郡区町村編成法で仙台区が生まれました。仙台区を構成する町々は本当に“自治体”として機能していたのだろうか。もしかして名目だけの“自治体”ではなかったのか?などと、考えが行ったり来たりして迷っています。この考えは仙台区を構成する町の形からきています。文章より図形の方が伝えやすいので図化してみました。
仙台区の町の形
【仙台区の町の形・1 大町、肴町、立町、国分町、南町編】
藩政期の町人町の一部を図化しました。町人町には序列があって、その筆頭は大町です。大町の町域は東西に長く延びています。それを突き抜けて南北に走るのが奥州街道です。奥州街道沿いには国分町や南町が展開しますが、大町と奥州街道の交点は大町の町域に含まれます。道路の交点がどの町に含まれるかに着眼し、郡区町村編成法時代の仙台区の町を考えたいと思います。図に描いた大町、肴町、立町、国分町、南町はどれも江戸期からの町人町です。こういう町を市廛というのでしょう。自治権が与えられていたそうです。黄色で着色した肴町を見てください。東西に走る肴町のメイン道路に対し、南北に走る道路が3本交差しています。交点はどれも肴町の町域に含まれ、肴町はほかの町によって分断されることはありません。立町も国分町も同様です。図形からは自治権を持った町としてのまとまりが感じられます。これらの町は郡区町村編成法により仙台区を構成する町になりました。仙台区を構成する町はそれぞれが自治体ですと言われれば、そうですねと納得できる町の形をしています。しかし、下の図に掲げる南町通、柳町通、北目町通、北二番丁、北三番丁などはどうでしょう。それそれが独立した自治体だと言われても、即座には納得できない形をしています。
【仙台区の町の形・2 南町、柳町、北目町、南町通、柳町通、北目町通編】
図の左手に奥州街道が鈎型になって走っています。街道に沿って淡黄色で着色した南町、淡青色で着色した柳町、淡赤色で着色した北目町が連なっています。南町、柳町、北目町とも江戸期からの町人町でした。図の中を東西に3本の「通り」が走っています。東から南町に向かう「通り」が南町通。柳町に向かう「通り」が柳町通。北目町に向かう「通り」が北目町通です。いずれも「通り」の名称ですが、同時に「町」の名称でもあります。南町通の町域を濃黄色、柳町通の町域を濃青色、北目町通の町域を濃赤色で着色しました。3町とも形が変でしょう。例えば、南町通という「通り」は途中で東五番丁、東四番丁、東三番丁、東二番丁、東一番丁と交差しながら南町に向かいますが、交差部分は南町通という「町」ではなく、東五番丁や東一番丁という「町」になります。したがって、南町通という「町」は東西2つに分断されます。このように分断された南町通という「町」は、一体となって1つの“自治体”を運営できたのだろうか。はなはだ疑問です。柳町通という「町」、北目町通という「町」についても同じことがいえます。
【仙台区の町の形・3 北一番丁、北二番丁、北三番丁、北四番丁】
赤色で着色した北三番丁の町域に注目します。元来、北三番丁とは東端の宮町から西端の土橋通に至る「通り」の名称で、延長は約2,500mにおよびます。この「通り」に面した土地が北三番丁と呼ばれる「町」にあたりますが、形が変ですね。南北に延びる14本の「通り」によってバラバラに分断され、まとまりがありません。例えば、北三番丁という「通り」と堤通という「通り」の交点は堤通という「町」に含まれ、北三番丁という「町」には含まれません。同じように奥州街道との交点は二日町という「町」になり、木町通との交点は木町通という「町」になります。このように分断されてまとまりをなくした北三番丁という「町」は、一体となって一個の“自治体”を運営できたのだろうか。ここに描き出した変な町は全体の一部です。仙台には変だなと思える町がほかにも数多くあります。仙台と同じように城下町の歴史を持ち、郡区町村編成法で区制を敷いた名古屋区・金沢区・広島区・和歌山区・福岡区・熊本区・岡山区には、これに類似した変な町はございませんか?