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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

都道府県内の特色ある「部分地域名」

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記事数=41件/更新日:2005年7月11日/編集者:YSK

茨城県における「鹿行」や、福岡県における「筑豊」など、都道府県内部の部分地域を示す地名には、味わい深いものが案外多いものです。それらについて、落書き帳に寄せられたメッセージの中から拾ってみました。アーカイブズ合成地名(自治体名)の実際にも実例を紹介していますので、参考にしてみてください。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[746]2002年1月28日
Issie
[914]2002年2月17日
Issie
[821]2002年2月6日
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[1742]2002年6月4日
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[2309]2002年7月25日
Issie
[2975]2002年9月9日
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[3264]2002年9月22日
深海魚
[3265]2002年9月22日
Issie
[3535]2002年10月3日
Issie
[4071]2002年10月22日
桃象
[5467]2002年11月27日
実那川蒼
[5567]2002年11月28日
Issie
[6804]2002年12月22日
YSK
[9170]2003年2月13日
YSK
[9175]2003年2月13日
YSK
[9923]2003年2月27日
Issie
[12456]2003年4月4日
三鈴
[14025]2003年4月26日
深海魚
[14031]2003年4月26日
Issie
[14403]2003年4月30日
TGRS
[14711]2003年5月5日
ken
[14716]2003年5月5日
Issie
[17873]2003年7月6日
NS
[18793]2003年8月3日
YSK
[18959]2003年8月10日
太白
[18966]2003年8月11日
YSK
[21065]2003年10月15日
Issie
[22897]2003年12月20日
今川焼
[30575]2004年7月15日
hmt
[34398]2004年10月22日
PUFF
[34730]2004年11月2日
出石隠
[34872]2004年11月6日
出石隠
[36518]2005年1月7日
Issie
[40077]2005年4月19日
千本桜
[42947]2005年7月10日
かすみ
[42955]2005年7月11日
通りすがりの和歌山人

[746] 2002年 1月 28日(月)18:50:34Issie さん
Re:沖縄の郡
書かなくても困らないからじゃないかな。
北海道も普通,郡なんて使わないでしょ。こちらは支庁で十分。

米軍統治下でも市郡町村レベルの区画には変更はありませんでした。
本土で地方自治法が施行されると,沖縄でもそれに準じた条例が制定・施行されています。で,真和志市はじめ浦添市までの各市が米軍統治下で誕生したのです。
ただし「琉球政府」が発足するまでの過程では「沖縄」「奄美」「宮古」「八重山」の各“群島政府”がつくられたりしています。奄美=大島郡,宮古=宮古郡,八重山=八重山郡ですね。

沖縄に“本土並み”の地方制度(府県制・市制・郡制・町村制)が施行されたのは明治も終わりになる頃です(「沖縄県」自体は1879年の琉球処分で設置されていますが)。「郡」という区画が沖縄に実施されるのもこのときが初めてで,沖縄諸島が「国頭郡」「中頭郡」「島尻郡」の3郡に分けられ,宮古諸島と八重山諸島がそれぞれ1郡とされました。
だから律令時代以来ずっと「郡」を使用している本土に対して沖縄にはなじみが薄かったかもしれません。
ただ,沖縄地域をこの5区域+1地域(奄美)に区分する分け方は琉球王国以来,本島を「国頭」「中頭」「島尻」の3地域に分けるのは15世紀に統一されるよりも以前,14世紀に島内の3つの勢力がそれぞれ別個に中国(明)に国王の地位の承認を求めたときのそれぞれの勢力の縄張りに由来します。
だから「郡」という呼称とは関係なく,「国頭」「中頭」「島尻」という地域呼称そのものは大変に歴史のあるものです。
[914] 2002年 2月 17日(日)20:32:34Issie さん
上越・中越・下越
> 新潟県は畿内に近い方から上越、中越、下越と区分される

いつから始まった区分なのか私は知らないのですが,通常「上越」は高田や直江津(つまり上越市)を中心とする頸城地方を指します。県北部の岩船地方や北蒲原地方が「下越」なのは疑いがありません。
微妙のなのは「中越」と「下越」の境界と,新潟の位置付けです。
通常,「中越」というのは長岡を中心とする地域と理解されていて,その場合には長岡市(古志郡と三島[さんとう]郡にまたがる)を中心に古志・三島・刈羽の各郡および魚沼3郡と,それに三条を中心とする南蒲原地方が含まれます。
「下越」を新潟を中心とすると考えれば岩船・北蒲原に加えて,西蒲原・中蒲原・東蒲原3郡も「下越」に含まれることになります。でも文化的には,新潟は中越の方に近く,先の岩船・北蒲原に限った方が合理的なこともあります。
つまり,一番問題なのは蒲原地方をどうわけるか,ということなのです。

行政の立場では,やはり新潟を「下越」に含めることが多いのですが,「中越」との境目はそれぞれの機関によってまちまちです。
ご参考までにこちらをどうぞ。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/kubun/tyubu_1.htm#niigata
気象庁の予報区分についてはこちらを。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/tenki/t-hoku.htm#niigata

> これらの区分と「柏崎県」との関係は?
これはこちらを。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/k-tyubu.htm

魚沼地方は「中越」に含まれます。特に上越線(これは“上州・越後間の路線”という意味。頸城の上越とは全く無関係)で長岡と結ばれた北魚沼(小千谷が中心)と南魚沼(一応,六日町が中心)は問題ありません。ただ,十日町を中心とする中魚沼地方は高田・直江津方面との結びつきも強く,衆議院の中選挙区時代には上越と同じ「新潟4区」に含まれていました。長岡を中心とする中越地方は,言わずと知れた「新潟3区」ですね。「1区」は新潟近郊と佐渡,「2区」は下越というわけ。

> 千曲川と信濃川の分界

長野県と新潟県の県境です。
越後の方では「信濃から流れてくる川」という意味で「信濃川」と呼んでいるのでしょうね。
信州では「千曲川」というオリジナルの名前があるし,“信濃を流れているのは自明の理”という意識があるのかもしれません。
相模川は「相模の真ん中を流れ,相模を代表する川」という意味なのでしょうが,信州の人にはそういうネーミングをする感覚がなかったのかもしれませんね。
このあたり,昔からそう呼んでいるだけで別に理屈はないでしょう。全国で命名法が首尾一貫している必然性など,どこにもありません。

> 「千曲」と「筑摩」

「千曲川」というのは,漢字で書いたとおりの意味だと言われていますが,どうでしょうか。
「筑摩」は今でこそ「ちくま」と読んでいますが,もともとは「つかま」と読んでいました。現在でも,松本市南部の「筑摩地区」は「つかま」と読んでいます。
だから,これは“偶然の一致”と考えてよいでしょう。
[821] 2002年 2月 6日(水)18:30:16Issie さん
桧山奥尻島
> ちなみに、「桧山奥尻島」というのは聞いたことがありません。本当に予報されているんですか(笑)?

「桧山奥尻島」というのは「二次細分区域」ですね。「北空知」「中空知」「南空知」なんかもそう。
「桧山奥尻島」の上には「桧山地方」,「北空知」ほかの上には「空知地方」という区分があります。こちらは「一次細分区域」。
気象庁の天気予報は,この一次細分区域単位で発表されます。二次細分区域は警報や注意報を発令する単位として使用されます。最近は地震が発生したときの震度の第一報もこの二次細分区域単位で発表されています。その後,市区町村ごとの詳しい震度が発表されますが。

数年前までは二次細分区域まで設定されている地域は多くなかったのですが,気象庁は全国的にこれを設定して警報や注意報を出す区域を小さくする作業を続けています。そのようなわけで,今年の3月1日からは全国各地で今まで聞いたことがないような単位で警報や注意報が発令されているのを聞くことができるでしょう。
[1008] 2002年 3月 1日(金)20:25:10Issie さん
湘南
話題の気象予報区の細分化で,神奈川県でも一次細分区域の「東部」と「西部」に二次細分区域が設定されて,それぞれ「横浜・川崎」「三浦半島」「湘南」,「県央」「西湘」「丹沢・津久井」という区分が生まれました。
しかし,初日の3月1日は天気が平穏で,この予報・警報区分の初登場はないようです。
茨城県の「鹿行(ろっこう)地域」は新設以来わりと早く登場して,今や関東地方の天気予報では常連に近いのですが。でも,特に茨城県以外の住民にはなじみのない地域呼称だから(茨城県民にも?),今日夕方のNHKのローカルニュースでも「鹿行ってどこ?」という視聴者の質問に対する解説が流されていました。

で,その「湘南」なんですが,相模湾沿いの藤沢市・茅ヶ崎市・高座郡(寒川町)・平塚市・中郡(大磯町・二宮町)というのはまあ順当として,これに座間市・海老名市・大和市・綾瀬市が加わります。これは,新しい解釈ですね。
神奈川県では通常,座間市以下の4市は厚木市・愛甲郡や相模原市と一緒に「県央」として一くくりにすることが多いのです。
今回の場合は,二次細分区域を設定する前に一次細分区域で「東部」と「西部」の境界が相模川でなく,左岸(東側)の相模原市が「西部」,右岸(西側)の平塚市・中郡が「東部」に区分されていて,西部のうちから“相模原市(旧高座郡北部)+厚木市(旧愛甲郡)・愛甲郡+伊勢原市・秦野市(旧中郡北部)”を「県央」として,残った旧高座郡中部の4市を「湘南」にくっつけたことによるようです。
それにしても,小田急・相鉄線沿いの座間や大和が「湘南」とは,以前陸運支局の新設で「相模」ナンバー(地元では“すもうナンバー”などと呼ばれる)から「湘南」ナンバーが分離したとき,箱根や足柄の山奥が「湘南」になると言って話題になったのと同じように,少しばかり違和感を感じる話ではあります(なお,問題の4市の自動車は「すもうナンバー」です)。

「湘南」についてはもう1つ。
年が改まる頃から,相模湾沿岸6市町(藤沢・茅ヶ崎・寒川・平塚・大磯・二宮)合併による「湘南市」構想が話題になっていて,そのための手続きが着々と進んでいます。
こちらの「湘南」は,ごく順当な違和感のない範囲なのですが,関係市町の中では特に茅ヶ崎市が“気乗り薄”です。
今朝の神奈川新聞には,茅ヶ崎市が市民に行ったアンケートで「茅ヶ崎」の地名が消えることに住民の大半が反対している,という記事が載っていました。
合併に気乗り薄な市のやるアンケートですから結果にバイアスがかかっているのかもしれませんが,バイアスがかかっているという点では合併推進派の行うアンケートもさして信用はおけません。本当のところ住民の意思がどこにあるのかは,上尾市のように正式な住民投票でもしない限り,わかりゃしない,ということだと思います。
サザンオールスターズで売込みを図っている茅ヶ崎としては,あの「勝手にシンドバッド」で一躍有名になった地名(それ以前から“風格”のある地名という意識があったようですが)がなくなるのは嬉しくない,という気持ちがあるのかもしれませんね。

ちなみに,「湘南」という地名は明治半ばに使われ始めたのですが,その範囲と由来については諸説入り混じってよくわかりません。
ただし,行政上の地名として最初に現れたのは,町村制の施行で誕生した「津久井郡湘南村」。何と,海とは全く関係のない丹沢山地の東端で,現在の城山町の一部です。かつての村名は「町立湘南小学校」として今も存続しています。
町の語るところによれば,この場合の「湘」とは相模川のこと。
城山町から相模原市にかけての相模川沿岸は明治・大正・昭和初期にかけて著名な景勝地でした。その風景を中国の「湘江」(湖南省)に見立て,この村が相模川の南側にあたるというので「湘南村」になった,ということになっています。
海の方の湘南では,また別の説明があるのですがね。
[1018] 2002年 3月 3日(日)12:19:16Issie さん
気象予報区と一般的な地域区分とのズレ
福岡県の朝倉地方(甘木市・朝倉郡)は「筑前国」に属するのですが,気象予報区分では「筑後地方」に含まれます。
こういうズレは全国を見渡すと少なからずあります。
本質的には気象予報のための区分ですから自然的条件が第一には自然条件が優先されるのが当然ですが,一方で行政区分や人文的な地域のまとまりも考慮する必要もあって,この2つの兼ね合いで決まってくるのでしょうね。

> 隣の栃木県でも地域名に「毛」の字を使う権利があるはずなのですが、なぜか群馬県内だけに、この地域名称が息づいています。

そのかわり「野(や)」は下野(栃木県)が独占していますね。
上野(群馬県)の方は,本来は接頭辞に過ぎない「上」を使って「上州」。
考えてみれば「毛」は群馬県内では多用されるけれど,県外ではあまり知られていないかもしれません。

> 小笠原諸島には注意報・警報は出されないのでしょうか?

