[98751] 伊豆之国さん
私がこの「舂米」の名を知ったのは、「明治の木造校舎」について書かれた本とかの記事を見て、「旧・舂米学校」というのがあったのを見たことからでした。「明治の木造校舎」というと、その代表格と言えば、やはり信州松本の「開智学校」。「超・ご当地」の伊豆松崎の「岩科学校」は、二昔以上前に見たことがあり…
本筋の難読地名から離れてしまいますが、この記事に触発されて、
明治の小学校建築 を開いてみました。
まだ日本が貧しかった 明治初期ですが、松本の開智学校だけでなく、塔屋のある洋風建築が各地に建てられ、その多くが 21世紀の今日まで保存されていることを知り、教育を重視した明治の人々が、人材育成に投資した意気込みを察することができました。
塔屋から響いたと思われる授業開始・終了の合図はどんな音だったのでしょうか?
第二次大戦後に流行した電動式のウェストミンスター・チャイムによる報時システム。
それを遡ると、ドン【午砲】や
半鐘 だけでなく、太鼓も多用されたようです。
上記引用資料では、つきよね学校など 10校以上について、「太鼓楼」の記載があります。
山梨県旧増穂町にあった「舂米学校」…石橋湛山元首相や、将棋の米長邦雄元名人も、この増穂小学校のOBだったそうです。
日ソ国交回復を実現した鳩山一郎首相の退陣後、1956年暮れの自民党総裁選挙で選ばれた石橋さん。
首相就任後間もない発病のために、在任期間わずか65日で退陣しましたが、印象を残した政治家でした。
参考
経済を表看板とする首相としては、大蔵省出身の池田勇人が有名ですが、石橋湛山は民間(東洋経済新報)出身の経済人でした。
石橋湛山の病気退陣がなければ、その後の岸内閣、池田内閣による官主導の政治への流れは、現在と違う姿へと変っていたのではないかという思いがあります。
出典
これだけを考えても、忘れることのできない人物でした。
石橋湛山と山梨県 旧・増穂村
つきよね学校 との縁は、身延山系統の僧侶であった彼の父との関係に基づくものでした。