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千本桜さんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[81277]2012年8月8日
千本桜
[81261]2012年8月6日
千本桜
[81260]2012年8月6日
千本桜
[81222]2012年8月1日
千本桜
[81214]2012年7月31日
千本桜
[81211]2012年7月30日
千本桜
[81207]2012年7月29日
千本桜
[81201]2012年7月29日
千本桜
[81196]2012年7月29日
千本桜
[81088]2012年7月13日
千本桜

[81277] 2012年 8月 8日(水)18:55:01千本桜 さん
八戸と鮫
現代では八戸そのものが港町として捉えられているわけですが、本来は少し内陸部に城下町・八戸の市街が広がり、その外港の役割を果たしていたのは鮫。・・・だと思います。
[81261] 2012年 8月 6日(月)06:40:26千本桜 さん
忘れてしまって漢字で書けない
[81239] 白桃さん
ところで、千本桜さんのお母様はどこなんでしょうか。

認知症で地名の記憶が失われて行くなか、今でも忘れずにいるのは生まれ故郷の「白石」です。でも、残っているのは「白石」と言う名のホルダーだけ。保存してあったファイルはことごとく破損または消去されてしまったようです。

実は私も最近になって書けなくなった市町村名が増えて困っています。三重県の「いなべ」の漢字が思い出せないのですよ。「そうさ」「しそう」もダメっぽい。これって認知症の始まりなんでしょうか。
[81260] 2012年 8月 6日(月)06:07:33千本桜 さん
赤穂と尾崎
hmtさん
「明治13年共武政表を眺める」の続編を期待しています。

明治13年共武政表「戸数1千以上地名表」を見て、おや?と思ったのが播磨の赤穂郡。リストに尾崎があって赤穂(加里屋・ 上仮屋)がないのですね。ちょっと奇異に感じましたが、当時の赤穂はその程度の町だったのでしょうか。
[81222] 2012年 8月 1日(水)07:57:03千本桜 さん
矢吹町の大字柿之内
[81213] 皿さん
他の字を合わせて大字の線を引いても、後から間違っている所が指摘されることがあるからです。

皿さんが求めている大字界線は大雑把なもので良いはずです。地権や水利権が絡むことではありませんから精密さを必要としません。ならば、角川地名大辞典とマピオンがあれば解決できる範疇の問題だとと思います。本当は皿さんご自身の手で調べてもらいたいのですが、1つだけ私がやってしまいます。大字柿之内をターゲットにします。時間がないので結果だけ書きます。なぜその結果が出たのかは書きません。
大字柿之内の領域は現在の境町本郷町南町東の内田内子ハ清水と推測しました。
大字柿之内の近隣に位置する堰の上、井戸尻、川原などは大字大和久の領域。花咲、舘沢、滝八幡などは大字矢吹の領域と推測しました。
現在の字(字か町丁かは大きな問題ではありません)をそのまま旧大字に当てはめるのは無理があるとは思いますが、こまかなことを気にしなければ、こんなもので良いのではないですか。
[81214] 2012年 7月 31日(火)01:04:27千本桜 さん
大字の探し方
[81213] 皿 さん
現時点で引っ張り出せるのは13の大字のうちわずか3つです。
その3つ、どういうわけか知らないけど、3つとも奥州街道の宿場町ですね。どのようにして引っ張り出したのですか。
[81211] 2012年 7月 30日(月)21:57:22千本桜 さん
矢吹町の大字
[81209] 皿さん
最後に矢吹町の字に関して一部確定しているところがあります。
大字矢吹:中町~本町
大字中畑新田:新町
大字大和久:大和久

ひょっとして、皿さんは矢吹町に13の大字があったことをご存知ないのでは?。だとすると、それを知ることから始める必要があると思います。13の大字名とその場所をリンクします。大字の「首部」にあたる位置にポインターが表示されるように狙い撃ちしていますのでご覧ください。
松倉中畑大畑三城目須乗神田中野目明新矢吹中畑新田大和久柿之内
これだけでは皿さんの疑問解決にはなりませんね。できるなら、私がリンクした13大字の首部と周辺部をにらめっこしながら、各大字の地域範囲をイメージして大字界線を線引きしてほしいのです。私がイメージするのではなく、皿さんがイメージするのです。

