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千本桜さんの記事が10件見つかりました

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[81048] 2012年 7月 8日(日)11:33:58千本桜 さん
岩手県の輻輳地「磐井」とは。宮城県の茶屋町ってどこでしょう。
共武政表の岩手県西磐井郡に「磐井」と言う名の輻輳地が記載されていますが、そのことでお尋ねします。磐井の人口は明治11年共武政表で4,561人、明治12年4,293人、明治13年4,310人となっています。人口規模からして磐井とは一関のことだと推測しますが、なにゆえ「一関」と表記しないで「磐井」と表記するのか、その理由が分かりません。一関城下は藩政期の一関、二関、三関の3村に跨がっていますが、3村は明治8年に合併して一関村を名乗っています。古来より城下町としての名称は一関、宿駅名も一関、村名も一関。ならば輻輳地の名称も一関で良いはずなのに、「一関」と表記できない何かがあるのでしょう。つらつら思うに、この「磐井」は一関以外のどこかを含んでいるのではないだろうか。そんな考えに至りました。一関宿の2キロほど北に山目宿があります。普通に考えれば山目は人口100人以上の輻輳地に該当するはずです。ところが共武政表には「山目」の記載がありません。そのことから、一関と山目を併せて1個の輻輳地とし、便宜上の名称を「磐井」としたのではないだろうかと考えるようになりました。明治11~13年当時、一関と山目の町並みは一体化していたのだろうか。いろいろ調べましたが定かなことは分かりませんでした。よって「磐井は一関と山目を併せた便宜上の名称」というのも、私個人の発想の域を脱していません。どなたか、共武政表に記載された「磐井」の正体をご存知の方はおられませんか。

共武政表の宮城県宮城郡に茶屋町という輻輳地が記載されています。初めて見る地名です。これは二軒茶屋のことなのでしょうか。それしか思い浮かびません。でもマピオンを見て、あれ!と思いました。本来の二軒茶屋はこのへんではなかったでしょうか。だって昔、新寺小路から延びてきた道路のこのへんに二軒茶屋南というバス停があったのですから。二軒茶屋は二軒茶屋南バス停より北にあったはずだと思うのですが、みんな遠い過去の思い出。
[81047] 2012年 7月 8日(日)10:45:29【1】千本桜 さん
町裏とは町の外側か、内側か
[81018] YTさん
これら三年分の『共武政表』はそれぞれの地方についてはるかに詳しい内容を含んでいます。是非皆さんも確認してください。
拝見いたしました。予想以上に小規模な集落まで掲出していますね。宮城県柴田郡菅生村(現・村田町)に造営された宿場町菅生驛や名取郡坪沼村(現・仙台市)に造営された宿場町赤石驛、宮城郡竹谷村(現・松島町)に形成された新田町などまで輻輳地として取り上げられているのには感動しました。
ところで、宮城県内には「町」と言う名の字(あざ)があちこちにあります。角田市角田字町、村田町大字村田字町、蔵王町宮字町、大河原町金ヶ瀬字町などです。みな町の中心部にあたります。少し詳しく見ると、金ヶ瀬の字町は奥州街道に沿った宿場町の区域であることが分かります。字町の裏側(外、陰、後、そんなイメージ)には字町裏があります。メイン道路に沿って字町が区割りされ、字町の背後には字町裏が区割りされる。それが一般的だと自分は思っているのですが、菅生(現・村田町大字菅生)の場合は様子が異なります。字町という区域がなくて、宿場の街道沿いに、いきなり字町裏が区割りされています。どう見ても町裏ではなく町そのものに見える区域です。街道を挟んで東側に連なる家並が字町東裏、西側に連なる家並が字町西裏です。主体となるはずの字町はどこにあるの?という感じです。
もしかすると、町裏=外側、背後、陰などを連想するからいけないので、裏=内側と解釈すれば良いのかなと考えたりもします。洋服の裏地は内側にありますからね。すると町裏は町の内側を指す地名、つまり町そのものになります。でも、このような考えは成立するのでしょうか?。実は竹谷村(現・松島町)の新田町にも字町裏があり、これまた街道に面した町並みの一角ですから町裏とは思えない区域です。どなたか、裏事情に詳しい方、字町裏の解釈の仕方を教えてください。
注:菅生でリンクしたマピオン地図に「町」という地名が記載されていますが、あれは字名ではありません。菅生宿の町並みの区域を指して通称「町」と呼ぶ慣わしがある。その意味での「町」です。

