[88088] オーナー グリグリさん
周辺の深谷市や行田市に観測点があったとしたら、立場が代わっていたかもしれないという意味です。
より正確には「地方気象台が設置されていたら」という意味ですよね?
はたして歴史的に、「深谷市や行田市」に「地方気象台が設置されていた」可能性が有り得たかが気になったので、ちょっと確認してみました。
まずは
熊谷地方気象台のサイト確認してみると、
熊谷地方気象台は、明治29(1896)年12月1日に埼玉県熊谷測候所として気象観測の業務を開始しました。
と、
[84059]のhmtさんの記事通りのことが記載されています。
でも、当時は「測候所」であって「気象台」ではなったわけで、なぜ「埼玉県熊谷測候所」が「埼玉県の測候データを統括する地方気象台になったのか?」という疑問は消えません。
ちなみにウィキペディアを確認すると、
気象台(きしょうだい)とは、気象の観測、天気予報や気象警報の作成と発表などを業務とする施設・機関である。
と、なっています。
対して「測候所」は『気象の観測』をする場所なので、発表は業務に含まれていません。
※更には現在は有人の「測候所」から、無人の「特別地域気象観測所」への移行が進んでいます。
従って、『発表』を業務に含む「地方気象台」の所在地の予報が発表されてるって訳です。
ここで当初の
[88083]じゃごたろさんの疑問や
[88086]ペーロケさんの意見への答は見つかるわけで、「さいたま市ではなく熊谷市に地方気象台があるから」という事になります。
「さいたま市」は気象データはあるけど、「発表する機関がない」わけです。
でも、「深谷市や行田市」ではなく「浦和や大宮」でもない「熊谷市」な理由ではないですね。
しかしその答も半分はウィキペディアの「熊谷市」の項には記載されていて…
1920年の第1回国勢調査人口で当時の熊谷町は、22,282人を記録した。これは、国内150位、県内では川越町(現川越市)に次ぐ2位であり、県庁所在地の浦和町(後の浦和市、現さいたま市)の約2倍の人口を有していた
という訳で、当時の埼玉県の主要都市は「川越」と「熊谷」だった訳ですね。(きっと詳細は『白桃市町村人口研究所』さんが発表してくれるのではないかと…(笑))
では、「入間県庁所在地の川越」ではなく「熊谷県庁所在地の熊谷」が選ばれたのか?
その辺りの経緯は、ウィキペディアの「入間県」の項や「熊谷県」項から多少は読み取れるように思います。
ちょうど埼玉県熊谷測候所が開設されたころ、何度も埼玉県では「熊谷遷都」の運動が起こっています。(なぜか川越は出てきません)
つまり、「埼玉県の中心地は熊谷である」という認識が、当時の地元には有ったようですねぇ。
18世紀末頃、「なぜより人口の多い川越ではなく、熊谷だったのか?」
「城下町川越」と「宿場町熊谷」。
う~ん、まだ疑問は残っていますねぇ…