蔵」の 都筑郡・岡上村 の項に以下のような記述がありました。

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岡上村は、本郡の西にありて、東西北の三方共に多磨郡に接せり、古(いにし)への事は伝へざれど、正保の頃は多磨郡に属し、元禄に至(いたる)も猶(なほ)多磨郡に属せしと云(いふ)、されど村内の東光院慶安年中の御朱印には、都筑郡の内とあれば、両郡接地なるゆへに未(いま)だ本郡に入らざる前に,たまたまかく唱へしこともありしなるべし、土人の伝へは多磨郡に属すといへば、慶安中は多磨に属せしやもしるべからず、或(あるい)は本郡にも随(したが)ひ、近き頃は当郡に附せしと云、村名の起りは詳(つまびらか)にせずといへども、岡上氏の住せし所などにや、……
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というわけで,江戸時代の初め(正保年間=3代家光の時代)は 多磨(多摩)郡 の所属で,元禄年間(5代綱吉の時代)もそうだったらしい。ただし,慶安年間(家光~4代家綱の時代)に「都筑郡」としたものもあるけれど,それは「たまたま」。ともかく,最近(というのは江戸時代の後半)には都筑郡となっていた,ということですね。
三輪村 だけでなく 岡上村 も多摩郡,ということであれば,それはさほど不自然ではないかな。
でも,何で 岡上村 だけが都筑郡に所属替えになって,三輪村 が多摩郡に残ったか,という疑問は残りますけれど。


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