山地を流れてきた揖斐川が「大きな野原」に出た付近にある岐阜県揖斐郡大野町。
Google地形。もとは
大野郡 でした。
そこから50km以上も北。分水嶺を越えた九頭竜川沿いにも同じ地名を名乗る福井県の大野市。
濃尾平野に比べれば小柄とは言え、越前の大野盆地も 両白山地の中では目立って「大きな野」です。
更に東に約70km。高山盆地も、山国の飛騨では希少な存在である「大きな野」です。
こんなことを考えたのは、
[68442] 88 さん
岐阜県大野郡には美濃国大野郡と飛騨国大野郡があります。
という記事から、ずっと前の記事を思い出したからです。
[732] Issie さん
越前国(福井県)の北東部に「大野郡」があります。九頭竜川と足羽川上流の山間部ですね。
実はこの郡と国境(県境)をはさんだ美濃国(岐阜県)側にも「大野郡」がありました。こちらは揖斐川上流の山間部となります。
(中略)ついでに,すぐ近くの飛騨国(岐阜県)にも「大野郡」がありますね。
ここにも記されているように、豊後大野を含めて4つの「大野郡」は、“山間部”にありました。
山地の中に ぽっかりと開いた平らな空間が「大野」と呼ばれ、それが郡名になったようです。越前の
大野盆地 の地形を例示。
飛騨と越前の山間部で、盆地を表す地名の「大野」が独立に発生し、それが郡名に採用された結果、範囲が拡大し、隣接するようになったものではないでしょうか。
明治30年(1897)まで存在した美濃国の「大野郡」も全体としては“山間部”になりますが、事情が異なります。
最初に触れた大野町は、広大な平野の中で「大野」を名乗っています。「大野」は山間部だけでなく、平野部の地名でもあります。
# 落書き帳の中で度々登場している「相模大野」も、かつては台地上の「大きな野原」でした。
大野町郡家(ぐげ)は、「美濃国大野郡」の郡衙があった地のようです。古代からの歴史に裏付けられた平野部の「大野」が、郡名になって拡大した結果、大部分は山間部にりました。
# 山間部と平野部といえば、揖斐の山さん 改め 山野さん。大野町の対岸で、同じような地形とお見受けしました。
上の引用の(中略)部分。
この2つの郡はもちろんお互いに別々の国の別々の郡ですが,お互いに似たような地形でお互いに隣接しているという点で,偶然「オホノ」というコホリ名が一致したのか,それとも意識的なものなのか,興味深いものがあります。
私の意見は、上に書いたように「独立発生説」です。
しかし、平凡社の日本歴史地名大系21巻73頁(美濃国大野郡)に「総称説」があったので、一応反論しておきます。
越美山地を挟む形で、飛騨国・越前国にも大野郡があり、当地方一帯をさす総称であったと考えられる(日本地理志料・濃飛両国通史)。
古代には越前・飛騨は無論のこと、越前・美濃の国境を越えるハードルも高かったはずです。
地図上では隣接する3つの地域ですが、同一の総称「大野郡」で呼ばれるほどの一体性ある地域であったとは、到底思われません。
その総称が「山」に関係した地名ならともかく、特に平地を意味する「野」のつく地名ですからね。
現在の地図を見ると、大野市(もと越前国大野郡)と高山市(もと飛騨国大野郡)の境界線は僅かに2kmほどの長さで、しかも2000m近い高峰が連なっています。1958年の石徹白村越県合併
[68397]以前の境界線は、もう少し長かったのですが、それにしても越前と飛騨の大野郡は、交通路のない高峰に隔てられていたことに違いありません。
# 現在でも、大野市と高山市を結ぶ交通路は、国道158号で油坂峠(
[68410]ぼたんさん)を越え、郡上市の白鳥を経由します。つまり2つの大野郡の隣接部は通らず、もと郡上郡の区域を経由するルートです。
越前国大野郡と美濃国大野郡との境界線も、能郷白山(両白山地の名の由来)に連なる大分水嶺です。
こちらは古代はいさ知らず、少なくとも近世になると直結する交通路が開けていました。現在は国道157号。
でも、1000m級の峠道に隔てられた両側の大野郡に一体性はなかったでしょう。