都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
千本桜さんの記事が5件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[61420]2007年9月30日
千本桜
[61342]2007年9月27日
千本桜
[61287]2007年9月24日
千本桜
[61194]2007年9月17日
千本桜
[61160]2007年9月15日
千本桜

[61420] 2007年 9月 30日(日)20:47:34千本桜 さん
新治、中魚落郷
[61386]スピカさん
榎下 →新治町
横浜市の消えた大字200、拝読いたしました。大字って面白いでしょう。たぶん、スピカさんと私では大字に興味を持った動機が違うし、突き刺さっている角度も異なっているとは思いますが、大字を知ることによって地域の謎が解けて行くような快感を味わっているであろうスピカさんが目に浮かんできます。ところで、一つお尋ねしたいのですが、藩政村の十日市場、榎下、久保、台、中山、寺山、上猿山、下猿山、鴨居、本郷、上菅田、新井新田から成り立つ新治村は、横浜市に合併するに際し、消え行く新治の村名を榎下の地に託して榎下を新治と改めました。
このような村名継承方法は私の住んでいる地域にもありました。藩政村の新寺から成る金ヶ瀬村は、大河原町との合併に際し、消え行く金ヶ瀬村の名を平に託して平を金ヶ瀬に改めました。その代償として平の地名が消えました。このことを思うとき、平には平の地名が消えることへの抵抗感が。堤、新寺には金ヶ瀬の名を継承できないことへの抵抗感がなかったかと あれこれ思いがめぐります。結論をいえば、抵抗感は少なかったろうと思います。なぜなら、そもそも金ヶ瀬村の名は藩政・平村の区域に形成された金ヶ瀬宿という町場名に由来していたこと。さらに、金ヶ瀬村における平の人口、経済活動比重が高かったことが理由です。つまり、消え行く村名を継承するにふさわしい場所が継承したから、抵抗感は少ないだろうと判断するわけです。そのような観点に立つと、榎下が新治の名を継承したのは妥当だったのだろうか?と疑問を感じてしまうのです。
横浜の地誌には無知ですが、ここに昭和40年代の5万分の1地形図があります。それを見ながら、藩政・榎下村の地が新治村の名を継承するにふさわしい場所だったのかを判断しようとしているのですが、どうも、榎下が新治村の中枢機能を蓄積していた場所には見えないのです。新治の名を託す場所は中山でも寺山でも台村でも良かったのではないか。それなのに榎下がターゲットにされたのは なぜ?。

[61410]白桃さん
第5位の中魚落郷って今のどこかわかる方いますか?
知りませんでした。調べたところ、勝浦のライバルの大原だったんですね。中魚落村が単独で大原町になったようでが、単独改名町制すると、旧村名(この場合は藩政中魚落村)が忘れ去られてしまうケースが多いようです。宮城県では藩政村の小堤村が単独町制して亘理町に、今村が単独町制して吉岡町になっていますが、周辺の藩政村名(現在の大字名)を知ってはいても、小堤、今村の名を知る人は絶滅に近い状況になりました。小堤=亘理だから、亘理を用いれば小堤を用いなくなるわけで、忘れ去られるのは当然ですね。中魚落郷もその類なんでしょう。その点、三本松=大内ではないから、三本松は今も生き続けているのですね。ところで、明治19年末千葉県都市人口ランキング14傑に館山が入っていないのが意外でしたが、おもらししたんじゃないですよね。たぶん、あそこはあの当時、市街地が複数の自治体に跨っていたでしょうから、自治体ごとに集計すると各々の人口は少なかったと解釈してよござんすか。
[61342] 2007年 9月 27日(木)21:53:07【1】千本桜 さん
北仙台、東仙台、南仙台、ついでに大泉
[61288]YSKさん
仙台エリアでは「北仙台」は住所地名ではないものの北仙台駅周辺を指す呼称としてほぼ定着した感がありますね。ふと、「東仙台」や「南仙台」はどうなのだろうと思ってしまいました。

