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落書き帳

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[62678] 2007年 11月 26日(月)21:04:08北の住人 さん
明治18年の北海道の戸籍はこうなっている!?
あっさりとしたタイトルにしたかったんですが、新聞のテレビ欄のようになってしまいました、タイトル考えるのも難しいです。明治の本籍地記載に関するレスです。([62667]hmtさん、[62633]たもっちさん)

戸籍の収集は資金と時間がかかるので、ただで調べられる図書館に行って、とある本を借りてきました。その結果は「明治18年?の北海道の戸籍本籍地に『国』と『県』は記載されていない?」です。?マークが2つあるのがミソですが。

札幌の奥座敷に定山渓という温泉場がありますが、ここは「定山(戸籍名は美泉定山、みいずみ じょうざん)」というお坊さんにちなんで名付けられたといわれています。この定山さんの戸籍(除籍)の写真が「北海道と岡山の懸け橋 定山坊」(著者、合田一道)という本に載ってます。本文の内容はこんな感じです。

・開拓使が明治10年に戸籍調査をしたが、間違いが多かった。
・札幌県は明治16年から村役場戸籍係を動員して各戸の調査を行った。
・明治18年、定山の妻のもとに戸籍係がやってきて調査を行い、戸籍を作成した。

問題の戸籍ですが、掲載されている写真では、戸籍(除籍)の本籍地が「北海道札幌郡平岸村~」となっており、「石狩国」「札幌県」の記入は、加除も含めありません。

というわけで「明治18年の北海道の戸籍本籍地に『国』と『県』は記載されていない」と結論付けたいのですが、ちょっとした問題があるのです。この写真、よく見ると戸籍の編成日が書かれていない。さらに、本文では「明治27年に除籍」と書かれているのに、写真では「明治3?年」の家督相続について記載されており、除籍日との関係がおかしい。というわけで、?マークが2つ付いた結果になってしまったのでした。
多分、本文、写真とも信用できると思いますが、郷土史誌の掲載写真や地図に裏切られた経験のある私としては、一時資料でないものは全面的に信頼はしていないので、この結論を付けるには、自分の家系の戸籍を地道に集めるしかないようです。

この先は、単なるひとり言です。富山県(明治4年富山県成立・新川県と改称・同9年石川県に合併・同16年現在の富山県成立)のような場合の戸籍は、その都度本籍地が書き換えられたのだろうか。樺太の戸籍について、過去記事のどこかに出ていたような、いなかったような。
[62696] 2007年 11月 28日(水)18:41:21hmt さん
北海道の地名表示書式 (1)美泉定山の戸籍の謎
[62613]で、夏目漱石が明治25年4月に分家届を出し、「北海道後志国岩内郡吹上町17番地」に送籍・分籍したと書いたら、北の住人さん[62631]と たもっち さん[62633]から、戸籍の地名表示書式に本当に「後志国」が入っていたのだろうかという疑問が出されました。そして

[62678] 北の住人 さん
この定山さんの戸籍(除籍)の写真が「北海道と岡山の懸け橋 定山坊」(著者、合田一道)という本に載ってます。
明治18年、定山の妻のもとに戸籍係がやってきて調査を行い、戸籍を作成した。
問題の戸籍ですが、掲載されている写真では、戸籍(除籍)の本籍地が「北海道札幌郡平岸村~」となっており、「石狩国」「札幌県」の記入は、加除も含めありません。

なるほど。「北海道△△国○○郡」でなく、現在と同じように「北海道○○郡」と戸籍に表記した実例が、かなり古い時代にあったことはわかりました。
その時代とは何時か? そして現在までずっと「△△国」は使われなかったのか?

美泉定山の戸籍の件ですが、北海道読売 によると、彼は明治11年(1878)に失踪したと伝えられ、実際には明治10年に死んでいたということです。そのような故人の過去をわざわざ調査し、明治18年に戸籍を作り直すということがあり得るのでしょうか?

「北海道札幌郡平岸村~」と記されているという戸籍には謎がありそうです。少し考えてみました。
ポイント1:掲載された“定山さんの戸籍(除籍)”は誰の戸籍か? 本当に美泉定山本人が戸主である戸籍か?
ポイント2:書式と記載内容が戸籍の作成日の手がかりになるのではないか?