脱字1文字追加修正しました。
[81038] 2012年 7月 7日(土)11:51:29千本桜 さん
見ていないので難問でした
[81034] 白桃さん
次の市に共通する事柄は?
角田市 米沢市 亀山市 神戸市 伊丹市
どうでもいいけど、戸田、松本、蟹江、小野、長門、阿南に共通する事柄は?
付け加えると、平成の合併時期に惜しまれながらお亡くなりになられた前沢、石橋、津川、萩原、山崎も由紀恵ちゃんです。
[81019] 2012年 7月 1日(日)21:18:51千本桜 さん
昼夜間人口比率
[80994] 白桃さん
総務省から「従業地・通学地による○○・産業等集計」が公表になります。これで、昼間○○、昼夜間○○比率が明らかになります。
地域における中心性が高まる一方で、それに背を向けるように昼夜間人口比率が低下していく大河原町。おそるおそる平成22年国勢調査の昼間人口を閲覧すると案の定、昼夜間人口比率の下落は止まらず、前回調査の95.9%から1.6ポイント下がって94.3%まで落ち込んでいました。あーぁ、ひよわな中心都市。県は仙南圏を白石市、角田市、大河原町、柴田町を中心とする地域としていますが、力が分散して強力な中心都市が育たない地域です。大局的に見れば、昼夜間人口比率が高ければ吸引力が強く、中心性の高い自治体ということになるのでしょう。それを否定するつもりはありませんが、仙南圏の様子からは昼夜間人口比率と中心性の関連が見えてこないのです。

平成22年の昼夜間人口比率の高い順に仙南圏の自治体を並べてみます。

自治体名H22比率H17比率比率の増減H22昼間人口H17昼間人口昼間人口減少数昼間人口減少率
角田市102.5%100.8%1.7ポイント31,336人33,453人2,117人6.3%
七ヶ宿町101.6%101.9%-0.3ポイント1,721人1,907人186人9.8%
村田町101.1%98.7%2.4ポイント12,121人12,574人453人3.6%
白石市98.6%98.7%-0.1ポイント36,894人38,971人2,077人5.3%
蔵王町96.7%96.4%0.3ポイント12,463人12,838人375人2.9%
大河原町94.3%95.9%-1.6ポイント22,195人22,370人175人0.8%
柴田町92.1%91.8%0.3ポイント36,217人36,542人325人0.9%
川崎町89.8%89.0%0.8ポイント8,961人9,416人455人4.8%
丸森町86.5%87.3%-0.8ポイント13,402人14,653人1,251人8.5%

昼夜間人口比率が100%を超えるのは角田市、七ヶ宿町、村田町の3自治体。しかも前回調査(H17)に比べて角田市は1.7ポイント上昇して102.5%、村田町は2.4ポイント上昇して101.1%になっています。対して大河原町は1.6ポイントも低下して94.3%に下落しています。この数字だけから判断すると、中心性を高める角田市と村田町。中心性を喪失した大河原町になります。でも、実態は大きく異なります。

角田市、村田町の昼夜間人口比率が上昇した原因は常住人口が減少したため。大河原町の昼夜間人口比率が低下した原因は常住人口が増加したためと考えられます。常住人口が減少したために起こる昼夜間人口比率の上昇って、あまり喜べないと思うのです。

