鹿老渡についていろいろ調べましたのでまとめます。
まず
国土地理院地図を見ると、
堀切橋は幅20メートル程度の水路にかかっている橋です。google mapの
ストリートビューで見ても、かなり両岸が近いようです。
『芸藩通志』「巻之三十八 安芸郡三」の
鹿老渡湊」の項目によると
鹿老渡湊 倉橋島にあり、南北二港ありて、南は下浦とて東北風を防ぎ、北は日浦とて西南風を防ぐ、享保年間に始て家を移し市を成す、今一聚となれり、或は云、からうとは韓泊の義を訛り称せるなるべしと、此地周防洋の口なれば、古韓船繋泊せることもありぬべし、鹿老渡の西、財崎、室尾にも埠頭もあり、
とあります。『芸藩通志』は広島藩の地誌で、文政8年(1825年)に完成したとされておりますが、その『芸藩通志』「巻之三十六 安芸郡一下」に
倉橋島の地図」が掲載されています(右側が南)。これを見ると、鹿老渡の部分は半島になっていて、水路が描かれていません。
国立公文書館所蔵の
天保国絵図安芸国(天保9年(1838年))では、「かろうと」と書かれていますが、同じく水路は描かれていません。
また伊能大図彩色図の「
伊豫 諸島 安芸 広島」を見たところ、こちらでも水路が描かれていません。伊能が瀬戸内の山陽道川を測量したのは1806年(文化3年)のこととされております。正直国絵図が正確に地形を反映しているとは思いませんが、伊能図は海岸線だけは正確に測量しているはずですので、このことから19世紀前半では、おそらく鹿老渡は倉橋島と陸続きであったと推測されます。
一方スタンフォード大学のサイトで閲覧可能の、陸軍参謀本部作成の
五万分一地形図(大正14年(1925年)修正版)では、既に鹿老渡の堀切橋が完成しているようにみえます。
『広島県史 第1編』(大正10年(1921年))に収録の
安芸国全図でも、既に水路は存在するようにみえます。
ただ解像度の低い大阪毎日新聞『日本交通分県地図』の
其二 広島県(大正12年(1923年))などでは水路は確認できません。
いくつか調べたところ、『日本警察彰功録 下巻』(明治24年(1891年))の
一節に
広島水上警察署巡査平田大己巡回シテ宇和木浦ニアリ就テ之ニ協力ヲ求メ共ニ又鹿老渡ニ向フ
之ヲ探ルニ二賊初メ会場ノ争闘ヲ知ラズ暁天残灯ノ下ニ酒杯ヲ傾ケ献酬
時ヲ移ス適々海辺土民ノ騒擾スルヲ聞キ始メテ党与ノ就縛シタルヲ知リ匆々樓ヲ出テ鹿老渡堀切ニ向テ逃走シタリ
然ルニ村長岩本孝祐ハ二賊ノ逃路ヲ絶チ嚢中ノモノトナシ容易ニ捕獲セン
と「鹿老渡堀切」という言葉が見つかりました。つまり19世紀末には「堀切」が存在したことになります。
以上から推測するに、堀切の水路が作られたのは19世紀のこと。明治維新後は呉に海軍が置かれた影響で鹿老渡での自由な往来が阻害されたので、おそらく鹿老渡が最盛期を迎えた幕末頃に掘削されたのではないかと推測します。
『倉橋町史』、あるいは最近出版された『呉市史』関連の書籍を読めばもう少し絞れるかもしれませんが、自分の身近ではちょっと手続きがめんどくさい図書館(コロナ以降事前予約が必要になってしまった)にしか見当たりませんでした。
【追記】愛媛県宇和島市の日振島は、スタンフォード大学公開の地形図では、
昭和9年(1936年)の時点において南北に分かつ水路もなく南北を繋げる道もありません。おそらく道を作ったときに下を通る水路も掘られたのでしょう。長崎県対馬市の対馬、岡山県瀬戸内市の長島、日振島、倉橋+鹿老渡島の4島に関しては、全部人為的な水路があとから作られたようで、それが国土地理院公開の島面積合算にそのまま反映されているようです。