衛星放送が始まって小笠原にも短波以外の放送電波が届くようになってから,NHKの天気予報では「小笠原」の予報も放送されるようになっていますね。
だから,どこかの気象官署が小笠原の気象予報を出しているはずです。もっとも,民間用で必要なのは「父島」と「母島」だけですが。
ところが,予報・警報区分について定めた気象庁の「規程」に小笠原は入っていないのです。小笠原と同じく米軍の占領下にあった沖縄は,恐らく「本土復帰」の段階で付け加えらているのですけどね。
[1261] 2002年 4月 15日(月)21:37:54Issie さん
岩代国
「習篠原」とか「以和貴市」なんていうオヤヂギャクそのものの,デキの悪い語呂合わせは私自身は穴に入りたいくらい恥ずかしくて大嫌いなのですが,名づけた人は真剣なのだろうから(その伝説が本当なら)それ以上は言いますまい。

さて,「岩代国」。
これそのものは,1868年にそれまでの「陸奥国」が分割されて 磐城・陸前・陸中・(新)陸奥 とともに新設された区画ですね。同時に旧出羽国が 羽前・羽後 に分割されています。
「岩代」と「磐城」の領域は,設置直後にお互いの入れ替えがあるようですが,最終的には
【岩代国】
岩瀬・安積・安達・信夫・伊達・会津(分割→北会津・南会津)・大沼・河沼・耶麻
【磐城国】
西白河・東白川・石川・田村・菊多・磐前(いわさき)・磐城(以上3郡合併で石城[いわき])・楢葉・標葉(しねは:以上2郡合併で双葉)・行方(なめがた)・宇多(以上2郡合併で相馬)・亘理・伊具・刈田(かった)
の各郡となっています。
「中通り」は見事に「岩代」と「磐城」に分断されていますね。

「浜通り」「中通り」という地域呼称がいつ成立したか私はわからないのですが,戦国末期から江戸時代を通じて「海道筋(古代東海道の延長,勿来関の先)」・「仙道筋(古代東山道の延長,白河関の先)」という呼称があったようですから,独立性の強い「会津」と一緒に,奥州南部を3つの地域に区分する方法は割と古くからあったのでしょう。

「岩代国」「磐城国」そのものは明治初めに新設されたといいつつ,そのルーツは奈良時代に短期間,「陸奥国」から分離して設置された「石背(いはせ)」「石城(いはき)」にあります。それぞれの領域を当時の郡で示すと
【石背国】
白河(→西白河・東白川・石川)・石背(→岩瀬)・安積(→安積・安達・田村)・信夫(→信夫・伊達)・会津(→会津・大沼・河沼・耶麻)
【石城国】
石城(→磐前・磐城・楢葉)・標葉・行方・宇多・亘理,および常陸国から菊多
ということになります。
白河/白川(表記が2つあるのは“東”白川郡が一時別の名前で呼ばれていたことがあるせいのようです)郡や田村郡など,奈良時代と明治とで領域に微妙な違いがありますね。

「いはき」の方は陸奥への再統合後も「磐城郡」として残って,近世にも「磐城平(藩)」のような形で使われてそれなりに定着しているのですが,「いはせ(いはしろ)」の方はどうでしょう。同じく「岩瀬郡」という郡名は残されたけど,「磐城」に比べるとマイナーな感じは否めません。
明治になって「岩代」が使われているのも,国鉄の駅名や郵便局名などと主に官庁系の機関での同名回避のための使用,という感じが強い気がしますね。「岩代町」というのも合併自治体にありがちな“無難な命名”という感じで。
地元にはどれくらい定着しているのでしょう。
[1321] 2002年 4月 23日(火)23:55:57Issie さん
湘南村
「湘南市」がもし誕生したとするなら,これもまた過去の自治体名の使いまわしです。
前にも話題にしましたが,1955年まで県内北部の津久井郡に「湘南村」がありました。4月1日に川尻村,三沢村中沢地区と合体して「城山町」となり現在に至ります。
津久井郡は神奈川県内の地域区分では「県北」とされるのですが,この場合の「湘南」は“相模南部の海岸”という意味ではなくて,“相模川の南”という意味です。何でも,この辺りの相模川の風景を中国の湘江にたとえたらしい。
実際,上流に相模ダム(相模湖)と城山ダム(津久井湖)ができて川の水量が減ってしまうまで,戦前にはこの辺りは東京からお手頃な景勝地で,現在の相模原市の田名地区の相模川沿いは「水郷田名」と呼ばれ,小田急の鶴川から支線(別会社だけど)が作られかけたことがあります。
横浜線の淵野辺から途中まで開通寸前まで行ったけど,昭和恐慌の影響で挫折しました。
[1488] 2002年 5月 13日(月)23:46:44YSK さん
三遠南信について
三遠南信は、かつては一体的な生活圏を持った地域で、古くから地域的な交流のあった地域です。現在でも、寺社の祭礼等に共通性が見出されています。
しかし、

(1)近代以降における東西方向の交通軸の発達、特に戦後の東名高速、中央道の発達は、南信の東京・名古屋との一体性を強化させ、結局「南信」を、「三遠」から分離させる結果となった。
(2)行政的にも3県にまたがることとなったために、一体的な経済圏が形成されにくくなった。みなさんも日常的に感じることと思いますが、日本の企業は県単位に事業所網を張り巡らします。このことも、「南信」と「三遠」の分離を加速させた。

などの過程を経て、長野・愛知・静岡の山村地域を中心としたかつての一体性は薄くなっていったのでした。

現在、三遠南信では、かつての一体性を取り戻し、山村地域を活性化すべく、さまざまな取り組みが進められています。JR飯田線に豊橋~飯田間の特急を走らせたり、静岡と長野の子供たちが交流活動をするなどです。しかし、高度にモータリゼーションが進んだ現在、そのような取り組みが結実することは容易ではありません。三遠南信道は、そのような状況のもと、計画されたものであると思います。

しかしながら、道路公団のあり方や、明らかに経済効率を欠くような(誤解を恐れずにあえて言います)高速道路網の計画ラッシュなどを考え合わせれば、「なぜここに道路が必要なのか」という議論や路線の評価はなされなければなりません。

苦境にある山村地域の振興の起爆剤になるのか、赤字のさらなる累積の長物になるのか。なかなか難しいのが、現実のようですね。

でも、わたしは、そういった地域性の再生には、すごく期待している一人です。

参考文献 三遠南信地域経済開発協議会(1997):「三遠南信ネットワーク-地域連携軸への挑戦-」
[1742] 2002年 6月 4日(火)20:45:21Issie さん
日田郡
負けなかったですね。歴史的な超大金星です。
(冷静にものを考えろ。「初めてリードを取った」チームだぞ。「初めて勝ち点を取った」チームだぞ。日本の実力は,まだまだその程度なんだ。トーナメントなんて出られたらそれだけで歴史的大勝利。期待だけはしましょうね。)

で,本題。
日田郡が大分県というのは,水系や今の県域で判断すると少し奇異に感じるのですが,要は日田郡が古代の律令時代以来「豊後」に属していたから,そうなっただけですね。
今の福岡県と大分県という区分からすると,筑後川上流域の日田郡が豊後,そして大分県というのは変です。でも,北九州市の小倉(←豊前国企救郡)と戸畑(←筑前国遠賀郡)の境界から始まる「筑豊国境」をたどっていくと,日田郡が豊後そして大分県に属しているのは自然に見えてきます。ちょうどこの線が九州にとって「南北の“正中線”」に相当するのですね。
日田盆地からは筑紫(つくし)の中心たる博多よりも,豊(とよ)の中心地域である瀬戸内海海沿岸の京都(みやこ)郡や宇佐地方に近いですね。ヤマトからのアプローチなら当然,瀬戸内に面したトヨ(京都郡周辺)やオホキタ(大分郡周辺)からヒタ(日田)に入ったことでしょう。
7世紀頃に,ヒタ地方が「トヨ」改め「豊後」に属したのは,そんなつながりがあるんじゃないかしら。

小国が肥後,というより「アソ(阿蘇)」に属するのは,よくわからないですね。ヤマトの影響下に入る前からアソの支配下にあったんでしょうか。
「小国」という地名は外に越後(新潟県)や出羽(山形県)にもあるのですが,肥後のそれも含めて,どれもが「をぐに」という地名のとおり,こじんまりした地域を構成しています。そして,時に応じて周辺地域に含まれたり含まれなかったり。

越後の小国の場合,現在は刈羽郡に属していますが,過去には魚沼郡に属したり,独立していたり。刈羽郡というのは本来,柏崎で日本海に注ぐ河川の水系を領域とするのだけれど,小国地方(小国町)は信濃川水系の渋海川の谷間であり,実際に(刈羽郡の)柏崎よりは(古志郡の)長岡との結びつきが強い。
出羽でも肥後でも,「小国」というのはちょっとまわりとは違ったまとまりを持ってきているのかもしれません。
ちなみに,ウチの母方の田舎は新潟県小国町。林家こん平が言うところの「チャーザァ村」です。
[2309] 2002年 7月 25日(木)20:35:56Issie さん
Re:鵜殿村
>合併前の複数の村に跨る設立区分なので組合立になったとして、この御船村、井田村とは
>現在、どこの自治体に所属するのやら。

どちらの村も現在は紀宝町の一部になっています。
というより,井田・御船(みふね)・相野谷(おのだに)の3村が1954年10月31日に合体町制を行って紀宝町となったわけです。
ここの場合,自治体の組み合わせが変わっても通学区域の事情からか,組合を解消していないのでしょうね。
当て推量ですが,紀宝町の発足に際しては鵜殿村も対象になっていたのではないでしょうか。でも鵜殿村は合併には参加せず,単独自治体を維持したのでは。
紀宝町の役場の所在地と両町村の中心市街地の連続を見れば,全体で1つの市街地を構成し,2つの町村とも新宮と一体の都市圏を作っているように思われます。

>南予地区では経済、行政上の中心地は宇和島市と
>思われますが、この辺りだと、距離的に近く、土佐くろしお鉄道の延伸で相対的な地位が
>向上したとされる宿毛市への指向性が強いのかも。

ここも自治体としては御荘と城辺に分かれていますが,おっしゃるとおり市街地は連続した一体的なものです。南予(宇和)地域は明治に4つの郡に分割されたわけですが,この分割には蓋然性が感じられますね。
宿毛から宇和島へは3度ほどバスで移動したことがありますが,道路が飛躍的によくなった現代でさえ南宇和地方の宇和島(北宇和地方)からの隔絶性はかなりのものが感じられます。行政上は御荘と城辺の両町にわたって南宇和郡を管轄する県や国の出先機関が置かれています。
確かに宿毛との往来の方が楽に感じられましたが,では宿毛にどれだけの求心力があるか。
中村が高知県西部の中心なのですが,御荘まで影響が及ぶかどうか(バスが直通するのは宿毛までですね)。このレベルまで来ると,やはり宇和島となるような気がします。
[2975] 2002年 9月 9日(月)22:17:51YSK さん
地域区分
近畿や東海の地域区分について、いろいろ議論がありましたね。

私は、三重県は東海、山梨県は関東甲信越とします。
理由は、地方ブロックのスケールで考えると、三重が名古屋圏、山梨が東京圏と判断されるからです。
どうしても、私には都市の経済的な勢力圏から地方区分をしてし合う癖がありまして。

でもやっぱり、[2971]Issieさんのご意見の通り、人や企業の数だけ地方区分の考え方があってもいいとうことでしょう!

