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伊豆之国さんの記事が1件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[91683]2016年10月12日
伊豆之国

[91683] 2016年 10月 12日(水)21:40:33伊豆之国 さん
Break Time~Re:三分坂 &朝霞市
「クイ図」の問一と問三、いずれも近くまでは来ているのですが詰めきれず、しかも答えの出が早いので結構焦っていますが、結局ヒント待ちということになりそうです…。

さて、ちょうど1年前に話題にした、東京・赤坂の「三分坂」([88891])。今日は社用でその「三分坂」の近くまで行ってきたので、再びこの坂にまつわる話をすることとします。
この「三分坂」、実際のこの地に足を運んで、下のほうから見上げると、やはりかなりな急坂であることが実感でき、逆に上のほうから見ると、見るからに足がすくんでしまいそうになってしまいました。坂の南側(坂下から見て右側)には、現在「一ツ木公園」となっている高台の石垣があって、生い茂る公園の樹木が、急坂感を増幅させていたように見えました。ところで、今の「三分坂」の周辺の地図を見ると、寺院が立ち並んでちょっとした「寺町」になっているのですが、その寺院などへ行く袋小路状の狭い道が目立ち、またTBSや「赤坂BLITZ」「赤坂サカス」など広大な敷地を持つ多くの大型ビルも立ち並び、もちろん江戸の昔とは周辺の状況も大きく変わってはいるのでしょうが、それでもお互いの場所の関係によってはこの坂を上り下りしないとかなりな遠回りを強いられて、「どうしても近道をしなければならないので、この坂で『通行税』として『銀三分』(=約20文)を支払わざるを得なかった」という状況になっていた、というのも頷けるような気もします。いわば、街道における「関所」のような役割を果たしていたのでしょうか。

この「三分坂」のある界隈から南西方向に行くと、「乃木坂」があります。近年ではアイドルグループの名に使われていることもあって知名度も大きく上昇しているこの坂ですが、この「乃木坂」の由来について、「東京23区の坂道」と言うサイトによると
坂の半ばの北側(赤坂8丁目11番)に乃木神社があります。かつてここには、乃木希典大将夫妻が住んでいましたが、明治天皇崩御に殉じて自刃した後、大正12年(1923年)に夫妻を祀る乃木神社がこの乃木邸があった地に創立されました。
乃木坂と命名される前から、この坂は、幽霊坂、行合坂、なだれ坂、膝折坂と呼ばれていました。岡崎清記『今昔東京の坂』は、これら名称の由来について、以下のとおり説明しています。
坂上で、竜土町(いまの六本木七丁目)へ行く道、すなわち外苑東通りに出会うことから行合坂と呼ばれた。
なだれ坂、膝折坂は、傾斜の急なこと、また傾斜が急でガクンと膝が折れるという意味で、この坂が急坂であったことを語っている。しかし、現在は、外苑東通りへカーブして上る道が坂になっているが、急坂というほどではない。
幽霊坂の暗さはいまはないが、『江戸切絵図』(近江屋版)を見ると、丹波山藩主谷播磨守中屋敷と鉄砲場(射撃訓練)に囲まれて「△ユキアヒサカ」とあり、外苑東通りを「リウドトイフ」としてある。人の気のない淋しい道であったことが分かる。
しかし、幽霊坂という懐しい名は、大正元年(千九一二)九月十九日、乃木将軍の葬儀と同時に廃され、乃木坂に改めたという。坂の北側に乃木神社がある
また、このサイトでも引用されている、横関英一氏著「江戸の坂 東京の坂」と言う本([88891])の中でも
ここで老馬が倒れたのは膝を折ったからで、それでこのところの坂を膝折坂と言ったのである
と書かれています。その「江戸の坂…」では、埼玉県朝霞市の「膝折」と言う地名についても触れ、やはり「馬が膝を折って死んだ」という地名の由来伝説が書かれています。朝霞市も、昭和7年に「朝霞町」になるまでは「膝折村」で([75907] hmtさん)、東上線の駅名も「膝折」と名乗っていました。
朝霞と言えば、ここも 話のタネ になる自治体名です。
元々は「膝折村」。しかし、戦前に誘致したゴルフ場にとり「膝折」とは縁起でもない。
そこで、ゴルフ倶楽部の名誉総裁だった朝香宮にちなんで「朝霞」と命名。[9697] [19684]
ゴルフ倶楽部キャプテンが出した 膝折村長あての 「改称許可書」 がありました
(朝霞市HP参照)

♭「乃木坂」の名が生まれるまでの秘められた暗~い過去、果たしてどれだけの人が知っているのでしょうか?


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