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千本桜さんの記事が10件見つかりました

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[102260] 2021年 8月 23日(月)07:39:19千本桜 さん
はりぼて準名邑
[99315] 白桃さん
「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」という字句から連想するのは、町場の規模です。それが白桃さんの意図に叶っているかどうかは分からないのですが、私にはそのように映るのです。そうした場合、町場だけで構成された町村と、周辺の農村集落を多く含んだ町村との間に、溝を感じてしまうのです。
例えば、準名邑に選ばれた宮城県丸森は、農山村集落を多く含んでいるため、面積が広くて人口も多い。しかし、町場の規模は、同じ凖名邑の亘理・中新田などに比して小規模である。それに対し、凖名邑に選出されなかった宮城県吉岡は、周辺集落を少ししか含まず、面積が狭く人口数も多くない。しかし、町場の規模は丸森より大きい。そのような訳で、私は丸森を「はりぼて凖名邑」または「上げ底凖名邑」・「粉飾凖名邑」と呼び、吉岡を「実質凖名邑」と呼びたいのですが、いかがでしょうか。でも、これを言うと、全国各地に同様事例があるので、面倒臭くなりそうですが‥‥。
白桃さんの体力が戻って来たので安心して、少し難問を投げかけてみました。
[102157] 2021年 7月 7日(水)05:31:15千本桜 さん
ごぼう抜き
昭和の大合併の時もそうでしたが、特に平成の大合併以来、市区町村を単位とする人口統計に味気なさを感じるようになりました。とは言っても、2020年国勢調査の市区町村人口速報値が公表されましたのに、これに関する書き込みがないのは少し残念。そこで、人口をネタに軽いクイズを1問。ほんとに軽いクイズなので、がっかりしないでください。
以下に、2015年国勢調査人口が大河原町より上回っていた11市を書き出します。ところが、2020年国勢調査ではそれらの11市をごぼう抜きにして大河原町が上位に立ちました。ごぼう抜きにされた市の中で、1市だけ名称を伏せて「A市」としておきました。さて「A市」とはどこでしょう。

2015年順位2015年市町名2015年人口2020年順位2020年市町名2020年人口
1位美祢市26,159人1位大河原町23,575人
2位大月市25,419人2位A市23,488人
3位にかほ市25,324人3位にかほ市23,455人
4位上野原市24,805人4位美祢市23,267人
5位A市24,801人5位江津市22,979人
6位飛騨市24,696人6位上野原市22,677人
7位村山市24,684人7位飛騨市22,556人
8位江津市24,468人8位村山市22,537人
9位江田島市24,339人9位大月市22,525人
10位養父市24,288人10位勝山市22,180人
11位勝山市24,125人11位養父市22,137人
12位大河原町23,798人12位江田島市21,937人
[101489] 2021年 3月 29日(月)11:39:56千本桜 さん
大日本國東山道陸奥州驛路圖や仙台藩の商業統制
[101486] ekinenpyouさん

(表記ルール明細は)必要であれば調べてみますが、
国絵図の図式規定を知りたいと思っていますが、私は検索が下手でお目当のものに辿り着けません。国絵図読解事典なるものがあることには辿り着きましたが、本年2月に発行されたばかりで県の図書館にも置いていないようです。ekinenpyouさんに大きな負担がかからない範囲で調べることができましたら是非お願いします。

大日本國東山道陸奥州驛路圖という資料に金ヶ瀬宿※10丁24間とあり、(計測距離と)極めて近い値になっているようです。(この距離が当時の東西木戸間距離?)
こちらのブログに詳細解説がありますが、(増補行程記のように)タッチの異なる写し?と思われる2点が存在しいずれもネット閲覧できます。(金ヶ瀬宿が描かれている箇所を示しておきます) 筑波大学附属図書館の日本國東山道陸奥州驛路圖 3・青森県立図書館の大日本国東山道陸奥州駅路図(20コマ)
東山道陸奥州駅路図は3種とも初めて目にしました。吉田初三郎の鳥瞰図を思い起こさせる素晴らしい鳥瞰図だと思います。初めて見るものなので新たな疑問が湧いてきたりして、かなり面白いです。疑問の1つは、白石驛と金ヶ瀬驛の間にある「宮驛」を「大宮驛」と記していることです。別の資料では「刈田宮」と表記しているのを目にしたことがありますが「大宮」という表記は初めてです。本当に「大宮驛」と称していたかは疑問ですが、新鮮な驚きであるのは確かです。このような目する機会の少ない資料をリンクしてくださるekinenpyouさんと、その場を提供してくださっているグリグリさんにリスペクト申し上げます。

