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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[60635]2007年8月17日
右左府

[60635] 2007年 8月 17日(金)01:13:54右左府 さん
渟代・渟城・野代・能代
[60605] 北の住人 さん
[60630] オーナー グリグリ さん

能代はかつて「渟代(ぬしろ)」と呼ばれていました。この名が初めて文献上に現れるのは、日本書紀の斉明天皇四年の条で、阿倍比羅夫が水軍を率いて「渟代」に着き、蝦夷と交流したと記されています。

その後、「渟代(ぬしろ)」の名は表記・音共に変化し、「野代(のしろ)」となりました。続日本紀には宝亀2年に渤海の使節団が「野代湊」に漂着したと記されています。(以上、旧能代市HPより)

やがて近世になると、野代は木材などの集散地として、また日本海の交易拠点として発展していきます。その頃から、野代の町では大火が相次ぐようになりました。すると、「これは『野代』という地名は『野に代わる』と繋がり縁起が悪いからだ。これに代えて『能(よ)く代わる』と読める『能代』にすれば縁起が良い。」ということで「能代(のしろ)」の名が生まれました。


自治体名としては、1889年の町村制施行時、能代町に「能代港町」が置かれ、1940年榊村・東雲村との合併により「能代市」が誕生、その後周辺町村を編入していきます。今回の大合併では市名としての「能代」消滅が危ぶまれましたが、最終的には再び「能代市」が誕生し今に至ります。このように、自治体名では一貫して「能代」ですね。


かつて使われた「渟代」「野代」の地名は、現在では消滅しています。しかし、「渟代」から生じたと思われる「渟城(ていじょう)」の名が、幼稚園・小学校の名前として、また苗字として今も生きています。

今年の3月まで市中心部には「渟城第一小学校」「渟城第二小学校」「渟城第三小学校」があり、これらは纏めて「渟城三校」と呼ばれていました。しかし、今春この渟城三校は二校に再編され、「渟城西小学校」「渟城南小学校」が置かれました。(事実上は渟二小の渟一・三小への分割編入です。)
この際、新校名に対し寄せられた市民の要望には「『渟城』の名を残してほしい」というものが数多くあり、引き続き校名に用いられました。このように、「渟城」は校名として住民にかなり定着しています。

幼稚園では「渟城幼稚園」が市の中心部にあり、そこの園長さんの家の苗字が「渟城」です。須崎さんのホームページによると、「渟城」さんは全国でここ1軒だけのようです。

ただ、現在この「渟城(ていじょう)」は上記用例以外には用いられておらず、したがって単独で地名としては使われません。


ちなみに、「ぬしろ」の由来ですが、実は一年前まで私も知りませんでした。というのも、能代市に関する本を読んでも、市のHPを見ても、角川の地名大辞典を見ても、「能代の由来は渟代である」といった内容の文しか書かれていないんですよね。
一年前の高校時代、文系クラスの友人から帝国書院「地歴高等地図」を譲ってもらったのですが、その北日本の地図には「能代」など市町村名の一部に「アイヌ語由来の地名」として赤線が引かれてたんです。そして、「能代」の字の脇に「『野に続く路』の意」と。これが「能代」の根本的な由来のようです。


……何だか後半は同音異字の話題からずれてしまった感もありますが、折角なので参考までに載せておきます。^^;)


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