ここで、昼夜間比率ではなく昼間人口そのものの増減率を見てみます。経済活動が冷えている仙南圏では全ての自治体が昼間人口を減少させています。仙南圏の中心都市と目される白石市、角田市、大河原町、柴田町の昼間人口減少率を比較します。減少率が少ない順に大河原町0.8%減、柴田町0.9%減、白石市5.3%減、角田市6.3%減となっていて、大河原、柴田両町が何とか現状維持ぷらぷら。白石、角田両市が明らかに衰退。不思議なのは、新幹線の駅があり、高速道路のICがあり、国道4号が縦貫し、国道113号が横断し、国道457号が接続する白石市が、なにゆえ衰退状況に陥っているのかです。
[80986] 2012年 6月 22日(金)21:28:38千本桜 さん
島田は浜松の「となりまち」なんですか
市域同士が隣接しているのに、となりまち(お隣さん)と言うには違和感があるカップル20選。ランキングは私の感覚で決めただけですから異論もあろうかと思います。
1位・静岡と伊那
2位・静岡と飯田
3位・浜松と飯田
4位・高山と白山
5位・高山と大野
6位・高山と大町
7位・札幌と伊達
8位・新発田と喜多方
9位・高梁と庄原
10位・大野と白山
11位・大野と関
12位・富山と大町
13位・仙台と尾花沢
14位・宮古と花巻
15位・新潟と長岡
16位・田辺と新宮
17位・浜松と島田
18位・富山と高山
19位・鳥取と津山
20位・岩国と益田
ランキングの圏外ですが、前橋と桐生も「となりまち」らしくないカップルです。市原と君津も微妙な隣接市ですね。市原の隣は袖ヶ浦で、その先に木更津があり、そのまた先に君津があるから、市原と君津は「となりまち」ではないと思っている人も多いのではないでしょうか。
[80971] 2012年 6月 17日(日)01:42:41千本桜 さん
♪安芸灘の風
安芸灘とびしま海道のイメージソング♪「安芸灘の風」を聴きながら空想旅行をしています。還暦を過ぎたシンガーソングライター・レーモンド松屋が、エレキギターを弾きながら唄うロック調の歌謡曲である。歌詞には関前、観音崎、とまちせと、御手洗、大長港、下蒲刈、恋ヶ浜、十文字山の地名が織り込まれていますが、東北地方に住む私には馴染みの薄いものばかりです。以前から名称と場所を知っていたのは関前と下蒲刈だけ。御手洗と大長は何かで見覚えのある地名でしたが、場所を探すのに少し手間取りました。なお、安芸灘に浮ぶ島々の中に観音崎、とまちせと、恋ヶ浜、十文字山なる場所があるのは全く知りませんでした。どんな所だろう、ちょっと調べてみよう。という訳で、5万分の1地形図を引っぱり出して空想旅行に出発です。

1番の歌詞。歌い出しは「青くやわらかなこの海は島々つつむゆり籠」。とびしま海道のイメージソングにぴったりな良い歌詞だと思います。そして「関前の空~」、「観音崎からあなたを見送る~」と続きます。どうやら舞台は岡村島のようです。しかし、「とまちせとで その日が来るのを待ってた~」の歌詞に、はたと困りました。地形図に「とまちせと」の表記がない。「とまちせと」とは何ぞや。分からないのは後で調べるとして先に進むことにする。

2番の歌詞。舞台は岡村島から大崎下島に移りました。「御手洗の古い町並み歩いた~」、「大長港みかん船~」、「きっと来るあなたは来る安芸灘の風に乗って~」。どうやら、この歌は東から西へ向かって進んでいるようです。最後は本州島の川尻か仁方に辿り着くのでしょうか。

3番の歌詞。「下蒲刈のあかりの館訪ねた~」。あれれ・・・、豊島と上蒲刈島を飛び越えて一気に下蒲刈島まで行っちゃいました。飛び過ぎですよね。豊島と上蒲刈島を素通りしてはまずいと思ったか、レーモンド松屋氏はくるりと方向転換して東へ逆戻り。上蒲刈島へ戻って「恋ヶ浜の海まぶしく~」、豊島へ戻って「十文字山で遥かに見つめる~」、「きっと来るあなたは来る安芸灘の風に乗って~」と唄いあげます。