[72228]千本桜 さんを拝読すると(金ヶ瀬には)大河原のように市日記載が見あたらないことから
商業活動許可は出ていない(広義の)町場(に準ずる)領域だったということになるのでしょうか。
※例えば(金ヶ瀬より戸数の少ない)槻木は市日記載あり?
だいぶ以前の書き込みにも目を通して頂きありがとうございます。その記事は「宮城県史 第6章 農民支配と商業統制」を基にして書きました。仙台領南部で商業活動が許された町場は藩政中期において、岩沼・亘理・村田・角田・川崎・金津・金山・船岡・丸森・大河原・白石の11町だったようです。また、後に槻木も加わり、さらなる後に金ヶ瀬にも市が立ったと、何かの本に書いてあったように記憶しているのですが、曖昧な記憶で文献名も忘れてしまいました。金ヶ瀬は褌町で細長い町場を形成していましたが、在に当たる村落が少なくて中心性に欠けていました。
少し余談になりますが、地理用語・歴史用語・社会用語で「宿・驛・町・街・まち・マチ・市街」という言葉をどのように解釈し、どのように使い分けしたら良いのやら迷うことがありますね。金ヶ瀬を表す場合も、東山道陸奥州駅路図は接尾辞に驛を用いて金ヶ瀬驛とし、安永風土記は町を用いて金ヶ瀬町としています。
[101480] 2021年 3月 22日(月)00:59:21千本桜 さん
Re:白色の日記念・クイズ2題
[101468] 伊豆之国さん
【問A】:岐阜県白川町、佐賀県白石町(想定解数:5町、該当しない町:千葉県白子町)
一見したとき答えはアソコかな?と気がついたのですが、ヒントを見ているうちに訳が分からなくなりました。なぜ白石市、白馬村、旧白鳥町が該当して、白山市、白川村が該当しないのか皆目見当がつきません。でも、こんな夜遅くまで悩んでいてもしょうがないから誤答覚悟で答えます。答えは和歌山県白浜町。間違っていたらかなり恥ずかしいけれど‥‥。
[101479] 2021年 3月 21日(日)23:52:02千本桜 さん
正保・天保国絵図は宿駅と村をどのように表記したか
[101449] ekinenpyou さん
正保・天保国絵図などいろいろ調査していただきましてありがとうございます。多謝!
国絵図から読み取れる柴田郡内の宿駅は11宿ですが、もう1宿、船岡宿というのがあります。船岡は要害(城下町)として知られていますが、奥州街道から外れているため宿駅としての認知度は低いようです。しかし柴田町史 通史編1は次のように書いています。
宿駅という言葉は一般に町場とほとんど同義語として用いられる。舟岡は幹線街道である奥州街道からはそれるが、枝分かれした脇往還亘理道の宿駅という一面も有していた
そこで、船岡宿を含めた柴田郡内の12宿駅が正保・天保国絵図ではどのように表記されていたかを一覧表にしてみました。

