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NTJ会長さんの記事が1件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[34690]2004年11月1日
NTJ会長

[34690] 2004年 11月 1日(月)17:37:27NTJ会長 さん
「誘致」という言葉には違和感を感じますが…
現在、尾久駅の住所は北区昭和町です。中里にはありません。また尾久車両センターも上中里になります。
ごめんなさいね。地名は当時と現在では違うかもしれないです。
もしくはあたしの聞き違いと思います。
ただ、「尾久駅は尾久には無い」という部分がポイントだったのですが。


でも、コレだけは多少の自信を持ってお答えできそうです。
私もこの説を支持しているのですが、だとすると尾久駅が住民から誘致されたと考えるのは難しい。むしろ尾久に駅をつくろうとしたに対して、三業地でにぎわう尾久住民が、「こんなところに駅をつくるな。つくるなら湿原のところにつくれ」とかなんとか言って、現在の貝塚近辺に操車場や駅をつくらせたのではないかと私は考えます。
この説は流石に、見当違いのようです。
まず、始めに「予定路線ありき」で、そこで、「通すなら駅を作れ」となった模様。
隣接する「田端」も「中里」も、同じ郡の「千住・三河島・日暮里」にも駅があるのに、「尾久」には無いじゃないと。
つまり「鉄道」を誘致したのではなく、「そこに線路を通すなら、駅も作れ」という事のようです。
だいたい、「誘致」という言葉自体、路線そのものを誘う意味の言葉ですよね?
「誘致」ではなくて「代償」ではないかと。
「路線を通すなら、駅も作れ」という、極めて現代的な発想ではないかと思います。

逆に駅を遠地へ追い払うような行為は、明治期に鉄道がまだ周囲に無かった時代の発想でしょう。
昭和初期、それも目の前に通勤電車も通ろうという時代に「つくるなら湿原のところにつくれ」は無いでしょう。
っていうか、地図を見れば判るとおり、日暮里から王子方面へ抜ける路線の別線を作ろうというのに、尾久の中心部まで路線を曲げるなど、ほとんど不可能に近い話です。
本来であれば、現電車線に並行して路線を作りかったところ、用地不足で田端操車場の東へはみ出す位置に辛うじて敷設できたのであって、さらに東へ路線を曲げるなど、鉄道側には全くメリットの無い話。
元来がこのルート、遠距離の旅客列車用の退避ルートなのですから、鉄道側は「あまり駅を作りたくは無かった」というのが、正直な所ではないのでしょうかねぇ。
なんせ、現代では「都心の過疎駅」化しているくらいですし。

尾久駅の開業よりも、王電の方がはるかに早く開業してます。王電の沿線と交通の便や三業地のにぎわいと相まってすでに尾久近辺はかなりの市街地の様相を呈していたはずです。
あたしはコレも、かなり疑問ですねぇ。
飛鳥山下-三ノ輪橋間は大正14年11月に開業との事なので、「三業地として市街化していたから」同区間を延長したのではないでしょうか。
ちなみに王電が伸延してから国鉄尾久駅が開業するまでは、僅かに三年半ですね。
対して「北の大貨物ステーション」田端操車場は明治の誕生ですね。

そこからのあたしの推定では、案外、「始めに田端操車場ありき」なのではないでしょうかねぇ。
頭脳労働系に分類されながら、実質3Kであり体力勝負でもある鉄道員と、艶町の発展は無関係には思えないんですよ。
・・・親父に聞いたら、そのあたり教えてくれるかなぁ・・・無理かなぁ、流石に・・・


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