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出石隠さんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[34873]2004年11月6日
出石隠
[34872]2004年11月6日
出石隠
[34733]2004年11月3日
出石隠
[34730]2004年11月2日
出石隠
[34569]2004年10月28日
出石隠

[34873] 2004年 11月 6日(土)16:56:23出石隠 さん
出雲 高校
白桃さん 本当に残念でした。(まだ可能性は残っていますが)
悔しさのほど、その書き込みから伝わってきます。
当方、全くと言っていいほど期待はしておらず、また1回戦負けだったこともあり、今回の選抜はまず無理です。バッテリーが双子の兄弟、堅守と粘りが身上の好チームですが、投手が肩を壊し、10個以上の与四死球。控えのレベルが今一で、県、中国大会通じて9人で戦ったとのこと。夏以降を期待しています。
[34872] 2004年 11月 6日(土)16:44:50出石隠 さん
出雲 石見
[34739] 笠津前浜 さん
雲北という言い方もあるのでしょうか。

私は全く聞いたことがありません。これに変わるものとして、宍道湖の北側を湖北と呼ぶことがよくあります。湖南はあまり使わず、宍道、玉湯と町名を用いたり、9号線沿いと呼んだりします。(湖南は中学校名、工業団地名などにあります)また、出雲市や松江市周辺の住民は、島根半島の山塊を北山と呼んでいます。それぞれの地域から見える山は違うのに、いずれの地域も北と南に山地を抱えているので、結果として同じ北山という名称を用いているのでしょう。ちなみに南山とは言いません。それこそ、雲南とか、中国山地の方とか、町名や郡名を用いて称しています。

石東文化ホールという名称の建物は無かったことを思い出しました。

浜田、益田に比べて、大田の規模が小さく、出雲など東部地域と距離が近いことから、該当の施設が出来なかったのではと推測します。これらの施設はいずれも県が主導で建てたものです。大田には数年前、あすてらすという県女性センターが駅前に立ちました。県と市が寄り合いながらやっていかざるを得ないです。
石東の名は、企業の営業所名などに時々使われています。圧倒的に大田を使われることが多いのですが。
[34733] 2004年 11月 3日(水)00:01:30出石隠 さん
三次へ
[34718] 美濃織部 さん
先日、三次市の方へ車を走らせていたら、豊栄町と旧・三和町の境標識が、「三和町」から「三次市」に変わっていました。合併から半年たっているので、まあこれはあたりまえ(違和感はありますが)。で、さらに進むと、旧・三和町と旧・三次市の境にまた標識が。んん?と思いよく見ると、合併前は「三次市」だったのが、「三次市下志和地町」と変わっている!

R375ですね。自分も3週間前に通りました。「三次市下志和地町」には、なるほどねと感心しましたが、なんか変な感じでした。
[34730] 2004年 11月 2日(火)23:41:36出石隠 さん
津和野と日原と美濃郡・・・島根県石西(せきせい)
11月1日付けで美濃郡美都町、匹見町が益田市に編入合併し、美濃郡が消滅しました。
匹見町は社会科の教科書に過疎の村として写真が掲載されるところです。昭和38年の豪雪以来人口が減少し続け、平成12年には約1800人、面積が約300平方キロ、人口密度は約6人/平方キロです。美都町も約2700人、面積約130平方キロ、人口密度約20人/平方キロです。新益田市は人口約54000人、面積730平方キロでスタートです。旧益田市からみると、面積が430平方キロ増えたのに対して、人口は4千数百人しか増えていません。ツキノワグマの生息地である西中国山地北側の大部分が、日本海や山口県と接する益田市に加わりました。

益田市の南側には鹿足郡4町村、日原町、津和野町、柿木村、六日市町があります。当初この4町村で合併協議が進んでいましたが破局。日原・津和野、柿木・六日市という組み合わせになりました。柿木・六日市の合併は来年秋の予定で順調に協議が進んでいるようですが、日原・津和野は05年3月の期日にこだわる津和野と延期を求める日原との間で、いざこざが続いているようです。町名を津和野、本庁舎を日原に決めたのは良いのですが、津和野側は津和野分庁舎に本庁舎とさほど変わらぬ機能を持たそうと要求しているとのことです。
津和野はネームバリューの割に小さな町です。日原は津和野に隣接しながら、鉱山があったため、津和野藩領ではなく天領になっていました。傍から見るより拮抗したライバル関係にあるようです。破局の可能性も残っています。

ちなみに島根県西部の旧国名は石見と言いますが、大田、邇摩郡を石東(せきとう)、浜田、江津、那賀郡近辺を石央(せきおう)、益田周辺を石西(せきせい)、邑智郡は邑智、鹿足郡は鹿足と呼ぶことがあります。
[34569] 2004年 10月 28日(木)22:27:03出石隠 さん
きっと大田市
地元で毎日ニュースに接していると、この合併の行く先がなんとなく見えてきます。
ちなみに1市2町の人口は、( http://www.pref.shimane.jp/section/chihou/d-book/
 大田市 仁摩町 温泉津町 合計の順で
 平成 2年 36,922 5,506 4,863 47,291
 平成 7年 35,333 5,174 4,446 44,953
 平成12年 33,609 4,911 4,053 42,573
 平成15年 33,066 4,879 3,853 41,798
10年で約1割、人口が減少しています。平成以降、島根県内で人口が増加しているのは松江、出雲およびその周辺のいくつかの町村に限られており、石見と呼ばれる西部地域市町村の大半が10年間で5%以上の人口減少を記録しています。大田地域も例外ではありません。今後も、多少鈍化するようですが、減少傾向は変わらないようです。打開策や振興策とかが既に効かない状況です。この状況で活きていかねばなりません。

合併に伴う新市名は、温泉津町、仁摩町が折れて、大田市となることでしょう。(自分勝手な予測です。)
できることなら、大田市長はじめ執行部が、議会および市民に対して、納得のいく説明をして、石見銀山市を採用するように持っていって欲しかったです。市長が協議会に対して、大田市を要望したことから、温泉津町、仁摩町は嘆息しながらも受け入れることになると思います。
私が石見銀山にこだわる理由のひとつに、「石見銀山から産出された銀が世界へ流通し、加工され、今でもあちこちで使われているのでは?」という思いがあります。石見銀山は初め山口の大内氏が支配し、その後、尼子氏、毛利氏との三つ巴の争奪戦を経て、近世には天領として、徳川家のものになります。近世も初期以降は、産出量が随分と減少したようです。大内氏は室町幕府と明との正式な貿易とは別に、私的に明との貿易を行っていました。また、近世の銀山最盛期は鎖国に入るまでであり、ここから産出された銀の多くは海外へと輸出された可能性が高いと思われます。世界遺産登録に向けて、今後研究が進められていく分野だと思います。

市名が大田になっても何の違和感もないです。中心市街地、3市町で人口、面積とも最大、韓国大田市との友好関係などなど、新市名に大田がふさわしい十分な理由があります。ただ、やっぱり自分は石見銀山市がいいなあ・・・しつこい!


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