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千本桜さんの記事が20件見つかりました

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[81835] 2012年 9月 12日(水)20:56:50千本桜 さん
村名と町場名の混用
江戸期、平村の中に金ヶ瀬と言う名の宿場町がありました。明治22年の町村制では、公称村名の平を抑えて通称町場名の金ヶ瀬が新村名に採択されました。この時、新村名を平とするか金ヶ瀬とするかで迷いはなかったか。記録がないので今となっては推測するのみですが、大きな迷いもなく金ヶ瀬村に決定したのではないかと思います。江戸期の頃より平と金ヶ瀬は混用されていたようですが、明治の頃には平より金ヶ瀬の呼称が多用されていたのではないかと勝手に推測をしています。さらに勝手な推測をすると、税を取り立てる官は地籍が大切だから公称村名の平を用い、世間的に通用すれば良しとする民は通りの良い町場名の金ヶ瀬を好んだのではないだろうか。そんなこんなを考えながら何年月日が経っただろう。

先日、旧家の奥様に誘われて蔵の中へ。蔵の中には江戸、明治、大正の文書、書類が保管してあるのですが、その中に明治12年の小学校卒業証書を見つけました。明治12年ですから平村の時代です。なのに、平小学校ではなく金ヶ瀬小学校と書いてあります。ああそれなのに、平小学校と彫られた学校印が押してあります。これはいったい金ヶ瀬小学校なのか平小学校なのか。こんな小さな卒業証書の中に、平と金ヶ瀬の混用の跡を発見した思いです。

町村制に移行する際、村名を捨てて町場名を新町村名にした例を何度か取り上げてきました。では、村名と町場名が同名の場合はどうなのか。例えば、明治22年、大河原村ほか3ヶ村が合併し、最大の村である大河原村の名を採択して大河原町になったと言うのが一般論です。でも、本当に大河原村の名を採択したのだろうか。もしかして、大河原村の中に形成された「大河原と言う名の町場」の名を採択したとは考えられないだろうか。こんなことを考えるのは野暮かな。でも、気になる。そんなこんなを考えながら歳をとっていくのだろう。
[81441] 2012年 8月 14日(火)21:21:59千本桜 さん
Re:旧矢吹町と広戸村の境界について
[81419] KTさん
現在の矢吹町東の内は、旧矢吹町と広戸村にまたがっていることが分かります。
調べていただいてありがとうございます。早速、KTさんが提示された境界線を繋いでみました。自然な流れの境界線で納得いたしました。東の内の西半分が旧矢吹町ということは、旧矢吹町大字大和久(江戸期~明治22年の大和久村)の一部だったのでしょうね。

5万分の1地形図「須賀川」(明治41年測図)
その地形図に注記(表記)してある集落名についてお尋ねします。矢吹町に合併した広戸村の区域は現在、境町、本郷町、南町、東の内、田内、子ハ清水の6つに区分されています。しかし、昔の5万分の1地形図は集落注記の数が今より少なかったですから、その区域内に注記された集落名はせいぜい2個程度かなと推測します。もし、私が明治41年に生きていたら、そして5万分の1地形図に注記する集落名を選択する立場の人間だったなら、現在の本郷町の家屋密集地を指して「柿之内」と注記し、田内の家屋密集地を指して「田内」と注記する。この2つで集落注記はOKかなと思いました。境町、本郷町、南町、東の内、子ハ清水は注記されていないと踏みましたが、実際のところ、5万分の1地形図「須賀川」(明治41年測図)ではどのようになっていますか。
[81281] 2012年 8月 9日(木)01:38:36千本桜 さん
鮫と湊
[81279] KTさん

江戸期には鮫が賑わい、その賑わいは明治中頃になって湊に移ったのだと思っていました。しかし、自信が無くなってきたので角川地名辞典に目を通してみました。どうやら私は覚え違いしていたようです。江戸期の内に鮫と湊の重要性は逆転していたようです。
角川地名辞典には次のように書いてあります。
天保年間になると湊へ廻船が入港するようになり、次第に八戸湊の中心は鮫湊から湊へと移っていく。
すると、八戸の外港としては鮫よりも湊の方がふさわしいのでしょうね。でも、鮫湊や湊を総称して八戸湊と呼んでいたそうで、そうなると八戸の外港は八戸?
[81277] 2012年 8月 8日(水)18:55:01千本桜 さん
八戸と鮫
現代では八戸そのものが港町として捉えられているわけですが、本来は少し内陸部に城下町・八戸の市街が広がり、その外港の役割を果たしていたのは鮫。・・・だと思います。
[81261] 2012年 8月 6日(月)06:40:26千本桜 さん
忘れてしまって漢字で書けない
[81239] 白桃さん
ところで、千本桜さんのお母様はどこなんでしょうか。