地理的に見れば♪「安芸灘の風」は順路が変だと思う。しかし、レーモンド松屋氏の優れた音楽性がそれを吹き飛ばしてしまう。それに、私の周りにいるカラオケ好きのオジさんたちは、関前がどこにあり下蒲刈がどこにあるかなど一向に気にしない。たぶん「とまちせと」が何であるかも気にしないだろう。「とまちせと」の正体を追って、マピオンを拡大してみました。すると、ありました。岡村島の西端に戸町鼻というのが・・・。この戸町鼻と中ノ島の間の水域が戸町瀬戸なのだろう。では、なぜレーモンド松屋氏は「戸町瀬戸」と書かずに、ひらがなで「とまちせと」と書くのだろう。ここから先は全くの推測ですが、戸町瀬戸を単なる地名に終わらせたくなかった。「とまちせと」と表すことで膨らみを持たせたかった。レーモンド松屋氏は「とまちせと」と唄う時、きっと頭の中では「ひとまちせと」と唄っているのではないだろうか。そうあって欲しいと願いながら♪「安芸灘の風」を唄ってみよう。「あれからずっと ひとまちせとで その日が来るのを待ってた あなたは来る きっと来る いくつもの橋を渡って~」。すばらしいイメージソングだと思います。被災した三陸の海辺にも、こんな力強く期待に満ちたイメージソングが作られ、観光キャンペーンが展開される日が来ることを願っています。
[80942] 2012年 6月 7日(木)20:07:53千本桜 さん
DID上位150都市、赫下バス停、和歌山市街図の「○○地区」
[80928] YTさん
その昔某所でこういう試算をしたことがありますけど、今ならもっと楽ですね。
http://mimizun.com/log/2ch/geo/1078037542/104-180
力作ですね。大変だったでしょう。私も40年ほど前、似たようなことをしました。当時、すでに世の中には電卓が普及していましたが、電卓を使う習慣がなかったので「そろばん」で計算しました。作業中何度も「俺はいつまでもこんな無益なことをやっていて良いのか」と思いましたが、いまとなっては「それで良かったのだ」と自分に言い聞かせています。DIDデータを加工し、独自のデータを作り出すのは楽しいですね。でも、私が本当に欲しいのは、市町村の境界線に拘束されずに集計された昼間人口集中地区昼間人口です。しかし、その基礎データがないですね。メッシュ統計に進めば良いのでしょうが、高額すぎて手がでません。

[80937] hmtさん
現地レポ はバス停ですが、片方は別の字と間違えられています。
面白い現地レポ、ありがとうございました。「はけ」に「赫」を用いるなんて大胆ですね。思わず顔がニヤケてしまいました。地元住民はバス会社に訂正を要求しないのでしょうか。そもそも「赫」という字は滅多に見かけないから、地元の人も何がなんだか分からないまま見ぬふりなんでしょうか。私も「赫」という字は、東千代之介夫人で女優の千之 赫子(ちのかくこ)さんの名前を介して知るのみです。千之 赫子さんは他界して久しいのですが、赫子(はけこ)なんてイヤよ、赫子(かくこ)と呼んでと苦笑いしていることでしょう。