宿駅名藩政村名正保国絵図に表記された名称天保国絵図に表記された名称M22町村制現行自治体
金ヶ瀬宿平村金ヶ瀬宿と平村がある平村があり平村之内金ヶ瀬宿もある金ヶ瀬村大河原町
大河原宿大河原村大河原宿があり大河原村がない大河原村があり大河原宿がない大河原町大河原町
船迫宿船迫村船迫宿があり船迫村がない船迫村があり船迫宿がない槻木村柴田町
槻木宿入間野村入間野宿と記され槻木宿がない入間野村があり入間野村之内槻木村もある槻木村柴田町
船岡宿船岡村船岡村があり船岡宿がない船岡村があり船岡宿がない船岡村柴田町
村田宿村田郷村田宿があり村田郷がない村田郷があり村田宿がない村田村村田町
菅生宿菅生村菅生村があり菅生宿がない菅生村宿とある富岡村村田町
碁石宿支倉村支倉村と支倉村之内碁石村がある支倉村があり支倉村之内碁石宿もある富岡村川崎町
小野宿小野村小野宿があり小野村がない小野村があり小野宿がない川崎村川崎町
川崎宿前川村前川村と前川ノ内川崎宿がある前川村があり前川村ノ内川崎宿もある川崎村川崎町
野上宿今宿村今宿と記され野上宿と今宿村がない今宿村があり今宿村之内野上宿もある川崎村川崎町
笹谷宿今宿村今宿ノ内笹谷宿があり今宿村がない今宿村があり今宿村之内笹谷宿もある川崎村川崎町
宿駅と村は別物だと思うのですが、国絵図は宿駅と村を同一視しているように感じました。図式規定が付されておらず作者の意図が分かりませんが、例えば正保国絵図には大河原宿があって大河原村はありません。対して天保国絵図には大河原村があって大河原宿がありません。大河原宿を記載しても大河原村を記載しなければ、宿場の有無は伝わっても村全体を表したことにはならないし、大河原村を記載しても大河原宿を記載しなければ、街道にとって重要施設であるはずの宿場の有無が伝わらないと考えます。なので宿駅名と村名の双方を表記すれば良いと思うのですが、各国藩によって村の面積が異なるから全藩統一した表現は難しいのでしょう。例えば駿河国の藤枝宿は八つの村に跨っていたそうです。ざっと見たところ藤枝宿を構成していた8村あわせても、平村や大河原村1村の面積と同じくらいに見えました。

次に少し話が変わりますが、(享保の新町成立以降)金ヶ瀬宿の所属地名変遷を以下のように推測しました。
年代地名
~明治初期柴田郡平村(刈田郡には跨らず)
明治初期~同郡同村字町※
M22町村制施行同郡金ヶ瀬村大字平字町
そして昭和31年、大河原町と合併して現在の柴田郡大河原町金ヶ瀬字町になりました。地名の変遷にはドラマを感じます。宮村の金ヶ瀬宿は洪水で壊滅し平村に移転してきました。当初は平村の一角に金ヶ瀬宿があるという感覚だったでしょう。しかし宿場に新町が増設されて平村の村落部と金ヶ瀬宿の町場人口が逆転。平より金ヶ瀬の方が多用される地名になったと推測されます。明治22年、平村・堤村・新寺村が合併。新村名は平村になるかと思いきやさにあらず。平村の町場名をもって金ヶ瀬村になり、平村は金ヶ瀬村の大字平になりました。平村の金ヶ瀬から金ヶ瀬村の平へ立場が逆転。平村は金ヶ瀬宿に庇を貸して母屋を取られたようなものです。現行大河原町誕生の際に、消滅する金ヶ瀬村の名を継承させるために大字平を金ヶ瀬に改めました。その煽りを食らって消滅に追い込まれた平が不憫です。

※現在の小字(公称)地名「字町」はM6地租改正の頃に成立?
(小字「字町」の成立過程については調べきれませんでした、江戸時代から既に存在?)
「明治6年(1873)柴田郡金ヶ瀬村大字平字町戸割図」とあり、この時点で既に成立していた模様
(ただし金ヶ瀬村は当時まだ無いので、正確には柴田郡平村?)
地租改正にあたっては字の範囲を確定し字限図も作られたでしょうから、明治6年には「町」という名の字があったと推測しますが、江戸時代となると?です。字町戸割図は町の民俗資料収蔵室にあるようなので問い合わせたところ、本年2月の福島県沖地震で被害を受けたようで、現在は入室できない状態です。

旧小野村の場合、釜房ダムの完成で地形がだいぶ変わったところもありますがこのあたり?
現在の小字地名「字町」は藩政時代集落名として使われたもの(いわゆる通称地名)に由来?
宮城県内には仙台市七北田字町、村田町大字村田字町、大河原町金ヶ瀬字町など、「町」という名の小字が随所にあり、川崎町大字小野字町もその中の一つです。この「町」という小字は、概ね藩政時代の宿場町の区域と重なります。
[101472] 2021年 3月 16日(火)19:43:47千本桜 さん
あれから10年、クイズここはどこでしょうの解答
[101464] 伊豆之国 さん
[101466] ekinenpyou さん
[101467] hmt さん

