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[98077] 2019年 7月 2日(火)19:16:37【1】hmt さん
度量衡の話(2)メートルの定義 「憎くなく…」
時の記念日 99周年の記事[98033]から始めた「度量衡の話」シリーズの第2回です。

度量衡・メートル法・cgs単位などの言葉に代わり、現在用いられている科学用語は「SI単位系」でしょう。
落書き帳過去記事を探ると、次のような記事がありました。

[88892] hmt
最初は「1日」という時間を細分して示す目的で作られた「分」や「秒」でしたが、科学技術の発達に伴い制定された現在のSI単位系[86490]の中で、「秒」は一番正確な定義がなされている「基本単位」に出世しています。

[86490] YT さん
SI単位系といえば、長さがメートル(m)、質量がキログラム(kg)、時間が秒(s)、電流が(A)、温度が(K)、物質量がモル(mol)、光度がカンデラ(cd)ですが、この中で一番正確な定義がなされているのが、セシウム原子時計によって定義されている「秒」です。(中略)
SI単位系ではおそらく一番馴染みが深いのが「メートル」でしょうが、現在はメートル原器ではなく、真空中の光速度による定義に変わっています。「真空中で「1秒」の299792458分の1の時間に光が進む行程の長さ」と定義文【計量単位令別表第一】にあるように、長さの基本単位「メートル」は 時間の基本単位である「秒」により定義されており、相対誤差(10^-10)も、時間の誤差よりも大きくなります。
定義に使われた数字【光速 c = 29979…m/秒】の語呂合わせを、今回のタイトルに利用しました。
上記 YT さんの記事は、当然のことですが、キログラムの定義変更[98033]にも言及しています。

計量単位令別表第一に記されている「物象の状態の量」は 上記の 長さ・質量・時間・電流・温度・物質量・光度 を筆頭に 65種ありますが、ここでは MKS単位の一つである「秒」の定義を記しておきます。
セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍に等しい時間

時間については、ご承知のように 60進法[88892]です。
10進法を推進したフランス革命も、古くからの習慣を変えることができませんでした。
時間と角度を 60進法から 10進法に変更した革命政府は、宗教の安息日などを通じて 長い伝統を持つ 7日の週を廃止して 10日の旬単位休日を採用しました。働き方改革?
この「共和暦」は、自然現象に基づく「月の名称」にも特徴がありましたが、人々に受け入れられず、ブリュメール【霧月】クーデターで政権を握った ナポレオンによって廃止されました。[45385]

時間のことは このくらいにして、[98033]に続いて 日本の近代度量衡制度を概観しておきます。
1875年(明治8年)度量衡取締条例(太政官達第135号)
1886年(明治19年)メートル条約加盟[87405]
1891年(明治24年)度量衡法公布 1893/1/1施行
 メートル原器等に基づいて尺貫法を定義した。【間接的なメートル法導入】
1909年(明治42年)ヤード・ポンド法も公認し、尺貫法・メートル法と 3単位体系の並立状態を生み出し、混乱。
1921年(大正10年)第一次大戦後の度量衡法改正で国内単位をメートル法に一本化する改正。
 しかし、尺貫法擁護運動にさらされ、統一は事実上無期延期。
1951年(昭和26年)第二次大戦後、計量法。メートル法統一問題は持ち越し。
1959年(昭和34年)メートル法完全実施。例外で残された土地建物の坪表記も 1966/3/31限り。
1960年 メートルの定義変更 クリプトン86の波長[45385]
1983年 メートルの定義変更[45385] 真空中の光速[86490]
2019年 キログラムの定義変更 プランク定数[98033]
[98073] 2019年 6月 28日(金)16:06:47hmt さん
パリ講和会議 100周年
G20サミットということで、世界の政治家が大阪に集っていますが、100年前の 1919/6/28には、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」が開かれており、ベルサイユ条約が結ばれていました。

第一次世界大戦については、開戦100周年 2014/7/28の記事[86112]に書いたことがあります。
今日は、開戦の発端になった「サラエボ事件」の 105周年でもあります。

それはさておき、パリ講和会議の中心人物は 米国 28代大統領 ウッドロウ・ウィルソン でした。
プリンストン大学の学長経験もある政治学者で、誰かさんとは大違いの学者大統領。

