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キーワード「馬返」を含む記事が1件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[1065]2002年3月9日
Issie

[1065] 2002年 3月 9日(土)12:36:38Issie さん
Re:足尾町の謎
なぜ「栃木県」かといえば,理由はきわめて簡単で,
足尾が古代の「毛野国」分割以来「上野」ではなく「下野」の(上)都賀郡に属しているからです。
にもかかわらず上野の「群馬県」に属していたなら,県勢(権勢?)が云々されることがあるかもしれませんが(でも,こんなことはまずありません),栃木県なら至極当たり前の話です。

ではなぜ「上野」でなく「下野」なのかというと,こちらは
> 渡良瀬川を下るより日足峠を越えた方が通行は楽だった
このせいかな?
なにしろ渡良瀬川筋の途中にダムが作れてしまうくらいの峡谷だから。
もっとも江戸時代初めの慶長年間に銅山の開発が始まるまではほとんど何もない“ただの山奥”だから,ここだけわざわざ「下野」というのはやはり少し奇妙ですね。
1つ考えられるのは,毛野国を分割するにあたって,金精峠-白根山-皇海山という“わかりやすい分水界”が使われているけれども,渡良瀬川が平野に出てくる桐生周辺(勢多郡・山田郡)は,利根川流域と地域的に一体であるので「上野」の方に属することになった。けれども渡良瀬川最上流の足尾地域は,さっきの分水界の東側に当たるし,桐生方面とのつながりは弱そうだから,「都賀郡」で,結果として「下野」になった。
こんなところかな。

毛野の上下分割に当たって,足尾銅山の存在は全く関係ありません。
先の通り,銅山の開発が本格的に始まるのは江戸時代になってからです。
江戸時代を通して足尾は幕府直轄領でした。1つは,同じく都賀郡に属する日光の裏山であるということ,もう1つは銅山開発のためでしょう。
おそらくは「日光奉行」の管轄であったのではないかと思います(要確認)。
明治維新後,日光奉行所改め「日光県」の管轄となり,その後の曲折を経て「栃木県」となりました。

1912年に足尾線が開通するまで,足尾の銅は日足峠を越えて日光から運び出すのが“順路”でした。渡良瀬川は鉱毒を垂れ流すことはできても,銅を運び出すのは無理だったのでしょう。
かつて,日光駅から“いろは坂”下の馬返まで走っていた路面電車の最も基本的な役割は,日足峠を越えて運ばれ清滝の精錬所で生産された銅を日光駅まで運び出すことにありました。
足尾線ルートがメインになればこの路面電車は不要となり廃止されてしまいます。自動車渋滞でニッチもサッチも行かなくなるのは,はるか後のことですね。


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