[103921]の西成郡の兵営に関連して新たな知見が得られたのと共に、『日本帝国民籍戸口表』「各地方郡市戸口表」における現住人口算出処理の間違いを見つけてしまいました。
まず『日本民籍戸口表』「各地方郡市戸口表」と『町村別戸口表』『戸籍表』を突き合わせることにより、大阪府における[入]陸海軍在営艦者の数値は以下の変遷としてまとめられます。
郡区 | 明治22年 | 明治23年 | 明治23年当時の在営隊 |
大阪市東区 | 4,020 | 3,970 | 歩兵第八連隊・歩兵第二十連隊・砲兵第四連隊・輜重兵第四大隊・軍楽隊・大阪憲兵隊 |
大阪市南区 | 4 | 0 |
大阪市西区 | 0 | 173 | 騎兵第四大隊 |
西成郡 | 112 | 0 |
大阪府全体 | 4,136 | 4,143 |
明治22年と明治23年で兵営人員に変化はほとんどありません。それ以前の
明治20年の段階では、すべての兵営は大阪市東区法円坂、大阪市東区大手前にありましたが、この段階では大阪憲兵隊、騎兵大隊の兵営の記載がありません。調べたところ、大阪憲兵隊(それ以前は東京の憲兵隊の分遣隊扱い)と騎兵第四大隊が大阪府内に発足したのは明治22年。この内大阪憲兵隊に関しては、明治22年に大阪分遣憲兵大隊が大阪憲兵隊へと昇格したことによる名称変更で、その司令部が大阪市南区順慶町に置かれており、明治22年の南区の4人は大阪憲兵隊の在営人員そのものと思われます。
次に騎兵隊について改めて調べたところ、騎兵大隊自体が設置されたのは明治21年のことで(
明治21年2月28日の官報)、発足当初は大阪に設置されませでした。第四師団配属となる騎兵第四大隊の場合は、まず東京で訓練され、その後明治22年11月28日にようやく大阪へ移転となったようです。そして遂に
明治22年12月6日の官報に以下の文章を見つけました。
○騎兵中隊移転 第四師団騎兵第四大隊第一中隊ハ去月二十八日大阪府東成郡清堀村新築騎兵営ヘ移転セリ(陸軍省)
ん?西成郡ではなくて東成郡?これはどういうこと?
一応明治22年の西成郡と東成郡の出寄留情報は以下の通りです。西成郡川崎村には堀川監獄分署があり、無籍在監人13名と囚人及徴治人3,101人が居住していましたが、その分を除しても差分として112名の陸海軍在営艦者がいることが分かります。一方の東成郡の方は町村戸口表の出入寄留情報だけで現住人口が計算可能で、監獄も兵営地も所在者がゼロです。
出入寄留等 | 西成郡 | 東成郡 |
本籍人口 | 139,210 | 64,043 |
[出]外国行 | 17 | 13 |
[出]他府県出寄留 | 2,406 | 667 |
[出]他郡市出寄留 | 3,080 | 1,307 |
[出]他町村出寄留 | 1,297 | 414 |
[出]陸海軍在営艦者 | 146 | 68 |
[出]囚人及徴治人 | 273 | 158 |
[出]失踪 | 2,264 | 1,516 |
[入]他府県入寄留 | 14,103 | 5,514 |
[入]他郡市入寄留 | 6,707 | 3,408 |
[入]他町村入寄留 | 1,297 | 414 |
[入]無籍在監人 | 13 | 0 |
[入]有籍囚人及徴治人 | 3,101 | 0 |
[入]陸海軍在営艦者 | 112 | 0 |
現住人口(「各地方郡市戸口表」掲載) | 155,060 | 69,236 |
調べたところ、町村制施行以前は、清堀村は西成郡所属でしたが、明治22年4月1日に清堀村単独で町村制を施行した際、西成郡から東成郡へと所属が変更されたことが判明しました。明治20年の
『陸軍省統計年報』を調べたところ、この段階で「陸軍所用見込地」として西成郡清堀村字小橋山・宰相山12115坪を取得しており、この土地が2年後の騎兵営地となったわけです。
よって私の出した結論としては、明治22年12月31日時点で西成郡に加算された兵員112名は、陸軍第四師団騎兵第四大隊第一中隊であって、東成郡堀成村に兵営していたが、「各地方郡市戸口表」の担当者が堀成村は西成郡所轄のままと勘違いして、うっかり西成郡の現住人口に加算してしまったのだろうということです。
「各地方郡市戸口表」における東成郡/西成郡という誤りは、姫路市/飾東郡の誤りに続いて2つ目となります。
なお当初西成区の兵営地として自分が考えていた天保砲台ですが、明治21年には天保山砲台周辺の土地は民間の遊園地となっていますので、明治21年中に軍用地から民間の土地になったと思われます。
【追記】
『大阪府全志』の記述により、清堀村内の小字名を「小構山」から「小橋山」に改訂。