【北仙台】
私の頭に仙台市内の地名が擦り込まれたのは大々的な住居表示が実施される以前のことで、北仙台駅前あたりは荒巻字○○と書かれていた時代です。でも、あそこは街の雰囲気からして他の荒巻地区とは一線を画していますから、荒巻と呼ばずに北仙台と呼び合った方が通じやすかったのでしょう。北仙台という呼称が場所を指す地名として擦り込まれた要因に仙台市電の北仙台行があります。あれは確か、北仙台駅行ではなく北仙台行だったはず。駅を付さない北仙台に接しているうち、いつしか通称地名として私の中に定着したようです。北仙台の仙台浅草に行って来いとは言われましたが、荒巻の仙台浅草に行って来いと言われた記憶はありません。その一帯が住居表示で昭和町と呼ばれるようになった現在でも、昭和町の北警察署ではなく北仙台の北警察署なんですよね。感覚的には・・・。

【東仙台】
現在、東仙台駅前は住居表示で東仙台○丁目になりましたが、以前から○丁目が付かない東仙台という地名がありました。苦竹字安養寺上を割いて昭和7年に東仙台としたものです。でも、それは藩政村を継承した燕沢や小鶴と異なり、インパクトの弱い地名でした。同年に東北本線東仙台駅が設置されましたが、どうやら地名の方が先にあったようです。東仙台と言う呼称は東仙台駅付近を指すのか、それとも東仙台○丁目を指すのかについてですが、あいにく私にとって東仙台付近は馴染みが薄く、何と答えたら良いのやら・・・。でも、岩切や小松島に住む知人たちは東仙台という呼称を多用しますね。彼らが「東仙台あたりでは・・・」などと話すとき、念頭にあるのは駅名「東仙台」なのか街区名「東仙台」なのか図りかねながらも適当に話をあわせてしまうのですが、それでいて支障なく意思が通じてしまうから不思議。

【南仙台】
南仙台という駅名はあっても、南仙台という地名は存在しないと言うのが私の持論なんですが、どうやら新しい波には逆らえず、呑み込まれてしまいそうなんです。若い人たちは南仙台駅が陸前中田駅と呼ばれていたことを知らないし、柳生、中田、袋原、四郎丸の総称が中田であることを知らない人も増えてきました。新しく市街化された西中田・柳生地区の新住民たちは、地域の総称を南仙台だと思っている節があります。私、密かに聞取り調査をするのが趣味なんです。柳生から来た人に「南仙台に住んでるんだって?」と問いかけると、ホイホイ話に乗ってきます。柳生は南仙台と言う地名で括られる地域の一員だと思っている証拠です。

【ついでに群馬県大泉町】
昭和45年の国勢調査による大泉町の人口集中地区(市街地)についてですが、当時、私はこの市街地を任意で小泉と呼んでいました。ところがよく見ると、この市街地は核心部が旧小泉町にあるものの、結構大きな比重で旧大川村の区域にも広がっているのですね。こうなると、小泉という名称は不都合ではないか。小泉大川にしようか、それとも大泉にしようか迷った末に、今では大泉という任意名称にしています。でも、小泉町と大川村が合併して合成地名の大泉町が発足したのは昭和32年です。それから13年後の昭和45年に、果たして大泉なる行政体名が地名に転化していただろうかという疑問が残ります。こういうことは捉えどころがなくて難しいですよね。ですから聞き流して下さってよいのですが、何故そんなことが気になるのかと言うと、このようなもの(群馬県の都市地域)をまとめるためでした。
[61287] 2007年 9月 24日(月)00:38:57千本桜 さん
熊谷市の籠原
[61272]白桃さん
「新浦安」は、単に漠然と新浦安駅周辺を指すにとどまらず、「街」の総称として確固たる「地名」になっているような気がします。

