[82235]で1950年の十島村の人口が不明であるかのように書いてしまいましたが、改めて1950年の国勢調査報告を調べたところ、
1950年国勢調査結果概要の中に、
1950年の人口には、外国人(連合国軍及び外交関係を除く)及び対日講和条約の規定により1951年12月5日、日本に帰属した奄美群島の十島村(2,938人)を含んでいる。
とありました。つまり
琉球政府の公報第27号では省かれていた十島村でもちゃんと国勢調査が実施されており、「国勢調査の穴」というのは私の早とちりでした。
よって、琉球政府公報を元に
[82204]以前に私がまとめたデータに関しても、1950年の奄美群島の現在人口は219,048人に、琉球列島米国軍政府管轄全琉球の現在人口も917,875人に改定する必要があります。また1950年の現十島村境域の人口は2,938人、現三島村境域の人口の割合も33.56%になりますし、なによりも、『
昭和55年10月1日の境域による各回国勢調査時の市区町村別人口 : 大正9年~昭和55年』(昭和22年と昭和25年の十島村の人口が空欄で、昭和15年以前は三島村の人口が空欄となっており、総て十島村の人口として処理されている)での人口処理にミスがあったことがわかりました。
十島村に関してネット上で調べたところ少なくとも『十島村誌』には人口の情報があるようです。羽原清雅氏による
「トカラ・十島村の「格差」と地域の政治―どうなる七つに分散する離島村の闘い」によると『十島村誌』などを参考にして以下の人口変遷が掲載されています。
年次 | 中之島 | 口之島 | 宝島 | 平島 | 悪石島 | 諏訪之瀬島 | 小宝島 | 臥蛇島 | 計 |
1879 | 105 | 105 | 299 | 72 | 118 | 0 | | 68 | 767 |
1890 | 133 | 133 | 407 | 94 | 121 | 85 | | 83 | 1,061 |
1897 | 149 | 178 | 439 | 93 | 137 | 137 | | 99 | 1,229 |
1910 | 333 | 227 | 535 | 129 | 165 | 253 | | 110 | 1,752 |
1916 | 428 | 290 | 577 | 142 | 168 | 260 | | 128 | 1,993 |
1931 | 646 | 404 | 652 | 138 | 171 | 126 | | 99 | 2,236 |
1935 | 793 | 436 | 580 | 135 | 150 | 69 | | 105 | 2,268 |
1940 | 873 | 440 | 562 | 150 | 114 | 60 | | 133 | 2,332 |
1944 | 768 | 453 | 529 | 148 | 140 | 59 | | 115 | 2,276 |
1950 | 1,039 | 720 | 569 | 191 | 173 | 95 | | 62 | 2,938 |
1952 | 1,576 | 605 | 605 | 197 | 186 | 86 | | 45 | 3,394 |
1955 | 928 | 584 | 560 | 203 | 182 | 90 | 90 | 57 | 2,658 |
1916年以前の人口は現住人口、1950年と1955年の人口は国勢調査人口なのは兎も角として、他の年号の人口は何の調査人口なのかは不明です。ただ、1935年、1940年、1944年の人口をそれぞれ国勢調査・人口調査による現在人口だと仮定すると、
調査年月 | 現十島村境域内 | 現三島村境域内 | 合計 | 三島村の人口の割合 | 備考 |
昭和5年10月1日 | | | 3,723 |
昭和10年10月1日 | 2,268 | 1,399 | 3,667 | 38.15 |
昭和15年10月1日 | 2,332 | 1,232 | 3,564 | 34.57 |
昭和19年2月22日 | 2,276 | 1,260 | 3,536 | 35.63 |
昭和22年10月1日 | | 1,304 | | | 確定 |
昭和23年8月1日 | | 1,384 | | | 確定 |
昭和25年10月1日 | 2,938 | 1,484 | 4,422 | 33.56 | 確定 |
昭和30年10月1日 | 2,658 | 1,352 | 4,010 | 33.72 | 確定 |
昭和35年10月1日 | 2,602 | 1,363 | 3,965 | 34.38 | 確定 |
調べてみると案外分かるものです。
[82237] hmt さん
もちろん[65126]には「本土復帰」とは記されておらず、日付も違っております。
かなり以前に参考にした文書に昭和21年10月3日付けで本土に復帰という記述があったのですが、今調べ直したところ、10月3日は奄美群島の大島支庁が臨時北部南西諸島政庁へ以降した日で、三島村領域は昭和21年2月2日の2.2宣言により本土への所属が決定され、
昭和21年2月28日内務省告示第22号で鹿児島県所属となったようですね。訂正します。
ところで内務省告示第22号によると
内務省告示第二十二号
昭和十七年七月内務省告示第四百九十号
府県地方事務所ノ名称、位置及管轄区域中左ノ通改正シ昭和二十一年二月二十二日ヨリ之ヲ施行セリ
昭和二十一年二月二十八日
内務大臣 三土 忠造
別表鹿児島県ノ部中「鹿児島郡、大島郡十島村ノ内黒島、竹島、硫黄島」ニ改ム
となっており、告示に先立つ昭和21年2月22日付けで鹿児島県の領域の改正が施行されておりますが、この場合は領域の変更は2月22日なのでしょうか?
[82241] 白桃さん
これはひょっとして昭和55年のことですか?
すみません。国勢調査報告に掲載されている人口異動情報は昭和30年までということで1955年と書きましたが、内容としては昭和25年10月2日まで遡るので、1950年10月2日以降の間違いです。
当たり前のことですが、異動人口(該当区域の境界変更直前の国勢調査人口)が分っているからこそ『昭和55年10月1日の境域による各回国勢調査時の市区町村別人口 : 大正9年~昭和55年』なるものが出版されたのですよね・・・。
確かにその通りですが、公表された出版物の中で人口異動を伴う境域変更の情報がまとめて掲載されている分が、現時点で判明している限りでは1950年10月2日以降に限られるという点を銘記した上でまとめた方が、より情報がクリアになるということです。確かに統計局の倉庫の中には町丁目別人口の情報があるのかも知れませんが、少なくとも戦前の国勢調査報告書の実物を実際に手に取って見る限り、町村よりも狭い境域での人口の情報は公表されていません。また十島村・三島村の人口按分を行っていなかったりする点を見ると、統計局内部の情報にも何かしら限界があるように見えます。