[90079] オーナー グリグリさん
ところで、中井町の久所ですが、あらためて地図を確認したところ、中井町の広い範囲に点在しています。北田、田中、遠藤など、他の大字も同様にパッチワークのように入り乱れて分布していますが、どうしてこのような境界域が生成されたのでしょうか。
元江戸川大学教授である斗鬼正一氏の
論文(PDF)に、ヒントとなる記載がありました。該当箇所をそのまま引用しますと、
旧幕時代、井の口は御料から石野家領に変わったものの、単一の領地であった。一方中村地区は、各大字が、鴨沢、古怒田が大久保忠直、雑色が大久保忠顕、松本が御料、比奈窪・藤沢・半分形は兵部少輔信彦、遠藤が小野原信吉、境が伏屋新助というように別の領主の支配下にあった。明治に入り1879(明治12)年中村と井の口村が成立、1884(明治17)年には比奈窪、松本、岩倉、雑色、鴨沢、古怒田、半形、田中、遠藤、北田、久所、藤沢、境、北別所、そして井の口が連合して比奈窪役場を設立した。しかし1889(明治22)年には町村制施行により中村、井の口村が分離、1908(明治41)年に再度合併して、双方の頭文字をとり中井村となったのである。
(中略)
中村下地区では、1980年4月1日、五所の宮部落と共た大久保部落が誕生した。このうち五所の宮は新設であるが、大久保は「中ぱ存在していた部落」が後追い公認の形で設立された部落である。大久保は本来田中部落の人々が居住する地区であった。しかし地籍の上では遠藤、北田部落の土地が多数点在しており、やがて遠藤、北田の人々が分家を出したり、移転して来る人が増えて来た。そうした場合、旧幕時代は部落毎に領主も違ったので、部落を変更する事はできなかった。明治以後の移住者も、永年親しんだ部落と分かれがたい、本家と一緒の部落の方が良いといった理由で、本来なら空間的原理から田中部落に入るべき所、そのままもとの部落に属している人が多くなってきた。北田は現在4軒だけだが、遠藤は元の遠藤を「むこう遠藤」、田中の中の遠藤を「こっち遠藤」と称する程にまでなった。
とのことであり、江戸時代に大字ごとに領主が相違していたことと関係がありそうです。また、明治以降も分家や移転の際に本家の大字を踏襲したことで、それが固定化された可能性があります。
話題は変わりますが、
[90038] k-aceさん
これはキンシオというテレビ神奈川の散歩番組
過去には(神奈川の)「県境を行く」、(神奈川の)「海岸線を行く」、「あいうえおの旅」、「1、2、3の旅」、「生きものの名前の地名の旅」、「色んな色の旅」、「何でもない道を行く」という企画があり
なんと、地元ローカル番組ではないですか。これまで一度も視聴したことはありませんが、ツボにはまりそうな企画満載ですね。
さて、(神奈川の)「県境を行く」、(神奈川の)「海岸線を行く」の2つの企画、番組HPを見る限りではテーマに該当するいくつかの地点をピンポイントで訪問されているようなのですが、個人でこのテーマを忠実に実践されている方がいます(
参考HP)。金目川の源流を調べていてたまたまみつけたサイトなのですが、
神奈川県一周や
相模国と武蔵国の国境を行くなど、自分ではなかなか実践できないようなテーマが盛りだくさんです。興味のある方はご覧になってください。