欧州政治家の旧外交により始まった世界大戦に対して、大統領は 勝利なき講和 を唱え、当初は中立。
Uボート【潜水艦】による英国の豪華客船ルシタニア号への無警告攻撃により、米国市民を含む多数の犠牲者が出ました。これが英国の大々的な宣伝に利用され、米国世論は反ドイツになりました。

米国が参戦した後も、ウィルソン大統領は 和解の平和 姿勢。
1918/1/8 秘密外交の撤廃・民族自決などを含めた 14ヶ条の平和原則などを公表。
1918/9/25 ブルガリアが脱落して落ち目のドイツ大本営は、降伏の道を探ってアメリカと接触 9/28。
そして ドイツも遂にウィルソンの和平勧告に応じ休戦協定が結ばれ、1918/11/11 平和が訪れました。

このように、ウィルソンが第一次世界大戦の終結に果した役割は 極めて重要でした。
しかし、連合国側諸国が 彼と同じような考えを持っていた訳ではありません。
パリ講和会議に集まったのは 33ヶ国。政治的混乱のロシアは呼ばれず。

1919/1/18 開会宣言。ウィルソンが望んだ会議の公開は 英仏の猛反対で実現せず、秘密会議。
2/14に国際連盟規約の草案が承認されました。
ウィルソンは、国際連盟創設の功績によって、1919年のノーベル平和賞を受賞しました。

会議の中心である四人会議(米英仏伊)の争点は、フランスの対独警戒心からの領土要求。
なんとか妥協が成立して、講和条約案がまとまり、4/14 ようやく敗戦国ドイツが招請状を入手。
最終的にはドイツも条約を受諾することになり、冒頭に記したように、6/28にベルサイユ条約締結。

チェコスロバキアへのズデーテン割譲を拒否したオーストリアに対しては 修正案が提示され、1919/9/10 サン=ジェルマン条約締結で決着しています。
そして、1919/11/27 ブルガリアとの ヌイイ条約、1920/6/4 ハンガリーとの トリアノン条約、1920/8/10 オスマン帝国【トルコ】との セーブル条約により、連合国側が同盟国側と講和して 第一次世界大戦にケリをつける パリ講和会議 も終結しました。

政治学者のウィルソンには、講和会議よりも大きな政治構想・国際連盟を推進する仕事があり、講和会議小委員会の一つである国際連盟委員会の委員長には、自ら就任していました。

この委員会で、日本全権の牧野伸顕【大久保利通の次男】は、国際連盟憲章に人種差別禁止規定を盛り込むことを提案しています。
しかし、白豪主義を維持していたオーストラリアの強い反対があり、米国上院も内政干渉にあたる人種差別撤廃提案が通れば、条約を批准しないと反発し、賛成多数にもかかわらず議長権限で否決されました。

このように、ウィルソンは 期待した人を失望させながらも、国際連盟成立のためには 様々な譲歩をして、パリ講和会議の各条約を成立させ、国際連盟も成立の運びとなりました。

しかし、米国上院は、国際連盟規約10条【加盟国が侵略を受けた際、米国を含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負う】が、米国独自の中立主義【モンロー主義】に抵触すると反発。
留保条件をつけて上院の同意を得るべきだとの譲歩にも、大統領は応ずることなく、上院の批准が得られない米国は、言い出しっぺでありながら、国際連盟に参加することができませんでした。

パリ講和会議後の日本。
1920年代には「それなりの成果」のあった国際連盟を崩壊させる契機となった満州事変。
「ベルサイユ体制の打破」を唱えるドイツのヒトラーと共鳴して、第二次世界大戦。そして敗戦。
欠点はあったにせよ、ウィルソンの理想に、もっと近づけていたら…と思う 100年前の歴史でした。
[98058] 2019年 6月 22日(土)16:49:13【1】hmt さん
地理院地図の地図記号に「自然災害伝承碑」登場
昨年7月の西日本豪雨災害から1年近くになりました。
当時の報道によると、被災地の広島県安芸郡坂町小屋浦では、明治末期の1907年7月にも大雨による土石流で、甚大な被害が発生していたとのことです。

「この辺は 百年に一度、大事(おおごと)がある」。
明治の災害で祖父母を喪った お年寄りが、小さい頃から聞いてきた警告が現実に。

明治災害後には、そのことを伝える2つの石碑が建てられ、戦後の 1950年には、天地川の砂防ダム完成により「これで百年は持つ」と歓迎されていたが、2018年 せき止め能力を上回る土砂の力に 崩壊しました。