ところで、話は変わりますが、三重県南部の地域呼称として「東紀州」というのがありますね。これは、北牟婁郡・南牟婁郡がかつての紀州の一部であったからですが、まず地域区分として都道府県や地方ブロックが出てきてしまいがちな中で、こういった味のある部分地域の呼び名には、なにか親しみを感じてしまいます。
[3264] 2002年 9月 22日(日)20:54:46深海魚[雑魚] さん
仙台方面雑感
所用方々、仙台に行って参りました。連休が絡んだのを幸いに、松島まで足を伸ばしましたが、
高速道路の整備は福音ですね。本塩釜駅前や松島海岸付近で渋滞を招来しそうなクランクを
擁する国道45号線への集中度が緩和された事は画期的です。それでも渋滞していましたが。
用地確保難と、元々の設立区分の違いから仕方無い事かも知れませんが、観光拠点と思しき
仙石線松島海岸駅の直ぐ裏手を走る東北線にも駅が出来れば、松島への観光客輸送の他に、
相互乗り入れが無くとも、仙台への速達性を第一義とした緩急接続効果があると思われます。
利府付近で枝線が暫定開通しているのは、東北道の仙台以北方面への利便性向上の為かな。

帰途、仙台空港に寄った関係で、白石まで久々に国道4号線を経由。船岡や大河原辺りでの
郊外型店舗の展開状況には目を見張るものがあり、船迫団地などの宅地開発との相関性が
如実に見て取れる感じです。ところで、大河原付近では、店舗や事業所の名称で 「仙南」 と
称している事例が多々散見されました。仙台の南方との意味かと思いますが、地域呼称では
一般的なものでしょうか。そういえば、瀬峰から築館や登米に至った軽便鉄道は 「仙北鉄道」。
そう考えると、何か由緒あるものなのかな。「仙南」 「仙北」 というと、秋田県の横手、大曲の
界隈を連想しますが、ここでいう 「仙」 の意味や相当自治体の範囲が良く判りません。

YSKさんに御教示頂いた国見SAからの福島盆地の展望は、雨でさっぱりでした。やはり
県境の峠という事で、天候の急変が往々にして見られますね。118号線のバイパスの状況を
視認しようと矢吹ICを経由して見れば、間も無く空港前まで延伸されるあぶくま高原道路が
旨い具合に接続道路 (しかも矢吹IC-矢吹中央ICは無料開放。) として機能していました。
この道路、福島国体や未来博を契機として建設されたものと思われますが、地図から思うに、
郡山、ひいては福島から空港へのアクセスを意識した経路ではなさそうで、どちらかというと
白河側が利する様に感じます。首都機能移転の候補地たるを意識した結果かな。
[3265] 2002年 9月 22日(日)21:22:06Issie さん
仙南・仙北
>「仙南」 「仙北」 というと、秋田県の横手、大曲の界隈を連想しますが、ここでいう「仙」 の意味や相当自治体の範囲が良く判りません。

これは宮城県内で行われている地域呼称で,恐らくは「仙台」の北もしくは南という意味なのでしょうね。
手許に 宮城県高等学校社会科教育研究会地理部会 が編纂した『宮城県の地誌』(2001年)という本があります。
私たち(神奈川県高等学校教科研究会社会科地理部会)が作った本(『新・神奈川県の地理』,1996年)でもそうですが,この手の本では必ず最初に対象とする地域について地理的視点から区分を行います。自然,行政,経済,その他,さまざまな視点があるのですが,それらを総合して最終的には最大公約数的な区分をして,それぞれの地域について記述する。
で,この本では宮城県を以下のように区分しています。

・仙台とその周辺: 仙台市,塩竃市,名取市,多賀城市,宮城郡,黒川郡
・仙南地方: 白石市,角田市,刈田郡,柴田郡,伊具郡,亘理郡
・石巻周辺と本吉地方: 石巻市,気仙沼市,桃生郡,牡鹿郡,本吉郡
・仙北地方: 古川市,加美郡,志田郡,玉造郡,遠田郡,栗原郡,登米郡

行政などで使われている地域区分も,ほぼこれと同じですね。

一方,秋田県の「仙北」は,前九年・後三年の役の当事者の片割れである清原氏の勢力範囲として,つまりこの頃から使用されていた比較的古めの地域呼称ですね。「仙」と「山」とは,しばしば交換可能な字のペアーですから,「山北」という表記もあったのではないかと思われます。
(場所が違うけど,越後(新潟県)岩船郡の最北部も「山北」と呼ばれますね。読みは「さんぽく」が普通ですが。)
とりあえず,宮城県の「仙南」「仙北」とは直接つながらないとは思いますが。
[3535] 2002年 10月 3日(木)23:39:06Issie さん
南葛
[3532]
>「南葛なんとか」

現物を見ているわけではないので推測ですが,それは「南葛飾」のことではないでしょうか。
東京の隅田川以東の墨田・江東・葛飾・江戸川の各区がかつて所属していた「南葛飾郡」。
Yahoo で検索をかけてみたら「南葛建設業協会」なんてのがヒットしました。江戸川区にある組織です。

あと,可能性があるのは奈良県の「南葛城」だけど,清里に保養所をつくるかしら。

なお,前のところにもちょこっと書きましたが,字をひっくり返して「葛南」とすると,千葉県の「東葛地域」(東葛飾)南部,東京湾岸の浦安・市川・船橋の3市の地域を指します。

さらに,「葛飾」つづき…
現在は江戸川区にある「葛西」という地名は遅くとも中世までに現れているものですが,元の範囲は現在よりもずっと広く,“下総国葛飾郡”の西部,中世までの渡良瀬川(太日川=現・江戸川)以西の区域を指しました。
だから後の「南葛飾郡」や埼玉県の「北葛飾郡」の区域にだいたい一致します。
[4071] 2002年 10月 22日(火)15:30:18桃象[桃象@国仲涼子ファン] さん
石岡地方の合併
雑魚さんを初めとする皆さんに質問があります。

茨城県は歴史的に5地域(県央,県北,県西,鹿行,県南)に分かれており,地方総合事務所もこの地域区分にある程度沿った方針の下に置かれています。

一方,石岡市を中心とする石岡地方の市町村合併の動きもかなり具体的なものが見られるようになっています。様々な合併案が検討されているようですが,その中でも特に有力と見られているのが,石岡市,玉里村,小川町,美野里町の枠組みです。ところが,石岡市と玉里村は県南地域に属するものの,小川町と美野里町は東茨城郡であり,県央地域に属しています。もし,この1市2町1村が合併して新しい市になったときは,この新しい市は県央地域,県南地域のどちらに属することになるのでしょうか。

==
[5467] 2002年 11月 27日(水)08:51:56実那川蒼[あんどれ] さん
府県統合案とテレビ局再編構想
[5462](ニジェガロージェッツさん)
ひょっとしたら福井県は嶺北と嶺南に分割して嶺北を9)に、嶺南を10)に
含めるのかもしれません。
福井県および国土地理院のホームページから嶺北と嶺南の人口および面積を算出しました。
(面積が0.01平方キロだけ増えていますが、誤差の範囲としてそのままにしています)

地域人口面積・平方キロ
嶺北676,4593090.29
嶺南152,4851098.47

これを基にして9)と10)を修正すると以下のようになります。

番号構成する都道府県人口面積・平方キロ
9')富山、石川、福井(嶺北)2,978,28711522.73
10')滋賀、京都、福井(嶺南)4,139,7089728.77

話は変わって、総務省では地上波テレビ放送のデジタル化に伴い、
テレビ放送局を再編する構想があります。
同県内の局を統合するか、他県の同系列(日本テレビ系やフジテレビ系など)の局と
統合するかはまだ未確定ですが、[5462]のように再編されるのも良いかもしれません。
ただその場合は、関東や近畿は複数の州で1エリアにするにしても、
山陰や岡山香川はエリアの分割が避けられないかもしれません。
[5567] 2002年 11月 28日(木)22:47:36Issie さん
国郡制
[5536] f さん
>藩は明治時代初期の廃藩置県で県に生まれ変わりましたが、国は廃止されていませんよ。ただそれを使う習慣がなくなっただけです。

[5543] 夜鳴き寿司屋 さん
>明治の県の再編では国は解体しても郡の解体の例はなかったはずです

そうですね。これは f さんの言い方が適当だと思います。
「県」と「国」とは別の体系による区分ですから,「国」が「廃止・解体」されて「県」に置き換えられたわけではなくて,「府県-市郡-区町村」という体系が公私両面で定着するとともに,従来の「国-郡」という体系が使われなくなり,次第に表面から姿を消した,ということです。
それでも時々顔を出しますよね。「さぬき市」とか「飛騨市」とか…。まだ「国」が生きている証拠です。

「国(くに)」「郡(こおり/ぐん)」という行政区画が公式に位置付けられたのは8世紀に確立した「律令制」によるものです。その整備が始まるのは7世紀後半の天武朝(もしかしたら,もう1つ前の天智朝=近江朝)にまでさかのぼるようですが,現在の形がほぼ確立するのは奈良時代半ばのことです。今の表現を使えば,718年制定(701年の大宝令を改定)・757年施行の「養老令」を“根拠法令”としています。
「令」とは現在の“行政組織法”に相当しますが(「律」は“刑法”),この「令」によって国内は「国-郡-里」という体系に区分されました。ただし,末端の行政区分に当たる「里」は,奈良時代後半になると「郷」という単位に変わります(詳しくはもう少し複雑なのだけど,ここでは省略)。