[101463] あれから10年、クイズここはどこでしょうにお付き合いくださいましてありがとうございました。みなさま、正解です。
答えは、A=宮城県、B=名取市、C=閖上地区、D=福島県、E=相馬市、F=松川浦、G=山元町、H=中浜小学校でした。

まず、宮城県名取市の閖上地区へ。名取市は震災で甚大な被害を被ったが、この10年間に人口を5,000人以上も増加させた稀有な市である。市内には隣県からも集客する巨大なショッピングモールがあり、福岡・那覇はもとより、ソウル・台北などの海外都市とも空路で結ばれている。しかし、海沿いの閖上地区は10年前に津波にのまれて壊滅した。閖上地区は一級河川名取川の河口に発達した港町で、人口集中地区を形成していたこともある大きな市街地だったが、今は更地状態の宅地が強風に煽られて土けむりを上げている。

次に、南下して福島県相馬市の松川浦に向かう。松川浦は風光明媚で松川浦県立自然公園に指定されている。松川浦を訪れるのは、震災の爪痕を観察するためだが、同時に美味しい昼飯を食うためでもある。穴子丼が食べたくて、お目当の食堂に到着したが、あいにく定休日。予定を変更し、落書き帳でおなじみの白桃さんを案内したことがある食堂へ。今は入院中で美味しいものも食べられないでいるだろうに、自分だけが美味しいものを食べて申し訳ないと思いつつ天丼を食す。

最後に、北上して宮城県山元町の中浜小学校へ向かう。山元町は昭和時代に山下村と坂元村が合併してできた町で、特産品は、いちご、りんご、ホッキ貝である。入り組んだリアス海岸が津波被害に遭うのは想像できるが、単調な海岸線のこの町が津波に襲われるとは思いもしなかった。山元町の人口は、この10年間に5,000人近く減少し、減少率は29.3%である。内陸部の集落は助かったが、海岸部の集落は全滅した。中浜集落もその1つである。集落の家屋は無くなっているが、ぽつんとひとつ、中浜小学校の校舎が残されている。山元町震災遺構中浜小学校だ。
[101463] 2021年 3月 11日(木)22:15:12千本桜 さん
あれから10年、クイズここはどこでしょう。
今日は東日本大震災から10年、各地で追悼式などが行われたようです。密になるのを避け、昨日のうちに被災地3ヶ所を巡ってきました。A〜Hの名称をお答えください。

まず、A県B市のC地区へ。B市は震災で甚大な被害を被ったが、この10年間に人口を5,000人以上も増加させた稀有な市である。市内には隣県からも集客する巨大なショッピングモールがあり、福岡・那覇はもとより、ソウル・台北などの海外都市とも空路で結ばれている。しかし、海沿いのC地区は10年前に津波にのまれて壊滅した。C地区は一級河川B川の河口に発達した港町で、人口集中地区を形成していたこともある大きな市街地だったが、今は更地状態の宅地が強風に煽られて土けむりを上げている。とりあえず、B川の河畔に建つ震災復興伝承館へ入館。小さな伝承館だが、震災前のC地区の街並みを再現したジオラマが置いてある。メインストリートには銀行があり、いろいろな店が並んでいたのが分かる。生活感が感じれれる手作りジオラマを見て退館すると、目の前には商店もなければ一般家屋もない乾燥したメインストリートが走っていた。そんなメインストリートにカメラを向ける私を、同行者は少し苛立ちながら見ている。今回の同行者は学力は優秀だが地理的なことには興味がないようだ。何しろ、相馬を「あいば」と読んだ人である。まだ16歳頃の若い時だったが「あいば」はないだろうと思った。すぐそこがC漁港だから見に行こうと言うと、「漁港なんて、どこも同じだべ」と言う。そんな言葉を無視して強引に車を漁港に横付けする。晴天の中、C漁港の風景は震災など無かったかのように明るい色をしていた。