広島県は 砂防ダム1基では万が一に対応できないとして、4倍の能力を持つ2基目を造る計画を 10年以上前に策定し、工事用道路に着手したものの、本体着工時期未定のまま、昨年の水害が発生しました。
地元としては、このように全員が忘れていたわけではなく、それなりの心構えはあったようです。
しかし、新住民も居る百年後の人々にとり、災害への備えに「万全」を期すことは、言うべくして行い難い難問です。

それでも、約3ヶ月前の国土地理院発表 地図で確認 先人が伝える災害の教訓は、自然災害伝承碑の周知により、先人たちの教訓を正しく知り、災害への「備え」の充実により、被害軽減に貢献するものと考えています。

2019/6/19から、地理院地図による発信を開始
本年9月からは 2万5千分1地形図にも掲載されます。

「自然災害伝承碑」の代表事例
災害種別市町村発生年災害過去記事その他
洪水常総市2015鬼怒川水害[88943]
洪水加須市1947カスリーン台風水害[82206][82207][84091]
洪水狛江市1974多摩川水害
洪水福井市2004足羽川水害
洪水倉敷市1893高梁川等水害
津波名瀬市1960チリ地震津波研究報告
津波田辺市1854,1946南海地震津波[36355][94132]
津波牟岐町1946南海地震津波
津波大槌町1896明治29年津波
高潮木曽岬町1959伊勢湾台風高潮[83560]
地震白河市2011東日本大震災
地震小千谷市2004中越地震[34480][35102]
地震神戸市1995阪神・淡路大震災[4452][91386]他多数
地震福岡市2005玄界灘地震[38755]など多数[38820][72178]
火山王滝村2014御嶽山噴火[86419][86435]
火山島原市1990雲仙普賢岳噴火[23885][23960]の95
火山鹿児島市1914桜島大正噴火[86275]
土砂白川町1968集中豪雨・飛騨川事故
土砂坂町1907豪雨・天地川等土石流この記事前半
土砂出水市1997深層崩壊・針原川土石流[80030]国土交通省
[98057] 2019年 6月 20日(木)17:05:27【1】hmt さん
山形県沖の地震
2019/6/18夜に村上市で最大震度6強、鶴岡市温海で最大加速度653ガルを観測した地震。
震央地名は山形県沖の日本海ですが、最大震度を記録した観測値は新潟県内でした。

…というわけで、マスコミには「新潟・山形地震」などの表記も見えるが、気象庁による名称発表はなされていないようであり、名称を定めた一覧表にも未記載。
名称を定める基準に照らしてみたら、規模・被害などが基準を満たしていないように思われました。【この部分、追記により修正】

新潟・山形両県共に倒壊などの大被害が目立たなかったのは、屋根が軽く、壁が多く、窓が小さい雪国の家屋構造が関係していると伝えられています。

それはさておき、西側のユーラシアプレートと 東側の北米プレートとの境界である 日本海東縁部
1964年の新潟地震など多くの大地震の震源域が並んでいます。

京都大防災研究所の西村卓也准教授(測地学)のコメントによると、この地域は
南海トラフのようにプレートが沈み込む形ではなく、二つのプレートがぶつかり合っており、ひずみが集中している。

落書き帳の過去記事を探ると、偶然にも1年前に [96205]日本の地震とアイスランドとの関係 という記事を書いていました。
2010年の記事[74254]の追記 で紹介した 島村論文 に言及し、プレートの参考図も付けてあります。
[98055] 2019年 6月 18日(火)18:25:18【1】hmt さん
データベース 北海道(2)
[98049] グリグリさん
北海道の郡の扱いを含めた自治体の並び順については、[76346]に書いたように悩ましいところがあります。

hmtマガジン 県の下位区分 に書いたように、
「郡」の存在感は全国的に薄くなっており、北海道では特にその傾向が強いようです。[71695]

それでも、北海道にとっては広大な管内を「適当な数の地域に区画し」、権限を移譲して行政を行なう必要があります。

開拓使廃止後、函館・札幌・根室の三県と農商務省北海道事業管理局との二重構造時代もありましたが成果は挙らず、数郡程度の単位で設けていた「郡長・郡役所に代えて 19支庁を設置した」。
これが 明治30年(1897)のことであり、現在の 14区分【現・9総合振興局と5振興局】の直接の先祖でした。
3支庁統合による 後志支庁誕生 で 14支庁になったのは 1910年で、2010年まで使われました。[71731]