一方で平安時代には「荘園」が形成され,それが都のエライ人(皇族・上級貴族・大寺社)の所に集まってくるとともに「不輸・不入の権」を獲得して「国」の行政機関(国衙,国庁,国府などと呼ばれる。少しずつ意味が違うけど)の支配が及ばないところとなります。荘園は「○○荘」と呼ばれ,これも地域区分の単位となっていきます(「荘」は「庄」とも書かれます。つまりこの場合,この2つの字は“同じ字”です。たとえば「本荘」も「本庄」も同じ地名です)。
それに対して,国府の支配下にある地域を現在の用語では「公領」「国衙領」と呼びますが,「国領」とも呼ばれました。各地に存在する「国領」という地名はこれに由来します。
律令制では中央から国府に派遣される行政官(国司:長官(かみ)=守,次官(すけ)=介,三等官(じょう)=掾)が「国」の行政を行うことになっているのですが,平安時代後期に荘園制が確立するのと並行して国司は実際には任地へ赴任せず,「国」は中央の有力貴族の領地に近い存在に変質して,国司の代理として派遣された「目代(もくだい)」が現地採用の国府の役人(在庁官人。地元の有力武士)を統括して行政実務(主に税の徴収)を行うようになりました。
こうして地方行政レベルでの律令制(国郡制)は形骸化してゆきます。

鎌倉時代,「守護・地頭」支配を通じて地方現地での支配権は武士のものになります。荘園では,名目上の支配者である公家や寺社と現地での支配者である武士との間で“縄張り”を折半したりもしたのですが,戦国時代までに彼らの名目上の支配権も失われます。
この間,「国」は全国を適当に区分する単位として律令時代以来のものがほぼそのまま使用され続けますが,「郡」や「荘園」は様々に分割されました。「荘(荘園)」を分割する単位として「条」が使われたりもします(上条・中条・下条,北条・南条・西条・東条など)。

16世紀末の豊臣秀吉の天下統一によって久しぶりに成立した強力な中央政権の下で,かなり混乱していた「郡」が再編され,同時に「国」の範囲も確定されました。明治以降の「国」の領域は,この時のものを基本的に継承しています。
また,全国的に行われた検地によって「村」が基礎的な行政単位として位置付けられました。「村」単位で期待される収穫高が算定され,年貢を徴収する基礎単位ともなりました。
こうして整理された「国-郡-村」という区画を単位にして,大名や旗本に対する領地の“あてがい”が行われました。で,そうしてあてがわれた大名の領地が「藩」と呼ばれる,幕府の直轄地が「天領」と呼ばれるわけです。

明治維新で天領や旗本領などが没収され明治政府の直轄領となりました。政府はそこに「府」(主要都市など)や「県」を設置します。
1869(明治2)年の「版籍奉還」で諸侯(大名から改称)たちが所領の支配権を天皇に返還し,改めて天皇から「知藩事」に任命される,という手続きを経て,はじめて「藩」が“公式の行政区画”として位置付けられます。
そして1871(明治4)年の「廃藩置県」で「藩」が廃止されて「県」に置き換えられたのです。

この間,「国」は全くいじられていません。
“根拠法令”たる「養老令」は形式上は実に幕末まで行き続けて「王政復古の大号令」(慶応3年末,太陽暦では年が明けて1868年初)でようやく廃止されるのですが,「国」はとっくに政治上の実質を失って慣習上の地域呼称になってしまっていたので関係なかったのでしょうね。そしてそれっきり,そのまんま現在に続きます。
「郡」は1890年の「郡制」で府県と町村の間の“制度上”の行政区画として郡役所と官選の郡長,および郡会と郡参事会が置かれますが,1921年・1926年の2段階に分けて行政上の機関は廃止されました。以来,単なる地域呼称として現在に至ります。
そして「市」は「郡」に含まれないという規定により,市の増加とともに郡の範囲は徐々に縮小しているのです。
[6804] 2002年 12月 22日(日)17:16:44【1】YSK さん
鳥栖と米原レス
ADSL回線利用へ移行する工事がなかなかうまくいかず、昨日1日こちらに来られませんでした。今日未明になってやっと開通したので、ある程度料金を気にすることなく、アーカイブズ編集ができます。よかったよかった♪

[6660]雑魚さん
>鳥栖市と米原町との地勢比較の考察については、広域中心都市となる街との距離を考
>えた場合、鳥栖-福岡の方が、京都-米原よりは近いですし、米原は彦根という古く
>からの街を控えて、鉄道の要衝として便宜的に拠点化した経緯があり、更には、以東
>の東海道線沿線域が、降雪の多い関ヶ原越えにかかる関係で、都市圏から逸脱する事
>情もありますね。
米原町が単独で鉄道の要衝としてのポテンシャルを得ているのではなく、滋賀県北部の中心都市の1つである彦根市が本来果たすべき都市機能の一部が、たまたま米原町域に米原駅として存在しているという理解でよろしいのでしょうか?

>対して鳥栖の場合、鹿児島線本位で見ると、荒尾まで福岡市の経済圏と思しき中にあっ
>ての中間点と、立地条件は有利かと思います。
時刻表を見てみましたが、確かに博多発の普通列車の終着駅が荒尾または大牟田ですね。このあたりの事情から、福岡市の経済圏を荒尾までと判断されるわけですね?

>地図で見ると、筑後川を挟んだ久留米の方が、街は大きい様ですが。
久留米市は、福岡県南部(筑後地方)の中心都市で、鳥栖市よりは大きい町だと思います。日本の場合、各都道府県を統括する中心都市がまずあって(ほとんどの場合各都道府県庁所在都市)、そのもとで県内の部分地域を担当する副次的な中心都市が発達することが多いのです。久留米市も、筑後地方の中心都市として拠点性が高く、福岡市との結合関係の中、成長しているといえるのではないでしょうか。

福岡県の場合、日本海側、有明海側、周防灘側と比較的多様な地域が広がり、かつ人口が多いという事情から、各部分地域の地域としての独自性が明確な感じがいたします。これを端的に表現しているのが自動車のナンバーですね。
福岡県の場合、福岡、北九州、筑豊、久留米と4つのナンバーがありますが、筑豊を除けば、これが県内の部分地域の区分と、中心都市の名前に符合します。
ただ、筑豊地域は飯塚市あたりが中心的な都市になりそうですが、石炭産業の斜陽化に伴う地域の等質性の低下と、福岡、北九州両都市圏の拡大の影響を受けているように思われます。
また、北九州市も、県内の部分地域の中心都市という機能以上に、大都市としての基盤を備える都市という側面があることも忘れてはなりませんね。
[9170] 2003年 2月 13日(木)23:05:45YSK さん
群馬県の地域区分講座
[9169]seahawk さん
なぜ群馬県は地域名に「毛」をつけるんですか?旧国名を上野と言ったのは分かるんですが。
[1017]に簡単に書いたことがあります。上野国(≒群馬県)と下野国(≒栃木県)は、かつて「毛野(けぬ)国」と呼ばれていました。後に、上毛野と下毛野に分割されて、「毛」の字が省かれて、上野と下野へと変化したのです。群馬県を指して「上毛」と呼ぶのはそのためです。そして、「毛」の字を基本に県内の部分地域は呼称されるようになり、東毛、西毛、北毛、中毛(「中毛」という言い方は最近はしなくなりつつありますね)という地域名称が誕生しました。

同じ毛の国、栃木でも「毛」を使いそうですが、栃木県では「野」の字を使います。「東野交通」とか、「野州」とかいう言い方は、栃木県のみに通用しますよね。

さて、次に地域区分ですが・・・

[9161]special-weekさん
東毛は伊勢崎か藤岡あたりになるのでしょうかね
群馬県民の感覚からは、伊勢崎も藤岡も「東毛」にはなりません。
#伊勢崎市は近年前橋市との結びつきを強めたためで、年配の方の中には、もしかしたら伊勢崎も東毛と感じる方もいらっしゃるかもしれません。

次のリンクの群馬県地図(上毛新聞HP内、合併情報)をご覧下さい。
http://www.raijin.com/news/kikaku/sichoson/index.htm

東毛:東毛広域、桐生広域
北毛:渋川広域、(利根)沼田広域、吾妻広域
西毛:高崎広域、(多野)藤岡広域、(甘楽)富岡広域
中毛:前橋広域、伊勢崎(佐波)広域
※( )内は、広域市町村圏の名称には含まれる地名

とするのが一般的でしょう。高崎市は県央地域とするよりは、「西毛」の中心都市とする見方が伝統的です。
ですので、高崎市と前橋市を含めた県の中央部を指す場合は「県央」、前橋市を中心とした地域を指す場合は「中毛」という使い分け方をするのだと思います。
[9175] 2003年 2月 13日(木)23:59:29【3】YSK さん
両毛地域とは/群馬県の自動車ナンバー
今日は本当に忙しいですね。群馬県民&両毛人冥利に尽きます・・・。

まずは、special-week さん、群馬における「毛」の謎、群馬県の地域区分などは[9170]に書きましたのでご覧下さいね。
伊香保も、北毛地域に入るんですよ。

さて、両毛地域については、[2883][5850]あたりに詳しく書かせていただきましたが、栃木、群馬がともに「毛」の国であったということから、もうお分かりですよね。2つの「毛」の国にまたがった地域、という意味です。

とはいいましても、「両毛」が現在の地域を指すようになるまでにはいくつかの段階を経ておりまして、まず「広辞苑」を参照しますと、上毛野(上野;上州)と下毛野(下野;野州)の併称とだけ書いてあります。つまり、当初は「両毛」とは現在の栃木県と群馬県とをひっくるめた言い方だったんですね。

その後、両方の毛の国を結ぶ路線として「両毛線」が敷設され、徐々に「両毛」が栃木、群馬両県にまたがった地域(両毛線沿線)を指す言葉に変化したものと思われます。そして、機業地域としての同質性などから一体的な生活圏が形成された足利、佐野、桐生、太田、館林の5都市を中心とした地域が両毛地域と呼ばれるようになって、現在に至ります。

とはいえ、長野原町の人でさえ「両毛」の意味をよく知らないというのですから、群馬県は「群馬」という名前でゆるやかに結合した、分散型の地域であることを改めて実感しますね。

参考:両毛広域都市圏総合整備推進協議会HP
http://www.sunfield.ne.jp/ryoumoukouiki/

[9169]seahawk さん
個人的な意見としては、県央と東毛の2つに分割する案がいいと思います。
地域研究家さんともども、私案をご支持いただき、ありがとうございます。

3つに分割するのであれば県央地区を「群馬」「上毛」「上州」のいずれか、北部は「赤城」「榛名」「群馬」のどれか、東部を「東毛」「太田」(YSKさんの街であると共に東部地区の中央にある理由から)がいいと思います。
県央地域は、いっそ「前橋高崎」にしてしまうのも案かもしれません。「尾張小牧」があるんですから、こんな群馬らしいナンバーがあってもいいんじゃないでしょうか。高崎が、前橋を先にするのは嫌だ、といっても自治体コード順ということで折れていただきましょう。

また、「太田」を推挙いただき、感動です。実は、太田市は「スバル」で知られる富士重工の発祥の地で、現在でも本工場があるなどの「自動車の町」ですので、「太田」ナンバーもやむを得ないかな、という地域感情はあると思っています。

前橋、高崎、草津のナンバーを使うのはタブーではないでしょうか?草津は特にかなりはずれの位置にありますね。伊香保などの別の有名な温泉地を無視して草津とつけてしまえば、群馬でナンバー戦争が起こってしまうでしょう。あと、滋賀県にも草津市があるのでそれを避けるというのも一つの理由です。
草津は有名ですが、地元の感覚ではあまりに北西に偏ってますね。気象予報区の二次区分でも「水上北毛」と「草津北毛」に分けていますからね。よって、私はまたしても4文字ナンバー「草津水上」を推します。

[9173]special-weekさん
県央を上州とするのもちょっと厳しいです。上州のイメージはやっぱり空っ風ですよね。空っ風は赤城山から吹きつける風ですから県央地域を表すにはそぐわないでしょう。
上州=上野(こうづけ)≒群馬県、すなわち上州は群馬県の代名詞なのですから、県央であろうが、草津であろうが、太田であろうが、群馬県内である限り「上州」です。
それに、「空っ風」はなにも赤城山の独占物ではなくてですね、冬季に日本海側から太平洋側に吹きつける北西季節風のことですから、赤城山からの「赤城颪(おろし)」、榛名山からの「榛名颪」、浅間山からの「浅間颪」もすべて「空っ風」です。もっと広域に解釈すれば、筑波山の「筑波颪」も空っ風になるでしょうか。
申し上げにくいのですが、何か、群馬県の地域構造をあまり的確に頭に描いていらっしゃらないようですね・・・。まあ、この間startさんが都道府県に行ったことがあるパーセンテージを算出していらっしゃいましたが、群馬県は関東地方中ではワーストでしたからね・・・。もっと群馬のこと、両毛のことを分かってもらえるように、YSK、頑張ります!

