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旧制中学データベース(中国・四国編)

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記事数=11件/更新日:2004年4月21日/編集者:YSK

旧制中学系の高校のリスト中国・四国編です。

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[17070] 2003年 6月 20日(金)14:46:18深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/31 岡山県編
まずは超老舗の岡山朝日。淵源を含め、校史が 17世紀まで遡り得るのは、ここと大村高くらいではないでしょうか。それゆえ校名の変遷も半端ではなく、「岡山学校」 時代は師範学校を統合するなど、系譜自体の複雑さも窺えます。1949年に岡山第二高女を統合していますが、一方、岡山二中は一女を統合しており、一中&二女、二中&一女という襷掛け再編が行われた訳ですね。これらに、戦後新設と思しき一宮、大安寺、芳泉の各校を加えた総選体制は数年前に解消されたらしく、伝統の朝日に対して中高一貫制を導入したらしい操山と、独自色の希求が強まりそうです。(その意味では、岡山城東高は人気処の様ですね。)

県内では県都に次ぐ要衝の倉敷ですが、中心街に位置する青陵高の創立は太平洋戦争中と意外に遅く、嚆矢は茶屋町駅近くに私立関西中学の分校として設立された天城高。これは、産業本位で発展した倉敷の街の成立が、城下町である岡山に比べ後発気味である事、岡山-倉敷の近接性に伴う通学事情から、文教政策が長らく岡山への一極集中型だった事などが作用した結果と考えますが、いかがでしょうか。天城中の立地の必然性については、倉敷と児島の両方面を見据えた折衷的な立地の様にも思えます。児島といえば、「一高」 のみで 「二高」 が見当たらない市立高校の陣容が謎ですね。

玉野市の詳しい成立過程は存じませんが、1941年創立の中学が 「玉野」 と命名された点から考えて、現在は自転車道と化した市営の電鉄線を介して結ばれていた宇野地区と玉地区は、当時既に合併済みだったという事でしょうか。新制玉野高は、1949年に 「宇野校舎」 を名乗り、翌年に 「玉校舎」 を統合しており、これが恐らく高女系ではないかと考えます。

笠岡高の公式頁によれば、1902年創立の町立女学校が県立移管を経て 「笠岡二高」 に移行、一高と統合して現校名に至る旨が記されていますが、この 「笠岡一高」 とは中学系ではないでしょうか。つい 「かんさい」 と読んでしまいそうな関西高も、公式頁の沿革欄では 「中学」 の文字が見当たらず。しかし、歴代著名 OBの面々や、天城分校が中学とされた点で、該当するのではないかと思うのですが。岡山藩学とほぼ同時期に開学された閑谷学校を継承する和気閑谷高の沿革も、高女系は絡む様ですが、中学に関しては微妙ですね。(山形県庄内の松山里仁館高は良く判らない内に閉校されてしまいました。)

県立1666)岡山朝日岡山藩学校、県第一中学区一番小学兼教員養成所、温知学校中学生養成所、
県師範学校変則中学科、岡山中学、岡山学校、県尋常中学、
県岡山尋常中学、県岡山中学、県岡山第一中学 / 岡山一高
1895)高梁県高梁尋常中学
津山県津山尋常中学、県津山中学 / 津山高校、成美高校
1906)倉敷天城私立関西中学天城分校、私立天城中学、県天城中学 / 天城高校
1921)岡山操山県第二岡山中学
1941)玉野県玉野中学
1944)倉敷青陵県倉敷中学 / 倉敷高校
私立1894)金光学園金光中学

次号予告) 広島県編
[17122] 2003年 6月 21日(土)16:05:41【2】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/32 広島県編
こうして見ると広島県も奥が深い。まず国立ですが、広島大学教育学部では高等師範と青年師範の系譜を擁する関係から、特に青師系の福山高の沿革がややこしそうですが、残念ながら詳細は不明です。

