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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

旧制中学データベース(九州・沖縄編)

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記事数=9件/登録日:2004年4月21日/編集者:YSK

旧制中学系の高校のリスト九州・沖縄編です。

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[17272] 2003年 6月 24日(火)10:51:35【2】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/40 福岡県編
祝、九州上陸 (笑)

政令指定都市・福岡屈指の伝統校である修猷館が県内最古参と思いきや、実は小笠原藩ゆかりの豊津高だったのですね。行橋市の都市圏たる地勢と思しき豊津町の現況からすれば、意外な感じです。1882年に香春、小倉の二分校は、それぞれ独立した中学に移行しますが、これが小倉中学、田川中学 (香春町) との関連があるか否かは不明です。なお、意外にも、東筑高の方が小倉高よりも創立は古いのですね。北九州市域で要衝といえば、やはり城下町・小倉と思うのですが、それも上記の 「小倉分校」 の存在ゆえでしょうか。なお出演作品から北国の イメージが強い高倉健さんは東筑高の御出身です。

この他に、修猷館、明善、伝習館がいかにも藩学系らしい名称ですが、「○○中学○○館 / 福岡県立高校○○館」 という命名感覚は、特別の格式を見る思いですね。(もっとも明善高の場合、早期の中学移行が災いしたか、一県一中学例などの影響から二度廃校の憂き目に遭っています。) 他では、直方市の鞍手、飯塚市の嘉穂、甘木市の朝倉、大牟田市の三池という具合に、広域を代表する感覚で郡名を名乗る例が目立ち、高女系と思しき行橋市の京都 (みやこ) 高もこれに倣った感じです。筑後市の八女も同様でしょうね。

私立は不明なのですが、修猷館高に隣接する西南学院も古豪なので、該当するかも知れません。ちなみに、北九州市内に西南女学院という、同様に ミッション系のぢょしこぉがありますが、両者は全く無関係だそうな。設立年不詳の八幡高ですが、地元では一般的に、もう一つの系譜である高女系との認識が大きいそうです。また、南筑高校は久留米市立です。

県立1758)豊津思永斎、思永館、香春思永館、育徳館、育徳館分校洋学校、第35番中学育徳中学、
県立豊津中学、県立豊津尋常中学、県立豊津中学、県豊津中学
1783)明善学問所、明善堂、明善小学、久留米教師伝習学校、久留米師範学校、県立久留米中学、
仮設久留米尋常中学、私立久留米尋常中学、県立久留米尋常中学明善堂、県立中学明善校、
県中学明善校
1784)修猷館東学問稽古所修猷館、※文武館、藩学校、藤雲館、県尋常中学修猷館、県中学修猷館、
県立中学修猷館、県中学修猷館 / 県立高校修猷館
1824)伝習館藩学伝習館、県立尋常中学伝習館、県立中学伝習館 / 県立高校伝習館
1898)東筑県東筑尋常中学、県東筑中学、県立東筑中学、県東筑中学
1902)嘉穂嘉穂郡立嘉穂中学、県立嘉穂中学
1908)朝倉朝倉中学、※甘木中学
小倉県立小倉中学、県小倉中学
1917)福岡県立福岡中学、県福岡中学
田川田川郡立田川中学
1918)鞍手県立鞍手中学、県鞍手中学
1919)宗像県立宗像中学
1923)門司県立門司中学 / 門司高校、門司東高、門司高校
1926)筑紫丘県筑紫中学、※県三宅中学 / 筑紫高校
不詳)三池三池中学
八幡北筑中学、県立八幡中学
八女八女中学
市立1922)南筑私立南筑中学

次号予告) 佐賀県編
[17273] 2003年 6月 24日(火)11:44:22深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/41 佐賀県編
下記の他、私立龍谷高が該当した記憶もありますが、確証無し。比較的平坦地が多い佐賀県で五校というのは少ないかな。見落としもあるかも知れません。

元々窯業を中心に据えた鍋島藩が、幕末において西洋の学問を奨励した歴史を踏まえてか、県立一、二、三中に相当する佐賀西、鹿島、唐津東の各校は (現在、旧制時代の番号呼称が確認されたのは唐津東高のみ。) 何れも藩校を淵源とする城址の立地ですね。(藩校の設立年は何れも不詳の為、それぞれ、学制発布後に整備された学校の設立年を記しました。) この内、唐津東高界隈は玄界灘に面する関係上、虹の松原など絶景が期待できそうですね。