認知症で地名の記憶が失われて行くなか、今でも忘れずにいるのは生まれ故郷の「白石」です。でも、残っているのは「白石」と言う名のホルダーだけ。保存してあったファイルはことごとく破損または消去されてしまったようです。

実は私も最近になって書けなくなった市町村名が増えて困っています。三重県の「いなべ」の漢字が思い出せないのですよ。「そうさ」「しそう」もダメっぽい。これって認知症の始まりなんでしょうか。
[81260] 2012年 8月 6日(月)06:07:33千本桜 さん
赤穂と尾崎
hmtさん
「明治13年共武政表を眺める」の続編を期待しています。

明治13年共武政表「戸数1千以上地名表」を見て、おや?と思ったのが播磨の赤穂郡。リストに尾崎があって赤穂(加里屋・ 上仮屋)がないのですね。ちょっと奇異に感じましたが、当時の赤穂はその程度の町だったのでしょうか。
[81222] 2012年 8月 1日(水)07:57:03千本桜 さん
矢吹町の大字柿之内
[81213] 皿さん
他の字を合わせて大字の線を引いても、後から間違っている所が指摘されることがあるからです。

皿さんが求めている大字界線は大雑把なもので良いはずです。地権や水利権が絡むことではありませんから精密さを必要としません。ならば、角川地名大辞典とマピオンがあれば解決できる範疇の問題だとと思います。本当は皿さんご自身の手で調べてもらいたいのですが、1つだけ私がやってしまいます。大字柿之内をターゲットにします。時間がないので結果だけ書きます。なぜその結果が出たのかは書きません。
大字柿之内の領域は現在の境町本郷町南町東の内田内子ハ清水と推測しました。
大字柿之内の近隣に位置する堰の上、井戸尻、川原などは大字大和久の領域。花咲、舘沢、滝八幡などは大字矢吹の領域と推測しました。
現在の字(字か町丁かは大きな問題ではありません)をそのまま旧大字に当てはめるのは無理があるとは思いますが、こまかなことを気にしなければ、こんなもので良いのではないですか。
[81214] 2012年 7月 31日(火)01:04:27千本桜 さん
大字の探し方
[81213] 皿 さん
現時点で引っ張り出せるのは13の大字のうちわずか3つです。
その3つ、どういうわけか知らないけど、3つとも奥州街道の宿場町ですね。どのようにして引っ張り出したのですか。
[81211] 2012年 7月 30日(月)21:57:22千本桜 さん
矢吹町の大字
[81209] 皿さん
最後に矢吹町の字に関して一部確定しているところがあります。
大字矢吹:中町~本町
大字中畑新田:新町
大字大和久:大和久

ひょっとして、皿さんは矢吹町に13の大字があったことをご存知ないのでは?。だとすると、それを知ることから始める必要があると思います。13の大字名とその場所をリンクします。大字の「首部」にあたる位置にポインターが表示されるように狙い撃ちしていますのでご覧ください。
松倉中畑大畑三城目須乗神田中野目明新矢吹中畑新田大和久柿之内
これだけでは皿さんの疑問解決にはなりませんね。できるなら、私がリンクした13大字の首部と周辺部をにらめっこしながら、各大字の地域範囲をイメージして大字界線を線引きしてほしいのです。私がイメージするのではなく、皿さんがイメージするのです。

私がほしいのは、昭和54年までの矢吹町の大字図です。
それは、どうすれば入手できるのか私には分かりません。いっそのこと、 皿さんご自身が大字界図を作ってみてはいかがですか。精密さを求めない大まかなものでよければ作れるはずです。資料は角川地名大辞典とマピオンがあれば充分です。その二つを駆使すれば、大字の地域範囲と所属していた郡が明らかになるはずです。問題は皿さんが角川地名大辞典を読むか否かにかかっています。角川地名大辞典を読みたいと思われたとき、その旨を落書き帳に書き込んでください。微力ながら矢吹町の大字に関して多少のアドバイスはできると思いますので。
[81207] 2012年 7月 29日(日)23:55:14千本桜 さん
矢吹町の字(あざ)
[81198] 皿さん
福島県矢吹町の現行町名と江戸時代にのちの現在の矢吹町にあった村の位置が全然わかりません。
矢吹町の字(あざ)にハマってしまいましたね。あの町は大胆に字の整理を実施しましたから、現況の字界図をもとにして過去の村(近世村)の範囲を知るのは無理だと思います。町役場に問い合わせをするのが最良かと思いますが、それを実行しても埒があかなかったから落書き帳に書き込んだのですよね。私も三十数年前、矢吹町の字界図を入手したことがあります。でもそれはあくまでも現況字界図です。皿さんに必要なのは字の整理前と整理後をオーバーラップさせた地図ですよね。やっぱり、無いよね。役場には。困った、困った。
ところで、矢吹町の字にハマったということは、旧二本松市の字にもハマっておられるのでしょうか。
[81201] 2012年 7月 29日(日)08:35:06千本桜 さん
近世村「西野村」と町場名「米岡」
[81146] hmtさん
このような 町場名・近世村名・町村名の関係については、千本桜さんが事例を挙げて考察された 記事 が多数あります。
上にリンクしたのは一例で、マガジンの形にまとめて利用できればよいと思うのですが、私は手を出せずにいます。
千本桜さんの視点による 新マガジンの創刊を期待しています。
ありがたいお言葉、感謝申し上げます。しかし私は今、なかなか時間がとれない状況にあり、落書き帳への書き込みも途切れることがあるのが実状です。マガジン創刊など出来るかどうか自信がありません。とは言うものの「近世村と町場」、「町場名と町村名」、「公称と通称」、「住所と大字」の関係などは、次の世代に語り継がなければならない大切なものだと考えています。時間があれば何らかの形でまとめてみたいとは思っています。