いかにも藩校系という感じの福山誠之館は、校名変更の度に 「誠之館」 の文字が出たり消えたり。その時々の歴史評価などを反映したものでしょうか。広島一中が新制移行直後に名乗った 「鯉城」 は広島城の別称かな。

県立で特異なのは呉市内の事情ですね。中心街と広の市街が分かれているとはいえ、県都でもない街に県立中学が三校も置かれた例は他に知りません。これは偏に海軍の鎮守府設置に伴い街が発展した所産かな。(舞鶴の府立中学は二校。) 案外、江田島の海兵学校を目指す生徒が集中した事情があるのかな。(以前一瞥した海軍風の制服から憶測するに、高師附属や県立一中と共に広島の三大名門とされた修道中学において、海城、攻玉社と同様の予科的な側面があったのでは、とも思えるのですが。) 三津田、宮原の二校は市立で創設されており、当時の呉の権勢が偲ばれます。

三原高は 1943年創立とありますが、49年に統合した三原桜南高 (1920年創立の三原実科高女の後身) や市立の明善高 (1928年創立の家政女学校の後身) の方が古参格である為、一般的に 「三原高 = 高女系」 と見る向きが多い様子ですね。ちなみに、統合前の名称 「浮城」 とは、三原駅北側の城址の事かな?

忠海高や賀茂北高の立地も少し意外でしたね。現在の地勢から考えると、竹原市や東広島市のそれぞれ中心域に位置しているものと勘違いしそうです。なお、詳細不明の三次高は、県立三中系ではないかと推定します。

国立1905)広島大附属広島高等師範学校附属中学 / 広島大学広島高等師範学校附属高校、
広島大学教育学部附属東千田高校
不詳)広大附福山広島青年師範学校附属中学
県立1786)福山誠之館福山藩校弘道館、福山誠之館、県福山中学、尋常中学福山誠之館、県福山尋常中学、
県第二尋常中学、県第二中学、県福山中学、県立福山誠之館中学
/ 県福山誠之館高校、県福山東高
1874)広島国泰寺官立広島外国語学校、県中学、県広島中学、県立第一中学、県立広島第一中学 / 県鯉城高校
1897)忠海豊田尋常中学、県第四中学、県立忠海中学 / 県忠海西高
1907)呉三津田呉市立中学、県立呉中学、県立呉第一中学
1914)賀茂北私立乃美舎、私立乃美中学、県乃美・w / 乃美高校
1921)広島観音県立広島第二中学 / 県芸陽高校
1924)呉宮原呉市立中学、県立呉第二中学
1925)尾道北県尾道中学、県立尾道中学 / 県尾道高校
1942)県立呉第三中学 / 広津高校
1943)三原県立三原中学 / 浮城高校
不詳)三次三次中学
市立基町広島市立中学 / 広島市立城北高校、県広島基町高校
私立1725)修道広島藩講学所、講学館、修道館、浅野学校、修道学校、修道中学
1818)呉港稽古館、欽明路校、大正中学、呉港中学
1896)広陵数理学会、研数学院、研数学院中等科、広陵中学

次号予告) 鳥取県編
[17130] 2003年 6月 21日(土)17:18:27深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/33 鳥取県編
嚆矢、鳥取西高の創立年ですが、藩校の設立年が不明なので、変則中学の設立年を記しました。当時の中学開校は、小学校の先行設置が要件とされましたが、鳥取の場合は、尚徳館漢学所を母体とする特例措置で中学開校が先行し、それゆえ 「変則」 とされるのだそうです。「県立一中」 と 「鳥取一中」 の間で再び 「県鳥取中学」 を名乗ったのは、米子の県立二中が 「米子中学」 と改称した後、鳥取東高の前身である鳥取二中の創立まで十数年の ブランクがあった為です。

その鳥取二中、当初は官立高校への移行を目論んだらしいのですが、当時の相場で数十万円規模の予算や敷地が覚束なかったのか、これは果たせませんでした。(山陰では松江に高校が設置されました。日本マクドナルド創業者の母校です。) 残る倉吉東高ですが、意外にも 「打吹」 を名乗った時代は無さそうですね。境高や由良育英高も該当例かと思うのですが、確証はありません。