郡にも長い歴史があります。主な行政実務は 19世紀中に支庁に移行しましたが、「郡」は 戸籍事務に使う名称として残り、正式の住所の一部として郵便物の宛先に使われている関係で、なんと 2006年までの設置履歴があります[72863]変遷一覧表

現実の地方行政における「郡」は過去の遺物に近い存在。しかし、データベースでは切り捨てる訳にも行かない。

[98049]にリンクされた データベース検索結果を眺めて感じたことを申し上げます。

1 「自治体コード欄」と「(総合)振興局欄」とを新設し、それを表示できる体制を整える。
2 「表示順序」は、既に「自治体コード順」がデフォルトになっています。
  先ず「市のデータ」。次いで「市町村(振興局毎)のデータ」。この順番に賛成。
  順番を考えるにあたり、「過去の遺物の郡」を考慮する必要はないでしょう。
3 上記1の改善を施せば、一目瞭然の表になり、[98054]に記した説明の大部分は 不要になると思われます。
[98054] 2019年 6月 18日(火)18:07:58hmt さん
データベース 北海道(1)
[98048] シノレパシクソ さん
『市区町村隣接関係一覧』…の自治体の並び順が自治体コード順と一部異なるのはなぜでしょうか?…。北海道幌延町・大空町・洞爺湖町の位置が自治体コード順と違うかな…

指摘された3町をその前後と共に隣接一覧から抜書きし、自治体コードを補足しました。

#120【01519】利尻富士町 #121【01520】幌延町 #122【01543】美幌町
#135【01563】雄武町 #136【01564】大空町 #137【01571】豊浦町
#140【01581】厚真町 #141【01584】洞爺湖町 #142【01585】安平町

北海道の町村コードに関して最初に心得ておきたいことは、
”郡毎の順番ではなく、支庁毎の順番【01301からの30刻み】で設定されたこと”です。

幌延町は、留萌支庁から宗谷総合振興局への所属変更があり、自治体コードも【01488】から宗谷管内の末尾番号【01520】に改められました。

大空町は、2006年新設の自治体で、これも網走支庁【現・オホーツク総合振興局】の末尾番号【01564】に改められました。

【01582】虻田町と【01583】洞爺村は 洞爺湖町と合併して消滅しているので 空番です。
勇払郡である厚真町と安平町との間に 虻田郡洞爺湖町が入っていますが、
#140~#142の3町はいずれも胆振支庁【現・胆振総合振興局】の管内で、郡が違っているが、これでも自治体コード順なのです。

北海道では、総務省の自治体コード表と当サイトとの相違点が もう一つあるのをご存知ですか?
総務省コード表の北海道末尾には、北方四島6村が記載されていますが、当サイトのデータでは対象外です。
[98050] 2019年 6月 16日(日)19:24:19hmt さん
Re:データベース整備
[98047] オーナー グリグリ さん
ランキングに関連する疑問点[98044]について、早速のお返事をいただき有難うございました。

hmtさんがご覧になっているランキングは、都道府県ボトムのランキングです。

なるほど。当該ページは
   ランキングデータ > 都道府県ボトム「市区町村」 > 人口・面積・人口密度ランキング
という位置付けになっており、説明文の冒頭行からも、次の通り理解できました。
  すなわち、対象とする 人口・面積・人口密度の3項目についての
  「各都道府県のボトムである市区町村」 の 「47データのランキング」である。

私が見逃した、ランキング対象が 47データであること>「各都道府県内のボトム」への限定。
[98044]で記したように関空第2期の埋立によって田尻町の面積は増加し、「大阪府内面積ボトム」の座は 3.97km2の忠岡町に。
従って、47の「都道府県内ボトム」ランキングでも、3位は引き続き大阪府だが、銅メダル?は忠岡町へ。

サク佐久ぱんだ さんへのレスとして[98038]に記した下記の感想は、的外れのため撤回します。
「市区町村」人口・面積・人口密度のボトムランキングを見るのに便利

さて、本題のデータベース整備の件については、
おっしゃる通りです。現在その整備を進めています。データは各年10月1日現在のみに揃える予定です。
というお答えをいただき、大船に乗った気持ちですが、取り敢えずの感想。

安定期に入っている現在からの長期的視点としては、平成合併期間中の変遷日付毎の大量のデータよりも、1年毎でも5年毎でもよいから、資料の入手環境に応じて、できるだけ長期のデータベース構築を目指して整備することが望ましいように思われます。

やはり、人口については統計局の国勢調査、面積については国土地理院の面積調が基礎資料になるのでしょうが、それぞれに事情が異なり、どのように遡及できるのか?

