[72164]で、古くからの町場名が明治期の新町村名に引き継がれた事例を挙げましたが、もう少し詳しく書いてみます。町場の規模はさまざまで、
菅生宿・
下戸沢宿のように戸数50戸あるかないかの町並みでも町場は町場です。ちなみに、いまも菅生の町場の通称は「町」。そして下戸沢の町場の小字名も「町」です。しかし、このように小規模な町場ですと、その名が明治22年の新町村名に影響を及ぼした可能性は低くなります。影響を及ぼすには、それなりの規模と都市機能の集積が必要になります。そこで、江戸期の仙台藩で商業活動が許されていた町場を選出し、それを便宜上の「町場」とします。商業活動を許された町場は、おおむね規模の大きな町場でもあります。宮城県史は仙台藩の在方商業の統制について次のように記述しています。
藩指定の町場以外では原則として在方の商業は禁ぜられ、農民の商人化はもとより厳重に取り締まられた。領内の町場は、中期において77、享保19年(1734)に89、幕末に96に増加しており、ここで定期に日市が開かれ、商業取引が行われた。
として、江戸中期における77の町場名と市日を紹介しています。町場の内訳は、現在の岩手県に属するものが一関、水沢など31町場。宮城県に属するものが古川、気仙沼など46町場です。では、宮城県に属する46の町場名と明治期の新町村名の関わりを見てみましょう。まず、町場が属した藩政村名と明治22年の新町村名を調べ、次の5つに分類します。
【類型1】町場と藩政村が異名なものの内、町場名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)町場=川崎。藩政村=前川村。明治22年新町村=川崎村
【類型2】町場と藩政村が異名なものの内、藩政村名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)該当するものがありません。
【類型3】町場と藩政村が異名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=金津。藩政村=尾山村。明治22年新町村=藤尾村
【類型4】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=高城。藩政村=高城本郷。明治22年新町村=松島村
【類型5】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に絡んでいると思われるケース。
(例)町場=白石。藩政村=白石本郷。明治22年新町村=白石町
【類型1のリスト】
町場名 | 藩政村名 | 明治22年の新町村名 | 明治元年~町村制施行直前までの動き |
川崎 | 前川村 | 川崎村(柴田郡) | なし |
亘理 | 小堤村 | 亘理町(亘理郡) | なし |
吉岡 | 今村 | 吉岡町(黒川郡) | なし |
松山 | 千石村 | 松山村(志田郡) | なし |
小牛田 | 南小牛田村 | 小牛田村(遠田郡) | なし |
涌谷 | 馬場谷地村 | 涌谷町(遠田郡) | なし |
宮野 | 下宮野村 | 宮野村(栗原郡) | 明治8年下宮野村など3村が合併して宮野村 |
佐沼 | 北方村 | 佐沼町(登米郡) | なし |
登米 | 寺池村 | 登米町(登米郡) | 明治6年寺池村など4村が合併して登米村 |
飯野川 | 相野谷村 | 飯野川村(桃生郡) | なし |
類型1は、藩政村名を採らずに、町場名を採って明治期の新町村名にしたケースです。小堤村・今村・馬場谷地村は明治22年、合併しないで単独で町村制の町に移行し、町場名をもって亘理町・吉岡町・涌谷町に改称しました。佐沼は北方村に属する宿場町(通称佐沼町)ですが明治22年、北方村から分離して自治体の佐沼町になりました。明治22年に前川村など5ヶ村が合併して発足した川崎村は、前川村の町場名「川崎」を新村名にしています。松山村・小牛田村・宮野村・登米町・飯野川村も町場名が新町村名に繋がっています。
【類型2のリスト】
類型2は、町場名を採らずに、藩政村名を採って明治期の新町村名にしたケースです。しかし、該当するものがありません。町場名と藩政村名が異なる場合は、【類型1】のように町場名が引き継がれるか、【類型3】のように双方とも引き継がれずに新名称が立てられています。江戸期に商業取引を許されたほどの町場は、ネームバリューもステータスも藩政村より勝っていたのでしょう。仙台藩では、町場名が藩政村名を抑えて新町村名に引き継がれることはあっても、藩政村名が町場名を抑えて新町村名に引き継がれることはありませんでした。勿論これは、それなりの規模と都市機能を有した町場があった場合の話です。有効な町場がない場合は藩政村名を新町村名にしている例も多々あります。
【類型3のリスト】
町場名 | 藩政村名 | 明治22年の新町村名 | 明治元年~町村制施行直前までの動き |
金津 | 尾山村 | 藤尾村(伊具郡) | なし |
米岡 | 西野村 | 米山村(登米郡) | なし |
横川 | 福地村 | 大川村(桃生郡) | なし |
類型3は、町場・藩政村・新町村の名称が全て異なります。町場名・藩政村名とも新村名に引き継がれなかったケースです。明治22年、尾山村と藤田村が合併し、新村名は旧村名から1文字ずつ採って藤尾村になりました。旧村はその大字になりましたが、通称町場名「金津」は今も健在で、公称大字名の尾山や藤田よりも汎用されている感じさえします。江戸期からの町場名「金津」「米岡」「横川」が明治期の新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。