近世の町場名が町村制下の村名に影響したと考えられる記事を一つ書きます。

明治22年、宮城県登米郡の西野・中津山2ヶ村が合併して米山村が成立しました。旧村名を継承する2大字を編成し、村役場を大字西野に置きました。角川地名大辞典は米山の村名由来を次のように書いています。
江戸期から干拓・開墾・新田開発の盛んに行われた米どころで、米の山を築く意味からなづけられたといわれる。
この説を否定するつもりはありません。けれども、どことなく作り話の臭いがしますね。「米の山を築く」は後で付けた理由で、本当は西野・中津山両村から1文字ずつ出し合って合成した村名だと思うのです。西野の「米」と中津山の「山」で米山です。西野に「米」の文字は見えませんが、実はあるんです。西野村には米岡と言う名の町場がありました。米岡は江戸期に商業活動を許された町場で、地籍の上では西野村に属していました。米岡宿、米岡驛、米岡町などと称されていたようですが、宿・驛・町の使い分けには明確な基準があるのでしょうか。ご存知の方、教えて頂けたら幸いです。

元来、米岡とは西野村の町場を指す地名ですが、時には西野村を指す名称としても用いられていた可能性があります。その根拠は、宮城県柴田郡において村名の前川と町場名の川崎、村名の入間野と町場名の槻木、村名の平と町場名の金ヶ瀬が混用されているばかりでなく、各地に同様のケースが見られるからです。槻木宿と書いてあるかと思えば、物によっては入間野宿と書いてあったり、入間野村と表記すべき所に槻木驛と書いてあったりで、大いに悩まされたものです。この通称町場名の川崎・槻木・金ヶ瀬は明治22年、それまでの公称村名である前川・入間野・平を抑えて町村制下の新村名に躍りでました。しかし、米岡は町村制下の新村名に躍りでることができなかった。なぜでしょうね。

なぜ米岡は町村制下の村名に採択されなかったのか。これにズバリ言及した記述を見たことがありません。そのような視点からの記録はたぶん存在しないのでしょう。ならば自分流に想像力を働かせて考えるしかありません。以下の文は想像で書く創作ですから鵜呑みにしないでください。でも本筋はそれほど大きく外れてはいないはずです。

(明治22年、西野村は中津山村との合併に向けて内部調整の話し合いをしていた。)
【西野村職員A】志田郡千石村など5ヶ村合併の新村名は、千石村の町場名をとって松山村とするそです。
【西野村職員B】桃生郡相野谷村など6ヶ村合併も、相野谷村の町場名をとって飯野川村とするそうです。
【西野村村長】すると西野・中津山の2ヶ村合併も、西野村の町場名をとって米岡村にするか。
【西野村職員A】西野村の名が消えるのは淋しいですね。
【西野村職員B】米岡村になっても西野の名は消えません。米岡村大字西野として後世に残ります。
【西野村職員A】そうなんですか。米岡も西野も消えずに残るなら、新村名は米岡村にしましょう。
【西野村村長】それに、西野より米岡の方が対外的に通りが良いだろう。
【西野村職員B】確かにそうです。佐沼や涌谷の人は西野のことを米岡と呼んでますね。
【西野村職員A】白石の近くから来ましたという人も、西野を知らないのに米岡を知っていました。
【西野村職員B】白石の近くから来ましたという人って、それ、大河原村の人だろう。
【西野村職員A】そうらしいです。なんで大河原から来ましたと言わないのだろう。
【西野村村長】主体性がないんだよ、大河原村は。我々もそうならないように気をつけよう。
【西野村職員B】やはり胸を張って自分の村の名を言えるようにしたいですね。
【西野村職員A】これからは対外的に通じやすい米岡の名を名乗り、胸を張って生きましょう。
【西野村職員B】了解しました。新村名は米岡村ということで、中津山村に話し掛けましょう。