しかし、
それだったらむしろこの際、お隣栃木県と自動車登録の県境を取っ払てしまい、両毛ナンバーを創設したらいいんじゃないですかね?
という案は、私が密かに思っているウルトラC案です。群馬県東毛地域に、現「とちぎ」ナンバーの地域を合わせて「両毛」ナンバーができたらいいなと、不可能なこととはいえ、いつも妄想しています。
この場合、小山市と下都賀郡は両毛にはなじまないので、「宇都宮」ナンバーに変更することが必要かもしれませんね。

とはいえ、上州空っ風、かかあ天下に義理人情といったすさまじい地域イメージを与えられ一体性を指摘されがちな群馬ですが、以上にお話しましたとおり、実際はさまざまな地域性に溢れたエリアのゆるやかな共同体といった感覚の地域なのですね。
このことを考えますと、「両毛」ナンバーができないのであれば、無理に複数のナンバーに分けるのではなくて、そういった諸々をうまく象徴した県名「群馬」ナンバー1つでいくのが、実は一番群馬らしい道なのではないかな、と考えております。
[9923] 2003年 2月 27日(木)21:01:34【1】Issie さん
Re:下諏訪と上諏訪
[9918] TN さん
前々から疑問に思っていたのですが、下諏訪と上諏訪で人口が3万人くらい違っていたりしますが、あの2つの街は何が違っているのでしょうか。

一言で言うと,上諏訪は「城下町&宿場町」,下諏訪は「門前(鳥居前)町&宿場町」という由来の違いがあります。
現在の市街地はいずれも甲州街道の宿場町を中心に発展したものですね。

さらにその背景にあると思われるのは,「諏訪大社」が「上社(かみしゃ)」と「下社(しもしゃ)」とから構成されていることであろうと思います。

諏訪大社は男女2柱の神様を祭った社です。
男神のタケミナカタノミコトを祭ったのが「上社」(「本宮(ほんみや)」=諏訪市中洲 および 「前宮(まえみや)」=茅野市宮川),女神のヤサカトメノミコトを祭ったのが「下社」(「春宮(はるみや)」および「秋宮(あきみや)」=ともに下諏訪町)。「上社」は諏訪湖の南側,「下社」が諏訪湖の北側にあって,大雑把に諏訪地方は両社の“領分”に分かれています。“上社の領分”の中心市街地が上諏訪,“下社の領分”の中心市街地が下諏訪,ということになります。

下諏訪は下社の門前に,中山道と甲州街道とが合流するという2つの条件を背景に発展しました。これが「下諏訪宿」。
一方,上社の方は近世以降に主要交通路として発展した甲州街道・国鉄中央線からは外れてしまっているために門前町の発展はあまり顕著ではありません。
かわって16世紀末に築城された高島城をかすめる甲州街道上の集落が宿場と城下町の商業地区=町人町の機能を兼ねて発展しました。これが「上諏訪宿」。
高島藩の行政機能を引き継いだ関係で,県の出先機関をはじめとする管理中枢機能は上諏訪の城下町地区に集中しています。

冬の寒い朝に凍結した諏訪湖上に現れる「御神渡り(おみわたり)」という現象は,湖の南側の上社に祭られた男神が北側の下社に祭られた女神に逢いに訪れたときの通り道,とされています。
また,6年に一度(「7年に一度」という数え方もある),寅と申の年に行われる「御柱祭り」は,要するに4つの宮のそれぞれ4隅に山から伐り出したモミの丸太を立てて“結界”を作る,という極めて原始的なお祭りで,上社は八ヶ岳から,下社は霧ヶ峰から丸太を曳き出してくるのですが,そのとき上社の御柱には角(つの)が取り付けられるのに対して下社の御柱には角,つまり出っぱりがありません。なぜかと言えば,上社の神様が「男」で,下社の神様が「女」だからです。
下社の神様は「安産・子宝の神様」でもあります(上社の神様は,一面でたいへん乱暴な神様なんですけどね)。
この御柱祭りで上社の御柱を曳き出すのが諏訪市・富士見町・原村の域内の村々,下社を御柱を曳き引き出すのが下諏訪町・岡谷市の村々,ということになっています。

長野県内の地域区分では諏訪は「南信」の一部とされるのが普通なのですが,自他共に“伊那谷”とは別,という意識が強いように感じます。
諏訪地方の支配者は,甲州の武田氏に乗っ取られたり(“諏訪四郎勝頼”がその象徴ですね),他氏が配置されたりした戦国末期から関ヶ原直後を除いて,ほぼ一貫して古代から近世末まで諏訪大社の神職と,その出身の諏訪氏でした。
さらに御柱祭りへの参加を通じて,住民の「諏訪」への帰属意識は比較的高いのではないかと観察されます。
おそらくここでは,「諏訪」が現諏訪市,つまり上諏訪の独占物という意識は薄いのではないかと思います。
ここの2市3町村が合併した場合の新自治体名は「諏訪市」というのが最も自然なように感じるのですが,どうなるのでしょうね。
[12456] 2003年 4月 4日(金)22:50:20三鈴 さん
紀南と南紀
[12421]ken さん
旧国名略字一字+方角という場合、多くの場合、東予、南予、西予、東伯、南濃、北勢、南勢、甲西、とか、
自治体名以外でも、北信、東信、南信、北総、北摂、など、方角字が上に来るのが当然のような気がしていましたが、改めて 考えて見ると、尾西市、阿南市、日南市、泉南市、駿東郡、など、語呂によって、方角字が下のものも結構ありますね。

三重県では、旧伊勢の地域は、北勢・中勢・南勢と方角字を上に付して呼ぶのに
県内の旧紀伊の地域は、紀北(尾鷲市+北牟婁郡)、紀南(熊野市+南牟婁郡)と呼んでいるようです。
「紀南」は、和歌山県側でしばしば用いられる「南紀」と、区別する意味もあったのかもしれません。
[14025] 2003年 4月 26日(土)10:51:20深海魚[雑魚] さん
ローカルな合成地名
[14023] uttさん
過去ログでも少し言及しましたが、茨城県の場合、久慈郡と那珂郡で 「久那/くな」、鹿島郡と行方郡で
「鹿行/ろっこう」、稲敷郡と北相馬郡で 「稲北/とうほく」 という様な地域呼称も用います。各税務署の
管轄域との整合性に基いている様ですね。
[14031] 2003年 4月 26日(土)11:48:45Issie さん
Re:合成地名
[13998]三鈴 さん
[14023]utt さん
[14025]雑魚 さん

ウチんとこのHPで「一覧表」シリーズを始めた目的の1つは,このようなローカルな地域区分と地域呼称のデータを収集することにありました。
こんなページにまとめてみました。ご参考までに。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/kubun/kubun.htm
(別に「最新のデータ」を提供することを目的にしていないので,2001年9月1日現在で以後の更新はほとんどしていません。一部,途中まで更新したものもありますが,面倒なのでやめました。)

この手の官庁関係では,県内の地域を“適当”にまとめるために,いわゆる合成地名を多用しているようですね。
4、二つの領域を合わせた総称
これが基本です。

そもそも,1890年ごろの郡制施行に際して統合新設された郡の呼称など,このパターンのオンパレードですよね。
 岐阜県 羽島郡 ← 羽栗郡 + 中島郡
 佐賀県 三養基郡 ← 三根郡 + 養父郡 + 基肄(きい)郡
枚挙に暇がありません。

郡としては統合されなくても,茨城県の「鹿行地域」(鹿島郡+行方郡)とか,千葉県の「海匝(かいそう)地域」(海上郡+匝瑳郡),長野県の「更埴地域」(更級郡+埴科郡)という例も少なくありませんね。

もう1つ,領域は1つ(1郡)で,その中心都市名と郡名との合成,というのもあります。

前に話題になっていた青森県の「三八(さんぱち):三戸郡 + 八戸市」というのがその代表例。
長野県はこの手の呼称が多用されていて
 上小(じょうしょう): 上田市 + 小県郡
 飯伊(はんい): 飯田市 + 下伊那郡
 松筑(しょうちく): 松本市 + 東筑摩郡
 大北(だいほく): 大町市 + 北安曇郡 (なぜか「大安」ではない)
 須高(すこう): 須坂市 + 上高井郡
 中高(ちゅうこう): 中野市 + 下高井郡
 長水(ちょうすい): 長野市 + 上水内郡
 飯水(はんすい): 飯山市 + 下水内郡
というのが,目につきます。
神奈川県でも
 横三(よこさん): 横須賀市 + 旧三浦郡(三浦市・葉山町)
 高相(こうそう): 旧高座郡北部(大和・綾瀬・座間・海老名)+ 相模原市
という呼称が使われることがあります。

まだまだ「市」の価値が大変に高く,郡内に市が1つくらいしかなかった頃(つまり,郡の中心都市だけが市になっていた頃),「市」になったことによって「郡」の領域から離れた市の名前と郡名とを併称したことによるものと思われます。
[14403] 2003年 4月 30日(水)22:31:39TGRS[津軽衆] さん
広域合成地名(青森県の場合)
[13993] utt さん
以前、青森県を旅行中、「三八上北」という地名を聞きました。(中略。三沢か三戸かで)ちょっと言い合いになりました。
どうやら悲しい思い出の地でもあるようですが、青森県。
[13998] 三鈴 さんがさっそく答えてくださいました。
「三八上北」は、三戸郡+八戸市+上北郡(含:十和田市・三沢市)を意味していたように記憶しています。
青森県内では「三八上北」は天気予報の地域区分にもなっているほどメジャー単語なのですよ。
青森県はこの「広域合成地名」で県内をきれいに分けておりまして、これがYSKさんが展開している[14230]広域市町村圏のエリア(青森県編)とほぼぴったり重なるのです。
広域合成地名よみ構成市郡名
東青とうせい青森市・東津軽郡
三八さんぱち八戸市・三戸郡
上十三かみとおさん十和田市・三沢市・上北郡
下北しもきたむつ市・下北郡
中弘南黒ちゅうこうなんこく弘前市・黒石市・中津軽郡・南津軽郡
西北五せいほくご五所川原市・西津軽郡・北津軽郡