更に落書き帳には旧版地形図など、過去の地図に関連する情報もあります。
このフォーラムに集まる地理好きの人たちの利用を考えると、都道府県市区町村データベースには、どのような未来像が描けるのでしょうか? 楽しみです。
[98044] 2019年 6月 15日(土)15:54:15【1】hmt さん
大阪府泉南郡田尻町 ランキングなど
[98036]サク佐久ぱんだ さん に刺激されて、ボトムランキングに関する記事[98038]を書き、面積最小の富山県中新川郡舟橋村にも触れました。過去記事を遡ると、アーカイブズ全国で最も面積の小さい市町村の変遷に収録されている [39317]グリグリさん の記事に至ります。

これは、平成合併の最盛期と言える 平成17(2005)年度【[87349]参照】の初頭に記された記事であり、当時の市町村面積ボトム10と、進行中であった合併動向による近未来の変遷を記したものでした。
その結論:
2005年度の1年間に4町1村( #1~#5 )の消滅が予定されており、平成17年度末には 富山県舟橋村・沖縄県渡名喜村・大阪府田尻町が「面積の狭い市町村ベスト(ワースト?)3」になる予定。

この3町村は、以後も自治体の座を維持しており、ボトムランキングに名を連ねている筈です。
しかし、関空島の中央部に位置する大阪府田尻町は、関空2期工事で面積が拡張しているので、現在のボトムランキングでは3位を維持していないのではないか? 現在は何位か?

こんな動機から、[98038]リンクした表を開いてみました。
アレ? 田尻町は ボトム面積#3 の座に居ないだけでなく、#47迄あるリストに見当たりません。

この表は、[98036]で示されていたトップランキングの末尾部分について、順番を逆転させた表示であると理解していたのですが、おかしい。

疑問を抱いたまま、無用とは思いますが [39317]の変遷予想を事後確認する意味で、2006/3/31現在の自治体構成で再表示してみると、#3 田尻町 3.86km2が現れ、当然ながら予想は的中しています。

それは良いのですが、隣のボトム人口に目が行ったら、東京都三宅村が 0【ゼロ】になっています。
なるほど、三宅島噴火で全島の住民が避難した時代[33529]であったのか… と一旦は早合点。

しかし、これはデータベースが「2004/10/1の推計人口」を用いていたからでした。
三宅島住民への避難指示は、2004年度中の2005/2/1に解除されており、2005年度には住民の帰島が進んだ結果、2005/10/1の国勢調査人口は、噴火前にはとても及ばないが 2676人 に回復していたのです。

このような事例に接すると、都道府県市区町村データベースの 「2005年度末の自治体構成の人口」に、2005年国勢調査人口が使われず、わざわざ 国勢調査前年の推計人口を使うシステム になっている現状に疑問が湧きます。

推計人口を使う理由は、5年毎しか発表されない国勢調査人口を補間するためでしょう。
「2005年度末の自治体構成」によるデータをリリースした時点では、国勢調査人口が未確定であったという理由で、取り敢えず「2004年度推計人口で代用した」。このように推察します。

短期的は これが正しいとしても、長期的に使うデータベースとしては、
「国勢調査人口が判明した時点以降では、調査日以降の自治体構成データを 差し替え修正する 」。

このような配慮がなされて然るべきではないかと思われます。>グリグリさん、ご検討願います。

「2006/3/31現在の自治体構成」でのボトムランキングで、更に気付いたこと。
人口・面積共にボトム常連と思っている東京都青ヶ島村が見当たりません。
ボトムランキングのデータ脱落は数えあげたらキリがないようです。
順位を逆転させるだけならば簡単と思われるのに、何故? この点も検討をお願いします。