【類型4のリスト】
町場名 | 藩政村名 | 明治22年の新町村名 | 明治元年~町村制施行直前までの動き |
高城 | 高城本郷 | 松島村(宮城郡) | なし |
真坂 | 真坂村 | 一迫村(栗原郡) | 明治8年真坂村と清水村が合併して真坂村 |
狼河原 | 狼河原村 | 米川村(登米郡) | 明治8年狼河原村と鱒淵村が合併して米川村 |
釜谷 | 釜谷浜 | 大川村(桃生郡) | なし |
柳津 | 柳津村 | 麻崎村(本吉郡) | 明治8年柳津村と黄牛村が合併して麻崎村 |
志津川 | 志津川村 | 本吉村(本吉郡) | 明治8年志津川村など3村が合併して本吉村 |
津谷 | 津谷村 | 御嶽村(本吉郡) | 明治8年津谷村など3村が合併して御嶽村 |
馬籠 | 馬籠村 | 御嶽村(本吉郡) | 明治8年馬籠村など3村が合併して御嶽村 |
類型4は、町場と藩政村が同名なのに、双方とも新村名に引き継がれなかったケースです。新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。ただし、志津川についてのみ感想を記します。志津川村は明治8年に周辺2村と合併して本吉村になりました。なぜ志津川ほどの町場が、その名を捨てて本吉村になったのだろう。たぶん、本吉郡の中心としての自負および中心でありたいという願望が込められていると推測します。しかし、そこには「本吉」と言う名の町場はありません。本吉村を名乗ってみたものの、そこにあるのは「志津川」と言う名の町場です。おそらく、どこか不安定でおさまりが悪かったのでしょう。明治28年に志津川町に改称しています。明治期に成立した亘理郡亘理町や登米郡登米町は、そこに「亘理」「登米」と呼ばれる町場があるから、ぶれないのです。しかし、昭和の合併で成立した柴田郡柴田町や牡鹿郡牡鹿町(現・石巻市)などは、いまだに地名としての定着がぶれているように感じられます。
【類型5のリスト】
町場名 | 藩政村名 | 明治22年の新町村名 | 明治元年~町村制施行直前までの動き |
白石 | 白石本郷 | 白石町(刈田郡) | なし |
大河原 | 大河原村 | 大河原町(柴田郡) | なし |
船岡 | 船岡村 | 船岡村(柴田郡) | なし |
村田 | 村田郷 | 村田村(柴田郡) | なし |
角田 | 角田本郷 | 角田町(伊具郡) | なし |
丸森 | 丸森村 | 丸森村(伊具郡) | なし |
金山 | 金山本郷 | 金山村(伊具郡) | なし |
岩沼 | 岩沼郷 | 岩沼町(名取郡) | なし |
中新田 | 中新田村 | 中新田町(加美郡) | なし |
宮崎 | 宮崎村 | 宮崎村(加美郡) | なし |
古川 | 古川村 | 古川町(志田郡) | なし |
三本木 | 三本木村 | 三本木村(志田郡) | なし |
岩出山 | 岩出山本郷 | 岩出山町(玉造郡) | 明治5年岩出山本郷が岩出山村に変更 |
田尻 | 田尻村 | 田尻村(遠田郡) | なし |
高清水 | 高清水村 | 高清水村(栗原郡) | なし |
築館 | 築館村 | 築館村(栗原郡) | 明治8年築館村と成田村が合併して築館村 |
岩ヶ崎 | 岩ヶ崎村 | 岩ヶ崎町(栗原郡) | なし |
沢辺 | 沢辺村 | 沢辺村(栗原郡) | なし |
金成 | 金成村 | 金成村(栗原郡) | 明治8年金成村と畑村が合併して金成村 |
若柳 | 若柳村 | 若柳町(栗原郡) | なし |
石森 | 石森村 | 石森村(登米郡) | なし |
米谷 | 米谷村 | 米谷村(登米郡) | 明治8年米谷村と楼台村が合併して米谷村 |
小野 | 小野本郷 | 小野村(桃生郡) | なし |
鹿又 | 鹿又村 | 鹿又村(桃生郡) | なし |
気仙沼 | 気仙沼本郷 | 気仙沼町(本吉郡) | なし |
類型5は、町場・藩政村・新町村が共に同名のケースです。藩政村と新町村が同名のため、一般には藩政村名を継承したと思われているようです。それを否定するつもりはありませんが、町場名も大きく影響しただろうと私は思うのです。なぜなら、ここで取り上げた46ヶ所の町場は商業活動を許された町場ですから、大なり小なり都市性格を有しています。このような町場のネームバリューは、藩政村の名を上回っていたのではないでしょうか。それは、類型1から推測できます。類型1は町場名と藩政村名が異なりますが、すべて藩政村名を捨てて町場名を新町村名に採用しています。その逆に、町場名を捨てて藩政村名を新町村名に採用した自治体はありません。類型5で風変わりなのは古川です。通称「古川」と呼ばれる町場は、藩政村でいうと古川村・大柿村・稲葉村・中里村に跨がっていました。新幹線古川駅の開業で中心街が駅前に移動するまで、古川の中心街は七日町でした。しかし、この
七日町は地籍上は古川村ではなく大柿村の内にあったのです。でも、江戸期や明治期の人は七日町界隈に行くことを、「大柿村に行く」とは言わずに「古川に行く」と言っていたと思うのです。
近年、地図や道路案内板やネットを見ていると、公称が本流で、通称は傍流に押しやられ過ぎていると感じます。住所に対する感覚が昔と変わってきたので仕方ないのでしょうが・・・。
誤字を1文字訂正しました。