私がほしいのは、昭和54年までの矢吹町の大字図です。
それは、どうすれば入手できるのか私には分かりません。いっそのこと、 皿さんご自身が大字界図を作ってみてはいかがですか。精密さを求めない大まかなものでよければ作れるはずです。資料は角川地名大辞典とマピオンがあれば充分です。その二つを駆使すれば、大字の地域範囲と所属していた郡が明らかになるはずです。問題は皿さんが角川地名大辞典を読むか否かにかかっています。角川地名大辞典を読みたいと思われたとき、その旨を落書き帳に書き込んでください。微力ながら矢吹町の大字に関して多少のアドバイスはできると思いますので。
[81207] 2012年 7月 29日(日)23:55:14千本桜 さん
矢吹町の字(あざ)
[81198] 皿さん
福島県矢吹町の現行町名と江戸時代にのちの現在の矢吹町にあった村の位置が全然わかりません。
矢吹町の字(あざ)にハマってしまいましたね。あの町は大胆に字の整理を実施しましたから、現況の字界図をもとにして過去の村(近世村)の範囲を知るのは無理だと思います。町役場に問い合わせをするのが最良かと思いますが、それを実行しても埒があかなかったから落書き帳に書き込んだのですよね。私も三十数年前、矢吹町の字界図を入手したことがあります。でもそれはあくまでも現況字界図です。皿さんに必要なのは字の整理前と整理後をオーバーラップさせた地図ですよね。やっぱり、無いよね。役場には。困った、困った。
ところで、矢吹町の字にハマったということは、旧二本松市の字にもハマっておられるのでしょうか。
[81201] 2012年 7月 29日(日)08:35:06千本桜 さん
近世村「西野村」と町場名「米岡」
[81146] hmtさん
このような 町場名・近世村名・町村名の関係については、千本桜さんが事例を挙げて考察された 記事 が多数あります。
上にリンクしたのは一例で、マガジンの形にまとめて利用できればよいと思うのですが、私は手を出せずにいます。
千本桜さんの視点による 新マガジンの創刊を期待しています。
ありがたいお言葉、感謝申し上げます。しかし私は今、なかなか時間がとれない状況にあり、落書き帳への書き込みも途切れることがあるのが実状です。マガジン創刊など出来るかどうか自信がありません。とは言うものの「近世村と町場」、「町場名と町村名」、「公称と通称」、「住所と大字」の関係などは、次の世代に語り継がなければならない大切なものだと考えています。時間があれば何らかの形でまとめてみたいとは思っています。

近世の町場名が町村制下の村名に影響したと考えられる記事を一つ書きます。

明治22年、宮城県登米郡の西野・中津山2ヶ村が合併して米山村が成立しました。旧村名を継承する2大字を編成し、村役場を大字西野に置きました。角川地名大辞典は米山の村名由来を次のように書いています。
江戸期から干拓・開墾・新田開発の盛んに行われた米どころで、米の山を築く意味からなづけられたといわれる。
この説を否定するつもりはありません。けれども、どことなく作り話の臭いがしますね。「米の山を築く」は後で付けた理由で、本当は西野・中津山両村から1文字ずつ出し合って合成した村名だと思うのです。西野の「米」と中津山の「山」で米山です。西野に「米」の文字は見えませんが、実はあるんです。西野村には米岡と言う名の町場がありました。米岡は江戸期に商業活動を許された町場で、地籍の上では西野村に属していました。米岡宿、米岡驛、米岡町などと称されていたようですが、宿・驛・町の使い分けには明確な基準があるのでしょうか。ご存知の方、教えて頂けたら幸いです。

元来、米岡とは西野村の町場を指す地名ですが、時には西野村を指す名称としても用いられていた可能性があります。その根拠は、宮城県柴田郡において村名の前川と町場名の川崎、村名の入間野と町場名の槻木、村名の平と町場名の金ヶ瀬が混用されているばかりでなく、各地に同様のケースが見られるからです。槻木宿と書いてあるかと思えば、物によっては入間野宿と書いてあったり、入間野村と表記すべき所に槻木驛と書いてあったりで、大いに悩まされたものです。この通称町場名の川崎・槻木・金ヶ瀬は明治22年、それまでの公称村名である前川・入間野・平を抑えて町村制下の新村名に躍りでました。しかし、米岡は町村制下の新村名に躍りでることができなかった。なぜでしょうね。

なぜ米岡は町村制下の村名に採択されなかったのか。これにズバリ言及した記述を見たことがありません。そのような視点からの記録はたぶん存在しないのでしょう。ならば自分流に想像力を働かせて考えるしかありません。以下の文は想像で書く創作ですから鵜呑みにしないでください。でも本筋はそれほど大きく外れてはいないはずです。