話が逸れてしまいましたが、タイトルに掲げた「田尻町の面積」に戻ります。
一番簡単な確認法は、[98036]にリンクされている 最新の市町村別人口と共に示されている 1741自治体の面積ランキングのを見ることです。
最下部付近に #1731 大阪府泉南郡田尻町 5.62km2。
ボトムに換算すると、田尻町のランキング順位は、1741-1731+1=11位 になったのでした。

これで止めてもよいのですが、手を付けたついでに、国土地理院の面積調で関西空港関係3市町の面積推移を追ってみました。単位km2
田尻町の面積は、空港用地埋立によって 1.92km2から 5.62km2へと約3倍増。
それでも浦安の約4倍増[25784]には及ばず。

1988年1997年面積増12015年面積増2
泉佐野市50.8954.383.4956.512.13
田尻町1.923.861.945.621.76
泉南市44.4247.342.9248.981.64
合計97.23105.588.35111.115.53

【注】
1988年:埋立前の各自治体面積と推察 第1期埋立中の1995/1/17に阪神淡路大震災
1997年:第1期埋立完成時の面積 面積増1の合計は 空港第1期 515haより広いが理由は不詳
2015年:第2期埋立完成時の面積 面積増2の合計は 空港第2期 545haとほぼ一致する
[98038] 2019年 6月 12日(水)17:32:22hmt さん
Re^2:日本一小さい村
[98037] 白桃さん
「最新の市町村別人口」と書かれておりますが、正確にいうと、「最新の自治体構成においての2018年10月1日現在の推計人口」です。「最新」を誤解されているのは、他にもいらっしゃるようです。

「最新」を誤解した記事は hmtの[97690]です。下記は白桃さん[97692]の指摘文。
「2019/04/01の自治体構成で再表示」されるのは、2018/10/01時点の推計人口です。

2019年5月1日現在の自治体構成 (最新)

末尾の単語に目が行ってしまうのですが、それは自治体構成が「最新」であることを伝えているものであり、推計人口についての最新データが提供されていると思ったのは、明らかに誤解でした。
すぐ上部には、
人口は、2018年10月1日の推計人口によります。
と明記されていましたが、最新の推計人口データと誤解した慌て者は、見落としに気づかず。


[98036] サク佐久ぱんだ さん
私は(人口が)小さい村に興味があり、よく村の人口事情を観察しているのですが、…

都道府県市区町村トップからランキングデータに進むと、末尾に「都道府県ボトム」というページがあります。
「市区町村」人口・面積・人口密度のボトムランキングを見るのに便利ですが、[98036]で使われた表と共通のデータを使っているので、人口データは 2018年推計値です。

推計人口 169人とある 東京都八丈支庁管内・青ヶ島村。
私は[24183]を書いていました。落書き帳に参入して、間もない 2004年に記した記事でした。
青ヶ島村の国勢調査人口は、2005年 214人、2010年 201人、2015年 178人と漸減。

面積最小の富山県中新川郡舟橋村の記事[80258]も書いていました。
面積は小さいが 2018年推計人口は 3000人を越えています。

逆に、かつて北海道に存在した広大な村の面積についても記しています。[70240]
この記事は、hmtマガジン 「面積調」から探る市区町村の変容に収録しています。
[98033] 2019年 6月 10日(月)18:14:08hmt さん
度量衡の話(1)キログラムの定義が変った
今日、6月10日は「時の記念日」です[42204]

「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 …」 これは南宋の儒者朱熹の作と伝えられている詩。
ベンジャミン・フランクリンは自伝「Advice to a Young Tradesman」に記しているそうです。
無為に過ごさず、自らを益する行動を選べ。これが「Time is money」の原点である。

「時の記念日」も、1920年制定から99周年。かなりの歴史があります。
東京天文台と共に制定に関与し、時の展覧会も開催したのは 文部省外郭団体の生活改善同盟会でした。
欧米並みの生活改善・合理化を目標に、約束時間を守る啓蒙を進めていた大正時代の社会動向が推察されます。

振り子式の柱時計は既に各家庭に普及し、懐中時計・腕時計を持つ人も増えていたとは思います。しかし、正確なクオーツ時計が極めて安価に供給されている現在と比べると、生活インフラの整備は比較にならない時代でした。

