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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

二度上に 名残をとどめる 草軽電鉄

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記事数=4件/登録日:2004年5月8日/編集者:special-week

長野県軽井沢と群馬県草津。誰もが知っている、超有名別荘地と温泉地をつなぐ鉄道が昔は存在していた。長野県軽井沢から群馬県草津までの道のりは、決して遠いもんではないが、起伏が激しい地形であり、その鉄道敷設はかなりの難工事だったようだ。現在、草軽電鉄は存在しないが、その面影をたどることは可能だ。ちなみに、標題は長野原町に伝承されている“長野原かるた”の「に」の札によるもの。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[9216]2003年2月14日
special-week
[9261]2003年2月15日
深海魚
[27566]2004年4月20日
夜鳴き寿司屋
[28030]2004年5月7日
Issie

[9216] 2003年 2月 14日(金)22:06:11【1】special-week さん
群馬研究3
 群馬県吾妻地域で今、もっとも元気があるのは言わずと知れた草津町です。しかし草津町も観光の多様化に対応するため、いろいろな施策を考案中です。吾妻線には、温泉がたくさんあるためうかうかしていたらその座からあっという間に転落しかねません。
 そこで草津町は北軽井沢を擁する長野原町、リゾート地として名高い嬬恋村、名所のある六合村などと連携する動きをみせています。当然この連携には合併することもにらんでのことだとは思います。
 話は飛びますが、以前紹介した長野原かるたの中にこんな札があります。
「に 二度上に 名残をとどめる 草軽電鉄」
ここに出てくる草軽電鉄というのは、信越線の軽井沢駅と接続している新軽井沢駅から草津までを結んでいた鉄道です。かるたに出てくる二度上(にどあげ)というのは新軽井沢駅から7つ目の駅で、高低差の激しい山道だったために2度のスイッチバックで斜面を上るという地形的特長から命名された地名です。草軽電鉄は昭和37年にモータリゼーションの進展とともに姿を消しました。
 今にして思えば、この鉄道は時代を先取りし過ぎた感じが否めません。今だったらさしずめかなり人気のある路線になったのではないでしょうか。軽井沢と草津という二大リゾート地を結ぶのですからある意味「夢の鉄道」です。実際は、そんなロマンとはかけ離れていたのかもしれませんけども。路線復活はあり得ないでしょうか?草津の温泉組合と沿線自治体および観光協会が一致団結すればなんとかなるんじゃないのかなあ。

 連携を模索している吾妻地域ですが、合併したら庁舎はどこに置かれるのか?考えるのはなかなか難しいです。町村は縦に長いのにもかかわらず、鉄道網は横に貫いている状態。普通だったら長野原町役場あたりが有力視されます。
 個人的な見解では、長野原草津口駅よりさらに西へ2つ行ったところに羽根尾という駅があります。ここは西吾妻エリアでは交通の要衝として知られています。長野原かるたでも「さ 三国道 結ぶ羽根尾の交差点」という札があるように3つの国道が羽根尾で結ばれています。それなので、このあたりが新庁舎としては適していると思われます。
 問題は、吾妻線のほとんどが長野原草津口停車で、それより西方にまで行く電車の本数が少ないこと。しかも長野原草津口以西は、単線だし・・・
[9261] 2003年 2月 15日(土)14:42:40深海魚[雑魚] さん
五能線の謎
本編は殆ど観ないくせに、オープニングの映像と主題曲には興味津々のNHK大河ドラマ。先刻、歴代
番組の主題曲を集めたCDを聴いていましたが、主役の三田佳子さんが女医を演じた 「いのち」 では、
舞台が津軽という事で、先日、奥羽線川部付近から雪原を隔て望んだ岩木山の印象を具象化した様な
哀しい旋律の ピアノ・コンチェルトが見事でした。(ちなみに、三田さんの夫役は伊武雅刀さんでしたね。
伊武さんというと、どうしても 「スネークマン・ショー」 の印象が払拭できない雑魚でした。)