たぶん、美浜、入船は勿論のこと、富岡、今川、明海、日の出あたりは全部「新浦安」という通称で括られるのではないでしょうか。もしかすると、市役所あたりも「新浦安」で括ってしまう人もいるかもしれませんね。明確な境界線で区分された美浜や入船という住所地名があるのに、境界線を持たない曖昧な「新浦安」が何故汎用されるのかについて考えるは あしたのこころだー にするとして、埼玉県熊谷市の新堀・拾六間に飛びます。

この新堀・拾六間地区には昭和45年当時、すでに人口集中地区(広い意味で市街地)が形成されていました。この市街地を指して何と呼べば良いのだろう。新堀とか拾六間では、しっくりしないのです。一度も行ったことのない場所なのに しっくりしないと言い切るのも変な話ですが、何となく そういう臭いを感じるのであります。たぶん、この辺りの人は このエリアを[籠原]と呼んでいるように思うのです。「籠原」は、単に高崎線の籠原駅を指すにとどまらず、「街」の総称として確固たる「地名」になっているのではないでしょうか。
[61194] 2007年 9月 17日(月)01:05:18【2】千本桜 さん
東かがわ市の大字
[61175]88さん
試行品は、藩政村(≒大字)と現在の町・大字名との対比をも目的としています(究極の目標は、この表を全国に展開することですが)。

試行品を拝見させていただきました。これを全国展開するとなると かなりの労力を費やさなければなりません。老婆心ながら、88さん大丈夫なの?と考えてしまいます。でも、これが完成すれば勿論のこと、たとえ未完に終わろうとも、費やした熱意はきっと88さんの宝になるはずです。

ところで、試行品によると東かがわ市の大字は34ですが、実際は35の大字があるようです。何が増えた(抜けてた)かと言うと、大字大内です。私もいま気が付いたばかりです。よその地域の、いま気が付いたばかりの事柄を思いつきで書くのは危険ですが、それを承知で書き込みたくなってしまいました。単に大字の名称を拾い集めるだけなら、「あ、大内という大字があるのね」で済まされるでしょう。しかし、大字名というものが一定の区域に対して与えられた名称であることを思えば、ここに位置する、この区域に大内という大字名を与えるのはいかがなものかと考えてしまいます。こちらのHPには
この会社は香川県大川郡大内町松崎の工業団地にあり、他の地区とは独立していることから、せめて、工業団地だけでも大内の町名を残そうと社長さんが署名運動を行い、工業団地の町名は大内として残ることになったということです。大内町長と話し合いの結果、団地の所在地は「大川郡大内町松崎」から「東かがわ市大内」となるそうです。工業団地の敷地内だけが大内となり、それ以外の旧松崎地区はそのまま松崎として残ります。限定された範囲とはいえ、心配していた「大内」が残ったことを知り、よろこびにたえません。関係者方々のご努力に敬意を表します。
と、書いてあります。でも、私はこの地名継承方法を喜べません。そもそも、引田町も白鳥町も旧町名は捨てると言っているのですから、大内町も捨てるべきなのです。そうしないとバランスがとれません。とは言うものの、引田町、白鳥町には藩政時代からの引田、白鳥という集落があって、その名が大字名として新市に引継がれます。ところが、大内町には大内という集落がありませんから、大内という地名は完全消滅してしまいます。この事態を大内町民に立って捉えると、引田町、白鳥町の名は残るのだから、大内町の名も残して欲しい、と言うことになるのでしょう。そこで、地名変更決定権を持つ方々にお願いしたいのは、住民に対して地域の履歴(生い立ち)を徹底して説得して欲しいと言うことです。東かがわ市に引継がれる引田、白鳥という地名は引田町、白鳥町の意味じゃないんだよ。あれは、藩政村の引田、白鳥の意味なんだよ。大内町には藩政村の大内はないでしょう。だから、東かがわ市に引継ぐ大内という地名はないんだよと、なぜ説き伏せない。東かがわ市35大字のうち34は藩政村を継承したものです。そこに一つだけ現行町名(今となっては旧町名ですが)の大内が紛れ込んでいることに私は強い違和感を覚えます。もし、百歩も千歩も譲って どうしても大内の地名を残すとしても、あの場所のあの区域に大内と言う地名の継承を委ねるのは地理的・歴史的にいかがなものかと、大内を知らない よそ者の私は思ってしまうのです。この大内の問題は、底辺に地名侵蝕で取り上げたことと同じものが流れているように感じます。それは、一般住民は藩政村名と現行町名の係わりを知らないでいること。そして、もしかすると地名決定権を持つ人たちも知らないでいるか、知っていても そのことに重要性を感じないでいることです。