県立1873)鳥取西鳥取藩校尚徳館、第四大学区 15番変則中学、第 18番変則中学、鳥取中学、
県第一中学、県立第一中学、県鳥取中学、県立鳥取第一中学 / 鳥取一高
1899)米子東県第二中学、県立第二中学、県立米子中学、米子一高
1909)倉吉東県立倉吉中学 / 倉吉一高、倉吉高校
1922)鳥取東県立鳥取第二中学

次号予告) 島根県編
[17132] 2003年 6月 21日(土)18:37:10【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/34 島根県編
千鳥城周辺のしっとりした街並みや割子ソバが旨い八雲庵に近い松江北高は、その立地からして憧憬を憶えます。新制後、地名を冠しない 「島根県立一高」 を名乗った後、(こうした命名感覚は、現在では熊本県立の一高、二高くらいのものかな。) 県立および市立の高女系を統合して松江高校となり、その後に、大橋川を学区境界として、北高と南高に分割されています。その意味では、松江南高も中学の継承校と考えるべきでしょうか。

松江中学で教鞭を執った ラフカディオ・ハーン (英国系の出身に鑑みて、誤った発音とされる 「ヘルン」 も地元では定着している様です。) ゆかりの、千鳥城周辺の史跡などを見て回った際に一瞥した解説から受けた印象として、北高の校地は松江中学からの継承と思うのですが、では南高の校地やいかに? (旧制松江高と島根大学との位置関係も気になります。)

大社高の前身は、1902年の県立三中時代に大社町に移転し、その跡地に出雲高の前身である今市高女が設立されました。広域から優秀層を集める事が大かったであろう旧制中学において、交通至便の地からの転出の必然性は何か、未だに良く判りません。二中が浜田に設立されたのは、旧出雲国域と旧石見国域との均衡に配慮した結果でしょうね。大田にも設置されたのだから、江津や益田もまた然り、と思うのですが、今のところ、設置の事実は確認しておりません。森鴎外を輩出した津和野にも設置されたのは、いかにもという感じですね。(鴎外自身は 1872年に上京しています。) ところで 「森鴎外」 にて キーワード検索をしたところ、「舞姫」 の口語訳を見つけました。これなら古文系が壊滅的だった私にも読めます。(感涙)

県立1876)松江北教員伝習校変則中学科、松江中学、県第一中学も、県中学、県第一尋常中学、
県第一中学、県立第一中学、県立松江中学 / 一高、松江高校
1880)浜田浜田中学、県第二中学、県第二尋常中学、県第二中学、県立第二中学、県立浜田中学 / 浜田一高
1898)大社県簸川尋常中学、県立第三中学、県立杵築中学、県立大社中学 / 大社一高
1920)大田県立大田中学
不詳)津和野(詳細不明)

次号予告) 山口県編
[17221] 2003年 6月 23日(月)10:30:36【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/35 山口県編
何だかんだで本州編もこれが最後となりました。長らく勘違いしたのは、豊浦高が豊浦町ではなく下関市内の立地である事。つい 「耳無し芳一」 を連想してしまう (なお、江口寿史氏の漫画 「意味無し芳一」 では、琵琶法師の代わりに全学連時代を彷彿とさせる フォーク歌手が登場します/笑) 「赤間関」 の市名を名乗った時期や、広域合併との時系列等は不明ですが、下関の街は、現在の中心部である港町と、旧長門国府を擁した長府地区に大別され (山陽線長府-新下関の滑石隧道が、両者の境界でしょうね。) 文教行政の性格上、国府側に嚆矢の中学として設置されたのが豊浦高、という事になりますかね。一方、港町側で大正年間に設置された下関中学が当初市立だったのは、まず豊浦中学ありきとする当時の序列を反映したものでしょうか。

