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BANDALGOMさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[108198]2023年7月17日
BANDALGOM
[108197]2023年7月17日
BANDALGOM
[108165]2023年7月7日
BANDALGOM
[108142]2023年7月3日
BANDALGOM
[108125]2023年7月2日
BANDALGOM

[108198] 2023年 7月 17日(月)20:06:34BANDALGOM さん
女性首長
[108193]グリグリさん
[108187]ピーくんさん
まだ女性首長が誕生していないのは、岩手県、富山県、石川県、愛知県、奈良県、島根県、香川県、愛媛県、佐賀県、宮崎県、鹿児島県の11県になりました。
男尊女卑で有名な鹿児島県を筆頭に、どれも保守的な県という印象ですね。愛知県と奈良県も3大都市圏ではあるものの、保守的なイメージはあります。しかし、やはり保守王国の千葉県でも、最近続々と女性首長が誕生していることを考えると、保守的かどうかはあまり関係ないのかもしれませんね。
[108197] 2023年 7月 17日(月)18:59:16BANDALGOM さん
Re:花時計
[108196]海辺を飛ぶ鳥 さん
千葉県勝浦市 太海フラワーセンター
実に惜しいです。
太海フラワーセンターは鴨川市です。

ここには2006年5月、韓国の大学院の先輩で、地域振興研究所の研究員をしている人と一緒に行きました。

「日本の地域振興の実例を見たい」ということだったので、私が案内して、千葉市蘇我のホテルを拠点に、勝浦、鴨川、富津に行ったものです。全部私の好きな所というオチが付きますが…。
[108165] 2023年 7月 7日(金)14:00:08BANDALGOM さん
信濃町
[108163] 白桃さん
「信州信濃のお母さん」・・・まさか、上水内郡信濃町にお母さんは居ないよね。
私は小学5年生ぐらいの時ですが、夜7時のNHKニュース前のお知らせで、「信濃町」でのイベントのことが流れたのを見て、上水内郡信濃町のことだと思いました。

長野県の信濃町のことをどうやって知ったのかは思い出せませんが、小学生で知っていたのは不思議ではありますね。NTT…いや当時は電電公社が出していた「テレホンガイド」で知ったのだろうとは思いますが。
[108142] 2023年 7月 3日(月)19:09:35【1】訂正年月日
【1】2023年 7月 3日(月)19:14:54
BANDALGOM さん
Re: 車中泊レスもろもろ
[108132]かぱぷうさん
6日間入れずに帰宅。家に帰って臭くないか家族に聞いたら「別に」とのことでしたが、本当にそうだったのか…
私は弟の方が先に鉄道趣味に目覚めており、現在は近畿地方の某鉄道会社に勤務しています。その弟が中学生の時、初めて18きっぷで西日本方面に旅したのですが、母親が18きっぷを購入したのがJTBで、その社員が「(18きっぷは)途中下車できない」と説明したのです。このため、弟は夏にもかかわらず風呂やシャワーもなしに駅寝しながら旅を続け、帰ってきた時は物凄く臭かったのを覚えています。

私もまた、同じ年に初めて18きっぷを使って会津若松まで行きましたが、JTB社員の話を信じていて途中下車せず、1時間ほどしかなかったのですが、駅の中を写真撮りながらブラブラするだけで引き返しました。その後、会津若松には2011年のオフ会で行けるはずだったのが、1週間前からの大風邪で断念ということになってしまいました。果たして、会津若松にはいつになったら行けることやら…。鶴ヶ城など、見たいとは思いますし、会津鉄道や野岩鉄道、只見線にも乗りたいですが。

自由席の大垣夜行や新宮夜行は早くから並んでいました。18きっぷのシーズンでも多分1時間前くらいから並べば座れたんですけど、進行方向窓側を確保したかったのです。大垣夜行の東京発は大混雑のイメージがあり乗らずじまいでした。
私が初めて大垣夜行に乗ったのは、「ムーンライトながら」になる前年の1995年4月でした。まず甲府へ行き、身延線で富士まで南下して、沼津から大垣夜行に乗ったのですが、予想していたのと大きく違う大混雑で、ずっと立ちっぱなしの状態。大垣まで行こうと甘く考えていましたが、豊橋で途中下車し、飯田線を北上する(さらに篠ノ井線、信越本線、高崎線を経由して帰宅)ルートに変更しました。

「ムーンライトながら」に変わってからは、96年に関西方面へ行く時、97年に鹿児島へ行く時に乗車し、また2006年の金沢オフの帰り、福井を経て名古屋へ出て、当時付き合っていた友人と会った後、上りの「ながら」で帰宅しました。

新宮夜行には、97年の鹿児島からの帰りに乗りました。
大学卒業を目前にして、鹿児島(当時の曽於郡大隅町)の親戚の家に行くのと同時に、相撲雑誌の文通コーナーを通じて3年弱前から文通していた国分市(当時)の5歳下の女性に会おうとしたのです。

ところが、事前に電話しても変な反応はなく、約3週間前に初めて行った韓国の土産も持って行ったのに、いざ鹿児島入りしてから、「私会うなんて言ってません」などと無下に断られ、母親にもきつく言われてしまいました。

やむなく、翌日に大隅町を後にした後、鹿児島市へ出て市内観光をし、夜は天文館で自棄飲みして、その翌日に肥薩線・鹿児島本線経由で博多に向かいました。地下鉄で赤坂まで行き、長浜ラーメンを食べてから博多駅まで歩いたかと思います。そして小倉へ移動し、寝台特急「なは」で三ノ宮へ向かいました。