(明治22年、西野村は中津山村との合併に向けて内部調整の話し合いをしていた。)
【西野村職員A】志田郡千石村など5ヶ村合併の新村名は、千石村の町場名をとって松山村とするそです。
【西野村職員B】桃生郡相野谷村など6ヶ村合併も、相野谷村の町場名をとって飯野川村とするそうです。
【西野村村長】すると西野・中津山の2ヶ村合併も、西野村の町場名をとって米岡村にするか。
【西野村職員A】西野村の名が消えるのは淋しいですね。
【西野村職員B】米岡村になっても西野の名は消えません。米岡村大字西野として後世に残ります。
【西野村職員A】そうなんですか。米岡も西野も消えずに残るなら、新村名は米岡村にしましょう。
【西野村村長】それに、西野より米岡の方が対外的に通りが良いだろう。
【西野村職員B】確かにそうです。佐沼や涌谷の人は西野のことを米岡と呼んでますね。
【西野村職員A】白石の近くから来ましたという人も、西野を知らないのに米岡を知っていました。
【西野村職員B】白石の近くから来ましたという人って、それ、大河原村の人だろう。
【西野村職員A】そうらしいです。なんで大河原から来ましたと言わないのだろう。
【西野村村長】主体性がないんだよ、大河原村は。我々もそうならないように気をつけよう。
【西野村職員B】やはり胸を張って自分の村の名を言えるようにしたいですね。
【西野村職員A】これからは対外的に通じやすい米岡の名を名乗り、胸を張って生きましょう。
【西野村職員B】了解しました。新村名は米岡村ということで、中津山村に話し掛けましょう。

(そして西野・中津山2ヶ村の合併協議が始まった。)
【西野村職員B】西野村としては、新村名を米岡村とすることを希望します。
【中津山村職員A】米岡って西野村の別称でしょう。西野村主体の考えは納得できません。
【西野村職員A】牡鹿郡根岸村など3ヶ村合併の新町名は、根岸村の町場名をとって渡波町とするそです。
【西野村職員B】近世の町場名をもって町村制下の町村名とする所が多いですね。
【中津山村職員B】そんな馬鹿な。人口の多い中津山が、人口の少ない西野に馬鹿にされてたまるか。
【西野村職員A】そんな馬鹿な。西野の方が人口が多いに決まってるだろう。
【中津山村職員B】そんな馬鹿な。中津山の方が多いんです。
【相談役の県職員】人口のことは落書き帳の方々が調べてくれるはずですから、話を先に進めましょう。
【中津山村職員B】中津山村としては、新たな合成村名を作ることを希望します。
【中津山村職員A】例えば、西野村の西と中津山村の山で「西山村」はどうでしょう。
【西野村職員B】西野村としては、西野より米岡の名を残したいのですが・・・。
【中津山村職員A】では、米岡の米と中津山村の山で「米山村」はどうでしょう。
【西野村村長】それは名案だ。
【中津山村村長】米どころにふさわしい村名だね。
【相談役の県職員】では「米の山を築く」という意味合いを込めて「米山村」としましょう。

こうして米山村は誕生したのではないだろうか。この場合、後世に伝え継ぐ村名由来は、下記の内のどちらがふさわしいのでしょうか。
1・西野村の町場名である米岡の「米」と中津山村の「山」を合成して「米山村」とした。
2・米どころなので、米の山を築く意味から「米山村」とした。

なお、人口のことで西野村と中津山村がもめていましたが、実際はどちらが多かったのでしょう。明治22年頃には、中津山村が西野村を凌いでいたと思うのですが、詳しいことが分かりません。ただし、西野村が中津山村を隷属扱いできるほどの開きは絶対なかったはずです。もし、西野村が中津山村を隷属扱いしていたなら「米山村」の名称は生まれず、「米岡村」の名称が誕生していた可能性が高いと思います。西野村の町場名「米岡」が町村制下の村名になれなかった理由の一つは、合併相手の中津山村が西野村に比して遜色なく、思いのほか大きな村だったからではないかと踏んでいます。
[81196] 2012年 7月 29日(日)01:15:49千本桜 さん
♪母の鞄
[81136] 白桃さん
3位 武豊(愛知) 29,634

武豊の文字から「たけゆたか」を連想する人は多いはず。ところが、私が連想するのは「武智豊子」。昔からそうでした。地図を見て武豊町の存在を知ったのは中学生の頃ですが、あれからずっと武智豊子は武豊町の生れだと思い込んでいました。実際は違うらしいけれど・・・。武豊から武智豊子を連想する人はもともと数が少ないはずだから、今となっては絶滅危惧種でしょうね。