その車窓風景でふと思った事。東能代で合流する五能線は、(架線は直ぐに途切れると思いますが。)
奥羽線の車中から見る限り、まるで電化されているかの様な印象を受けます。要衝性の高い能代まで
直通運転を意図した結果の産物なのか、或いは入替えに伴い電気機関車が入線する事もあったのか、
結構謎ですね。電化時期が比較的新しい区間を含め、電化線から分岐した非電化線が少しの間だけ
「電化」 されている箇所は比較的多い様に感じます。(最強事例は、松川における旧川俣線かな。)

[9253] special-week さん
駅名に草津と付いていることから近いと思われる方が多いようですが、
長野原駅に 「草津」 の名がついたのは、ここ十年来程度の話でしたか。「最寄り駅」 と言うよりは
「玄関駅」 と解釈するのが相当でしょう。近鉄の湯の山温泉が感覚としては近いでしょうか。

草軽電鉄が吾妻線に客を奪われたとは到底思えないんですよね
吾妻線 (旧長野原線) と草軽電鉄 (草軽軽便鉄道) の関係を時系列で見ると、以下の様になります。
電鉄が廃止された直接原因は、夜鳴き寿司屋さんの言及通り台風による橋梁流失ですが、吾妻線の
開業に伴う草津温泉への速達化も、少なからず作用している様ですね。

1915) 電鉄/新軽井沢-小瀬温泉が開業。
1917) 電鉄/小瀬温泉-吾妻が開業。
1919) 電鉄/吾妻-嬬恋が開業。
1924) 電鉄/電化。
1926) 電鉄/嬬恋-草津温泉が電化開業。(全線開通)
1945) 国鉄/渋川-長野原が日本鋼管の貨物専用線として開業。のちに渋川-岩島で旅客化。
1946) 国鉄/岩島-中之条で旅客化。
1952) 国鉄/長野原-太子が貨物専用線として開業。
1954) 国鉄/長野原-太子が旅客化。
1959) 電鉄/嬬恋-上州三原の吾妻川橋梁が台風で流失。
1960) 電鉄/新軽井沢-上州三原を廃止。
1962) 電鉄/全区間廃止。
1967) 国鉄/渋川-長野原が電化。
1970) 国鉄/長野原-太子を休止。
1971) 国鉄/長野原-大前が開業。長野原-太子を廃止。

改めて見ると、現在の万座鹿沢口駅周辺における、国鉄と電鉄の現役邂逅は無かった様ですね。
万座鹿沢口駅は文字通り、万座温泉や鹿沢温泉への玄関駅と位置付けられ、特急も折返すので
判るのですが、普通列車が一日五便顔を出すだけの大前に至る必然性とは何でしょうね。嬬恋村
役場への到達性を重視したのか、あるいは上田方面に延長を意図した結果か。ちなみに吾妻線は
羽根尾駅以遠が終点大前を含め、完全な一閉塞区間となり、特急折返し駅である万座鹿沢口駅も
一面一線構造とう特異な状況になっています。

[ CM懐古 No.32/缶チューハイ? ]
「タコがねぇ、タコが言うのよ。」 と、田中裕子さんが独特のアンニュイな感じでぽつりと一言。確か
缶チューハイのCMと記憶するのですが。
[27566] 2004年 4月 20日(火)19:33:33夜鳴き寿司屋 さん
Re:旧長野原線や草軽鉄道について何かご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてくださいませ
[27540]special-week さん

 旧長野原線や草軽鉄道について何かご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてくださいませ

 私の手許に、旧長野原線や草軽鉄道について書かれている宮脇俊三編著「鉄道廃線跡を歩く」の最初の巻(JTB刊、1995年出版)から、一部付け加えて紹介します。

 吾妻線は現在では大前に線路が延びておりますが、当初は長野原から白砂川に沿って太子に行く路線で、これは戦時中に鉄鉱石を京浜地区の製鉄所、具体的には日本鋼管(現JFEスチール東日本製鉄所)川崎製鉄所に送る為の産業鉄道で当初は鉱物貨物専用だったそうです。廃止された区間の運行は1952年から1970年の間でしたが、長野原線最大の遺跡としては太子駅跡みある鉄鉱石のホッパー(積込施設)の跡だそうです。