この写真、よく見ると戸籍の編成日が書かれていない。

問題の戸籍が作られたのは、明治5年、明治12年、明治19年の3つの可能性があります。

合田氏の本に掲載された写真が、美泉定山「本人の戸籍」とすれば、それは明治5年に作られた壬申戸籍ということになります。
壬申戸籍のサンプルを見つけることは困難かと思いましたが、「古い戸籍の知識箱」の中に、写真 がありました。

説明によると、特に全国的に統一された基本様式はなかったようですが、「戸」(単位となる人の集合)を「籍する」(台帳に登録する)ために、まず居住地、族籍、戸主の氏名を記載し、続いて、妻・子など家族を記し、各人の氏名の上の欄に身分、職業などの情報を記して登録するという形式は、ほぼ共通するものと思われます。

リンク頁の壬申戸籍では、戸主の氏名の右肩にその親(父母)の名が記されていますね。
明治19年式以降の書式でも、これに相当する「前戸主」の欄がありますが、そこでは母の名は無視されています。母の亡父の名まで記された壬申戸籍を見ると、かつては女系も注目されていたのではないかと感じます。
[62697] 2007年 11月 28日(水)18:48:38【1】hmt さん
北海道の地名表示書式 (2)美泉定山の相続人の戸籍かもしれない
定山渓温泉の開祖・美泉定山の戸籍の謎[62696]の続編です。
合田氏の本の写真は、美泉定山「本人の戸籍」ではなく、「定山の相続人の戸籍」である可能性もあるのではないでしょうか?
そうだとすれば、家督相続によって新しい戸籍が作られた時、又は戸籍制度が変って新しい戸籍簿に改製された時ということになります。

相続が何時だったかの問題は後回しにして、制度が変わって戸籍が改製されたのは、明治19年です。
この際に制定された 戸籍の雛形 を掲げておきます。

最初の欄に“此欄内には住所を記す”とあります。「本籍」ではなく「住所」と書いてあります。
ここで少し脱線して「本籍」という言葉に着目してみます。明治5年式にせよ、明治19年式にせよ、「北海道札幌郡平岸村~」の欄には、「本籍」とは書いてなかったと思います。しかし、明治19年内務省令22号の第8条や入寄留簿用紙第一、第二には「本籍」という文字がありますから、「戸主の住所=戸籍の所在地=本籍地」という使われ方は既に存在したようです。

「本籍」という言葉が正面から出て来るのは、明治31年「戸籍法」 です。
第170条 戸籍は戸籍吏の管轄地内に本籍を定めたる者に付き之を編成す

明治19年式戸籍の雛形に戻り、住所欄の下左に「前戸主」。私の推定では、合田氏の本の写真では、ここに「美泉定山」の名があったのではないかと思いますが、違いますか?
推測を続けると、「前戸主」の左の欄「戸主」が定山の相続人で、“「明治3?年」の家督相続”は、戸主の上欄に記載されていたのでしょう。

それにしても、失踪(死亡)したのが明治10年だとすると、“「明治3?年」の家督相続”と違いすぎます。

そこで気がついたことは、家督相続は「明治一二年」の読み違いではないか? これならば、妥当と思われます。
このように、明治12年の相続で作られた明治5年式戸籍である可能性もありますが、その可能性は低く、明治19年に「改製」された戸籍である可能性の方がが大きいと思います。

「明治27年に除籍」という記載について。
これが特定の個人の欄の上部にあったのなら、その人が除籍された年です。
戸籍簿自体が除籍簿に移された年かもしれませんが、大正15年、私の祖父の隠居により除籍簿に移された戸籍(明治19年式)の例では、“家督相続ありたるに因り本戸籍を抹消す”という表現になっていました。

合田氏の本の写真を見ていないのに、推測をもとに、勝手に謎解きをしてみました。当っているでしょうか?
[62719] 2007年 11月 29日(木)22:52:19北の住人 さん
美泉定山さんの戸籍
[62696] [62697] hmtさんへ。
私の[62678]は説明不足でした。問題の戸籍は明治19年式戸籍とほぼ同じです。写真の戸籍を横書きで表すと次のようになっています(かなり苦しい表現になってますが、文字で表すのは無理があるようです)。なお、この戸籍は全体が斜線で抹消されています。