(そして西野・中津山2ヶ村の合併協議が始まった。)
【西野村職員B】西野村としては、新村名を米岡村とすることを希望します。
【中津山村職員A】米岡って西野村の別称でしょう。西野村主体の考えは納得できません。
【西野村職員A】牡鹿郡根岸村など3ヶ村合併の新町名は、根岸村の町場名をとって渡波町とするそです。
【西野村職員B】近世の町場名をもって町村制下の町村名とする所が多いですね。
【中津山村職員B】そんな馬鹿な。人口の多い中津山が、人口の少ない西野に馬鹿にされてたまるか。
【西野村職員A】そんな馬鹿な。西野の方が人口が多いに決まってるだろう。
【中津山村職員B】そんな馬鹿な。中津山の方が多いんです。
【相談役の県職員】人口のことは落書き帳の方々が調べてくれるはずですから、話を先に進めましょう。
【中津山村職員B】中津山村としては、新たな合成村名を作ることを希望します。
【中津山村職員A】例えば、西野村の西と中津山村の山で「西山村」はどうでしょう。
【西野村職員B】西野村としては、西野より米岡の名を残したいのですが・・・。
【中津山村職員A】では、米岡の米と中津山村の山で「米山村」はどうでしょう。
【西野村村長】それは名案だ。
【中津山村村長】米どころにふさわしい村名だね。
【相談役の県職員】では「米の山を築く」という意味合いを込めて「米山村」としましょう。

こうして米山村は誕生したのではないだろうか。この場合、後世に伝え継ぐ村名由来は、下記の内のどちらがふさわしいのでしょうか。
1・西野村の町場名である米岡の「米」と中津山村の「山」を合成して「米山村」とした。
2・米どころなので、米の山を築く意味から「米山村」とした。

なお、人口のことで西野村と中津山村がもめていましたが、実際はどちらが多かったのでしょう。明治22年頃には、中津山村が西野村を凌いでいたと思うのですが、詳しいことが分かりません。ただし、西野村が中津山村を隷属扱いできるほどの開きは絶対なかったはずです。もし、西野村が中津山村を隷属扱いしていたなら「米山村」の名称は生まれず、「米岡村」の名称が誕生していた可能性が高いと思います。西野村の町場名「米岡」が町村制下の村名になれなかった理由の一つは、合併相手の中津山村が西野村に比して遜色なく、思いのほか大きな村だったからではないかと踏んでいます。
[81196] 2012年 7月 29日(日)01:15:49千本桜 さん
♪母の鞄
[81136] 白桃さん
3位 武豊(愛知) 29,634

武豊の文字から「たけゆたか」を連想する人は多いはず。ところが、私が連想するのは「武智豊子」。昔からそうでした。地図を見て武豊町の存在を知ったのは中学生の頃ですが、あれからずっと武智豊子は武豊町の生れだと思い込んでいました。実際は違うらしいけれど・・・。武豊から武智豊子を連想する人はもともと数が少ないはずだから、今となっては絶滅危惧種でしょうね。

ところで、私はいま老老介護の最中にあります。母親の口にスプーンで食事を与え、おむつの交換をする毎日。結構辛うございます。母は四捨五入すると100歳になります。認知症で親の名前も子の名前も忘れてしまいました。地名もほとんどすっかり忘れたようです。近隣の集落名は勿論、昔馴染みの人が住んでいる栃木・桐生・清水なども忘れてしまいました。そんな母が今も忘れずにすらすらと口にする地名が一つだけあります。それは、次の内のどれでしょう。

1・生れ故郷の「白石」
白石のど真んなか、中町の生れ。大正時代は町場と農村部のメリハリがはっきりしていたようで、町場生れの母の話言葉は、白石近郊の農村出身者と少し異なっていました。

2・楽しかった娘時分に暮らした「仙台」
数年間だけ仙台は大町東一番丁角あたりに住んでいました。大町と東一番丁の角といったら、銀座四丁目みたいなものです。凄い所に住んでいたんですね。

