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Issieさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[81765]2012年9月2日
Issie
[81750]2012年9月1日
Issie
[81722]2012年8月28日
Issie
[81717]2012年8月28日
Issie
[81710]2012年8月27日
Issie

[81765] 2012年 9月 2日(日)12:43:29【1】Issie さん
ねば
[81764] k_ito さん
稲武-根羽はどんぐりバスです。コミュニティバスで県境越えできるというのはかなり珍しいケースのような気がしますから、目に留まらなかったのかもしれませんね。

ああ,これは私,知っていました。
交通公社…,じゃなくてJTBの時刻表にも載っていますしね。
一方で,“同じ県内”に向かう飯田方面へのルートが載っていません(途中の阿智までコミュニティバス,阿智からは信南交通)。
いずれにせよ,番組的には飯田から先,伊那谷をどう北上するかが問題になったはずです。最後には,前の発言のとおり,善知鳥峠も塩尻峠もバスでは越えられないので歩くしかなく,その意味では結果的にトンネルで鳥居峠を越えたあのルートで正解だったのだと思います。

※そう言えば,いま読み返して思い出したのですが,確か第1回の 横浜→富山湾 の「列島横断」の回で伊那谷から松本平に入る際に「善知鳥峠にバスがない」ということを一行(のうちの太川と蛭子)は経験しているのでした。その割には,今回も中津川のあたりで伊那谷ルートも模索していましたが…。

根羽村と稲武町には“総選挙後の政権交代”で盛り上がっていた頃,…と言っても今回(3年前)ではなく“前回”の1993年の夏に行ったことがあります。ただしその時は飯田まで車で迎えに来てもらって,路線バスを利用したわけではないのですが。
その頃は確かまだ,稲武まで名鉄バスが来ていました(たぶん,根羽まで)。
それにしても根羽村,飯田からとても遠いです。そもそも飯田自体が東京から極めて遠いのでなおさらでした。名古屋から見た稲武・根羽はどうなんでしょうね。

聞くところによれば,根羽村は元々は三河の加茂郡の一部だったとか(設楽郡ではないのですね)。16世紀末に信州に編入されたそうで,その意味では中世初期に美濃の恵那郡から信州の筑摩郡に編入された 鳥居峠以西の木曽谷 よりも信州にとっての“新参者”。
そういう経緯もあって,いまだに稲武との結びつきの方が伊那谷方面よりもずっと強いと聞きました。JTB時刻表の扱いもその表れでしょうか(…と言いつつ,JTBの取捨選択もそれほど根拠のないものであるようにも感じます)。
結局,木曽谷の最下流部は2段階の合併で岐阜県に「帰って」行きました。
根羽村もそれにならって三河=豊田市への合併を望まない保証はないわけで,もしかしたら次に長野県からこぼれ落ちるのは根羽村かもしれませんね。

しかし豊田市のコミュニティバスはなぜこんなに細かく分かれているのでしょう。

ざっと見てみましたが,それはたぶん,自治体の管理に移るまでの経緯とか,目的や路線の性格,運行形態の違い,あるいは市役所内での管轄部署の違いなどによるものなのだろうと思います。
[81750] 2012年 9月 1日(土)21:53:19【2】Issie さん
川中島など屁の河童! ああ松電,松電バス
久しぶりにやっていました。東京12チャンネルの「路線バスの旅」。
今回は,前回(徳島→伊勢神宮)を引き継いだのか,松阪→松本というルート。
普段は7時からの番組でそのつもりでいたら,今夜はスペシャル版で6時半からだったんですね。おかげで「1日目」の分を見そびれて,一行はすでに桑名に着いていました。
それにしても,路線バスの状況は年々悪くなっているようで,確か5年ほど前に私は長島スパーランドから名古屋まで国道23号線を路線バスに乗ったはずなのですが,今は廃止されてしまったとのこと。一行はとにかく岐阜県に入るまでの区間で相当苦労したようですね。