佐賀西高では、1949年に県立、市立双方の高女系を大同合併して佐賀高校を名乗りました。その当時を踏まえて、佐賀城の美称である 「栄城」 の名を以て、合同の同窓会組織が機能しているそうです。(未確認ですが、西高野球部の ユニフォーム表記も 「EIJO」 だそうです。) 63年に中学系が西高として分離された後、市立高女系は、ブランク時期を以て、致遠館高に継承されたとの解釈もある様ですが、詳細は不明。「致遠館」 と聞くと、こちらが藩校系の老舗か、などと思ってしまいます。私立では 「弘学館」 なる進学校も市内郊外地にありますね。

県立1870)唐津東藩校志道館、英学校、県立第三中学、県立唐津中学 / 唐津一高、唐津高校
1876)佐賀西藩校弘道館、佐賀変則中学、県佐賀中学、県立佐賀中学 / 佐賀一高、佐賀高校
1896)鹿島鍋島藩校養花堂、県尋常中学鹿島分校、県立鹿島中学
1899)小城小城中学
1927)武雄武雄中学

次号予告) 長崎県編
[17277] 2003年 6月 24日(火)13:07:30【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/42 長崎県編
「♪あぁぁぁー、長崎ぃはぁ、今日もぉ、謎ぉだぁったぁぁ。」 ……… という訳で、長崎県の場合は、県都および佐世保の二大都市で新制移行に際し、継承性の乏しい シャッフル再編が行われており、解釈が微妙です。長崎の場合は、県立長崎中学およびそこから分派した瓊浦 (けいほ) 中学、そして県立及び市立の高女の計四校を、継承先の規定無しに学区境界を以て東西両高に再編しており、その後新設された南、北、北陽台 (長与町) の各校を併せて合同選抜体制を組んだ為、伝統校の ステイタスを意識する事はあまり無かったのではないかと推定します。(それにしても、長崎中学には、師範学校併設などの時代は無かったのかな。) その辺りの経緯については、 http://www19.big.or.jp/~higashi/east/kenshou/nishi.html にて学校関係者が詳述されています。

佐世保の場合は、南高の公式頁の記述にある県立佐世保中学を嚆矢とし、佐世保二中 (同校の設置により、佐世保中学は一中と改称したものと推定します。) や東和中学が追加設置。これに県立佐世保高女、成徳高女を併せた五校で シャッフル再編を行い、南北両高に至ったものと考えます。

こうした県内二大都市の激動振りを横目に、城下町である大村高の歴史はさすが、という感じですね。県立移管は長崎中学設立の後ですが、諫早中学が派生するなど地域拠点校としての歴史が窺えます。やはり藩校系である平戸の猷興館では、同じ五島列島の福江 (五島中学) でなく、壱岐に分校が設置された点が興味深いですね。壱岐に設置されたなら、対馬にも旧制中学がありそうなものですが、今のところ、確認できておりません。

大村といえば,大村線非電化区間の大村、川棚両駅で見た構内限りの電化区間、あれは一体何でしょうか?

県立1670)大村集義館、静寿園、五教館、治振軒、私立大村中学、私立大村尋常中学、
私立尋常中学玖島学館、尋常中学玖島学館、県立中学玖島学館、県立大村中学
1884)長崎東・西県立長崎中学、※県立瓊浦中学
1900)五島五島中学
島原県立島原中学
1908)佐世保南・北県立佐世保中学、県立佐世保第一中学、※県立佐世保第二中学、※県立東和中学
1909)壱岐県立中学猷興館壱岐分校、県立壱岐中学 / 壱岐一高
1922)諫早県立大村中学諫早分校、県立諫早中学
不詳)猷興館猷興書院、県立中学猷興館 / 平戸高校

次号予告) 大分県編
[17278] 2003年 6月 24日(火)15:25:06深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/43 大分県編
長らく合同選抜体制下にあった事もあって、嚆矢・大分中学の後身が確定できず、街中の舞鶴高ではないかと思っていたら、久大線で一駅目の古国府にある上野丘高だった事が判明したのが数年前。ここも長崎と同様、師範学校関連などの前史は確認されていません。

私学として創立した中津中学が、県尋常中学移管後に宇佐分校を擁するに至ったのは、県内二番手の古豪としての歴史が評価された結果でしょうか。新制後は、中津一高時代に第一部から南校舎と名称を変更していますが、これは部制を廃して課長制に移行した教育行政の事情によるものです。なお、一高から西高への改称に際しては、然したる統廃合は確認されておりません。なお、一高第二部あらため西高北校舎は、高女系の中津北高として現在に至ります。