3・現在の居住地「大河原」

さて、地名の記憶が失われていく中、いまも母の脳内に張りついて剥がれないのは白石・仙台・大河原の内、どれでしょう。団塊世代のおじさんが思わず涙ぐむ静かなヒット曲、♪母の鞄をタイトルに用いました。
[81088] 2012年 7月 13日(金)20:05:41千本桜 さん
山目と中里の関係。輻輳地の鹿島台とはどこか。高須賀の輻輳地は荒浜
[81073] 白桃さん
山ノ目駅西側と(一関駅方面から来て)磐井川を渡った一帯の山目は同じ山目(旧村→旧町)なのでしょうか、多分そうなんでしょうけど、だとすると(旧)中里村が入りこんでいて不自然な気がします。
JR山ノ目駅がある場所は山目村ではなく中里村の領域です。また、また現在の新町蘭梅町山目町二丁目山目町三丁目なども元をたどれば中里村の領域でした。ですから、本来は山目村と中里村の間に不自然な領域の入込みはありませんでした。ではなぜ中里村にJR山ノ目駅や山目町があるのかというと、これには宿駅「山目」の存在が絡んでいます。山目宿は山目村と中里村に跨がる宿場で、山目町(現在の山目町一丁目、二丁目)と呼ばれる町場を形成していました。山目村に属す町場は現在の山目町一丁目、中里村に属す町場が現在の山目町二丁目です。中里村の内に山目町という町場があったわけですから、中里地区民はJR山ノ目駅や山目町二丁目の呼称も自然に受け入れていたと思います。

[81048]
明治11~13年当時、一関と山目の町並みは一体化していたのだろうか。
と書きましたが、角川地名大辞典を読んでみると、磐井川で分断されるものの、連続した町並みの様子が見えてきました。

明治11、12、13年の共武政表を見て思うのですが、宮城県の輻輳地のうち、下記の2箇所は場所を勘違いする人がいるかもしれませんね。
輻輳地明治11年の表記明治12年の表記明治13年の表記
鹿島台記載なし鹿島臺126人鹿島臺127人
高須賀高須賀村2,352人高須賀2,301人高須賀1,770人
共武政表は人口120人ほどの小さな輻輳地「鹿島台」を掲出しています。鹿島台とはどこを指すのでしょう。現代の我々が思い浮かべる鹿島台の町並みといえば、平渡地区(藩政村の平渡村)に展開するJR鹿島台駅前の町並みでしょう。でも、江戸~明治初期において平渡村内に鹿島台と呼ばれる集落があった話は聞いたことがありません。しかし、平渡地区に隣接した広長地区(藩政村の広長村)には元鹿島台(通称)という集落があり、2.5万分の1地形図にもその名が記載されています。また、宮城県各村字調書によると広長村に鹿島台(たぶん通称)があり、鹿島台には鹿島、琵琶原という二つの小字が記載されています。鹿島、琵琶原を頼りに場所を探すと、2.5万分の1地形図の元鹿島台と同じ場所に行き着きます。よって、共武政表の鹿島台とは元鹿島台の集落を指していると判断します。
また、共武政表は輻輳地「高須賀」を掲出しています。現代の我々が思い浮かべる高須賀はここ。でも、明治13年共武政表の輻輳地「高須賀」は、高須賀村の端郷で河口港の荒浜を指していると判断します。
[81048] 2012年 7月 8日(日)11:33:58千本桜 さん
岩手県の輻輳地「磐井」とは。宮城県の茶屋町ってどこでしょう。
共武政表の岩手県西磐井郡に「磐井」と言う名の輻輳地が記載されていますが、そのことでお尋ねします。磐井の人口は明治11年共武政表で4,561人、明治12年4,293人、明治13年4,310人となっています。人口規模からして磐井とは一関のことだと推測しますが、なにゆえ「一関」と表記しないで「磐井」と表記するのか、その理由が分かりません。一関城下は藩政期の一関、二関、三関の3村に跨がっていますが、3村は明治8年に合併して一関村を名乗っています。古来より城下町としての名称は一関、宿駅名も一関、村名も一関。ならば輻輳地の名称も一関で良いはずなのに、「一関」と表記できない何かがあるのでしょう。つらつら思うに、この「磐井」は一関以外のどこかを含んでいるのではないだろうか。そんな考えに至りました。一関宿の2キロほど北に山目宿があります。普通に考えれば山目は人口100人以上の輻輳地に該当するはずです。ところが共武政表には「山目」の記載がありません。そのことから、一関と山目を併せて1個の輻輳地とし、便宜上の名称を「磐井」としたのではないだろうかと考えるようになりました。明治11~13年当時、一関と山目の町並みは一体化していたのだろうか。いろいろ調べましたが定かなことは分かりませんでした。よって「磐井は一関と山目を併せた便宜上の名称」というのも、私個人の発想の域を脱していません。どなたか、共武政表に記載された「磐井」の正体をご存知の方はおられませんか。