三八と上十三を一緒にした場合は「三八上北」となります。

最近は「中弘南黒」がさすがにわかりづらいのか「津軽地域」と呼んだりすることもあるようですが、それだとちょっと広すぎる名前でしっくりこないかなぁ。「津軽」というなら東青はともかく西北五は入れないと。
これで「むつ市」以外の市郡の頭文字をすべてカバーしているので、非常に便利であります。ということは「むつ市」以前からある呼び方であるということですね。
当然何かあるごとにこの地域ごとに集合を作られるので、すっかりなじみです。微妙なところでは、YSKさんの調査で郡を分割して所属しているところ、(1)北津軽郡板柳町が中弘南黒地域へ、(2)上北郡下田町・百石町が三八地域へ、入っているところがありますが、これくらいでしょうか。平内町(東津軽郡)に合併話をフラれてしまった青森市は浪岡町(南津軽郡)に触手を伸ばしているようですが、難しいような…。

ちなみに青森県内では「○津軽郡」は「東津軽郡」→「東郡(とうぐん)」のように略して書くのが一般的です。読むときは、私は「とうぐん、せいぐん、なかぐん、なんぐん、きたぐん」と呼んでいましたが、本当はどうなんでしょ(というか正解はあるのか?)
[14711] 2003年 5月 5日(月)15:42:48ken さん
re:広域市町村圏のエリア(千葉県編)
[14262] YSK さん
もう4月29日というと、遥か彼方の書き込みですが、
YSKさんが、県の下位区分としての広域市町村圏名称をまとめていただきました。
その区分と名称、大変示唆に富むもので、広域地名を考える上でも、大変興味深く拝見させていただきました。
ところで、県の下位区分という意味では、千葉県民の皆様には、本日5月5日、「ちば県民だより」がお宅に配布されていると思いますが、7面左下に、「地域県民センターからのお知らせ」という欄があります。
この地域県民センター、基本的に、「支庁」に併設される形で、設置されていることがわかります。
千葉県の支庁は、ほとんど、YSKさんご紹介の広域市町村事務組合と同じなのですが、

名称所在地 
1.千葉地域県民センター千葉支庁内千葉市中央区
2.東葛飾地域県民センター東葛飾支庁内松戸市小根本
葛南地域県民センター支庁内ではない市川市八幡
3.印旛地域県民センター印旛支庁内佐倉市鏑木仲町
4.香取地域県民センター香取支庁内佐原市北
5.海匝地域県民センター海匝支庁内旭市ニ
6.山武地域県民センター山武支庁内東金市東新宿
7.長生地域県民センター長生支庁内茂原市茂原
8.夷隅地域県民センター夷隅支庁内大多喜町猿稲
9.安房地域県民センター安房支庁内館山市北条
10.君津地域県民センター君津支庁内木更津市貝渕

支庁の管轄市町村は
http://www.pref.chiba.jp/shichou/index.html
こちらを見ていただくとわかるのですが、基本的に、市原郡と千葉郡が一括されている以外、旧郡の範囲と支庁の管轄地域は基本的に一致しており、
また、Issieさんの郡役所所在地を見てみると、現在の支庁・地域県民センターの所在地は海匝が銚子から旭に移っている以外、継承されていることがわかります。
葛南地域県民センターの設置は、人口からみても、旧東葛飾郡域全体では、250万人にもなりますので、市川市への地域県民センターの設置は当然ですが、「支庁」自体は現状でも、旧東葛飾郡域を松戸に支庁を置いて管轄する、という体制は変わっていないのですね。
案外、保守的な印象を受けました。
市町村と違って、県の役所と住民との接点は、何かの許認可を受けることでもない限り、あまりないですから、変えようという必然性も出てこないのかもしれませんね。

長生支庁は茂原市に、君津支庁は木更津市に、というあたり、中心市と合併新市名との関連から、興味深く見ました。
東葛飾というと、常磐線沿線の市町村を想起しがちですが、県の東葛飾支庁は、旧東葛飾郡全域、市川、船橋、浦安まで、を指している地域名ですね。
「東葛」地域というと、ちょっとニュアンスが違ってくるかもしれませんが。

たまたま、本日、配布された「ちば県民だより」からの雑感でした。
[14716] 2003年 5月 5日(月)17:33:16Issie さん
葛南
[14711] ken さん
東葛飾というと、常磐線沿線の市町村を想起しがちですが

そうですね。
私はまだ「東葛飾郡鎌ヶ谷町」とか「東葛飾郡浦安町」というのを記憶していますけれど,これらが市になってしまえば「東葛」といえばなおさら“常磐線の方”(…と,総武線沿線住民の私たちは呼んでいました)専用の呼称としてのイメージが強まることになるのでしょう。
もっとも,この6月に関宿町が野田市に編入されると東葛飾郡に唯一残されることになる沼南町は,本来「(東)葛飾郡」ではなく「(南)相馬郡」に属していた地域です。

葛南地域県民センター 支庁内ではない 市川市八幡

旧東葛飾郡南部を「葛南地域」とするとして,さしあたり異論がないのは東京湾岸の市川市・船橋市・浦安市の3市でしょう(ただし,船橋市の東半分は旧千葉郡の町村を編入したものです)。
問題はどこに“中心”を置くか,です。
候補としてあがりそうなのが 市川・八幡・船橋 の3地区。中山は少しマイナーだし,行徳は総武線・千葉街道(国道14号)ルートからはずれているのが痛い。まして浦安は。
“街の勢い”としては船橋が一番力がありそうですが,「葛南」としては端に寄り過ぎる。
市川はこの地域で最も早く関東大震災前後から都市化が進行した地区で,おそらくはそれが総武快速の停車駅となった(複々線化される以前,木更津・成田電化当時から“黄色い電車”で運転された「中野-木更津・成田快速」時代から)理由だと思われるけれど,1970年代以降の駅勢は停滞気味。
結局,八幡にセンターが置かれた直接の理由は,ここに市川市役所が置かれていて県の出先機関も少なからず所在していることにあると思うのですが,道路交通の上でもここが千葉街道と木下(きおろし)街道との交差点であることも大きいように思います。
ただ,JR本八幡駅前には確かにビルが林立して市川駅前よりもにぎやかに見えるのだけど,実のところ商業地区としての奥行きがあるかというと,どうもそうでもないのですよね。市川と隔絶しているか,というとそれほどのものでもない,という印象があります。

ところで,東葛飾地域を南北に分けるとき扱いが微妙となるのが鎌ヶ谷市です。
時に応じて総武線側(葛南)に入れてみたり,常磐線側(東葛)に入れてみたり…。
通勤客の流れからすれば,かつて東武野田線の船橋口区間列車は六実折り返し,新京成の津田沼口区間列車も鎌ヶ谷大仏折り返しで運転されていましたから,総武線側という感覚を私は持っているのですが,要は船橋・市川と松戸・柏のどちらとのつながりが強いか,ということですね。
[17873] 2003年 7月 6日(日)13:11:56NS さん
北海道における地域区分
[17867]三丁目さん
観光圏および地域生活経済圏については、やはり道庁による地域割りということもあってか、支庁管内別の区分になっていますね。

これらとは全く別の道内地域区分として、農林水産省統計・情報センター(旧統計情報事務所)の統計区分がありますね。

札幌:石狩、空知、上川、留萌
函館:渡島、檜山、後志、胆振
帯広:日高、十勝、釧路
北見:根室、北見、宗谷

また、北海道索道協会によるスキー場所在地域区分によると、概ね

道央:石狩(浜益村を除く)、後志(小樽市・赤井川村・喜茂別町)、胆振(白老町以東)、日高
道南:渡島、檜山、後志(小樽市・赤井川村・喜茂別町を除く)、胆振(白老町以東を除く)
空知:空知(幌加内町を除く)、留萌(小平町以南)、石狩(浜益村)
道北:上川(占冠村を除く)、空知(幌加内町)、留萌(小平町以南を除く)、宗谷、網走(紋別地方北部)
道東:十勝、釧路、根室、網走(紋別地方北部を除く)、上川(占冠村)

となっていますね。

いずれも、観光圏や地域生活経済圏などとはまるで異なる区分ですが、見方を変えれば、行政面積が広い分、目的に応じて柔軟な区分が可能ということもできるでしょうね。
[18793] 2003年 8月 3日(日)01:41:57YSK[両毛人] さん
山梨県の部分地域名
[18766]Issieさん
“郡内”(南・北都留地域)では「まち」の方が優勢なのでしょうかね。
一方の“国中(くになか)”では「ちょう」が優勢。
山梨県では、南・北都留郡地域を「郡内地域」、それ以外の甲府盆地を中心とした地域を「国中(くになか)地域」と呼称するのですね。ネット検索でも、かなりヒットしましたし、一般的な区分法なのでしょうね・・・。

「落書き帳」過去ログでも、Issieさん[4286][3519]に言及がありますね。
[18959] 2003年 8月 10日(日)17:36:18【2】太白 さん
仙台と仙南の境界
[18374] 軒下提灯 さん
広義の仙南の北辺はどこ? 仙台市太白区や若林区は仙南地方に含まれるのだろうか? たぶん若い世代は、太白区や若林区を仙南地方じゃないと言うかもしれない。でも年配者は、かつて名取郡に属した秋保・生出・西多賀・長町・中田・六郷(いずれも現在は仙台市太白区・若林区)を仙南地方の一部と認識しているかもしれない。
[18697] 軒下提灯 さん
太白区(長町、中田、西多賀、生出、秋保)を仙南地方の一部だと思いますか?

以下、完全に主観ですが、御指名ですので…

私は「若い世代の感覚」を持っています(笑)。仙南地方の北隣に対応する地域として、何を想定するかにもよると思いますが、仮にこれを「広義の仙台地方」と置いた場合、私の感覚としては、現在の市域は当然に仙台地方に含まれます。小学校時代、「私たちの仙台市」なる副読本が学校で配られ、ここに、仙台市の市域の拡大の歴史が色地図で書かれていたので今でも覚えていますが、戦前に仙台市となった長町や六郷はもちろん、昭和30年前後に編入された生出地区についても、「現在は一体のもの」として扱われていました。そのイメージが今でも残っています。また、「市制だより」や「移動図書館」も仙台市のものが当然回ってくる来たわけです。
 逆に、これらの地域が「仙南地方」として白石や船岡と同一の地域区分であると意識することは、皆無でした。

 私の直感的なイメージでは、名取(とりわけ北東部の新興住宅地)や岩沼も経済的・社会的な仙台中心部とのつながりの深化に伴い、「仙南」ではなく「仙台」と思っています。具体的には、東北新幹線が仙台から最初のトンネルに入るあたり(名取の南西部?)が「仙台地方」の西端、仙台市営バスの営業している範囲の南端あたり(≒岩沼市内)が南端と考えます。換言すれば、旧名取郡は基本的に「仙南」でなく「仙台」であると思っています。ただ、秋保については、もし仙台市と合併していなければ、「仙南」と考えたかもしれません。