実は私が一番興味を持っていたのは,一行がどうやって松本平に入るかということでした。
私が松本市民だった30年近く前,すでに木曽路(鳥居峠,国道19号)はもちろん,善知鳥峠を越えて辰野方面に向かう路線バスもなかったはずです。峠向こうの 小野地区 の「半分」は旧松本藩領でずっと前から塩尻市だったんですけどね。でも,塩尻峠を越えて上諏訪に行くバスはまだありました。そこから伊那谷へ抜けるルートは,岡谷から天竜川沿いに直接辰野へ抜けるのは微妙にしても,昔NHKの「新日本紀行」で取り上げられた“諏訪(諏訪市)と伊那(辰野町)にまたがる”上野地区でバスを乗り継いだり,茅野から“国鉄バス”で杖突峠を越えて高遠から伊那へ出る,というのが使えたはずです。いずれも,今は使えません。それどころか,番組のお終いで出てきたように,松本から塩尻に(直接)行くバスさえありません。
ともかく,あとは伊那谷を何とか縦貫しさえすれば,飯田からは 根羽→稲武→足助 と乗り継いで名古屋まで路線バスで行くことは訳なかったはずです(この部分,図らずも松本視点になっていますね。番組的には逆方向です)。
実は,当時は木祖村の藪原駅から上高地へ行くバスが運行されていて,つまり“木曽谷ルート”で奈川村(現松本市)を通って,梓川に合流する 奈川渡 で新島々方面のバスに乗り継ぐというルートもありました。ただし松本電鉄の営業政策上,松本から新島々までは登山・行楽客が電鉄線を利用するように誘導するために,島々までの並行バス路線はわざと走らせていなかったはずです(現在は“高速バス並み”の松本-高山間のバスがここを通っています)。ただ,梓川左岸(北岸)の梓川村(現安曇野市)最奥集落の 八景山 まで松本駅からバスが来ていましたから,安曇村(現松本市)最下流部の橋のたもとからわずか2kmほど歩けば乗り継げましたか…。

とはいえ,これは全部30年前の話。
その頃からは想像もできないほどバス路線が痩せ細ってしまった今,一行がたどったのは木曽谷ルートで,結局 鳥居峠 は徒歩で越えることになりました(国道19号のトンネルを通りましたが)。ただ1つだけプラスだったのは,“日本海斜面”でありながら「木曽」(木曽郡=旧西筑摩郡)に属していた 旧・楢川村 が塩尻市に編入されたおかげで 奈良井 から 塩尻駅 まで塩尻市のバスで直行できたこと。昔は松電(松本電鉄)バスのエリアだったんでしょうが,それが手を引いた後,楢川村単独では並行する中央西線に対抗して塩尻までバスを走らせることはなかったのではないかと思います。その意味では「塩尻市奈良井」になったおかげではないか,と。
結局,一行は塩尻・松本市境の少しの区間を歩いて,何とかゴールの松本城に到達しました。
ナレーションやメンバーが語る通り,途中の展開からはほとんど「無理。失敗。」の気配が漂っていたんですけどね。

最後は,松電バスに乗ってお城に到着,と。
ところでこの書き込みのタイトルは,私が松本所在の某大学の学生だった頃,松電バスでアルバイトをして持ち帰ったのか,それともその某大学で創作されたのか(まさしく私が学生であった頃にドンピシャな内容[浅間温泉線の“ビデオの姉ちゃん”とか]なので,“代々受けて継がれてきた”ものではなくリアルタイムで作られたのでしょう),ともかく同級生が寮祭で披露した「松電バスの歌」の一節。地域独占の地方交通企業としては“競合相手”ではないのですが,善光寺平の西半分をエリアとする 川中島バス(川バス) は,やはり松電にとってはライバルで,そんな気持ちが表れているのでしょうね。しかし,それ以前から川バスの営業状況は最悪で,結局は松電資本に吸収されました。今では松電,川バスだけでなく,以前から松電傘下であった 諏訪バス も含めたグループ全部を合わせた「アルピコ交通」の名前で営業しています。
リンク先の歌詞は,私がこの歌を聴いた頃よりもずっと最近のものですね。川バスは「倒産」しちゃっています。

ともかく,この番組で再認識したこと。
……馬篭は「岐阜県」なんですね。
[81722] 2012年 8月 28日(火)21:57:15Issie さん
分断された郡
[81720] 白桃 さん
それはともかく、この海部(あま)郡ですが、むじながいりさんのパラパラ地図をご覧いただければおわかりになると思いますが、当初、名草郡によって3つのブロックに分断されております。

