[86328]山野 さん
[86329]hmt さん
手持ちの古地図では、明治31年(1898年)発行のものがあります。ちなみに、1898年は、まだ可部線がまだ通っていない時代。山陽本線は開通していましたが、宇品線も見えます。そういえば1895年に日清戦争があり、広島が臨時首都となったこともありましたが、その数年後の姿です。この古い地形図では、現在の梅林駅の裏あたりに「上樂地」という集落の記載があります。付近には、現在の浄楽寺がある位置に既にマンジの記号が見られますが、上樂地ではなく、隣の「山手」という集落にあります。当時の八木村の役場はというと、なんと城山と阿武山塊の間に挟まれて一番狭くなっている所。現在でいう「八木峠(たお)」と呼ばれる付近です。意外な位置に驚きましたが、当時の太田川の水害が多かったことを暗示しているのでしょうか。太田川の流れも、現在の本流が流れている位置の他に川内村と八木村、緑井村の間にも「太田川本流」よりも広い古川の河川敷が見られ、川内村は文字通り川の内側の中洲になっていました。
さて、時が過ぎ、昭和47年(1972年)頃の地形図、八木村は緑井村と合併して佐東町となっていますが、この頃は広島市が周辺の町村を次々と合併し、佐東町も翌年、安古市町などと共に
合併しています。可部線はもちろん開通しており、可部街道も八木峠の上を超えて山側を通るバイパスが開通しています。古川の広い河川敷跡は、太田川本流との間に堤防が築かれ、まだ家は少ないものの造成、陸地化が進んできている様子が見られます。さて、上楽地はというと、
梅林駅から300メートルほど上に上がったあたりの集落に記載がありました。梅林小学校はまだありませんが、安川流域ほど大規模ではないものの宅地造成が始まったのもこの頃からではないかと思われます。
その次にある地図は、昭和62年(1987年)頃の地形図。広島市は既に政令指定都市として発展を続けており、祇園新道が開通。梅林小学校が出来ており、人口急増の様子がわかります。地名は「八木3丁目」となっており、上楽地という地名は既に見られません。この間に住居表示が実施されたのでしょうか。
そろそろ、消え失せた古来の地名を「復活」すべき時が来ているのではないか。
広島に土地勘がない方には分かりにくいかもしれませんが、安佐南区あたりではだいたいどこでも、町名としては無くなっている地名も、現在でも普通に使っています。住所こそ「安佐南区○○町○丁目」という変哲もない住所ではありますが、地の人が多い、古い地区は古地図に載っていた地名がそのまま今の町内会名と一致しており、新しい団地は団地ごとに町内会が結成されています。小学校の運動会でも、町内会ごとに席がきまっており、祭りももちろん町内会ごとに神輿を出します。つまり、地名復活どころか、地名は住所と関係ない所で脈々と生きているのですよ。
とはいえ、その地名の「知名度」自体はせいぜい隣の学区まででしょうか。全く交流のない町内会は全くわかりません。私も八木に上楽地という地名があったことは初耳でした。
あと、地名が過去の災害の教訓を示すと聞きますが、都市伝説的なものも含まれているような気もします。「悪谷」と呼ばれているならばしょっちゅう災害が起こってもおかしくないでしょうが、100年以上土砂災害が起きていなかったことはどう説明されるのでしょうか。あるいは、「沼田」という最も水に弱そうな地名もありますが、今回は人的被害は報告されていませんし、「安」という災害が起きそうもない地名だったら安心していいって話でもないでしょうし(実際、15年前は安を始めとした安川流域の方が被災しており、八木地区は無傷だったようです)。今回の災害は、1時間130ミリという猛烈な雨雲が八木地区に居座り続けたのが原因です。それが少しでもずれていたら、私の地区も危険でした。それは、全国どこでも起こりうること。古い地名を持ち出して「警告だ」みたいな話、個人的にはあまり信用できません。