仙台、仙南二分論を前提としたものではなく、都市圏としての議論なので、引用は不適切かもしれませんが、[16851] で両毛人さんが、
仙台市内では、青葉区・泉区・太白区西部などの山間部、また深沼海岸をはじめとした六郷、七郷の海岸部(大雑把に言って仙台東部道路より東側)を除けば、広い意味で「仙台」とみなしていいのかな、
とされていますが、じゃあ、除かれた地域は仙南なのか? というと、私はそうは思いません。つまり、ほかに分類する適当な「地方名」がないから、「仙台」に含まれると思うのです。
(両毛人さんの「仙台」の捉え方が「違う」と言っているわけではありません。議論の次元が異なるので。)
[18966] 2003年 8月 11日(月)02:06:43YSK[両毛人] さん
仙南地方
[18959]太白さん
除かれた地域は仙南なのか?
引用していただき、ありがとうございます。
[16851]の範囲は、仙台の都心地域と日常的に密接に結びついた、仙台都市圏の範囲をイメージしております。

では、仙南地方はどうなのか、といいますと、やはり「仙南地方」=「仙台(地方)の南部」ということで、さらに宮城県内の部分地域名というニュアンスがありますから、仙南地方とは、宮城県内のうち、仙台(地方)以南の部分ということになるのは、みなさんに共通した理解であると思います。したがって、太白さんのご指摘のとおり、仙台地方をどのように画定するかによって、仙南地方の範囲が確定することになります。

しかし、これは難しい問題です。今までも述べてきましたが、地方の区分はそれ自体に意味があるわけではなく、人によって、また分析する事象によって様々に画定が可能です。また、「ここからここまでがA地方、それ以外はB地方」などと排他的な画定をしなければならないわけではなく、1つの町が2つの地方区分にまたがるような画定方法だって可能なわけです。

まあ、そんなカタいことをいってもおもしろくないですから、今回は通勤・通学の流れとか、中心地間の結びつきの度合いとか、そういった人々の生活行動の傾向(以下、「仙台の生活圏」のいう表現も使います)を私の主観から、お話します。

私としては、
仙台地方=「仙台大都市圏周辺地域広域行政圏」の範囲
仙南地方=「仙南地域広域市町村圏」の範囲
(※具体的な市町名は[14240]を参照くださいね)
という感覚ですね。[18374]軒下提灯さんの指摘する「狭義の仙南」にあたるでしょうか。

仙台市内の長町や六郷、西多賀、秋保などや、名取市、岩沼市は日常的な生活行動の面では仙台市街地を志向する割合が高いですし、亘理郡は岩沼市との結びつきが強いと思われますが、その岩沼市自体が仙台との結びつきが強いですから、仙台の生活圏に含めてもよいように思います(亘理郡自体、仙台市街地を志向する傾向が強まっているようにも感じられます)。

一方の仙南ですが、こちらは宮城県南部のうち、仙台市街地との間よりも、域内の中心地間の結びつきの方がより強いと思われる地域的範囲を想定します。この地域でも、仙台市の影響は少なからず及んでいますので、判断は難しいのですが、軒下提灯さんが常々ご指摘されていらっしゃるとおり、仙南地域は大河原町から柴田町にかけての地域に商業集積が著しく、かつ大河原町に「狭義の仙南」を管轄する行政機能の集積も見られることなどから、これらの地域を扇の要としながらも、村田や白石、角田、丸森といった複数の有力な中心地が並立した生活圏「仙南」が、仙台市街地を中心とした生活圏「仙台」よりも相対的に独立した圏域として画定し得るのではないか、という所感を持っております。

しかしながら、上記は仙南地域の範囲を明確に規定しようという趣旨ではありません。地域区分はさまざまに画定可能なものです。あくまでいろいろな地域の見方のうちから、私の主観の中で、生活圏域を描き出してみると、こんな感じかな、という意思表示です。その程度にご覧いただけますと幸いです。

[18374]軒下提灯さん
たぶん若い世代は、太白区や若林区を仙南地方じゃないと言うかもしれない。でも年配者は、かつて名取郡に属した秋保・生出・西多賀・長町・中田・六郷(いずれも現在は仙台市太白区・若林区)を仙南地方の一部と認識しているかもしれない。
一般的な傾向として、より若い世代ほど、仙台(地方)をより広い範囲で捉えるのではないかと私は感じます。それは、とりもなおさず、戦後における仙台市街地を中心とした都市化の急速な拡大と期を同じくするものであると言えるのでしょうね。
[21065] 2003年 10月 15日(水)00:32:24Issie さん
濃州三区分
[21036] 深海魚 さん
可児界隈が東濃地区に属するのは判るとして、木曽川対岸の美濃加茂市や、更にその先の関市、美濃市はどう解釈されるのか

たとえば,気象庁の予報区分(昭和28年運輸省告示第63号「気象庁予報警報規定」)では,「美濃地方」(←これが「一次細分区域」。天気予報はこの単位で出される)は「二次細分区域」(気象注意報・警報は[必要に応じて]この単位で発令される)で以下のように区分されています。

【岐阜・西濃】
岐阜市,大垣市,羽島市,各務原市,山県市,瑞穂市
羽島郡,海津郡,養老郡,不破郡,安八郡,揖斐郡,本巣郡

【中濃】
関市,美濃市,美濃加茂市,可児市
武儀郡,郡上郡,加茂郡,可児郡

【東濃】
多治見市,中津川市,瑞浪市,恵那市,土岐市
土岐郡,恵那郡

というわけで,可児地域の扱いについては学校名と異同ががありますね。

参考までに,戦時中の1942年に設置された岐阜県の「地方事務所」の呼称と管轄地域は以下のとおりです。

【伊奈波地方事務所】 岐阜市,稲葉郡
【山県地方事務所】 羽島郡,山県郡 *1947年,伊奈波地方事務所管内から分立
【西濃地方事務所】 大垣市,不破郡,安八郡
【南濃地方事務所】 海津郡,養老郡 *1944年,西濃地方事務所管内から分立
【揖斐地方事務所】 揖斐郡
【本巣地方事務所】 本巣郡
【郡上地方事務所】 郡上郡
【武儀地方事務所】 武儀郡
【可茂地方事務所】 加茂郡,可児郡
【土岐地方事務所】 土岐郡
【恵那地方事務所】 恵那郡
【益田地方事務所】 益田郡
【飛騨地方事務所】 高山市,大野郡,吉城郡 *1942年,飛騨支庁から降格

つまり,何が言いたいかと言うと,
ここでは 可児郡 と 加茂郡(中心は美濃太田) とが1つの単位にまとめられている,ということ。可茂地方事務所は,当時の太田町(現美濃加茂市)に置かれました。
…きっと,ともに「中濃」という意識なのでしょうね。
(いや,そもそも美濃を三分する,という発想自体,それほど古いものではないのでは。)

なお気象予報区分では,
福岡県の「筑後地方」に,筑前の甘木市・朝倉郡 が含まれていたり,
鹿児島県の「薩摩地方」に,大隅の国分市・姶良郡 が含まれていたり…

ま,あくまでも天気予報のための区分であって,人文地理ないし歴史地理的な区分とは必ずしも一致する必要はありませんから,「そういうもの」という理解でよいのでしょう。
[22897] 2003年 12月 20日(土)00:53:42今川焼 さん
若狭地方をめぐる微妙な地域区分
[22877] 愛比売命 さん
[22880] かすみ さん
[22893] ありがたき さん
福井県の嶺南地方は、明治の初めの一時期滋賀県に含まれていた時期がありました。そして嶺北地方は、富山県とともに石川県に属していました。しかし、県政をめぐる意見対立から元富山、福井両県の分県運動が激しくなり、両県が分離独立することになりました。しかし福井県の場合、嶺北だけでは県としては小さすぎるということで、滋賀県から嶺南地方を分割し(こちらはうまくいっていたのに)、嶺北とくっつけ現在の福井県としたといういきさつがあります。
ですから、もしこのとき石川県から福井県が分離しなかったら、嶺南地方が滋賀県のままだったら、「嶺南は、北陸地方の影響もあるかもしれないが、やはり関西地方の一部ですよ」という議論になっていたかもしれませんね。また、北陸新幹線の若狭ルートも湖西ルートか、米原ルートになっていたかもしれないし、その代わりに湖西線の近江今津から小浜線の上中へ、国鉄が「江若線」を建設していたかもしれません。
それから、電力会社の件ですが、嶺南地域のうち敦賀市を除く地域(美浜町以西の関西電力の原子力発電所が立地している若狭地域)は、関西電力の電力供給区域となっています。かすみ さんは、そのことをおっしゃりたかったのかもしれません。
[30575] 2004年 7月 15日(木)22:42:02hmt さん
長崎県ローカルの行政地区名 「西彼諸島」
島群コレクション http://uub.jp/nam/togun.html の中で、気になったのが「西彼(せいひ)諸島」です。
この地名、各種の地図や角川の地名辞典はもとより、データ本、検索・島ナビ http://www.nijinet.or.jp/SIMANAVI/fraset1.html などでも見たことがありませんでした。

作々さんが挙げた主な島々を見ると、西彼杵(にしそのぎ)半島北端の大島・蛎浦島、五島列島に近い江島・平島から、西彼杵半島西岸の松島、長崎半島周辺は西の伊王島、南端の樺島、それになんと東側橘湾の牧島までと広い範囲に分布しています。「主な島々」に選ばれていませんが、かつて炭鉱で栄えた高島や端島(軍艦島)[24547]も西彼諸島の一員であると思われます。

検索の結果、この地名は長崎県のHP  http://www.pref.nagasaki.jp/sima/ で使われていることがわかりました。対馬、壱岐、五島列島、平戸諸島と並んで「西彼諸島」を挙げています。
しかし、個別データのある http://www.pref.nagasaki.jp/sima/html/menu/top-data.html では「西彼地区」と表現しており、純粋な地名というよりも行政地区名であることをうかがわせます。検索でヒットした他のページも、長崎県HPへのリンクや長崎県離島医療医師の会(もくせい会)のような離島行政がらみのものが多く、純粋な地名としてはまだ定着していないようです。

要するに「西彼諸島」は、「西彼杵郡(および長崎市)に属する島々をくくる名称」として長崎県が命名した、ごく新参の「諸島」であると思われます。
同じ郡に属するとは言っても、五島列島隣接の平島から橘湾の牧島までと散在しており、自然地理的な一体性はないように思われます。行政当局には、こんな島々を一まとめにして「西彼諸島」という地名を作り出す必要があったのでしょうか?