「海部郡」という郡は,紀州のほかにも尾張(愛知県)や阿波(徳島県),豊後(大分県),さらに異表記の「海士郡」という形で隠岐(島根県)にもありました。ただし,尾張の海部郡は中世に分割されて大正に再統合されるまで「海西郡/海東郡」に分かれ,さらに海西郡は木曽川の流路の変化による濃尾国境の移動によって美濃にもまたがり,こちらは明治後期の郡の統合により岐阜県の「海津郡」の一部になりました(「津」は統合相手の“下石津郡”)。
漢字表記が表すように,海での活動を生業とする集団である「あま部」に由来する郡で,だから全部が海のそば。
紀州の海部郡の場合,名草郡との境界のラインは古代からは少なからず変わっているだろうし,紀の川の河口デルタや和歌浦あたりの地形もかなり変わっていて,沿岸に点在する海部郡郡の領域の“陸地”からの隔絶性は今よりも高かったかもしれません。あるいは,後に名草郡の領域が陸地から拡大してきてそうなったのかもしれませんが,やはり「海人集団の郡」ではあるのでしょうね。

このような郡の分断例は結構珍しいのではないでしょうか?

珍しくはありますが,“2分割”であるならほかにもいくつか例がありました。
たとえば,「海津郡」を経て今は「海津市」の一部になっている前出の「下石津郡」。当然,“上”があるわけで,1878年の郡区町村編制法によって「上石津郡」と分割されるまでは両者合わせて「石津郡」でした。上石津郡に相当する区域は大垣市に編入された2006年まで丸ごと「上石津町」でしたが,下石津郡 とは隣接しておらず,間に 多芸郡 がはさまっていました。海西郡+下石津郡 で「海津郡」ができたとき,上石津郡はその多芸郡の大部分と合わされて「養老郡」となりました。

間に別の郡がはさまって分断された分かりやすい例が,武蔵(埼玉県)の 入間郡。ここでたびたび話題になるように,奈良時代の初めに朝鮮半島からの渡来民とされる人々を入植させた「高麗郡」が入間郡内に設けられて,その高麗郡が間に割り込んだせいで入間郡は2つの領域に分断されました。この状態が解消されるのは,高麗郡が入間郡に編入された明治半ばのことです。
※地図をよく見ると,両入間郡はその付け根部分で蝶番のようにわずかにつながっていなくもないのですが,現実にはほぼ無視してよいでしょう。

伊豆(静岡県)の北西隅にあった「君沢(きみさわ/くんたく)郡」も2つ領域に分かれていました。
三島市の大部分と,旧伊豆長岡町(現伊豆の国市),旧修善寺町西半(現伊豆市)と沼津市の内浦地区から旧戸田村,そして伊豆市の旧土肥町にかけての区域。間にはさまる函南町(田方郡)で分断されています。ちなみに,函南町のうち狩野川左岸の 日守地区 のみは 駿河国駿東郡 からの編入です。
実は 君沢郡 という郡は古代には無く,近世初頭までに田方郡から分割された郡であるようで,わざわざこの形にしたのには何か面白い話があるのかもしれません。

安芸(広島県)の「豊田郡」も2つの区域に分断されていました。
広島県では1956年に 豊田郡 と 賀茂郡 の町村の間で所属の交換を行い,以降は 豊田郡 が島の部分も含む沿岸部,賀茂郡 が内陸部の呼称となりましたが,それまでは 豊田郡 は内陸部も含めて東側の沼田川流域,賀茂郡 が 竹原 以西の沿岸部・島も含めた黒瀬川流域までの区域を領域としていました。
この「賀茂郡領域」の中で,現在の竹原市南西端の 吉名地区 と,それに隣接する東広島市(旧安芸津町)南東端の 木谷地区 だけが豊田郡に属していました。一見,この部分が“豊田郡の飛び地”であるようにも見えます。ただしもう少し広く見ると,この“飛び地”部分の対岸の 大崎上島・下島 および 豊島 も豊田郡で,そうして見ると逆に 竹原周辺 が「豊田郡領域」に割り込んでいるようにも見えます。ちなみに,上・下蒲刈島 は元は賀茂郡の島。