書き込み訂正機能を使って訂正します。
東かがわ市に引継がれる引田、白鳥は引田町、白鳥町の意味じゃないんだよ。を、東かがわ市に引継がれる引田、白鳥という地名は引田町、白鳥町の意味じゃないんだよ。に訂正しました。
[61160] 2007年 9月 15日(土)08:29:15【2】千本桜 さん
消されかかった大字
[61157]スピカさん
千本桜さんの言っていた「消えた大字」沢山ありますね。
だいぶ前の書込みに反応して戴いて感謝しております。実は、この問題が今も頭の中で大きな比重を占めています。私は、大字名と その大字名で括られた領域の存亡に危機感をいだいているのです。「消えた大字」は私の身近なところにも幾つかあります。その消え方(消され方)を分類すると次のようになります。

【1・市町村名と大字名が同名のために昭和の合併時に当該大字だけが消されたケース】
例としては白石市の大字白石本郷、大河原町の大字大河原、丸森町の大字丸森がありますが、同様例は全国各地に見られることでしょう。これは、本来なら大河原町大字大河原字下川原○○番地と書くべきところを、面倒だから大字を外して大河原町字下川原○○番地と書いていいよと言うことです。一見、合理的です。しかし、他の大字地区は大字を外さずに、大河原町大字大谷字下川原○○番地と書きなさいと言うのですから理不尽です。

【2・市町村が大字制を廃止したため、自治体内の大字が同時に全部消滅したケース】
例として七ヶ宿町があります。七ヶ宿町(当時の七ヶ宿村)は明治22年に五つの大字を設置して発足しました。大字渡瀬大字関大字滑津大字峠田大字湯原です。以後、合併を経験しないで今日に至っています。ところが、私の知らないでいるうちに、いつの間にか全ての大字が廃止されていました。町役場に理由を聞こうかとも思いましたが、まだ問い合わせていません。推測ですが、大字制廃止は七ヶ宿ダム建設と絡んでいたのではないかと思います。大字渡瀬地区の集落がダム湖に沈んで住人がいなくなるからです。それを契機に大字廃止に走ったのではないかと考えます。ただし、湖底に沈んだ渡瀬を除く旧大字の関、滑津、峠田、湯原という地名は、それぞれの大字の中心的町並みに当たる小区域を指す小字として現在に引継がれています。

【3・大字の全域が住居表示区域に移行したため、大字が消滅したケース】
このような例は宮城県南部の自治体にはありませんが、都市化が進んだ大都市圏には多々あるのではないでしょうか。

消えた大字に関しては、消された理由が大事だと思うのです。それで上記の書き込みをした訳ですが、上記の例に当てはまらない別の理由(私からすれば全く理不尽な理由)で消されかかった大字があります。消されかかったと言うのは、町の合併が破綻したために字名変更が実施されないで終わったからです。しかし、いつか合併が現実になったとき、この理不尽な「大字名とその大字名が指し示す領域の変更」が、地域の履歴を無視して実施されはしないかと恐れているのです。このことに関しては何度も落書き帳に書かせていただきましたので更なる書き込みはしませんが、この地名侵蝕を読んでいただけたら幸いです。この前、京都の甥(大学生)に地名侵蝕を読ませたのです。どうだった?と聞いたら、難しすぎて理解できなかったと言われました(笑)。ガクッときましたが、たぶんよその地域を理解するのは難しいのかもしれません。

大字を大字名に一箇所訂正しました。
中川原を下川原に訂正しました。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示