共武政表の宮城県宮城郡に茶屋町という輻輳地が記載されています。初めて見る地名です。これは二軒茶屋のことなのでしょうか。それしか思い浮かびません。でもマピオンを見て、あれ!と思いました。本来の二軒茶屋はこのへんではなかったでしょうか。だって昔、新寺小路から延びてきた道路のこのへんに二軒茶屋南というバス停があったのですから。二軒茶屋は二軒茶屋南バス停より北にあったはずだと思うのですが、みんな遠い過去の思い出。
[81047] 2012年 7月 8日(日)10:45:29【1】千本桜 さん
町裏とは町の外側か、内側か
[81018] YTさん
これら三年分の『共武政表』はそれぞれの地方についてはるかに詳しい内容を含んでいます。是非皆さんも確認してください。
拝見いたしました。予想以上に小規模な集落まで掲出していますね。宮城県柴田郡菅生村(現・村田町)に造営された宿場町菅生驛や名取郡坪沼村(現・仙台市)に造営された宿場町赤石驛、宮城郡竹谷村(現・松島町)に形成された新田町などまで輻輳地として取り上げられているのには感動しました。
ところで、宮城県内には「町」と言う名の字(あざ)があちこちにあります。角田市角田字町、村田町大字村田字町、蔵王町宮字町、大河原町金ヶ瀬字町などです。みな町の中心部にあたります。少し詳しく見ると、金ヶ瀬の字町は奥州街道に沿った宿場町の区域であることが分かります。字町の裏側(外、陰、後、そんなイメージ)には字町裏があります。メイン道路に沿って字町が区割りされ、字町の背後には字町裏が区割りされる。それが一般的だと自分は思っているのですが、菅生(現・村田町大字菅生)の場合は様子が異なります。字町という区域がなくて、宿場の街道沿いに、いきなり字町裏が区割りされています。どう見ても町裏ではなく町そのものに見える区域です。街道を挟んで東側に連なる家並が字町東裏、西側に連なる家並が字町西裏です。主体となるはずの字町はどこにあるの?という感じです。
もしかすると、町裏=外側、背後、陰などを連想するからいけないので、裏=内側と解釈すれば良いのかなと考えたりもします。洋服の裏地は内側にありますからね。すると町裏は町の内側を指す地名、つまり町そのものになります。でも、このような考えは成立するのでしょうか?。実は竹谷村(現・松島町)の新田町にも字町裏があり、これまた街道に面した町並みの一角ですから町裏とは思えない区域です。どなたか、裏事情に詳しい方、字町裏の解釈の仕方を教えてください。
注:菅生でリンクしたマピオン地図に「町」という地名が記載されていますが、あれは字名ではありません。菅生宿の町並みの区域を指して通称「町」と呼ぶ慣わしがある。その意味での「町」です。

脱字1文字追加修正しました。
[81038] 2012年 7月 7日(土)11:51:29千本桜 さん
見ていないので難問でした
[81034] 白桃さん
次の市に共通する事柄は?
角田市 米沢市 亀山市 神戸市 伊丹市
どうでもいいけど、戸田、松本、蟹江、小野、長門、阿南に共通する事柄は?
付け加えると、平成の合併時期に惜しまれながらお亡くなりになられた前沢、石橋、津川、萩原、山崎も由紀恵ちゃんです。
[81019] 2012年 7月 1日(日)21:18:51千本桜 さん
昼夜間人口比率
[80994] 白桃さん
総務省から「従業地・通学地による○○・産業等集計」が公表になります。これで、昼間○○、昼夜間○○比率が明らかになります。
地域における中心性が高まる一方で、それに背を向けるように昼夜間人口比率が低下していく大河原町。おそるおそる平成22年国勢調査の昼間人口を閲覧すると案の定、昼夜間人口比率の下落は止まらず、前回調査の95.9%から1.6ポイント下がって94.3%まで落ち込んでいました。あーぁ、ひよわな中心都市。県は仙南圏を白石市、角田市、大河原町、柴田町を中心とする地域としていますが、力が分散して強力な中心都市が育たない地域です。大局的に見れば、昼夜間人口比率が高ければ吸引力が強く、中心性の高い自治体ということになるのでしょう。それを否定するつもりはありませんが、仙南圏の様子からは昼夜間人口比率と中心性の関連が見えてこないのです。

平成22年の昼夜間人口比率の高い順に仙南圏の自治体を並べてみます。

自治体名H22比率H17比率比率の増減H22昼間人口H17昼間人口昼間人口減少数昼間人口減少率
角田市102.5%100.8%1.7ポイント31,336人33,453人2,117人6.3%
七ヶ宿町101.6%101.9%-0.3ポイント1,721人1,907人186人9.8%
村田町101.1%98.7%2.4ポイント12,121人12,574人453人3.6%
白石市98.6%98.7%-0.1ポイント36,894人38,971人2,077人5.3%
蔵王町96.7%96.4%0.3ポイント12,463人12,838人375人2.9%
大河原町94.3%95.9%-1.6ポイント22,195人22,370人175人0.8%
柴田町92.1%91.8%0.3ポイント36,217人36,542人325人0.9%
川崎町89.8%89.0%0.8ポイント8,961人9,416人455人4.8%
丸森町86.5%87.3%-0.8ポイント13,402人14,653人1,251人8.5%