<第一欄:住所と身分>
 ここには「本籍」という字句はなく「北海道札幌郡平岸村~」となっており、右下に身分が記入されてます。前戸主の記入はありません。
<第二欄:戸主>
 下段、「戸主」は「美泉定山」(「美」は異字体)で、「定山」には抹消線が引かれています(※注1)。左側、生年月日は「文化一二年~」です(実際には文化2年が正しいとされている)。
 上段、登記事項は「明治十一年十一月山中ニ入行衛不知」「明治廿七年一二月萬八十???除籍?(※注2)」です。
<第三欄:妻>
 下段に「妻」と書かれ、「養母」と修正されています(※注3)。また名前の右欄に「亡美泉定山妻」と追記されています(※注3)。
<第四欄:養子>
 下段に「養子」と書かれ、「戸主」と修正されています(※注3)。また名前の右欄に「亡定山養子」と追記されています(※注3)。
 上段、登記事項は、「~平岸村○○○○亡三男入籍」(※注4)、「明治参?年○月○日家督相続~」(※注5)となっています。

注記については次のとおりです。
※注1:私は、この本での「除籍」の意味について「戸籍を除票とする」と思っていたんですが、ここでは「線を引いて戸籍から抹消する」ということのようでした。
※注2:これが「定山」の除籍の日のようです。「明治十一年~」とは明かに記入者が異なっています。
※注3:これらの修正・追記は、文字の様子から「明治3?年(注5)に行われたのではないかと思います。
※注4:養子となったのが何時かは不明です。注2の「明治十一年~」と記入者は同じだと思います。
※注5:「明治参?年」の「?」は「壱」だか「七」だかよく分かりません。ということで、[62678]で、問題のある書き方「明治3?年」となってしまったのでした。戸籍全体の抹消はこの時だと思います。

北海道読売に「北海道と岡山の懸け橋 定山坊」の著者のことが書かれていますが、明治18年の戸籍調査時に、定山さんが死んでいては困る関係者がいたという推理になっています。

私は親の代から読売新聞なんですが、この手の郷土史的な記事(コラム)がよく掲載されています。ただ、記者さんも忙しいようで、深くは調べていないのか、ツッコミたくなることが多いんです。北海道読売にも、1つツッコミを入れて見ましょう。
「定山の前に温泉に小屋を建てた」云々から以降については、私の調査ではこうなります。

「明治35年頃の札幌周辺村の調査史料に、サッポロ開墾の祖である、早山清太郎翁からの聞き取りが載っている。早山翁の話では、温泉は早山翁が始めたもので、定山に請われ一代限りで貸す契約をしたということである。また、当時の長官が温泉の名を定山に聞いたところ、名が無いということなので、長官が定山渓と付けた、と話している。もっとも、この時の早山翁は高齢であり記憶をたどりながらの話と考えられ、またこの史料には早山翁の聞き取り部分が2ヵ所あり、今後の史料の分析が待たれる。」
[62722] 2007年 11月 30日(金)12:24:40hmt さん
北海道の地名表示書式 (2.1)時間稼ぎの改製戸籍
[62719] 北の住人 さん 美泉定山さんの戸籍
詳細なレポートありがとうございます。
「石狩国」が入っていない「北海道札幌郡平岸村~」は、明治19年式戸籍であったようですね。

つまり、[62678]で合田氏の本による“明治18年、定山の妻のもとに戸籍係がやってきて調査”が行なわれたとしても、それに続く“戸籍を作成”が実行されたのは、翌19年の内務省令に基づく全国的な戸籍改製作業の一環であったと理解できます。

また、“定山さんが死んでいては困る関係者がいたという推理”に基づき、「明治十一年十一月山中ニ入行衛不知」のままの状態で、とりあえず19年に定山の改製戸籍を作り、時間稼ぎをしたという筋書きも納得できます。
養子を取った上で、明治廿七年に定山本人の除籍(名に抹消朱線:サンプル )、明治参拾?年に家督相続という順序で手続き完了。この間には“一代限りで貸す契約をした”早山清太郎翁との間で、温泉の権利に関する話し合いもついたのでしょう。

[62678] のタイトルは、「明治19年の北海道の戸籍はこうなっている!?」が正しかったようです。


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