もちろん、更に正確な原子時計を積んだ人工衛星により、地球上の位置を容易に知ることができる GPS[45617]の出現など、想像もできないことであり、「時間の測定」に関係する技術の進歩には瞠目するばかりです。

時間の測定からは離れますが、計測技術に関する雑談を記します。

最初に引用する日経記事は 昨年11月に開かれた国際度量衡総会における「キログラム」の定義改定を伝えています。
その後 日本でも計量単位令の改正が行なわれ、先月(2019年5月20日)施行されています。

なお、5月20日は 1885年[45385] メートル条約が締結された日であり、世界計量記念日になっています。
法令や記念日の名からわかるように、現在は「計量」という言葉を使うのが普通ですが、以前は 計量に用いる道具の名 に由来する「度量衡」という用語が一般的でした。第二次大戦後の 1952年に旧・計量法が施行される前の法律名は 度量衡法 でした。

度は長さを測る「物差し」、量は体積を量る「枡 = ます」、衡は質量をはかる「秤 = はかり」です。
パリ郊外・セーブルにある国際度量衡局(BIPM = Bureau international des Poids et Mesures)の末尾は「分銅と物差し」であり、歴史話にふさわしい「度量衡」をタイトルに使いました。

度量衡法の公布は 1891(明治24)年です。当時の日本社会で使われていた計量単位の基本は、尺・升・貫でしたが、西洋列強が新たに原器を製作して度量衡を統一するという情報を知った明治政府は、1886年にメートル条約に加盟し、副原器の頒布を申し込んでいました。

1889年には 条約に基づいて メートルとキログラムの基準となる 原器と副原器とが作られ[45385]、加盟国に配布されることになりました。我が国は、抽選により メートル副原器No.22 と キログラム副原器No.6 とを入手し、国内で使える体制を整えました。2012年重要文化財指定

これに基づき、度量衡法第二条は 基本単位の「尺」を、「33分の10メートル」として定義しました。
この寸法に近い折衷尺は、伊能忠敬も全国測量に用い[67006]、明治8年(1875)の度量衡取締条例にも引き継がれたようですが、江戸時代から枡座において枡の寸法を定めるために用いられた基準とも伝えられているようです。

1891年の度量衡法におけるもう一つの基本単位「貫」は、1871年新貨条例に記載された3.756521グラムから改め、少し軽いが換算に便利な値を採用しました。
(キログラム)分銅の質量四分の十五を貫とす

ここで昔話から現代に戻ります。
冒頭に記したように、1889年に作られた原器を用いて 130年間定義されてきた「キログラム」。
その座が交代することになり、誕生した新しい定義は下記の通りでした。

プランク定数を十の三十四乗分の六・六二六〇七〇一五ジュール秒とすることによって定まる質量

シロウトにとっては、とても「キログラム」のイメージを掴むことができません。
先月末に Eテレで ヘウレーカ!という番組【注】を見たら、「なぜ単位はいるのだろう?」というタイトルで、キログラムの定義変更問題を取り上げていました。
【注】
番組名の由来:入浴中のアルキメデスが浮力の原理を発見し、嬉しさのあまり裸で「ヘウレーカ!【わかった、見つけた】」(古代語の εuρηκα)と叫びながら街中を走った、という故事。

解説者は国際度量衡委員会のメンバーでもある 産総研の臼田孝さん。
厳重な金庫の前にに集まった委員たちが顔を見合わせ、「Still there.」(確かにまだあるね)と確認して扉を閉める。こんなエピソードは面白かったのですが、限られた放送時間内に盛り沢山な内容を解説し尽くすことは不可能でした。

恣意的に選ばれた国際キログラム原器ではなく、いつでもどこでも不変なプランク定数による、未来永劫不変な合理的定義と言えます。
同時にこれまでの定義「国際キログラム原器の質量」に比べ直感的にわかりにくいことは否めません。
この定義では意味がさっぱりわからないという方も多いことでしょう。

ということで、「ヘウレーカ!」とは程遠い状態で終りましたが、次のことはよく理解できます。

キログラムの定義を変えたら、測定値が変わるのでしょうか。
はっきり申し上げましょう。「何も変わりません」
補足をすれば、何にも影響しないよう、慎重に定義を変えるので、皆さんは気づかないのです。

それでも、臼田さん名を知ったので、昨年のWeb記事や、その末尾に紹介されていた著書により、理解を深めることができそうです。


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