昼夜間人口比率が100%を超えるのは角田市、七ヶ宿町、村田町の3自治体。しかも前回調査(H17)に比べて角田市は1.7ポイント上昇して102.5%、村田町は2.4ポイント上昇して101.1%になっています。対して大河原町は1.6ポイントも低下して94.3%に下落しています。この数字だけから判断すると、中心性を高める角田市と村田町。中心性を喪失した大河原町になります。でも、実態は大きく異なります。

角田市、村田町の昼夜間人口比率が上昇した原因は常住人口が減少したため。大河原町の昼夜間人口比率が低下した原因は常住人口が増加したためと考えられます。常住人口が減少したために起こる昼夜間人口比率の上昇って、あまり喜べないと思うのです。

ここで、昼夜間比率ではなく昼間人口そのものの増減率を見てみます。経済活動が冷えている仙南圏では全ての自治体が昼間人口を減少させています。仙南圏の中心都市と目される白石市、角田市、大河原町、柴田町の昼間人口減少率を比較します。減少率が少ない順に大河原町0.8%減、柴田町0.9%減、白石市5.3%減、角田市6.3%減となっていて、大河原、柴田両町が何とか現状維持ぷらぷら。白石、角田両市が明らかに衰退。不思議なのは、新幹線の駅があり、高速道路のICがあり、国道4号が縦貫し、国道113号が横断し、国道457号が接続する白石市が、なにゆえ衰退状況に陥っているのかです。
[80986] 2012年 6月 22日(金)21:28:38千本桜 さん
島田は浜松の「となりまち」なんですか
市域同士が隣接しているのに、となりまち(お隣さん)と言うには違和感があるカップル20選。ランキングは私の感覚で決めただけですから異論もあろうかと思います。
1位・静岡と伊那
2位・静岡と飯田
3位・浜松と飯田
4位・高山と白山
5位・高山と大野
6位・高山と大町
7位・札幌と伊達
8位・新発田と喜多方
9位・高梁と庄原
10位・大野と白山
11位・大野と関
12位・富山と大町
13位・仙台と尾花沢
14位・宮古と花巻
15位・新潟と長岡
16位・田辺と新宮
17位・浜松と島田
18位・富山と高山
19位・鳥取と津山
20位・岩国と益田
ランキングの圏外ですが、前橋と桐生も「となりまち」らしくないカップルです。市原と君津も微妙な隣接市ですね。市原の隣は袖ヶ浦で、その先に木更津があり、そのまた先に君津があるから、市原と君津は「となりまち」ではないと思っている人も多いのではないでしょうか。
[80971] 2012年 6月 17日(日)01:42:41千本桜 さん
♪安芸灘の風
安芸灘とびしま海道のイメージソング♪「安芸灘の風」を聴きながら空想旅行をしています。還暦を過ぎたシンガーソングライター・レーモンド松屋が、エレキギターを弾きながら唄うロック調の歌謡曲である。歌詞には関前、観音崎、とまちせと、御手洗、大長港、下蒲刈、恋ヶ浜、十文字山の地名が織り込まれていますが、東北地方に住む私には馴染みの薄いものばかりです。以前から名称と場所を知っていたのは関前と下蒲刈だけ。御手洗と大長は何かで見覚えのある地名でしたが、場所を探すのに少し手間取りました。なお、安芸灘に浮ぶ島々の中に観音崎、とまちせと、恋ヶ浜、十文字山なる場所があるのは全く知りませんでした。どんな所だろう、ちょっと調べてみよう。という訳で、5万分の1地形図を引っぱり出して空想旅行に出発です。

1番の歌詞。歌い出しは「青くやわらかなこの海は島々つつむゆり籠」。とびしま海道のイメージソングにぴったりな良い歌詞だと思います。そして「関前の空~」、「観音崎からあなたを見送る~」と続きます。どうやら舞台は岡村島のようです。しかし、「とまちせとで その日が来るのを待ってた~」の歌詞に、はたと困りました。地形図に「とまちせと」の表記がない。「とまちせと」とは何ぞや。分からないのは後で調べるとして先に進むことにする。

2番の歌詞。舞台は岡村島から大崎下島に移りました。「御手洗の古い町並み歩いた~」、「大長港みかん船~」、「きっと来るあなたは来る安芸灘の風に乗って~」。どうやら、この歌は東から西へ向かって進んでいるようです。最後は本州島の川尻か仁方に辿り着くのでしょうか。

