[94708] Takashi
印刷日は1934年7月25日で、発行日は1934年7月30日なのですが、現在の東京都品川区、目黒区、大田区、世田谷区、渋谷区にあたる地域がまだ町あるいは村のままの状態で残っております。(ちなみにこの地域の町村が東京市に編入されたのは1932年10月1日)
(中略)
この地図が発行されている頃には当然この地域は東京市の一部になっているわけですから実態を反映していないことになるですけど、当時の地形図というか測量を実施した帝国陸軍としてはそのあたりが実態を反映していなくても問題なかったものなのでしょうか?
[94719] hmtさん
Stanfordによる公開図は「戦前最後に発行された東京の地形図」という位置付けができますが、東京市35区体制発足(1932/10/1)から2年近くも後の発行であるにもかかわらず、行政区画変更が反映されていません。
しかも戦後の1946年まで次回の新版が発行されていません。
念のため、2.5万地形図【東京南部、東京国際空港、東京西南部、川崎】の図歴を見ると、戦前最後の発行は1932/10/30で、これも東京35区が反映されているとは思われません(未確認)。
1932年というと 日米戦争になるのは まだ9年も先のことです。東京市が35区になったことは、日本人にとっては知らぬ人はない公然たる情報なのですが、仮想敵国を抱える「その筋」としては、軍事情報の観点から地形図の更新や公開にまで気を使っていたようです。
もちろん世の中には「大東京35区」の地図が出回っているのですから、地形図だけに このような情報統制をしても実効は全くないと思うのですが、「防諜」という錦の御旗を掲げた「その筋」の圧力を感じることにより「地形図の更新や公開さえも ままならない」という状況が既に発生しかけていたのではないかと推測されます。
なるほど、その可能性は十分に考えられますね。
仮想敵国を抱える「その筋」が地形図の更新や公開にある程度気を使うのはやむを得ないとしても、軍事機密の関連から軍事関連の施設に気を使うのならまだしも、行政区画の変更というそれほど情報統制の必要性を感じないところまで気を使うのはやはり疑問に感じてしまいます。実際問題としては市中に出回っている「大東京35区」の地図を見る人の方が多いのであまり問題になっていなかったのかもしれませんが。
民間の地図でなく、「国の作った地形図」において 東京35区が出現したのは何時からか?
日本図誌大系関東I(朝倉書店)p.48に掲載された地形図に「世田谷区」の表示を見つけました。
戦後になった1945年から早速に修正作業が行なわれ、1947年に発行された 2.5万地形図に至り、ようやく東京35区、…いや既に【22区を経て】23区か…の名が地形図に掲載されたのではないか?
私はこのように考えています。
5万地形図東京西南部の図歴から各時点での地形図を見ることができるので確認したのですが、76-7-8(1947年に発行)の段階まではまだ東京35区は出現していません。76-7-9(1948年に発行)の段階になると既に「大田区」の表示が出ておりますので、この5万地形図ではこの時点で(東京35区の時代を通り越して)東京23区が表示されるようになったのではないかと思います。
それにしても反映されるまでに結構時間がかかったものなのですね。
追記:
2.5万地形図東京西南部の図歴から各時点での地形図を確認したところ76-7-1-5(1947年に発行)で「大田区」の表示を確認できました。
いずれにしても東京○区への反映は資料修正で行ったようですね。
追記2:
2.5万地形図東京西南部の図歴から各時点での地形図を確認したところ76-7-1-3(1932年に発行)では新しく編入された地域の区並びに町の境界が赤で追記されていました。これはどの段階で追記されていたものかはわからないのですが、発行された地図にはこの境界の記載は反映させていた……のですかね?