太平洋戦争中に開校した高田中学ですが、現在の高田高の沿革としては、やはり 1910年創立の高女系と解釈する向きが一般的の様ですね。

1885)大分上野丘県立大分中学、※県立大分夜間中学、※県立碩南中学 / 大分一高
1893)中津南私立中津尋常中学、尋常中学分校、県立中津尋常中学、県立中津中学
/ 中津一高第一部、中津一高北校舎、中津西高南校舎
1897)宇佐県立中津尋常中学宇佐分校、県立宇佐中学
杵築大分尋常中学杵築分校、県立杵築中学
臼杵大分尋常中学分校、県立臼杵中学
1911)佐伯鶴城南海部郡立佐伯中学、県立佐伯中学 / 佐伯一高第一部
1921)日田県立日田中学 / 日田一高、日田城内高校
1922)国東県立国東中学
1933)別府鶴見丘別府市立別府中学、県立別府中学 / 別府一高
1942)大分鶴崎鶴崎町立鶴崎中学、県鶴崎中学、県立鶴崎中学 / 鶴崎高校第一部、東豊高校
1943)高田高田町外 1町13村組合立中学、県立高田中学
不詳)竹田(詳細不明)

次号予告) 熊本県編
[17282] 2003年 6月 24日(火)17:11:43深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/44 熊本県編
現在確認されている県立中学八校のうち、嚆矢となる済々黌の系譜は実に六校。という訳で、熊本県の中等教育史における済々黌の存在は大きい様ですね。私塾として創設されて以来の校名、もとい黌名である 「済々黌」 は詩経に由来する様で、「黌 ≒ 校」 と見て良さそうです。それゆえに同校、もとい同黌では、「母校」 ではなく 「母黌」 と、「本校」 ではなく 「本黌」 と記すのが正統らしく、それでは、校庭、校舎、校内、校医など、どこまで適用されるものやら、妙に気になる雑魚でした。(笑) ちなみに、第二済々黌として分離した熊本中学の玉名分校は 「分黌」 ではない様で、済々黌と一線を画すという熊本中学の スタンスを反映したものかも知れません。

1896年に済々黌分黌として一斉に設置された鹿本 (山鹿市)、八代、天草 (本渡市) の各校の内、八代が本黌を差し置いて 「県立一中」 を名乗っているのは、県立移管が僅かに本黌に先行した為だそうです。県内嚆矢の中等教育機関がこの時期になお県立たり得なかった背景として、当時の文部行政における西欧追従主義に対する反骨精神が介在した為と言われます。一方、かかる向学精神を良しとした参事院議官の配慮による恩賜金下賜や、後年設置された官立五高の教員人事における一高、五高、(夏目漱石や ラフカディオ・ハーンも教鞭を執りました。) 済々黌の交流も見られ、その意味では ステイタスは高かったのでしょうね。

1879)済々黌同心学舎、同心学校、済々黌、九州学院普通部、県尋常中学済々黌、
県中学第一済々黌、県中学済々黌、県立中学済々黌
1896)天草県尋常中学済々黌天草分黌、県立天草中学
鹿本県尋常中学済々黌山鹿分黌、県鹿本中学
八代県尋常中学済々黌八代分黌、県尋常中学済々黌城南分黌、県第一中学、県八代中学
1900)熊本県中学第二済々黌、県立熊本中学
1903)玉名県立熊本中学玉名分校、県立玉名中学
1920)宇土県立宇土中学
1924)人吉人吉中学

次号予告) 宮崎県編
[17283] 2003年 6月 24日(火)17:46:35【3】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/45 宮崎県編
取りあえず六校見つかったのですが、ここも見落としがありそうですね。日向市や吉都線沿線はどうでしょうか。

藩校を継承元と見なすと最古参となる高鍋高では、創立 80周年事業が取り沙汰されているそうで、という事は、水戸藩校を継承しつつ、中学校令に基づく存在として整備されたのが 1927年という茨城高に通じる沿革を擁するのでしょうか。

県都の宮崎大宮高は、宮崎神宮への近接性に由来する命名と推定しますが、城下町ではない場合、こうした神社近接性も旧制校らしさを醸出するのでしょうか。城下町飫肥と港町油津を擁する日南市にあって、日南高の立地は、案の定ですね。