岩国、山口の両校も豊浦高中と同様に藩校の系譜を汲みますが、詳細不明の萩高も、藩校では御約束的な名称と言える 「明倫館」 の後身だった様ですね。前史が不詳の為、ここでは、まるちゃんさんに御教示を頂いた中学設立時を以て、創立としました。萩の街も阿武川河口の三角州という特異な立地ですが、中心街への近接性から、萩駅を差し置いて表玄関と位置付けられた東萩駅の名称には、東三条と同様、何か釈然としないものを感じます。しかし、これまでの経緯から、「東萩→萩」 「萩→南萩」 と単純に スライドし得る様な話ではないでしょうけれど。

岩国高の場合、山陽線の開業で後発的に発展した麻里布地区の立地でない事は判るとして、西岩駅界隈から錦川を隔てた川西駅付近というのは少し意外でした。校名で キーワード検索を行うと、錦帯橋をあしらった校章の作図法を示した サイトがありました。柳井、防府両校の前身 (後者については今一つ確証がないのですが。) で 「周」 の字が使われている辺りは、徳山界隈の新制市名を連想しますね。

私立ながら 「山口県」 を冠する命名感覚が良く判らない鴻城高は、戦前 1938年に 「高校」 を名乗っていますが、西日本で高等学校令に基く私立の旧制高校が、甲南以外にあったという事でしょうか?

県立1792)豊浦藩学敬業館、小学、私立豊浦学舎、県立豊浦中学、山口中学豊浦分校、豊浦学校、
私立豊浦学校、県尋常中学豊浦分校、県豊浦中学、県立豊浦中学、県立長府中学、
県立豊浦中学 / 豊浦高校、下関東高
1815)山口山口講堂、山口明倫館、山口中学、県尋常中学、県立山口中学 / 山口高校、山口東高
1847)岩国藩学養老館、岩国中学、県尋常中学岩国分校、県岩国中学、県立岩国中学
1870)萩中学、県萩中学、県立萩中学 / 萩高校、萩北高
1877)防府私立周陽学舎、県立防府中学
1880)徳山徳山中学
1919)宇部宇部村立宇部中学、宇部市立宇部中学、県立宇部中学 / 宇部高校、宇部北高
1920)下関西下関市立下関中学、県立下関中学 / 下関高校
1921)柳井県立周東中学、県立柳井中学
1924)大津八箇町村組合立大津中学、県立大津中学
私立1889)山口県鴻城鴻城義塾、私立鴻城中学、県鴻城高校 (旧制)

次号予告) 徳島県編
[17222] 2003年 6月 23日(月)11:20:09【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/36 徳島県編
祝、四国上陸 (笑)

徳島界隈では、城址である徳島公園に隣接する城東高が嚆矢の中学系かと思っていたのですが、ここは高女系。城南高の位置は、徳島から牟岐線で二駅目目の二軒屋付近。城下南側を流れる新町川の存在も勘案すると、戦前は郊外地の趣が強かった様に思えるのですが、移転されたのでしょうか。創立時の系列師範学校名にある 「名東 (みょうどう) 県」 ですが、再び 「la Hejmpagho de ISSIE」 を参照しますと、1876年まで存在し、一時期は讃岐国すら含まれていたのですね。その後、80年までは高知県に属した様で、徳島における中等教育機関の確立にも相応の御苦労があったのでしょう。当時の同校が、設立区分を冠しない単なる 「徳島中学」 なる名称だったのも、その辺りの事情を示したものでしょうか。

沿革は不明ながら、城東高の様な立地を連想させつつも吉野川河畔に位置する城ノ内高は気になる存在ですね。来年から中高一貫制に移行する様で、そうなると同様の進学実績が並立する事から、城南、城東、城北、城ノ内の各校が合同選抜枠または小学区制下にあるとの推定 (それゆえ、市内全域を受験区とする市立高が有力進学校たり得ると考えた次第。) との整合性やいかに?