[80940] レインメイカーさん
昭文社の県別マップル和歌山県版や関西版で、和歌山市の地図を見てみると、「○○地区」というのが表記されていました。
この件については全然詳しくありませんが、つい反応して昭文社の地図を見てしまいました。確認したのは、2008年発行「県別マップル和歌山県道路地図」の15,000分の1和歌山市街のページと、昭和61年発行「25,000分の1和歌山市広域図」の2種類です。レインメイカーさんが書いておられるとおり、どちらの地図にも「○○地区」の文字が表記されていました。ところが、双方ともに今福高松和歌浦田野の4地区名を表記していません。最初は表記漏れのミスかと思いましたが、どうやら、やむをえず意図的に表記しなかった可能性が高いようです。あの辺りは文字情報や線情報が込み入っている区域なので、編集者は地区名を挿入するスペースがないと判断したものと推察します。でも、25,000分の1には無理としても、15,000分の1には工夫をすれば「○○地区」の文字を表記できそうな気がしました。レインメイカーさんの質問に対する回答になっていなくてごめんなさい。
[80934] 2012年 6月 4日(月)02:59:26千本桜 さん
なぜか小都市のDIDに熱くなる
[80922] 白桃さん
古座中学校は隣の古座川町にあり、この辺りなかなかややこしいです。
しかも、古座町に国保古座川病院があったりするからややこしくて、やや♪夜霧のハウスマヌカン。

古座が主体とばかり思っていたのですが、「実権」は西向が握っていたのでしょうか。
wikipediaの古座駅の頁に次のような記述があります。
この駅は西向のうちの岩淵(後述)に立地している。西向は串本町と合併する前に存在していた古座町の中心部で、駅周辺には串本町役場古座分庁舎(旧古座町役場)をはじめとする各施設もある。なお、古座町の中心部が大字古座でないのは、「古座」という町名が、1956年3月にその前からあった古座町と西向町および田原村が合併し古座町が誕生した際、古座川などの影響で知名度の最も高かった古座から採ったに過ぎないからである。
上記から伝わってくるのは、新たに誕生した古座町の中心部は旧西向町であり、旧古座町ではないということです。でも、これを鵜呑みにして良いのかと少々疑問を感じます。古座町、西向町、田原村が合併して新たな古座町が誕生したのは、今から56年前の1956年。そして、第1回のDID調査が1960年です。その当時から新しい古座町の中心は旧西向町だったのだろうか?。旧古座町が中心だったとは考えられないだろうか?。そんな思いが行ったり来たりしています。旧西向町と旧古座町の現況比較を下に記します。
1・ネットに公表されている路線価の最高地点は、平成21、22、23年分いずれも旧西向町ではなく旧古座町に位置します。変化の少ない地域ですから、平成21年以前も今と変わらず最高額の路線は旧古座町にあったと推測します。
2・現況において古座町には銀行が2行あります。しかし旧西向町には立地せず、2行とも旧古座町に立地しています。もし、56年も前から旧西向町の都市勢力が旧古座町を上回っていたのなら、銀行は旧西向町に移転していたでしょう。それなのに、今も旧古座町に店舗を構えているのを見ると、旧古座町の底力を感じます。
3・旧西向町と旧古座町の人口については、[80922]で白桃さんが1955年の数値、[80925] でIssieさんが1920年と1940年の数値を書いておられます。現況の人口を知りたいのですが、資料がないので小学校児童数を基に現人口に思いを巡らすことにします。2011年度の小学校児童数は西向小75人、古座小57人、田原小23人で、古座川右岸(旧西向町)が75に対し、左岸(旧古座町+旧田原村)が80になります。さらに、左岸の旧古座町には古座川町高池の町並みが連担していますから、それを旧古座町グループに取込むと左岸の数値はもっと大きくなります。
そんなこんなを考えると、右岸の旧西向町を都市「古座」の中心とするのは少し変かなと思えてきます。たぶん、右岸と左岸の市街地は拮抗しているのでしょうが、もし、都市「古座」の中心を探し当て、そこに杭を打てと言われたら、私は左岸の旧古座町大字中湊の紀陽銀行古座支店前の十字路に打ち込みたい。

[80925] Issieさん
合併前の旧3町村のうちで一番西の西向に役場が置かれたのも駅のもたらす町勢の差が反映しているようにも思うのですが,実際はどうなのか。
私も実際はどうなのか分かりませんが、本当は駅も役場も左岸の旧古座町に置きたかった。でも、地形的に敷地確保が無理だった。そんなわけで、農地が広がる右岸の旧西向町に建設されることになった。地形図を見ていると、そんな感じが涌いてきます。古座町役場(現:串本町役場古座分庁舎)がいつ現在地に建てられたのか知りませんが、以前は古座橋のたもと付近にあったようです。昭和57年発行の5万分の1には、そう描かれています。