県立1778)高鍋藩校明倫堂、高鍋中学
1889)宮崎大宮県尋常中学、県宮崎中学、県立宮崎中学
1899)延岡県立延岡中学 / 延岡恒富高校
都城泉ヶ丘県立都城中学
1921)日南飫肥中学
不詳)妻中学

次号予告) 鹿児島県編
[17287] 2003年 6月 24日(火)18:32:25【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/46 鹿児島県編
祝・九州日帰り卒業 (笑) さすが、尚武・向学の気風が盛んとされる土地柄だけあって、中学の分布頻度も大きいですね。

一般に、官立七高へ継承されたと解釈される事の多い藩校造士館ですが、あちこち漁った データを概観すると、どの程度の関連かは不明ながら、鶴丸・甲南両校の前身が、県の尋常中学として整備される以前に官立高等中学に編入され、そこから官立七高造士館が派生した可能性を感じます。その辺りの経緯は甲南高の公式頁から窺えますが、誤認等がありましたら、御教示下さい。それにしても、甲南高の 1948年における 「第○部」 という区分基準が良く判りませんね。二中系が第四部、二女系が第二部とすると、第一、第三部は鶴丸高の関連かな?

甲南高校の公式頁) http://www.synapse.ne.jp/kounanhs/rekishi.html

県都では、鶴丸、甲南両校に加えて、戦後新設の鹿児島中央高が地元国立大への有力進学校となっていますが、新幹線の開業に伴う西鹿児島駅の改称を受けて、同駅に近い中央高では意を強くしているでしょうね。(笑)

奄美の大島高校の場合は、新制高校移行後暫く、臨時北部南西諸島政庁や琉球政府文教局の管轄下にあった点が歴史を感じさせます。鹿児島高は、私立としては珍しく、新制移行後に高女と統合された例ですね。

県立1773)鶴丸藩校聖堂、藩校造士館、県立鹿児島中学、※公立鹿児島学校、県立中学造士館、
官立鹿児島高等中学造士館、県立尋常中学造士館、県中学造士館、県立第一中学、
県立第一鹿児島中学
1897)加治木県尋常中学加治木分校、加治木中学
川内県尋常中学第一分校、県立川内中学
1900)川辺県第四中学、県立川辺中学 / 川辺高校第一部
1901)甲南県立第一中学分校、県立鹿児島中学分校、県立第二鹿児島中学 / 県鹿児島高校第四部
1908)志布志県志布志中学
1916)大島県立大島中学 / 大島高校第一部
1920)出水出水中学
1922)大口県立大口中学
1923)鹿屋県立鹿屋中学 / 鹿屋高校第二部
1924)伊集院県立伊集院中学
不詳)種子島種子島中学
市立不詳)鹿児島玉龍鹿児島市立中学
私立1929)鹿児島鹿児島中学 / 津曲学園高校

次号予告) 沖縄県編
[17294] 2003年 6月 24日(火)22:56:39深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/47 沖縄県編
県下嚆矢の中学系は、県都の名を冠する那覇高ではなく、首里高。那覇市の詳しい沿革は判りませんが、城下町の首里と港湾都市の那覇との機能分化を体現した位置付けの様に感じます。その淵源は、19世紀初頭頃、時の琉球王府・尚温王が 「海邦養秀」 の建学精神を以って創立した国学に遡ります。その沿革に鑑みて、有為の人材を多々輩出したと思いますが、同校の著名 OBといえば、まず 「ガレッジ・セール」 の ゴリを連想する雑魚でした。取りあえず四校しか判らないのですが、沖縄市周辺や石垣島あたりはどうでしょうか。

県立1798)首里公学校、国学、首里中学、県尋常中学、県第一中学
1910)那覇県立中学分校、県立第二中学 / 首里高校那覇分校
不詳)名護県立第三中学
八重山八重山中学

次号予告) 千島県編 ([12600] 知事殿、御覧になっていたら、フォロー下さいませ/笑)
[17297] 2003年 6月 24日(火)23:53:57faith さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/45 宮崎県編について
[17283] 雑魚 さん
恐らくは私学を始祖とする延岡高の場合、県立移管時期がはっきりしません。
延岡高校の前身は明治32年に設立された県立延岡中学校と
亮天社が始めた延岡女学校(昭和4年 県立移管)なのではないでしょうか?

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