[86367] アクアさん
〝総論〟に関しては他の方に譲るとして、
豊岡県の豊岡は県庁としては北西に寄り過ぎてますし、当時は特に大きな都市でもなさそうです。
(豊岡県域での最大藩は篠山の現高3万6321石。対して豊岡は現高6032石。)
豊岡県の領域のうち現兵庫県分については
幕末の所領配置図拡大図(もとページは
こちら)をご覧いただくとわかるのですが、丹波・但馬地域のかなりの部分は天領・旗本領で、丹後にも熊野郡を中心に天領はかなりあったはずなのでその石高は篠山藩よりも相当多かったものと思われます(確たる資料はないので数字ははっきりしませんが)。
江戸期には丹後熊野郡の久美浜に代官所が置かれ、丹後と一部但馬の天領の管理を行っていました。1868年久美浜代官所が久美浜県となり、さらに丹波・丹後・但馬・播磨・美作の天領23万石を管轄する県庁が久美浜に置かれ大規模な県庁舎など県関連施設が造営されましたが…。
5カ国の広い範囲を北端の久美浜に統治所を置くことは、若干の問題があり、旧生野代官所支配地を中心に強い反対運動を起こしました。
明治2年8月但馬・播磨の180ヶ村が分割され生野県が置かれました。
分割は当時の中央政府の意に反することであり、合併をまとめるために、県庁所在地を地域の中央に移すことになり、明治4年(1871)11月「久美浜縣廃止、豊岡県設置」となりました。
久美浜百珍 歴史ガイドによる。
そして久美浜に建てられた県庁舎などは豊岡に運ばれて、豊岡県の県施設として利用されました。
結局、豊岡県内の小藩は、最初から県庁所在地としては問題外で、久美浜と生野の代官所(とその周辺)の力関係から妥協の産物として、たまたま豊岡が選ばれたということではないでしょうか。