[25073] TGRSさん
[25023] まるちゃんさん
弘前は1889年に県下唯一の市になったぐらいですから、
・旧制中学。一中=弘前、ニ中=八戸、三中=青森
と言う風に、「一中」が弘前に置かれてもおかしくないだろうと思います。
もっとも、最初の県立中学校は一旦青森市に置かれたようです。「青森県百科事典」の「弘前高等学校」の項より抜粋します。もちろん、ここでいう弘前高等学校は新制の方です。
二中は弘前の県立中学校の分校が独立したものであることが分かります。
1884年(明治17)8月20日の創立で県初の公立中学校。青森県中学校として同年10月6日、青森県の新町にあった旧藩倉庫を仮校舎にあて開校した。翌年7月、廃校となった県医学校のため新築した校舎に移転。1886年9月、青森県尋常中学校と改称。弘前人士の猛運動で1889年5月、青森から弘前市元寺町の旧県立病院に移転となる。1892年6月、校舎全焼。本町の津軽産業倶楽部を仮校舎とした。翌年7月4日、八戸分校を設置。1894年1月、新寺町に新校舎が落成した。同年3月、青森県第一尋常中学校と改称、同年4月1日、八戸分校が独立し青森県第二尋常中学校となった。1899年4月1日、青森県第一中学校と、1901年6月1日県立第一中学校と改称。1909年(明治42)4月1日、県立弘前中学校となる。同時に木造町の県立第四中学は県立弘前中木造分校となった。1927年(昭和2)2月東奥義塾廃校に伴い4・5年生26人を各収容した。1948年(昭和23)学制改革により現校名(普通科)となる。
師範学校は、青森に本科が、弘前に予科が開設されてスタートしています。「青森県百科事典」の今度は「師範学校」の項より。
1876年(明治9)11月、青森新町に本校、弘前亀甲町に分校が創設され青森師範学校と称し、本校に本科生24人、分校に予科生のみ34人を収容、本県学校教員の養成に当たった。
もっとも分校は1884年には廃止になってしまいます。この後は青森に所在した師範学校ですが、
[25042]に書いたように、戦災で弘前に移転します。弘前は戦災に遭わなかったために、移転先が確保しやすかったのでしょう。(軍都であり、軍用地を戦後転用できたものと思われますが、確認できていません。)上掲書には、
1945年米軍機の青森空襲で校舎焼失、翌年11月弘前市に移転し、1949年(昭和24)国立弘前大学の発足で同大学教育学部となった。
とあります。
一方医専も戦災が原因で弘前に移転します。上掲書の「青森医学専門学校」の項から抜粋します。
1944年(昭和19)5月、青森市野分国民学校を校舎に開校。(中略)当時は太平洋戦争中であり、国の軍医養成が主目的であった。1945年(昭和20)7月戦災をうけ校舎、付属病院を焼失、教官、学生に死者が出た。終戦後学校再建のため教官や学生は、浪打や大湊の旧軍隊に赴き実習、実験などの機材を運搬した。翌年7月ごろ学校存廃論が起きた。しかし、関係者の陳情や学生の文部省座り込みの熱意などで存続が決まった。そのころ焦土と化した青森市に存置するか、戦災をこうむらない弘前市に移転するかで両市の誘致合戦が繰り広げられたが、結局国の意向などもあり、弘前市に移転再建されることとなった。翌年3月校舎は当時の朝陽国民学校、付属病院は市立病院が充てられ業務が開始された。
なお、医科大に昇格したのは弘前移転後の1948年です。
したがって、
[25042]の
医科大、師範が弘前に移ったのは青森の戦災の関係のようですね。
の、「医科大」は「医専」の間違いです。訂正させて頂きます。
青年師範や女子師範については調査でき次第また報告します。(というか調べるのを忘れていました)
faithからすれば、これぐらいの情報は大学のホームページに載せて欲しいですね。
※誤字訂正