次に、南下してD県E市のF浦に向かう。F浦は風光明媚でF浦県立自然公園に指定されている。F浦を訪れるのは、震災の爪痕を観察するためだが、同時に美味しい昼飯を食うためでもある。穴子丼が食べたくて、お目当の食堂に到着したが、あいにく定休日。予定を変更し、落書き帳でおなじみの白桃さんを案内したことがある食堂へ。今は入院中で美味しいものも食べられないでいるだろうに、自分だけが美味しいものを食べて申し訳ないと思いつつ天丼を食す。F浦に来るとドライブしたくなる道路がある。天橋立よりも長い砂州の上を走る道路である。右にF浦、左に太平洋を望みながら走るのは爽快である。もっと先に丹下左膳の碑があるから見に行こうと言うと、地理的なことに興味のない同行者は「丹下左膳の碑を見て何になる」とか「どこまで行っても同じ風景だべ」と、のたまう。確かに丹下左膳の碑を見たからといって、いまさら人生どうなるわけではないが、見ないで過ぎるのが勿体ないと私は思うのである。それじゃ鵜ノ尾埼灯台を見に行こうと、同行者を促して小高い丘の階段坂道を登る。たいした距離でもないのに息がきれる。しかし、青空を背景にした白い灯台と広い海を見て、ホッと安心の溜息をつく。まるで、10年前の津波など無かったような美しい風景だった。

最後に、北上してA県G町のH小学校へ向かう。G町は昭和時代に◯下村と坂◯村が合併してできた町で、特産品は、いちご、りんご、ホッキ貝である。入り組んだリアス海岸が津波被害に遭うのは想像できるが、単調な海岸線のこの町が津波に襲われるとは思いもしなかった。G町の人口は、この10年間に5,000人近く減少し、減少率は29.3%である。内陸部の集落は助かったが、海岸部の集落は全滅した。H集落もその1つである。集落の家屋は無くなっているが、ぽつんとひとつ、H小学校の校舎が残されている。G町震災遺構H小学校だ。入館料は400円。ガイドに誘導されながら内部を見学。津波に襲われた当時のままだから廃墟状態である。1階、2階と進み、いよいよ屋上の屋根裏倉庫に入る。震災当日、ここに避難した児童や住民たち90人の命を守った屋根裏倉庫である。床はコンクリートの打ちっ放しで床板などは無い。10年前のあの夜は寒かった。懐中電灯2つだけの闇の中、津波の恐怖と寒さの中にいた児童たちを思うと涙が出る。屋根裏倉庫を抜け出し、屋上から外の景色を眺める。家屋を無くした集落跡地には道路だけが延びているが、ここに人々の生活があったことを思うとやるせない。

被災地見学をする際は、ガイドさんに説明して頂くことをおすすめします。
[101430] 2021年 2月 28日(日)20:10:19千本桜 さん
武奥増補行程記
[101417] ekinenpyouさん
刈田郡→武奥増補行程記(千本桜 さんサイト内で、寛延4年(1751)の道中図「増補行程記」とあるものと同じ?)
上記ekinenpyouさんの書き込みに対し、[101428] で「同じものですね」と答えましたが、異なるものであることに気がつきました。[101428]の書き込みは「異なるものですね」に訂正しておきました。惑わせてしまい申し訳ありませんでした。作者は同じ清水秋全となっていますが絵や文字のタッチが違うところをみると、武奥増補行程記は誰かが模写したのでしょうか? 調べてみたのですが詳しいことは解りませんでした。
[101428] 2021年 2月 27日(土)19:30:10【2】千本桜 さん
Re:奥羽街道の金ヶ瀬宿は複数郡に跨っていた?
[101417] ekinenpyou さん
金ヶ瀬宿の「家向き俗説」を(個人的に裏付け調査もしながら)ようやく読破しました。この俗説は各所で引用されており、(観光などで)現地を訪れた方も(その説で)納得してしまっているようですね。
お付き合いいただいてありがとうございます。金ヶ瀬宿の「家向き俗説」は長文ですから、読破するのが大変だったでしょう。感謝申し上げます。町内外を問わず、この俗説に興味をもたれる人を大歓迎です。
街道歩きや宿場めぐりの愛好家が、たまにこの街にやってきます。角川地名大辞典や町史などで、あらかじめ勉強してくる人も多いようですが、辞典や市町村史に誤りがあっても、それを見破るのは難しいですね。また、古文書には嘘が含まれていることもあるようで、200年前のフェイク「椿井文書」のような例もありますから要注意です。

