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Issieさんの記事が1件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[78753]2011年7月10日
Issie

[78753] 2011年 7月 10日(日)21:47:44【3】Issie さん
新・坊っちゃん
私が小学生の頃,NHKで「新・坊っちゃん」というドラマが放送されました。
井上ひさしはある本の前書きで「『坊つちゃん』の映像化はことごとく失敗している」と書いているのですが,小学校6年生の私にはとても面白く思いました。この人がムーミンパパ(の声の人)か,ってね。“正露丸のラッパ”とか…。
これを機会に夏目漱石を読んでみようと思ったのですが,「坊つちゃん」はともかく,ほかの作品は小学生にはあまりにも難しくて,すぐに挫折しました。
で,何の話かというと,このドラマの冒頭の場面が松山に赴任した坊っちゃん(柴俊夫)が“はしけ”で三津浜の港に上陸することろでした。“はしけ”で上陸するのですね。大型船が接岸できる港湾施設が当時の三津浜になかったからです。

[78747] ペーロケ さん
「港にとって河川は害である」

昭和の初めに自動車の普及が始まるまで「車」(人力,馬力を問わず)による長距離輸送が発達しなかった日本において,鉄道網が整備されまで内陸における唯一の大量輸送手段は河川の舟運でした(次に来るのが背中に荷物をくくりつけた駄馬,その次は人間が背負う歩荷(ぼっか)。で,あとはもうない…)。もちろん,水系を越えた全国的な流通についても船による海運が唯一の手段。越前・三国港の繁栄もそれによるものです。
ところが十分な水深を確保するのが困難な河川と外洋とではそれに適当な船の構造が違いますから,必然的にその接点で河川用の船と外洋用の船との荷物の積み替えが起こります。だから,内陸水運の発達した大河川の河口には港(港町)が発達する基本条件があるのです。新潟や酒田などはその典型です。

江戸の場合,徳川入府以前の元の市街は現在の大手町のあたりに形成されていたと考えられています。よく“家康は何もない江戸に飛ばされた”という言い方がされますが,中世以降の江戸は南関東の物流拠点としてそれなりに繁栄していたようです。基礎的な立地条件は荒川(隅田川)の河口ということにあるのですが,実際に市街が形成されたのは隅田川本流ではなくこれに合流する平川(現在の日本橋川)沿いであったのですね。後に,家康の“江戸大改造”で大手町付近は武家町となり,物流の拠点はやや下流の日本橋に移ります。
巨大城下町・江戸のもう1つの港として栄えたのが品川でした。こちらは目黒川の河口に立地しています。目黒川は舟運に利用できるはずもない小さな川ですが,河口の地形が船の発着に利用できたのでしょうね。
近世の城下町はほとんどの場合,このような舟運を意識して都市計画がなされています。大坂(大阪)や広島のようにそのような河川に直接面して建設されているものもあれば,その支流や運河(掘割)を介しているものもあります。たとえば,信州の松本は女鳥羽(めとば)川がお城の外堀の役目を果たすとともに,奈良井川・犀川の舟運を引き込む役割もしています。ただし,千曲川/信濃川は信濃(長野県)と越後(新潟県)の境界付近に急流があって,両者の舟運は断絶していました。ここが両国の国境である所以でしょう。

神戸にとって「河川が毒」だったのは,そこを流れるのが「川」というよりは,すぐ背後にそびえ立つ六甲・麻耶から流れ落ちる「滝」に等しいものであり(「垂水区」とはよく言ったものです),内陸交通路としての機能を全く期待できないばかりか,大量の土砂を運び込むだけの厄介な存在であることによると思います。
つまり,神戸は河川交通との接点として発達した港町ではない。平清盛の日宋貿易がその始まりであったように,主に“海の交通”の拠点として発達した。長崎や平戸,あるいは那覇もこのグループに属するように思います。対外交易の拠点としてなら,後背市場とはほかの交通手段で結ばれていればいいので,港そのものに地形的な後背地は必要ない。だから必ずしも大河川の河口である必要もなく,長崎のようにリアス海岸の入り江深くでも立地し得る。現在の姿からは想像しにくいのですが,那覇は元はベネチアのようにラグーン(潟湖)の出口に形成された砂州の上に立地したようです。
神戸(大輪田)の場合,大きな船が入るのに適した地形には恵まれませんでした。だから,平清盛は大規模な築港事業を行ったのですね。そこは同時代の鎌倉も同じで,ここでも大規模な築港が行われましたが,これはその後放棄されて現在ではごくわずかな痕跡しか残っていません。結局,山を越えた六浦(むつら)・金沢(かねさわ)というラグーン(平潟湾)に面した港がその後も機能し続けました。こちらも中世後期以降,鎌倉とともに衰退し,江戸・品川に主役を奪われることになります。
河川自体は舟運に堪えないような小さなものであっても,その谷を重要な陸上交通路が通っていれば,その河口には海陸接点型の港町が発達します。鉄道から自動車に主役が移った現在においても特に日本海貿易の拠点として重要な敦賀は,遥かな昔,「角鹿」(つぬか)と呼ばれて高句麗や新羅・渤海などとの交易拠点であった時代からの典型例です。
四国の中では比較的に広い平野である松山平野でも重信川にどれだけ交通路としての機能を期待できたか,おそらくは平野全体の陸上交通の集約点,そして海上交通への接点として「熟田津」以来の三津浜の役割があったのだろうと思います。
で,坊っちゃんはここで上陸して,「マッチ箱のような」伊予鉄の汽車に乗って松山市街に向かった…。

[78736] hmt さん
その他に小樽

これは迂闊でした。
確かに道内経済の中枢としての地位は失っても,日本海海運の拠点としての小樽の重要性は今でも大きなものがありますね。「脱落組」とするのは,小樽に失礼でした。


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