ところで、私はいま老老介護の最中にあります。母親の口にスプーンで食事を与え、おむつの交換をする毎日。結構辛うございます。母は四捨五入すると100歳になります。認知症で親の名前も子の名前も忘れてしまいました。地名もほとんどすっかり忘れたようです。近隣の集落名は勿論、昔馴染みの人が住んでいる栃木・桐生・清水なども忘れてしまいました。そんな母が今も忘れずにすらすらと口にする地名が一つだけあります。それは、次の内のどれでしょう。

1・生れ故郷の「白石」
白石のど真んなか、中町の生れ。大正時代は町場と農村部のメリハリがはっきりしていたようで、町場生れの母の話言葉は、白石近郊の農村出身者と少し異なっていました。

2・楽しかった娘時分に暮らした「仙台」
数年間だけ仙台は大町東一番丁角あたりに住んでいました。大町と東一番丁の角といったら、銀座四丁目みたいなものです。凄い所に住んでいたんですね。

3・現在の居住地「大河原」

さて、地名の記憶が失われていく中、いまも母の脳内に張りついて剥がれないのは白石・仙台・大河原の内、どれでしょう。団塊世代のおじさんが思わず涙ぐむ静かなヒット曲、♪母の鞄をタイトルに用いました。
[81088] 2012年 7月 13日(金)20:05:41千本桜 さん
山目と中里の関係。輻輳地の鹿島台とはどこか。高須賀の輻輳地は荒浜
[81073] 白桃さん
山ノ目駅西側と(一関駅方面から来て)磐井川を渡った一帯の山目は同じ山目(旧村→旧町)なのでしょうか、多分そうなんでしょうけど、だとすると(旧)中里村が入りこんでいて不自然な気がします。
JR山ノ目駅がある場所は山目村ではなく中里村の領域です。また、また現在の新町蘭梅町山目町二丁目山目町三丁目なども元をたどれば中里村の領域でした。ですから、本来は山目村と中里村の間に不自然な領域の入込みはありませんでした。ではなぜ中里村にJR山ノ目駅や山目町があるのかというと、これには宿駅「山目」の存在が絡んでいます。山目宿は山目村と中里村に跨がる宿場で、山目町(現在の山目町一丁目、二丁目)と呼ばれる町場を形成していました。山目村に属す町場は現在の山目町一丁目、中里村に属す町場が現在の山目町二丁目です。中里村の内に山目町という町場があったわけですから、中里地区民はJR山ノ目駅や山目町二丁目の呼称も自然に受け入れていたと思います。

[81048]
明治11~13年当時、一関と山目の町並みは一体化していたのだろうか。
と書きましたが、角川地名大辞典を読んでみると、磐井川で分断されるものの、連続した町並みの様子が見えてきました。

明治11、12、13年の共武政表を見て思うのですが、宮城県の輻輳地のうち、下記の2箇所は場所を勘違いする人がいるかもしれませんね。
輻輳地明治11年の表記明治12年の表記明治13年の表記
鹿島台記載なし鹿島臺126人鹿島臺127人
高須賀高須賀村2,352人高須賀2,301人高須賀1,770人
共武政表は人口120人ほどの小さな輻輳地「鹿島台」を掲出しています。鹿島台とはどこを指すのでしょう。現代の我々が思い浮かべる鹿島台の町並みといえば、平渡地区(藩政村の平渡村)に展開するJR鹿島台駅前の町並みでしょう。でも、江戸~明治初期において平渡村内に鹿島台と呼ばれる集落があった話は聞いたことがありません。しかし、平渡地区に隣接した広長地区(藩政村の広長村)には元鹿島台(通称)という集落があり、2.5万分の1地形図にもその名が記載されています。また、宮城県各村字調書によると広長村に鹿島台(たぶん通称)があり、鹿島台には鹿島、琵琶原という二つの小字が記載されています。鹿島、琵琶原を頼りに場所を探すと、2.5万分の1地形図の元鹿島台と同じ場所に行き着きます。よって、共武政表の鹿島台とは元鹿島台の集落を指していると判断します。
また、共武政表は輻輳地「高須賀」を掲出しています。現代の我々が思い浮かべる高須賀はここ。でも、明治13年共武政表の輻輳地「高須賀」は、高須賀村の端郷で河口港の荒浜を指していると判断します。


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