3番の歌詞。「下蒲刈のあかりの館訪ねた~」。あれれ・・・、豊島と上蒲刈島を飛び越えて一気に下蒲刈島まで行っちゃいました。飛び過ぎですよね。豊島と上蒲刈島を素通りしてはまずいと思ったか、レーモンド松屋氏はくるりと方向転換して東へ逆戻り。上蒲刈島へ戻って「恋ヶ浜の海まぶしく~」、豊島へ戻って「十文字山で遥かに見つめる~」、「きっと来るあなたは来る安芸灘の風に乗って~」と唄いあげます。

地理的に見れば♪「安芸灘の風」は順路が変だと思う。しかし、レーモンド松屋氏の優れた音楽性がそれを吹き飛ばしてしまう。それに、私の周りにいるカラオケ好きのオジさんたちは、関前がどこにあり下蒲刈がどこにあるかなど一向に気にしない。たぶん「とまちせと」が何であるかも気にしないだろう。「とまちせと」の正体を追って、マピオンを拡大してみました。すると、ありました。岡村島の西端に戸町鼻というのが・・・。この戸町鼻と中ノ島の間の水域が戸町瀬戸なのだろう。では、なぜレーモンド松屋氏は「戸町瀬戸」と書かずに、ひらがなで「とまちせと」と書くのだろう。ここから先は全くの推測ですが、戸町瀬戸を単なる地名に終わらせたくなかった。「とまちせと」と表すことで膨らみを持たせたかった。レーモンド松屋氏は「とまちせと」と唄う時、きっと頭の中では「ひとまちせと」と唄っているのではないだろうか。そうあって欲しいと願いながら♪「安芸灘の風」を唄ってみよう。「あれからずっと ひとまちせとで その日が来るのを待ってた あなたは来る きっと来る いくつもの橋を渡って~」。すばらしいイメージソングだと思います。被災した三陸の海辺にも、こんな力強く期待に満ちたイメージソングが作られ、観光キャンペーンが展開される日が来ることを願っています。
[80942] 2012年 6月 7日(木)20:07:53千本桜 さん
DID上位150都市、赫下バス停、和歌山市街図の「○○地区」
[80928] YTさん
その昔某所でこういう試算をしたことがありますけど、今ならもっと楽ですね。
http://mimizun.com/log/2ch/geo/1078037542/104-180
力作ですね。大変だったでしょう。私も40年ほど前、似たようなことをしました。当時、すでに世の中には電卓が普及していましたが、電卓を使う習慣がなかったので「そろばん」で計算しました。作業中何度も「俺はいつまでもこんな無益なことをやっていて良いのか」と思いましたが、いまとなっては「それで良かったのだ」と自分に言い聞かせています。DIDデータを加工し、独自のデータを作り出すのは楽しいですね。でも、私が本当に欲しいのは、市町村の境界線に拘束されずに集計された昼間人口集中地区昼間人口です。しかし、その基礎データがないですね。メッシュ統計に進めば良いのでしょうが、高額すぎて手がでません。

[80937] hmtさん
現地レポ はバス停ですが、片方は別の字と間違えられています。
面白い現地レポ、ありがとうございました。「はけ」に「赫」を用いるなんて大胆ですね。思わず顔がニヤケてしまいました。地元住民はバス会社に訂正を要求しないのでしょうか。そもそも「赫」という字は滅多に見かけないから、地元の人も何がなんだか分からないまま見ぬふりなんでしょうか。私も「赫」という字は、東千代之介夫人で女優の千之 赫子(ちのかくこ)さんの名前を介して知るのみです。千之 赫子さんは他界して久しいのですが、赫子(はけこ)なんてイヤよ、赫子(かくこ)と呼んでと苦笑いしていることでしょう。

[80940] レインメイカーさん
昭文社の県別マップル和歌山県版や関西版で、和歌山市の地図を見てみると、「○○地区」というのが表記されていました。
この件については全然詳しくありませんが、つい反応して昭文社の地図を見てしまいました。確認したのは、2008年発行「県別マップル和歌山県道路地図」の15,000分の1和歌山市街のページと、昭和61年発行「25,000分の1和歌山市広域図」の2種類です。レインメイカーさんが書いておられるとおり、どちらの地図にも「○○地区」の文字が表記されていました。ところが、双方ともに今福高松和歌浦田野の4地区名を表記していません。最初は表記漏れのミスかと思いましたが、どうやら、やむをえず意図的に表記しなかった可能性が高いようです。あの辺りは文字情報や線情報が込み入っている区域なので、編集者は地区名を挿入するスペースがないと判断したものと推察します。でも、25,000分の1には無理としても、15,000分の1には工夫をすれば「○○地区」の文字を表記できそうな気がしました。レインメイカーさんの質問に対する回答になっていなくてごめんなさい。


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