[108132]かぱぷうさん
6日間入れずに帰宅。家に帰って臭くないか家族に聞いたら「別に」とのことでしたが、本当にそうだったのか…
私は弟の方が先に鉄道趣味に目覚めており、現在は近畿地方の某鉄道会社に勤務しています。その弟が中学生の時、初めて18きっぷで西日本方面に旅したのですが、母親が18きっぷを購入したのがJTBで、その社員が「(18きっぷは)途中下車できない」と説明したのです。このため、弟は夏にもかかわらず風呂やシャワーもなしに駅寝しながら旅を続け、帰ってきた時は物凄く臭かったのを覚えています。
私もまた、同じ年に初めて18きっぷを使って会津若松まで行きましたが、JTB社員の話を信じていて途中下車せず、1時間ほどしかなかったのですが、駅の中を写真撮りながらブラブラするだけで引き返しました。その後、会津若松には2011年のオフ会で行けるはずだったのが、1週間前からの大風邪で断念ということになってしまいました。果たして、会津若松にはいつになったら行けることやら…。鶴ヶ城など、見たいとは思いますし、会津鉄道や野岩鉄道、只見線にも乗りたいですが。
自由席の大垣夜行や新宮夜行は早くから並んでいました。18きっぷのシーズンでも多分1時間前くらいから並べば座れたんですけど、進行方向窓側を確保したかったのです。大垣夜行の東京発は大混雑のイメージがあり乗らずじまいでした。
私が初めて大垣夜行に乗ったのは、「ムーンライトながら」になる前年の1995年4月でした。まず甲府へ行き、身延線で富士まで南下して、沼津から大垣夜行に乗ったのですが、予想していたのと大きく違う大混雑で、ずっと立ちっぱなしの状態。大垣まで行こうと甘く考えていましたが、豊橋で途中下車し、飯田線を北上する(さらに篠ノ井線、信越本線、高崎線を経由して帰宅)ルートに変更しました。
「ムーンライトながら」に変わってからは、96年に関西方面へ行く時、97年に鹿児島へ行く時に乗車し、また2006年の金沢オフの帰り、福井を経て名古屋へ出て、当時付き合っていた友人と会った後、上りの「ながら」で帰宅しました。
新宮夜行には、97年の鹿児島からの帰りに乗りました。
大学卒業を目前にして、鹿児島(当時の曽於郡大隅町)の親戚の家に行くのと同時に、相撲雑誌の文通コーナーを通じて3年弱前から文通していた国分市(当時)の5歳下の女性に会おうとしたのです。
ところが、事前に電話しても変な反応はなく、約3週間前に初めて行った韓国の土産も持って行ったのに、いざ鹿児島入りしてから、「私会うなんて言ってません」などと無下に断られ、母親にもきつく言われてしまいました。
やむなく、翌日に大隅町を後にした後、鹿児島市へ出て市内観光をし、夜は天文館で自棄飲みして、その翌日に肥薩線・鹿児島本線経由で博多に向かいました。地下鉄で赤坂まで行き、長浜ラーメンを食べてから博多駅まで歩いたかと思います。そして小倉へ移動し、寝台特急「なは」で三ノ宮へ向かいました。
三ノ宮に着いてから、普通列車で(開業間もない)甲南山手へ移動し、そこで朝食をとったかと思います。その後、神戸市から芦屋市に入り、2年前にボランティアで歩き回った一帯を通り、西宮市境に近い大東町へ。ここは1年前にも歩いていましたが、震災直後は車で営業していた郵便局が、96年には仮局舎が建ち、97年には新局舎になっていました。また、大東町にあった、足繁く通ったマンションは、96年には残っていましたが、97年には壊されていました。
その後、打出駅から阪神電車で梅田に出て、新梅田シティに行きました。眺望を堪能した後、また例によって三番街に行き、それから難波へ。食事をどちらで取ったのかは覚えていません。
そして難波から南海電車で和歌山市へ行き、和歌山駅へ移動して、新宮夜行に乗ったのです。新宮ではあまり時間がなく、すぐにディーゼルに乗り換えているので、結果、和歌山県の経県値は「接地」となっています。ちなみに奈良県も「接地」ですが、高校の修学旅行の2日目、鳥羽から乗った近鉄特急を大和八木で降り、近くの駐車場まで100メートルほど歩いてはいるものの、たったそれだけで買い物などもしていないので、「接地」としています。
新宮では30分ぐらいしかなかったように記憶しています。すぐに尾鷲方面行きの列車に乗り、多気か松阪から「みえ」号に乗って名古屋まで行ったかと思います。そして名古屋からは東海道線に乗り、沼津からは御殿場線の御殿場行きに乗車。御殿場では中学生の時、家族と箱根へ2回行った際に、駅前で売っていたたこ焼きが美味かったので買ったのですが、当時は関東風だと思っていましたが、97年には関西風に変わっていました。最初から関西風だったのを、中学生の時は気が付かなかっただけかもしれませんが…。
そして御殿場から国府津行きに乗り、東海道線、山手線(または京浜東北線)、常磐線に乗って帰ってきました。
9日間の旅でしたが、会えると思っていた人には会えず、辛い記憶が残りました。帰った後、件の女性からもらっていた手紙は全部、自宅近くで(当時はまだ許されていた、ゴミ処理と思われる)ドラム缶の中で燃え盛っていた火の中に投げ込みました。
【1】「ほとんど」→「ずっと」でした。