国の離島振興対策実施地域では、蠣ノ浦大島(江ノ島・平島)、松島(松島・池島)、伊王島(伊王島・沖之島)、高島(高島)の4指定地域(7島)となっており、これらを統合した西彼諸島という「指定地域名」は使われていませんから、「行政地区名」と言っても全国区ではなくて、長崎県ローカルの地名と思われます。
なお、本土との間に架橋ができている大島・蛎浦島(上記指定地域名は異なる字を使っています)・樺島・牧島や、無人になっている端島は指定地域の対象外ですから、この地域の有人「離島」は上記 7島になります。
[34398] 2004年 10月 22日(金)19:51:40PUFF さん
なんかわくわく
 2000000及び1000000.おめでとうございます。子どものような気持ちで、間に合うかなと早く帰ってきたのですが間に合いませんでした(笑)。ほんとすごい数ですね。毎日、見ていなければ、乗り遅れてしまうかの感もあります。それだけ繁盛?楽しい話題も飛び交っているわけです。
 もうずいぶんと前になってしまった感がありますが、前回質問[33994]には、丁寧な回答ありがとうございました。アーカイブにもなったということで活用しやすいこと限りなし、です。
 さて滋賀県には、この10月に湖南市が誕生しましたが、「湖南」は一般的に滋賀県では、草津市・栗東市・守山市・野洲市の存在する地域を指します。一般の方が地図をご覧になった分では、湖南のさすイメージとして大津市(南部)や信楽町をもさすとも受け取れるような、地方(方角)表示ではありますが、実際はそうではありません。湖北/湖南/湖東/湖西と、県を4つに区分して表現することはまずありません。今回、湖南市が誕生した旧石部町・甲西町地域は地域振興局の圏域でいうと「甲賀」(こうか)に入ります。で、湖南市は湖南圏域にないという、ねじれ現象が生じることになりました。
 また、05年2月に誕生予定の東近江市に関しても、東近江圏域の八日市市・五個荘町・永源寺町に加え、湖東圏域の湖東町、愛東町が入ることで、半ねじれですがねじれには変わりない状況が生じることになりました。
 昨今の大合併の中では、よくあることなのかもしれませんが、気になっていました。誰かがどこかで書いておくことも必要だと思い、一筆しました。これからもよろしくお願いします。
[34730] 2004年 11月 2日(火)23:41:36出石隠 さん
津和野と日原と美濃郡・・・島根県石西(せきせい)
11月1日付けで美濃郡美都町、匹見町が益田市に編入合併し、美濃郡が消滅しました。
匹見町は社会科の教科書に過疎の村として写真が掲載されるところです。昭和38年の豪雪以来人口が減少し続け、平成12年には約1800人、面積が約300平方キロ、人口密度は約6人/平方キロです。美都町も約2700人、面積約130平方キロ、人口密度約20人/平方キロです。新益田市は人口約54000人、面積730平方キロでスタートです。旧益田市からみると、面積が430平方キロ増えたのに対して、人口は4千数百人しか増えていません。ツキノワグマの生息地である西中国山地北側の大部分が、日本海や山口県と接する益田市に加わりました。

益田市の南側には鹿足郡4町村、日原町、津和野町、柿木村、六日市町があります。当初この4町村で合併協議が進んでいましたが破局。日原・津和野、柿木・六日市という組み合わせになりました。柿木・六日市の合併は来年秋の予定で順調に協議が進んでいるようですが、日原・津和野は05年3月の期日にこだわる津和野と延期を求める日原との間で、いざこざが続いているようです。町名を津和野、本庁舎を日原に決めたのは良いのですが、津和野側は津和野分庁舎に本庁舎とさほど変わらぬ機能を持たそうと要求しているとのことです。
津和野はネームバリューの割に小さな町です。日原は津和野に隣接しながら、鉱山があったため、津和野藩領ではなく天領になっていました。傍から見るより拮抗したライバル関係にあるようです。破局の可能性も残っています。

ちなみに島根県西部の旧国名は石見と言いますが、大田、邇摩郡を石東(せきとう)、浜田、江津、那賀郡近辺を石央(せきおう)、益田周辺を石西(せきせい)、邑智郡は邑智、鹿足郡は鹿足と呼ぶことがあります。
[34872] 2004年 11月 6日(土)16:44:50出石隠 さん
出雲 石見
[34739] 笠津前浜 さん
雲北という言い方もあるのでしょうか。

私は全く聞いたことがありません。これに変わるものとして、宍道湖の北側を湖北と呼ぶことがよくあります。湖南はあまり使わず、宍道、玉湯と町名を用いたり、9号線沿いと呼んだりします。(湖南は中学校名、工業団地名などにあります)また、出雲市や松江市周辺の住民は、島根半島の山塊を北山と呼んでいます。それぞれの地域から見える山は違うのに、いずれの地域も北と南に山地を抱えているので、結果として同じ北山という名称を用いているのでしょう。ちなみに南山とは言いません。それこそ、雲南とか、中国山地の方とか、町名や郡名を用いて称しています。

石東文化ホールという名称の建物は無かったことを思い出しました。

浜田、益田に比べて、大田の規模が小さく、出雲など東部地域と距離が近いことから、該当の施設が出来なかったのではと推測します。これらの施設はいずれも県が主導で建てたものです。大田には数年前、あすてらすという県女性センターが駅前に立ちました。県と市が寄り合いながらやっていかざるを得ないです。
石東の名は、企業の営業所名などに時々使われています。圧倒的に大田を使われることが多いのですが。
[36518] 2005年 1月 7日(金)21:38:50Issie さん
“シ”は“ラ”の次の音
…というのが,ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」(←つい,「サウンド・オブ・サイレンス」と打ってしまふ…)の挿入歌「ドレミの歌」の原語での歌詞ですが…。
“ソ (sew)”は“お針仕事”,というほどの意味でしたっけ。

[36490] じゃごたろ さん
「層」という漢字を「尸」+「ソ」で表していた人。「曽」の上の「ソ」の部分だけ書いたということと、「そう」という読みからこの様になったのでしょうか。

そもそもカタカナの「ソ」は「曽」(←「曾」の異体字)の初二画から“独立”した文字ですから,これはそれなりに根拠のある略字ではないでしょうか。実は,私も個人的には使用しています。

学生寮の寮生が「寮」という字を「宀」+「R」と書いていたことですね。

私,本州中部の某県にあるS大の学生時代に1+3年間(教養課程と学部の所在都市が違うので,必然的に引越しをする)を学生寮で過ごしたので,この略字はまま見たことがあります。
でも,私の周辺ではあまり使いませんでした。
寮自治会の会合でたまに“上京”すると,“中央”の人たちはよく使っていたかな。

そういえば新潟市って下越地方なんでしたっけ。中越と誤解していました。

新潟周辺の所属,というのは少しばかり微妙な気がします。
つまりは「蒲原」の所属が…。

現在,一般に行われている区分では,三条を中心とする「南蒲原」は「中越」。残りの「東蒲原」「中蒲原」「西蒲原」「北蒲原」以北が「下越」というものでしょうね。
(本来の)新潟は信濃川左岸の「西蒲原郡」,新潟駅周辺を含む信濃川右岸の「沼垂(ぬったり)」地区は「中蒲原郡」に属していました。もちろん,「蒲原郡」が「北・中・西・東・南」に分割されたのは,明治になってからのことです。
「南蒲原」が「中越」,残りが「下越」というのは,中越をエリアとする越後交通(グループ)と,下越(と佐渡)をエリアとする新潟交通(グループ)との縄張り区分ともおおよそ一致します。ちなみに,上越は頸城交通のエリア。ただし,妙高地区は長野県北信地方西部の川中島バス(現在は松本電鉄を中心とするアルピコ・グループ)のエリアです。

ずっと昔であれば,信濃川と阿賀野川の合流する亀田郷周辺の低湿地帯の障害が大きくて,ここが1つ大きな境界になっていたように思います。
古代,律令郡制では,おおよそ阿賀野川以北(江戸時代に日本海への短絡水路が開かれるまで,阿賀野川は亀田付近,後には沼垂付近で信濃川に合流していました)は「蒲原郡」とは別の「沼垂(停足)郡」とされていました。
戦国時代後半に上・中越に地盤を持つ「長尾→上杉氏」によって越後が“統一”されてしばらくの間も,越後北部は「揚北(あがきた)衆」と呼ばれる国人(地元の豪族)集団によって自立的な地位を保っていました。「揚北」とは,要するに「阿賀(野)の北」という意味です。

江戸時代,新潟湊は長岡藩領に属し,長岡の外港として発展しました。もちろん,日本海航路の重要な港としても発展したわけですが。
幕末,長岡藩のある不正事件に絡んで幕府に没収されましたが,それまで長岡と新潟とは,かなり密接な関係があったのではないか,と考えます。
むしろ,阿賀野川以北の新発田藩や村上藩などとは,“気持ちとして”少し距離があったのでは…。
新潟が越後北部,つまりは「下越」一帯を影響下に置き,「下越の中心都市」としての地位を確立するのは,県庁の置かれた近代以降のことではないか,と思っています。

いや,それより何より,
「上越」「中越」「下越」という地域区分自体,「越後全域」を(恐らくは史上初めて)統一して集権的に統治することとなった「新潟県」が発足した近代以降になって初めて登場したものではないか,とも思いますが。
その際,頸城・刈羽郡界の“米山さん”という明確な境界(候補)のある「上越」と「中越」の間は良しとして,やはり新潟市周辺の帰属は悩まされるところなのでしょうね。

「四日市」「水俣」「阿賀野川」「神通川」「足尾」などという文字が出てくると、失礼な話ですが私はまず公害が浮かんできます。

私はすぐに「川崎」を思います。
いや,30年前ほどではない,とは言いつつ,今でも「川崎区」は深刻と言わざるを得ないと思います。昔のテレビマンガのように工場だけを「悪者」にして済んでいた時代ではなく(もちろん,工場が「無害」になったわけでは決してない),私たち自身も日頃利用している自動車も元凶の1つ。
けれども「川崎市」西部の丘陵地帯には,ホタルの飛び交う沢や里山があります。
「公害の町」で単純にくくることはできない。
それは,「水俣」でも「四日市」でも,その他,さまざまな町や村でも同じでしょう。
[40077] 2005年 4月 19日(火)20:31:36千本桜[軒下提灯] さん
江胆地域
[40009]右左府 さん
確か「江胆地域〔地区?〕」という言葉が。ここには市が二つありますが、江刺市の方を取ってますね。
胆沢郡、水沢市、江刺市をまとめて胆江(たんこう)地域と呼びます。この場合、胆江の「江」は江刺市よりも江刺郡の「江」と考えた方が妥当ではないでしょうか。もちろん現在、江刺郡は消滅していますが・・・。
[42947] 2005年 7月 10日(日)19:48:31【1】かすみ さん
南紀と紀南
[42935]美濃織部さん
おまけその2
紀伊の南部を「南紀」でなく「紀南」と呼称する例は珍しいような。と思ったら、
JAやゴルフ場などけっこうあるみたいですね。

42号線を南下して行くと確かに紀南の文字をよく見かけるようになります。
わたしの個人的感覚では、南紀は主に観光関係で紀伊半島の南側一帯、
紀南は和歌山市から中紀(有田~御坊)を越えて南側(印南~田辺を中心にその南くらいまで)を
指すときに使っています。
でもJA紀南のサイトを見ると串本辺りまで範囲になるようですね。(新宮は除外)
観光サイトなどでもそれぞれ南紀と言ったり紀南と言ったり、それに範囲は少しずつ違いますし、
これが定義だとか、違いだとかというモノも存在しないようです。
なーんだ。(笑)
[42955] 2005年 7月 11日(月)15:48:52通りすがりの和歌山人 さん
「紀南」と「南紀」
ここへの書きこみは初めてかと思います。
今は全然違うエリアに住んでいますが、和歌山県の北端の町で生まれ育った者です。
ちょっと私には違和感があるのでひとこと。

[42935]美濃織部さん
[42947]かすみさん
「紀南」という表現は単に和歌山県南部の地域を指す言葉です。和歌山県内ではごく一般的な言葉です。
一方「南紀」という言葉は、対県外の言葉(もしくは県外から当該エリアを指した言葉)であってこれを和歌山県内で使うことはあまりありません。悪く言えば「ええかっこしい」な単語です。

私自身、和歌山を出て早10年になりますが「南紀」という言葉を耳にしては苦笑している次第です。

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