鳴門や阿南など、数少ない市が中学系を擁するのは判り易い話ですが、小松島は高女系らしいですね。阿南の富岡西高と言えば、内閣官房長官を歴任した後藤田正晴氏の母校として知られますが、氏が遠く離れた官立水戸高校に進学したのは、東京と宇都宮に御兄弟がいらした関係とか。その他では、やはり 「四国三郎」 吉野川流域の分布が目立ちますね。

県立1875)城南名東県師範学校附属変則中学、徳島中学、徳島尋常中学、県立徳島中学 / 徳島城南高校
1880)川島県川島中学、麻植中学 / 麻植高校
1896)富岡西県尋常中学第二分校、県富岡中学
1901)脇町脇町中学
1908)鳴門県立撫養中学
1922)池田県立池田中学
1924)阿波県立阿波中学 / 阿波一高、柿島高校
1941)城北県立渭城中学 / 県徳島二高

次号予告) 香川県編
[17227] 2003年 6月 23日(月)12:24:07深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/37 香川県編
高松高の創立が 1893年と、いわゆる 「県立一中系」 としては少し遅い様に感じます。これに代わる藩学、私学、学舎の類が存在した可能性もありますが、今のところ確証は全く無し。我が茨城県の感覚からすると、こちらが老舗ではないかと勘違いしそうな (笑) 高松一高は、市立高女系の高松二高を統合した後も、依然 「第一」 を名乗っています。この様な パターンは高女系の善通寺一高でも該当すると記憶します。ところで善通寺二高とはどの様な学校だったかな。

某常連の出身校という事で、本欄では ガセネタも絡む (笑) 三本松高と同様、高松高の前身から分家した丸亀高は、城址に面した立地がいかにもという雰囲気ですが、城を挟み反対側に位置する一見県立風の名称を擁する香川県大手前高では、丸亀高の向うを張る進学実績を誇っており、城を挟んでの熱き戦いの様なものを勝手に感じる雑魚でした。

県立1893)高松県尋常中学、県立高松尋常中学、県立高松中学
丸亀県尋常中学丸亀分校、県丸亀尋常中学、県丸亀中学、県立丸亀中学 / 丸亀高校、丸亀一高
1900)観音寺第一三豊中学
三本松県高松中学大川分校、県立大川中学 / 大川高校、白桃一高
1923)小豆島四箇村組合立香川県小豆島中学、県立小豆島中学
市立1928)高松第一高松市立第一中学、県高松第一中学

次号予告) 愛媛県編
[17231] 2003年 6月 23日(月)13:24:21【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/38 愛媛県編
赴任時の体験に基く夏目漱石著 「坊ちゃん」 における松山中学の描写では、「団子二皿七銭」 に象徴される様に、くだけた印象を伴うのですが、地元ではその辺りをどの様に感じているのでしょうね。今時ですと、松山東高の女子ボート部創設時の経緯を元に映画化された 「がんばっていきまっしょい」 の方が インパクトは強いでしょうか。川越高水泳部の名物行事を元に制作され、先週末に TVでも放映された 「ウォーター・ボーイズ」 同様、気になるところです。

1896年、西条に東予分校、宇和島に南予分校が設けられた訳ですが、私立ながら松山北高の前身が 「北予中学」 と称とた感覚とはこれいかに? あるいは移転の結果でしょうか。高輪半島の概ね北端に位置する今治の中学が、松山でなく西条の分校として設置されたのは、菊間町前後の海岸線における平坦地の少なさを反映した所産かと感じます。大洲中学が宇和島中学の分校として再編されたのは意外ですね。地形的障害を考えれば、松山に出た方が近いと思うのですが、肱川水系から南側が一律 「南予」 と明確に地域区分され得るのでしょうか。

八幡浜高や詳細な沿革は不明ながら新居浜西高も中学系ではありますが、校史からすると戦後統合した高女系、あるいは商業系の方が老舗である為、一般にはそちらの継承校として認識されている様です。