まだほかにもあるかもしれませんが,とりあえずはこれだけ。
ただ,確かに3つに分割される紀州の海部郡は珍しい例でしょうね。
[81717] 2012年 8月 28日(火)01:52:16【1】Issie さん
播磨と飾磨
[81713] グリグリ さん
飾磨という郡名そのものは、播磨国の「磨」との関連があるのでしょうか。

ちょっと調べてみたのですが,とりあえず「磨」という漢字自体にはあまり意味がないように思います。

「はりま」については,6世紀以前に「国造」が配置された段階では「針間国造」,あるいはそれから分かれたとされる「針間鴨国造」というのが見られ,つまり早い段階では「針間」という表記が行われていたようです。「針間国造」や「針間鴨国造」の“縄張り”は今の播州平野のあたりなんでしょうが,それぞれがどの領域に当たるか,今ここでは確認できません。
(※「鴨」というのは後の「加西郡/加東郡」のもとになった「賀茂郡」のことなんでしょうね。そうすると「針間鴨」の方が東播地方で,「針間」の方が西播地方ということになるのでしょうか。)

一方「しかま」の方は,たとえば“いわゆる大化の改新”期に全国に「評(こおり)」が編成されたときには「志加麻評」という表記が行われていたようです。「しかま」という地名自体は播磨以外にもわりと多く分布していて,たとえば「色麻」なんて表記も行われていますよね。
「播磨」「飾磨」という表記に固定されてくるのは律令による国郡の編成が進んでいく過程のことであるようで,たとえば「多磨郡」という表記もあり得るように(よく見かけるのは「多麻」「多摩」という表記ですが),ここでは単純に「ま」という音にあてた漢字,いわゆる“万葉仮名”の一つと見た方がいいように思います。

あるいは漢字による表記以前に“語源論”的なレベルで「ま」という音自体に何らかの意味がある,という分析をすることが可能かもしれませんが,そこまでさかのぼると最早「播磨/飾磨」という枠を超えたもっと根源的な議論になってしまいそうです。
さしあたり,「播磨の一部という意味合い」を読み取るのはかなり飛躍しすぎかな,と考えます。

参考までに,こんなページ がありました。ここでは日本書紀や風土記にかなり忠実に播磨・飾磨の古代について説明しています。
[81710] 2012年 8月 27日(月)19:59:18Issie さん
択捉焼山
先ほどNHKの「7時のニュース」でやっていたのですが,択捉島の「択捉焼山」という火山がやや大きめの噴火をしているのだとか。
たとえば ここの記事 によれば今月の15日に噴火が始まったことが,17日には伝えられていたようですね。しかし,私は先ほどのニュースまで気がつかなかった。
「わが国の領土」でありながら,やはりこちら方面の情報が入りにくいのは致し方ないところでしょうか。とりあえずググってみても,初めの方でヒットしたのはここにリンクをするのが憚られるようなページばかり。かなりめくって,やっと時事通信の記事にたどり着いた次第です。

でも,「択捉焼山」って聞いたことがない。「単冠山」(←やっぱり一遍には変換されません。戦記物に詳しいIMEなら一発?)とか,「散布山」なんて山なら聞いたことがあるような,ないような…。国後島の「爺爺岳」はよく聞く名前ですが。
そこで地図を見てみる…。
改めて見ると,択捉島は特に,一列に並んだ火山の複合体なのですね。細長い島の北から南まで点々とそびえ立つ山のほとんどが火山であるらしい。そのたくさんの火山の中から最初は「焼山」という字を見つけることができませんでした。何回か島の上を往復して,やっと真ん中へんの「小田萌山」を中心とする山の塊の中に見つけました。
現実にはほとんど意味のない地名呼称ですが,島の中部を占める「択捉郡留別村」に属するようです。

参考までに 気象庁のページ も。こちらでは今回の噴火はまだカウントしていないようです。ちなみに,ロシア名は「イワン雷帝山」というそうで…。
※島の名前は「イトゥルップ島」。ほぼ日本語と同じ名前だけど,これをもっとロシアっぽい名前にするなんて話が最近あったけど,どうなるのだか。


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