[80928] YT さん
『昭和35年国勢調査の人口集中地区の中には,5,000人に満たないものもあるが,これは,人口集中地区の設定に当たって,昭和35年国勢調査人口ではなく,昭和34年10月1日現在の調査区設定時の推定人口を用いたためである。』
例えば山梨県韮崎市のDID人口は昭和35年に4,070人、昭和40年に3,479人となっています。5,000人以上という規定を大きく下回っています。しかも、35年、40年の2回とも下回っているのは、やっぱり変ですね。昭和40年の調査で規定人口を大きく下回っているDIDとして、山梨県韮崎市3,479人、佐賀県厳木町3,565人、群馬県安中市4,401人、徳島県鴨島町4,490人、富山県福野町4,555人、北海道歌志内市4,593人などがありますが、これもやはり,『人口集中地区の設定に当たって,昭和40年国勢調査人口ではなく,昭和39年10月1日現在の調査区設定時の推定人口を用いたためである。』となるのでしょうか?。
[80895] 2012年 5月 25日(金)20:10:31千本桜 さん
Re:鶯沢町の1960年のDID
[80553] 白桃さん
ポンヌフの野洲酒場で飲んでいたら
その酒場は、ちょっと疲れた男たちが飲みにくる、こんな感じの店でしょうか。野洲酒場であれ、ポンヌフやタイガーゲートのような華やかにネオン輝く都会で飲めるのは羨ましいかぎりです。私なんぞ、友人たちに誘われて村田町まで飲みに行ったのですが、店の隣は草が繁る農業用水堀と田んぼでした。さびしかった-。

[80846] 白桃さん
鶯沢のDIDは意外でした。でも、ここには細倉鉱山があったのですね。
初めて鶯沢町の細倉鉱山へ行ったのは昭和42年か43年のことでした。鉱山事業所の周りにはDID人口5,000人ほどの町並みが展開し、映画館もあったように記憶しています。ここは江戸期からずっと鶯沢村(昭和26年に町制)の一角でしたから、この町並みを鶯沢と呼んでも間違いではないのでしょうが、一般には細倉と呼ばれています。この細倉の町並みは南郷という大字に属し、細倉という名の大字はありません。大字の南郷は幾つかの小字に分かれますが、細倉という名の小字もありません。また、町は地籍とは別に、行政区という地域区分を設けていますが、細倉という名の行政区はありません。したがって、細倉という地名は旧村名、大字名、小字名、行政区名のいずれにも該当しない俗称になりますが、地元の人はどのように地名を使い分けているのか気になります。
細倉ってどんな町?と聞かれると答に困る(記憶が薄れてしまった)のですが、当時、宮城県北でDIDを形成していた若柳、佐沼、涌谷などとは明らかに異なる雰囲気でした。平坦地の少ない地形に形成された町ですから、どこか雑然としていました。中心性、拠点性のない町ですから、どこか沈んでいるように感じました。当時、細倉はDIDを形成しない栗駒町岩ヶ崎の都市機能に依存していました。DIDを形成した町が、DIDを形成しない町の都市機能に依存するって何か変だなと思ったものですが、最近はどうでも良くなってきました。