 そういえばJFEの関連会社が太子駅があった六合村(確か6つの村が集まった事に由来する村名だったかな)のハムを扱っていたのは長野原線を介してつながりがあったからだそうです。

 また草軽鉄道は、1915年に一部開業後1924年に電化し、全線開業は1926年の事でした。建設費を浮かせるためにトンネルや橋梁を避けたために線形がジグザグしており全線55.5Kmを3時間半もかけて運行していましたが唯一の橋梁である吾妻川の橋が度々流失し、経営不振と線路の荒廃(監督官庁に運行停止命令が出される手前だったといわれていたそうです)で1960年に軽井沢~上州三原間が廃止され、残りの区間も1962年に廃止されたそうです。


 余談ですが私は見たことは無いのですが、日本最初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」(1951年、松竹)では草軽鉄道の駅が舞台になっており、走る草軽鉄道の電気機関車が見れるそうです。

 現在でも草軽鉄道は草軽交通として営業しておりますので草軽鉄道の事は下記HPの方が詳しいです。

http://www.kkkg.co.jp/kusakaru1.html

 今の時代まで残っていたら観光鉄道として人気が出ていたかもしれませんが、時間が大事になった高度経済成長期の日本では生き残れなかったかもしれませんが、長野原線の旅客線化が廃止の一因だったとは、因縁を感じます。
[28030] 2004年 5月 7日(金)20:56:52Issie さん
万座・鹿沢口:補遺
晩げにお酒を5合ばか飲んで…
[28027] で書き忘れたこと。

現在,吾妻線の「万座・鹿沢口」駅のあるあたりは,嬬恋村東部の中心集落「三原」ですね。

かつて,ここを通過していた草軽電鉄の中間拠点駅であった「上州三原」駅は吾妻川をはさんだ対岸で,“こちら側”にあったのは「嬬恋」駅ですが,いずれにせよ,草軽電鉄廃止から久しく,「長野原線」の大前延長が達成されたこのとき,「三原」地区に新設されたこの駅は,当然に「三原」を名乗るか(“上州三原”か,“上野三原”か,“吾妻三原”か,“嬬恋三原”か),あるいは例えばすでに“高原野菜”で人口に膾炙しているから「嬬恋高原」という名前になってもよかったにもかかわらず,あえて“距離の離れた”2つの温泉から「万座・鹿沢口」とわざわざしたあたり,当時の国鉄の経営戦略が見えるような気がします。
何しろ,「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンが盛んだった時期ですから。

ところで,この草軽電鉄,
なくなってしまったことを惜しむ声は多々聞かれるのですが,
やはりこの路線も廃止されるべくして廃止されたものと思わざるを得ません。
(「鉄」な私としては,是非乗ってみたい鉄道の1つでした。他には,栃尾鉄道[越後交通栃尾線]とか,神岡鉄道とか,[これは,父方の祖父の田舎に行くために乗ったことのある]北陸鉄道能登線とか,樺太庁鉄道東海岸線とか…,枚挙にいとまがありません,が…。)

だって, 吾妻川の橋が流失して軽井沢側区間が廃止される直前の1959年7月のダイヤで,新軽井沢と草津温泉の間が3時間半もかかるのですよ。
「おたく」でない“普通の人”が,こんなに長時間,我慢して“歩いているような”汽車に乗ってくれるでしょうか。

軽井沢側の長野県区間だけであれば「保存鉄道」として生き残る術が遺されていたかもしれませんが,全区間生き残ることは,まず不可能であったと言わざるを得ないと思います。
鉱山鉄道であった長野原線が旅客転用されて,上野からの直通列車が頻繁に運転されるようになったとき,横軽間のアプト線と草軽の“超鈍行列車”という2大ハンディを抱えたこのルートが生き残る余地はなかったでしょう。

草軽電鉄は,廃止されるべき鉄道として,当然に廃止されたものと思います。

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