お久しぶりです。
[79755]すまーとぼーい さん
当該地域に特に詳しいわけではありませんが、ネットで集めた情報を基に推測してみます。
まず、明治22年の市制並びに町村制の施行時点(いわゆる明治の大合併)の状況ですが、市区町村変遷情報を見るかぎりは、和徳町等数十町の合併により弘前市が、和徳村等9村の合併により和徳村が成立していることが分かります。
つまり、市制町村制以前において、既に「和徳」を冠する地が2つに分かれて存在していたことが分かります。
ここで、すまーとぼーいさんの言及されている、弘前市HPから引用します。
元禄9年(1696年)の家臣の城外移転に伴い、和徳村の一部が転移して作られました。江戸時代末期には和徳桝形も設けられ、青森に至る街道筋であったため、商家の屋並みも形成されてにぎわいを見せました。
つまり、元来「和徳村」であった地域の一部が武家町の移転を契機に町場化したことが分かります。この結果、「城下の和徳町」と「農村の和徳村」の2つに分かれたと考えるのが妥当でしょう。
この2つが郡区町村編制法施行時に、「中津軽郡和徳町」「中津軽郡和徳村」として規定され、以後別個の歴史を歩んだものと思われます。
以下、和徳の歴史をざっとまとめてみますと、
江戸時代 | 1696年の家臣団の移住を契機に、和徳村の一部が町場化し、和徳町と呼称されるようになる |
187?年 | 郡区町村編制法施行に伴い、城下と城外でそれぞれ「和徳町(1)」と「和徳村(2)」が成立 |
1889年 | 市制並びに町村制の施行に伴い、和徳町(1)等数十町が弘前市に、和徳村(2)等9村が和徳村(3)になる |
1955年 | 和徳村(3)等11村が弘前市に編入 |
和徳と呼ばれていた場所が3つあったことが分かります。
wikipediaの一部記事に不可解な点があるのも、これらの「和徳」を混同しているためでしょう。
私の地元である兵庫県宍粟市でも、明治の大合併時に、城下の山崎町と城外の山崎村が一緒になっていますが、このような例は全国に多々見られるのではないかと考えます。