県立1828)松山東藩校明教館、松山県学校、英学舎、県立英学所、県松山中学 / 松山一高
1878)大洲共済中学、大洲中学、県立宇和島中学大洲分校、県立大洲中学 / 大洲一高、大洲高校
1896)宇和島東県尋常中学南予分校、県立宇和島中学、宇和島一高
西条県尋常中学東予分校、県西条中学、県立西条中学 / 西条一高、西条北高
1902)今治西県立西条中学今治分校、今治中学
1923)三島県立三島中学、三島一高
1941)小松私立子安中学 / 子安高校
1943)八幡浜西宇和郡各町村組合立八幡浜中学、県立八幡浜中学 / 八幡浜一高
不詳)新居浜西(詳細不明)
松山北私立北予中学
吉田町立吉田中学
私立1939)新田新田中学

次号予告) 高知県編
[17232] 2003年 6月 23日(月)14:07:54【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/39 高知県編
祝、四国日帰り卒業 (祝)

かつて徳島県域を傘下に収め、官立高校も設置された高知県ですが、中学の設置数は少な目ですね。(須崎中学は高女と ペアで、戦後同時に創立。) 見落とし例が結構あるのでしょうか。県都で県立嚆矢の追手前高と並立的な存在となっている小津高の起源は、東京日本橋の土佐藩主山内家邸内に設けられた私塾で、分校の形で初めて高知に設置されます。

追手前高の公式頁が更新され、以前の記載 データが確認できないのですが、1912年に県立二中を統合したと 自前データ・ベースにあります。しかしその二中 (小津高系) は 1901年に 「県立中学海南学校」 と改称しているので私の転記ミスかな。一方、安芸に設置された一中分校は、二中に次ぐ設置という事で、当初は県立三中を名乗りますが、その 1912年に二中に改称しています。うーん、これは謎ですね。ちなみに安芸高でも中高一貫制を導入した様です。

県立1873)高知追手前県庁内陶冶学舎変則中学、県師範学校附属変則中学、高知中学、高知尋常中学、
県尋常中学、県中学、県第一中学、県立第一中学、高知城東中学 / 高知新制高校、
追手前高校
高知小津海南私塾、海南私塾分校、海南学校、高知県私立中学海南学校、県尋常中学海南学校、
県第二中学、県立中学海南学校、県立城北中学、県立海南中学 / 海南高校、城北高校
1900)安芸県立第一中学分校、県立第三中学、県立第二中学、県立安芸中学
中村県立第二中学分校
1946)須崎須崎中学

次号予告) 福岡県編
[22968] 2003年 12月 22日(月)00:18:58faith さん
半年前の話題ですが
[17221] 深海魚[雑魚] さん

委員長の深海魚さんがお休みされているため、hmtさんを新たにお迎えして旧制から新制への移行措置について理解を深めた以外、目立った活動がない教育史分科会ですが…

私立ながら 「山口県」 を冠する命名感覚が良く判らない鴻城高は、戦前 1938年に 「高校」 を名乗っていますが、西日本で高等学校令に基く私立の旧制高校が、甲南以外にあったという事でしょうか?
この件自体は、[17252]でも書いたように、総合的にみてあり得ないこと
(同校のホームページ
http://www.y-kojohs.jp/framepage1.htm
の記述が誤っている)
ですが、同校の歴史については他の資料がなかったため、「ではどう訂正すべきなのか」が分かりませんでした。最近、遅ればせながら「山口県百科事典」(山口県教育会編)を調べたところ、以下の記述がありました。
1889年(明治22)海軍兵学校予備校の鴻城義塾として山口市に創立される。1897年(明治30)鴻城学校と改称、さらに1906年(明治39)中等学校令により中学校の認可をうけ、私立鴻城中学校と改称する。1938年(昭和13)山口県鴻城中学校と改称、現在地へ移転。
ということで、
委員長殿[17221]
私立 1889) 山口県鴻城 鴻城義塾、私立鴻城中学、県鴻城高校 (旧制)
という記述は
私立 1889) 山口県鴻城 鴻城義塾、私立鴻城中学、山口県鴻城中学
に訂正が妥当と考えます。
[24853] 2004年 2月 15日(日)00:30:43【3】faith さん
広島大学附属福山高の沿革について
ここで、Valentine's Day に相応しい華やかで timely な話題を…