柴田郡誌(M36)より、所属する郡に関する記事を引用します。
金ヶ瀬の市街は藩政の頃は凡中央より二分して柴田刈田の両郡に分属し東方は柴田郡平村と称し西方は刈田郡金ヶ瀬驛と称したり
これは疑わしい記述です。金ヶ瀬市街(金ヶ瀬宿)は、柴田・刈田両郡に分属していたのではなく、片倉家・伊達家に分属していたのです。そして、平村の中に形成された市街が金ヶ瀬驛ですから、「東方は柴田郡平村と称し西方は刈田郡金ヶ瀬驛と称したり」という記述も、地理的にしっくりしない表現です。柴田郡誌(M36)は、刈田郡の白石城を居城とする片倉家の飛び地は、柴田郡にあっても、どこにあっても、刈田郡として扱われたかのような書き方をしていますが、そんな事実はないはずです。そこで、同じように片倉家の領地で飛び地の広淵村(旧桃生郡広淵村、現石巻市広淵)を調べて見ました。

角川地名大辞典から広淵村を引用すると
広淵村:江戸期から明治22年の村名。桃生郡深谷代官区26村の中心で代官所が置かれ、明治期は21年まで郡役所が置かれていた。寛永5年、片倉小十郎重長が広淵谷地・ぼためき谷地などを拝領、片倉谷地・白石谷地などと呼ばれた。
と書いてありますが、刈田郡として扱われていたとは書いてありません。

また、平凡社日本歴史地名大系から広淵村を引用すると
白石城城主片倉小十郎重長が当村谷地など18ヶ所を知行地として給与され、片倉重久ら家臣の二、三男30人余を移住、開墾させて新田に居住させた。新田町は片倉小十郎家中町とも称された。
と書いてありますが、刈田郡に属していたとは書いてありません。

以上のことを金ヶ瀬宿に当てはめると、片倉家の領地である刈田郡宮村の金ヶ瀬宿が洪水で壊滅し、伊達藩から柴田郡平村の一画を知行され、そこに金ヶ瀬宿を移転させた。しかし、移転したのは金ヶ瀬宿であり、刈田郡宮村が移転した訳ではない。従って、柴田郡平村に形成された金ヶ瀬宿を指して刈田郡金ヶ瀬驛と表記するのは間違いだと思います。

しかし、大河原町史には次のことが書いてあります。新町が増設された享保年間の文書に基づいているようです。要約すると
金ヶ瀬宿の本町は柴田郡平村の地には違いないが、片倉家の知行所であるから刈田支配が当然である。ところが新町は藩の直轄地であるから、年貢は藩の蔵に直接納入することになる。また、百姓からの諸願もこれまでどうり柴田代官所へ差し出すように、ただ町内に発生する諸事件の取締については、片倉家の支配を受けよという扱い方である。こうして新町は貢租関係諸願は柴田扱いにて藩庁へ、治安その他取り締まりは刈田扱いと二重構造になったのである。
以上のことから、金ヶ瀬宿を二分していたのは柴田郡と刈田郡ではなく、現代で言う税務署や裁判所の管轄境であることが分かります。ですから、片倉支配・大河原代官所・藩庁直轄扱い・白石代官所扱いと書けば良いのに、郡名を用いて刈田支配・柴田代官所・柴田扱い・刈田扱いと書いたことで、柴田・刈田両郡に二分されているような誤解が生じたのではないか。柴田郡誌(M36)の記述は、そうした誤解の上にたって書かれた可能性が高いと思います。

なお、柴田郡誌(M36)には「(明治)維新の際(刈田郡)金ヶ瀬駅を平村に合併し柴田郡に編入」という記述もありますが
この記述も柴田郡誌(M36)の誤解でしょう。もともと金ヶ瀬駅は柴田郡平村の一部でしたから、維新の際に編入された訳ではありません。維新の際に片倉支配が解かれたことを書きたかったのかもしれません。

郡境が存在したという記述自体も不適切(誤り?)だったのかもしれません。
金ヶ瀬宿を二分していたのは郡境ではなく、片倉家と伊達家の領域境ですから、不適切だと思います。