三ノ宮に着いてから、普通列車で(開業間もない)甲南山手へ移動し、そこで朝食をとったかと思います。その後、神戸市から芦屋市に入り、2年前にボランティアで歩き回った一帯を通り、西宮市境に近い大東町へ。ここは1年前にも歩いていましたが、震災直後は車で営業していた郵便局が、96年には仮局舎が建ち、97年には新局舎になっていました。また、大東町にあった、足繁く通ったマンションは、96年には残っていましたが、97年には壊されていました。

その後、打出駅から阪神電車で梅田に出て、新梅田シティに行きました。眺望を堪能した後、また例によって三番街に行き、それから難波へ。食事をどちらで取ったのかは覚えていません。

そして難波から南海電車で和歌山市へ行き、和歌山駅へ移動して、新宮夜行に乗ったのです。新宮ではあまり時間がなく、すぐにディーゼルに乗り換えているので、結果、和歌山県の経県値は「接地」となっています。ちなみに奈良県も「接地」ですが、高校の修学旅行の2日目、鳥羽から乗った近鉄特急を大和八木で降り、近くの駐車場まで100メートルほど歩いてはいるものの、たったそれだけで買い物などもしていないので、「接地」としています。

新宮では30分ぐらいしかなかったように記憶しています。すぐに尾鷲方面行きの列車に乗り、多気か松阪から「みえ」号に乗って名古屋まで行ったかと思います。そして名古屋からは東海道線に乗り、沼津からは御殿場線の御殿場行きに乗車。御殿場では中学生の時、家族と箱根へ2回行った際に、駅前で売っていたたこ焼きが美味かったので買ったのですが、当時は関東風だと思っていましたが、97年には関西風に変わっていました。最初から関西風だったのを、中学生の時は気が付かなかっただけかもしれませんが…。

そして御殿場から国府津行きに乗り、東海道線、山手線(または京浜東北線)、常磐線に乗って帰ってきました。

9日間の旅でしたが、会えると思っていた人には会えず、辛い記憶が残りました。帰った後、件の女性からもらっていた手紙は全部、自宅近くで(当時はまだ許されていた、ゴミ処理と思われる)ドラム缶の中で燃え盛っていた火の中に投げ込みました。

【1】「ほとんど」→「ずっと」でした。
[108125] 2023年 7月 2日(日)15:08:08BANDALGOM さん
車中泊記録
私の車中泊は、国内では5回あります。
まずは1986年、中学1年の夏休みです。家族と北海道へ旅行に行き(パックツアーに参加)、行きはブルートレイン(ゆうづる号)、帰りが飛行機でした。

当初、両親だけが北海道へ行き、私と弟はブルートレインで鹿児島へ、という計画でしたが、前年の暮れに私と弟が大喧嘩したことで、鹿児島行きはなし、一家4人で北海道、行きはブルートレインだが帰りは飛行機、ということになりました。

鹿児島に行っていれば、母の郷里を通る志布志線に乗っていたはずだったのですが、結果的に乗ることができず、翌年3月に廃線と相成りました。84年にいとこの結婚式で行った時、郷里最寄りの岩川駅から母の友人が住む志布志へ、その翌日には岩川駅から西都城へ、それぞれ志布志線に乗ってはいますが、それが最初で最後となってしまいました。

この時までに、鹿児島に行くために3往復、飛行機に乗ってはいましたが、85年8月12日の日航ジャンボ機墜落事故には大きな衝撃を受けました。それで、「一家4人で北海道」の話が出た時には、「飛行機には乗りたくない」と泣き騒ぎました。それが、韓国へ行く時に何度も飛行機に乗ったことで飛行機好きになり、落書き帳オフ会でも計5回(片道1回+2往復)飛行機に乗ったのですから、人生分からんものです。

次の車中泊は96年の春休みです。甲府で花屋を営んでいた中学時代の先生と会った後、身延線で富士へ出て、さらに沼津へ行き、「ムーンライトながら」で関西方面(大垣乗り換え)へ向かいました。帰りは車中泊ではなく、朝に湊町(現・JR難波)を出て関西本線・中央本線経由で帰ってきました。

翌97年には、信越本線横川-軽井沢に最後の乗車をし、小海線で甲斐小泉へ行って、住み込みバイト時代の社員の所に泊まった後、翌日にはまた甲府の花屋に行き、前年と同じく身延線で富士へ出て、さらに沼津へ行き、「ムーンライトながらで大垣へ、さらに乗り換えて最終的には鹿児島へ行きました。

鹿児島では大隅町(当時)に住んでいた母方の伯母のところに泊まり、相撲雑誌の文通コーナーで知り合っていた国分市(当時)在住の女性と会おうとしたのですが、鹿児島入りしてから無下に断られ、母親からもひどい目に遭いました。結局、その翌日に鹿児島市へ出て、市内観光だけして、翌日に肥薩線経由で福岡へ出ました。さらに小倉(門司だったかな?)へ出て、寝台特急で神戸へ移動し、芦屋(阪神大震災でボランティアした)を経て大阪へ、さらに南紀を回って帰ってきました。

09年は岡山オフです。前日に東京駅を「出雲」号で出発し、倉敷で降りて、水島臨海鉄道で三菱自工前まで往復した後、美観地区を回り、伯備線で総社へ行った後、吉備線で岡山に向かったかと記憶しています。


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