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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[98073]2019年6月28日
hmt

[98073] 2019年 6月 28日(金)16:06:47hmt さん
パリ講和会議 100周年
G20サミットということで、世界の政治家が大阪に集っていますが、100年前の 1919/6/28には、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」が開かれており、ベルサイユ条約が結ばれていました。

第一次世界大戦については、開戦100周年 2014/7/28の記事[86112]に書いたことがあります。
今日は、開戦の発端になった「サラエボ事件」の 105周年でもあります。

それはさておき、パリ講和会議の中心人物は 米国 28代大統領 ウッドロウ・ウィルソン でした。
プリンストン大学の学長経験もある政治学者で、誰かさんとは大違いの学者大統領。

欧州政治家の旧外交により始まった世界大戦に対して、大統領は 勝利なき講和 を唱え、当初は中立。
Uボート【潜水艦】による英国の豪華客船ルシタニア号への無警告攻撃により、米国市民を含む多数の犠牲者が出ました。これが英国の大々的な宣伝に利用され、米国世論は反ドイツになりました。

米国が参戦した後も、ウィルソン大統領は 和解の平和 姿勢。
1918/1/8 秘密外交の撤廃・民族自決などを含めた 14ヶ条の平和原則などを公表。
1918/9/25 ブルガリアが脱落して落ち目のドイツ大本営は、降伏の道を探ってアメリカと接触 9/28。
そして ドイツも遂にウィルソンの和平勧告に応じ休戦協定が結ばれ、1918/11/11 平和が訪れました。

このように、ウィルソンが第一次世界大戦の終結に果した役割は 極めて重要でした。
しかし、連合国側諸国が 彼と同じような考えを持っていた訳ではありません。
パリ講和会議に集まったのは 33ヶ国。政治的混乱のロシアは呼ばれず。

1919/1/18 開会宣言。ウィルソンが望んだ会議の公開は 英仏の猛反対で実現せず、秘密会議。
2/14に国際連盟規約の草案が承認されました。
ウィルソンは、国際連盟創設の功績によって、1919年のノーベル平和賞を受賞しました。

会議の中心である四人会議(米英仏伊)の争点は、フランスの対独警戒心からの領土要求。
なんとか妥協が成立して、講和条約案がまとまり、4/14 ようやく敗戦国ドイツが招請状を入手。
最終的にはドイツも条約を受諾することになり、冒頭に記したように、6/28にベルサイユ条約締結。

チェコスロバキアへのズデーテン割譲を拒否したオーストリアに対しては 修正案が提示され、1919/9/10 サン=ジェルマン条約締結で決着しています。
そして、1919/11/27 ブルガリアとの ヌイイ条約、1920/6/4 ハンガリーとの トリアノン条約、1920/8/10 オスマン帝国【トルコ】との セーブル条約により、連合国側が同盟国側と講和して 第一次世界大戦にケリをつける パリ講和会議 も終結しました。

政治学者のウィルソンには、講和会議よりも大きな政治構想・国際連盟を推進する仕事があり、講和会議小委員会の一つである国際連盟委員会の委員長には、自ら就任していました。

この委員会で、日本全権の牧野伸顕【大久保利通の次男】は、国際連盟憲章に人種差別禁止規定を盛り込むことを提案しています。
しかし、白豪主義を維持していたオーストラリアの強い反対があり、米国上院も内政干渉にあたる人種差別撤廃提案が通れば、条約を批准しないと反発し、賛成多数にもかかわらず議長権限で否決されました。

このように、ウィルソンは 期待した人を失望させながらも、国際連盟成立のためには 様々な譲歩をして、パリ講和会議の各条約を成立させ、国際連盟も成立の運びとなりました。

しかし、米国上院は、国際連盟規約10条【加盟国が侵略を受けた際、米国を含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負う】が、米国独自の中立主義【モンロー主義】に抵触すると反発。
留保条件をつけて上院の同意を得るべきだとの譲歩にも、大統領は応ずることなく、上院の批准が得られない米国は、言い出しっぺでありながら、国際連盟に参加することができませんでした。

パリ講和会議後の日本。
1920年代には「それなりの成果」のあった国際連盟を崩壊させる契機となった満州事変。
「ベルサイユ体制の打破」を唱えるドイツのヒトラーと共鳴して、第二次世界大戦。そして敗戦。
欠点はあったにせよ、ウィルソンの理想に、もっと近づけていたら…と思う 100年前の歴史でした。


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