[17122] 委員長殿
広島大学教育学部では高等師範と青年師範の系譜を擁する関係から、特に青師系の福山高の沿革がややこしそうですが、残念ながら詳細は不明です。
について調査したので報告いたします。(参考文献「広島大学二十五年史 包括校史/部局史」)

広島大学の教育学部福山分校が、広島女子高等師範学校と広島青年師範学校という2つの前身を持っていたため、やや複雑になっていますが、現在の附属学校の起源は私立の山中高等女学校と、戦後設立された青師系の附属学校にあります。
青師系の附属学校の改廃はかなり複雑なのですが、現在につながるものは、福山移転後に新たに設立されたものです。

もうひとつ特筆すべきことは、女高師附属の母体となった山中高等女学校は、1899年の高等女学校令公布以前から高等女学校を名乗る老舗であったことです。

1.広島女子高等師範学校附属学校の系譜

時期できごと
1888.1広島高等女学校開校(私立)
1902.4私立広島高等女学校と改称 (広島県立広島高等女学校が設立のため)
1919広島高等女学校と改称
1921.10財団法人山中高等女学校となる(財団法人認可)
1945.4広島女子高等師範学校付属山中高等女学校となる 
国家寄付により、新たに発足した女子高等師範の附属校となったもの
学徒動員により、女子高等師範附属学校としては一度も授業を行わない
まま原爆投下で校舎を消失。
1945.12加茂郡(現豊田郡)安浦町の旧海兵団跡に移転
(県立医学専門学校も同時期にここに移転)
1947.4広島女子高等師範学校附属中学校(新制)設置
1948.4広島女子高等師範学校附属高等学校(新制)設置
1950.4福山市沖野上町(現緑町)に移転
福山で中学校および高等学校新1年生を募集
中学校および高等学校の在校生は卒業まで安浦町で授業を受ける。
青師の附属学校には1年生がいない(募集しなかったと思われる)ため、
このことは、福山で両校の附属校を統合したことになる。
1951.3広島女子高等師範学校附属山中高等女学校廃止
1951.4広島大学教育学部附属福山中学校を設置
1952.3広島女子高等師範学校附属中学校、高等学校廃止
1952.4広島大学教育学部附属福山高等学校を設置

2.広島青年師範学校附属学校の系譜 (現在につながらない継承関係は省略)

時期できごと
1947.4附属中学校(新制)を福山市に設置
1948.3福山市立高等学校の一部を附属高等学校とした
1949.5福山市立高等学校の県立併合により、単独に附属高等学校を設置した
1951.3広島青年師範学校廃止にともない
附属中学校は広島大学教育学部附属福山中学校
附属高等学校は広島女子高等師範学校附属高等学校
になる

ややこしいですが、各学校ごとに見ると、以下のようになると思います。
下記中、たとえば 「2,3…福山」は、2年生、3年生が福山にいたことを示します。

時期学校学年備考
1950.4青師附属中学校2,3…福山
青師附属高等学校2,3…福山
女高師附属中学校1…福山, 2,3…安浦
女高師附属高等学校1…福山, 2,3…安浦
1951.4広大附属福山中学校3…福山前年まで青師附属
女高師附属高等学校3…福山前年まで青師附属
女高師附属中学校1,2…福山, 3…安浦
女高師附属高等学校1,2…福山, 3…安浦
1952.4広大附属福山中学校1,2,3…福山前年まで女高師附属
広大附属福山高等学校1,2,3…福山前年まで女高師附属

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