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落書き帳アーカイブズ 江戸期に「長州藩」とか「仙台藩」などがあり、それが廃藩置県によって「県」などの行政機構へ変わった、と一般には理解されていると思いますが、実はこれには若干の誤認があるようです。江戸期に「藩」はなかった? 

江戸期に「藩」はなかった? −○○藩と呼ばれる機構について−



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編集:YSK

記事数=4件 登録日:03年06月09日
記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[3133]2002年9月16日
長州 Issie
[3145]2002年9月16日
深海魚
[3146]2002年9月16日
Re:藩 Issie
[3150]2002年9月17日



[3133] 2002 年 9 月 16 日 (月) 01:34:02 Issie さん
 長州
ARC 江戸期に「藩」はなかった? −○○藩と呼ばれる機構について−

>薩長土肥の 「長」 は、「長門」 ではなく 「長州」 と紹介される事が多かった様な。

この場合の「長」は,いわゆる「長州藩」で,これは長門だけでなく周防も含めた「防長二州」を支配したからですね(岩国藩,長府藩その他の支藩も含めて)。
なぜ「長州藩」かといえば,お城のある“萩”が長門・阿武郡に属するから。
ところが,この「毛利家中」は幕末に行政機関を“山口”に移してしまいました。本来は将軍,つまり幕府の許可が必要だけど,何しろその幕府と交戦状態にありましたからね。
で,その山口は長門ではなく,周防・吉敷郡の所属。だから,本当は「長州藩」ではなく「防州藩」であらねばならない。でも,ここは従来からの習慣で「長州藩」と呼ばれつづけるのですね。

ところで,江戸時代を通じて「○○藩」というのは“通称”に過ぎません。それどころか,江戸時代初めにはこのような呼称などなかったらしい。江戸時代半ば以降に現れ,幕末になって広まったと考えられています。
そして「藩」が公式の行政区分の1つになるのは明治維新後,明治2(1869)年の版籍奉還後にそれぞれの諸侯(旧大名)たちが「知藩事」(「○○藩知事」と称する)に任命されてから。
このときには“藩庁所在地”によって「○○藩」と呼ぶことになりました。
だから「長州藩」でも「防州藩」でもなく「山口藩」。同じく「薩摩藩」ではなく「鹿児島藩」,「土佐藩」ではなく「高知藩」。
同時に全国各地にあった「府中藩」や「勝山藩」など“同名”の藩は,それぞれに改称しています。「駿河府中(駿府)藩」が「静岡藩」となり,「常陸府中藩」が「石岡藩」となる,などなど。

…というわけで,実は“公式名称”としての「長州藩」が存在したことはないのです。

[3145] 2002 年 9 月 16 日 (月) 19:53:56 深海魚[雑魚] さん
 藩
ARC 江戸期に「藩」はなかった? −○○藩と呼ばれる機構について−

[3133]
大政奉還以前の日本史には疎い私ですが、これは意外でした。幕府の下位区分として
地域の行政や経済を統括していたのは、藩ではないとなると、一体何なのでしょうか。
藩が実勢を伴わないとなると、参勤交代制などの意義はどう解釈すれば良いのかな?

[3146] 2002 年 9 月 16 日 (月) 21:11:40 Issie さん
 Re:藩
ARC 江戸期に「藩」はなかった? −○○藩と呼ばれる機構について−

いや,「藩」と呼ばれることになる組織ないし機構はあるのです。それを「藩」と呼ばなかっただけ。

江戸時代の統治機構の基本的な関係は,将軍に臣従した武将に対して一定の領域の知行(支配)を認める,というものですね。これが1万石以上であれば「大名」,未満であれば「旗本・御家人」です。
でもこの支配権は形式的には将軍から大名“個人”に与えられるものです。
知行を与えられた大名たちは家臣のそれぞれに“家老”以下の役割を分担させて,その領域を統治します。これは起源としては鎌倉時代,武士たちが自分ないしは自分の“家”の領地を経営するための機構から発展したものであり,本質的に“私的”(プライベート)な性格のものです。
江戸時代,大名の支配は幕府という全国政権の下での地方行政という“公的”な性格を持つようになるのですが,それでもかつての“私的”な性格を引きずりつづけます。
(幕府の統治機構も,もともとは松平氏が三河の山奥の小大名であった時代の家政機構から発展したものです。)

で,つまりそれぞれの領域は「大名」ないし「大名家」の領地ということになる。その領地の行政を行うのは“大名家の家政機構”である「(御)家中」(かちゅう)です。
たとえば,萩を拠点に防長二州の支配権を与えられたのは 秀就 以下の「毛利本家」の歴代当主であり,その領域は「毛利領」であり,実際に行政にあたったのは「毛利家中」ということになります。
もし何か事故があって,将軍が大名の領地をすべて取り上げてしまう事態(改易)になれば,「お家」が断絶するのですね。

大名の領域は「○○領」などと呼ばれることがあるのですが,これは律令以来の国郡や明治以降の行政区分とは違って,その範囲が絶えず変動しています。将軍が大名に対して折に触れて与えたり奪ったりするものであって,大名の側から見れば,鎌倉時代以来の発想では大名個人あるいは大名家の「財産」。本質的には「行政区画」ではないのです。
(ただし,江戸の周辺のような地域では,いくつかの村ごとに「領」という区域を編成し,これを旗本に知行地を与える単位にしています。)

「藩」という用語は,江戸時代の半ばに新井白石のような学者たちが中国の文献から取り出して使い始めたと言われています。
これが事実上“地方行政機関化”していた各大名の家政機構,つまり「家中」に対して用いられるようになり,明治の版籍奉還を経て“公的な地方行政機関”として位置付けられました。同時に各「藩」が支配する領域も,政府直轄の「府」や「県」がそうであるように,「藩」と呼ばれるようになります。
そして明治以降の日本史研究者たちが「藩」という用語を江戸時代初めまで遡って使用したことによって,関ヶ原直後から「長州藩」「薩摩藩」という呼称があったという“錯覚”ができあがったのです。

[3150] 2002 年 9 月 17 日 (火) 13:31:24 f さん
 藩
ARC 江戸期に「藩」はなかった? −○○藩と呼ばれる機構について−

[3146]
引越しや何やらで、ここに書き込むのは久しぶりです。
手始めに、藩について補足しておきます。
> これが1万石以上であれば「大名」,未満であれば「旗本・御家人」です。
例外は蝦夷松前の松前家。無高でも大名とされています。それから下野喜連川の喜連川家も5千石でも大名ですね。御三家の付家老5家は大名ではないが藩とされる(こともある)。周防岩国の吉川家は徳川家から見ると大名だが、毛利宗家の家臣でもあるのでちょっと複雑。一橋、田安、清水家は10万石だが大名とはされないのが普通。



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