刈田郡の飛び地?が柴田郡の宿内に存在し、それが「金ヶ瀬駅」だったという可能性もゼロではありませんが・・・
たぶん、それはゼロだと思います。片倉家=刈田郡ではないのに、「片倉家の飛び地」を「刈田郡の飛び地」と言い表したことから生じた誤報でしょう。金ヶ瀬本町は片倉家の飛び地ですが、刈田郡の飛び地ではないと考えます。

柴田郡→日本分国図(仙台領)(正保国絵図摸写図?平村とは別々)・天保国絵図陸奥国仙台(こちらは平村之内)
村や宿(町場)を三つに分類してみます。町場を持たない村、村名と同名の町場を持つ村、村名と異名の町場を持つ村の三つです。町場を持たない村は「堤村」「新寺村」のように村名だけの表記で済みます。村名と同名の町場を持つ村については、町場名を採択して「大河原宿」「船迫宿」と表記し、村名の「大河原村」「船迫村」を省略しているようです。問題は村名と異名の町場を持つ村です。「平村」と「金ヶ瀬宿」、「前田村」と「中田宿」のように村名と宿名を併記しているものもあれば、入間野村の槻木宿を「入間野宿」、小堤村の亘理宿を「小堤宿」と表記したりしています。これは、単純に村名と町場名の混用とみるべきか、それとも、厳密な規定に基づいているのか私には解りません。参考までに、村の中の町場[47401]

刈田郡→武奥増補行程記(千本桜 さんサイト内で、寛延4年(1751)の道中図「増補行程記」とあるものと同じ?)
異なるものですね。武奥増補行程記は金ヶ瀬に刈田郡と註記していますが、柴田郡とするのが正しいと思います。百歩譲って、刈田郡宮村から移転した金ヶ瀬本町に対してのみ刈田郡を註記するなら、分からないわけではありません。しかし、絵図は新町を含めた金ヶ瀬全体を描いています。金ヶ瀬全体を刈田郡とするのは間違いだと思います。増補行程記の絵図はデフォルメが激しくて、山と川の位置関係が明らかに間違っている場所もあります。

現在の小学校近郊にある古い建物として光澤山 明増寺(浄土真宗本願寺派)というお寺があり嘉禄2(1226)年創建とのことで、位置が変わっていなければ(寛永の)金ヶ瀬宿移転前から存在していたことになります。
(寺院関係者の方は)この俗説についてどのような見解を持っているのでしょうか・・・
明増寺は昔、田んぼの中(現在の中学校のところ)にありましたが、明治23年に現在地(小学校のところ)へ移転しています。寺院・神社の関係者も俗説を史実と信じているのが現実です。

1字訂正 「平村」と「金ヶ瀬村」を「平村」と「金ヶ瀬宿」に訂正しました
[101425] 2021年 2月 25日(木)14:41:54千本桜 さん
白桃クイズに挑戦
[101422] オーナー グリグリさん
【市人口ミステリー:消えた63,738人の謎】by 白桃
思わず「くそ〜〜〜!」と叫びたくなるほど素晴らしい出題です。クイズ東大王やQさま!!に取り上げて欲しい。
白桃さん、その看護師は男か女か知りませんが、下の名前を「としみ」または「あきら」と言いませんでしたか。消えた63,738人のうち、何割かは天神や中洲で働いているのでしょうね。

[101420] 未開人さん
問題2に関しては視点が難しいかとは思います。(因みにこれを調べている途中に岐阜県庁の情報を見つけました)
問題2 日本の都道府県庁のうち、茨城県庁と石川県庁のみに共通する特徴を答えよ。
茨城県庁で瞬時にひらめいたのは、中心街から離れた郊外に位置しているということです。ということは「ある特定の区域から外れた場所にある県庁」で、その「特定の区域」とは、白桃さんの好物のアレですね。確かに特殊な視点かもしれませんが面白いと思います。

[101417] ekinenpyouさん
金ヶ瀬宿について書こうと思っていましたら、「くそ〜〜〜!」と叫びたくなるほど素晴らしい白桃さんのクイズをみて、そちらを先にさせていただきました。金ヶ瀬宿については、間違いのないように、じっくり考えておこたえします。


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