[77092] YTさん
慶応2年でいきなり人口1万5000人分人口が増えていますが、これは屋代郷3万石が加増されたからで、維新後は再び置賜郡オンリーの、表高14万7248石、内高28万4748石、現高6万3269石、総人口12万9753人に減らされます。
「屋代郷」は現在の東置賜郡高畠町の一部ですね.上杉領になったり天領になったり,しばしば所属が変わったところです.慶応2年以前の変遷は引用された表には反映されていないように見えますね.
直江兼続は家臣を帰農させることなくすべて奉公人として雇い続けたというのが美談とされていますが、米沢藩の歴史をひも解くと、むしろこのことが江戸時代を通じて米沢藩の人口停滞の原因となる重荷になったように思えます。
実際には下級武士の中には原方衆として半士半農となった人たちも多いようですね.ウコギの生け垣が見事な
芳泉町の「武家屋敷」もそうした集落の一つです.
いずれにしても,置賜在来の農民にとっては重い負担だったでしょうね.
置賜地方の言葉をみると,伊達氏以前からの「本来の」置賜言葉と,上杉氏によってもたらされた越後由来の言葉が区別されるように思います(上村良作氏著「米沢方言辞典」(桜楓社,1977)ではそのような考察はなされていませんが).それぞれの言葉の話し手の間には,様々な交流とともに何らかの断絶もあったのではないか,と想像します.
しばらく前の市の広報に,米沢言葉ではない置賜言葉で書かれた大見出しがあり強い違和感を覚えたのですが,昭和の大合併で加わった新市域の方々からみれば,おそらくそちらこそが正当な置賜語なのですね.