炭鉱も含め鉱業で成り立っていた地といえば、岡山県の柵原と吹屋しか知りません。
私は柵原も吹屋も行ったことがありません。ただ、この前、テレビに吹屋が映っているのを、ちらっと見ました。鉱業で成り立っていた町は、普通なら閉山するとぼろぼろの廃虚になるじゃないですか。それなのに、吹屋には裕福そうで立派な町並みが残っていますね。不思議に思いました。
柵原の全盛期はどんな町だったのでしょうね。手もとには昭和62年発行の5万分の1地形図しかないので、それを基に柵原鉱山全盛期の昭和30年当時を想像するしかありません。全盛期の鉱山従業者数から推測すると、柵原には細倉と同規模の町並みが展開していたと思われます。しかし、平地が少ないですね。どんなふうに家屋が張り付いていたのでしょう。近世村(後に柵原町の大字)の柵原、吉ヶ原、藤原、久木4地区に跨がって、その平地を埋めるように家屋が立ち並んでいたのでしょうか。でも、4地区とも結構急斜面の山と吉井川で分断されていますね。町の「へそ」を形成しにくい地形のようですが、実際どこなんですか?柵原の中心って。どうも、柵原ではなさそうです。吉ヶ原、藤原、久木のいずれかだと思うのですが・・・。答は「へそ」のない町だったりして。
[80418] 2012年 3月 21日(水)21:28:19千本桜 さん
村が単独で町制移行する際に改称した自治体
[80336] YTさんの記述に
好地村内石鳥谷
というのが出てきます。YTさんが話題にしている事柄とは関係がないのですが、常々関心をいだいていることを「好地村内石鳥谷」に絡めて書きます。

石鳥谷は好地村の内に形成された町場(宿駅)の名称ですが、後に好地に代わって自治体名にのしあがります。昭和3年、好地村は単独で町制を敷き、石鳥谷町に改称しています。単独で町制施行するのですから誰にも遠慮は要らず、そのまま好地町を名乗っても構わないと思うのですが、わざわざ石鳥谷町に改称したのはなぜでしょう。

花巻市には、この類がもう一ケ所あります。十二鏑村と土沢の関係です。土沢は十二鏑村の内に形成された町場(宿駅)ですが、後に十二鏑に代わって自治体名にのしあがります。昭和15年、十二鏑村は単独で町制を施行して土沢町に改称。単独で町制施行するのですから、そのまま十二鏑町を名乗っても構わないと思うのですが、あえて土沢町に改称したのはなぜでしょう。思うに当時すでに、地籍を持つ公称名「十二鏑」より、地籍を持たない通称名「土沢」の方が通りが良かったからではないかと推測します。

このような事例を見るにつけ、公称村名よりも通称町場名を自治体名に採択した例は多々あるものと考えます。下に、通称の町場名に由来して改称したと思われる自治体町を掲出します。数が多いので条件を付けて絞り込みます。

条件1:村が単独で町制施行する際に改称した自治体。(村が単独で町に移行するのに、あえて改称したのは何故だろうという単純な疑問から。)

条件2:明治の大合併が済んでからの明治、および大正年間に町制へ移行し改称した自治体。(明治・大正時代に町に成れたくらいだから、そこには町場形態の都市的集落が存在した可能性が高いと思うから。)

条件3:地籍上の村名になったことのない地名を町名に採択して町制へ移行し改称した自治体。(大原、韮崎、水窪、茶屋町、辻、浜、本渡、米ノ津は藩政時代にも公称村名になったことがない(はず)。村名でなければ、町場名の可能性があるから。)

改称年旧村名新町名現行自治体名
明治32中魚落村大原町千葉県いすみ市
明治25河原部村韮崎町山梨県韮崎市
大正14奥山村水窪町静岡県浜松市
明治29江島村茶屋町岡山県倉敷市
明治40井川村辻町徳島県三好市
大正7八本木村浜町佐賀県鹿島市
明治31町山口村本渡町熊本県天草市
大正12中出水村米ノ津町鹿児島県出水市

大原、韮崎、水窪、茶屋町、辻町、浜町、本渡、米ノ津は、その起源が宿場町であれ港町であれ在郷町であれ、都市集落だったと思うのですよ。好きな言葉じゃないけれど、近隣の村落を支配する力のある町場です。地籍のない通称だったけれど、重要な地名だと思います。中魚落、河原部、奥山、江島、井川、八本木、町山口、中出水など、地籍上の公称村名に取って代わる力があったのですから。


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