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YTさんの記事が5件見つかりました

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[82294] 2012年 12月 7日(金)20:55:39YT さん
盛岡
昨日より出張で盛岡におります。

これまで私は盛岡に関しては乗換えや通り過ぎただけで、駅の外に出たのは初めてです。また昨日より盛岡では雪が降っており、今期の自分にとっての初雪を経験したところです。

駅前のアイーナという場所で開かれているある催しに出席しているのですが、同じ建物に岩手県立図書館があることに気付きました。岩手県立図書館には、たしか藩政時代の南部藩の人口の情報が記載されている南部藩家老席日誌(『盛岡藩雑書』として活字化されているが、まだ半分くらいしか刊行されていない)の原本があったはずで、時間があれば閲覧申請でもしようかと思ったところ、突然地震がありました。

なんか東北新幹線がまだ止まったままで、今日帰る予定の人はまだ駅に留められたままのようです。
[82288] 2012年 12月 3日(月)19:11:00YT さん
大正9年以降の人口異動を伴う境域変更の情報
[82281] 白桃さん

2010年境域での2005年の(旧)春日部市の人口が202,105人、越谷市の人口が315,792
2005年国勢調査報告で
2000年境域での2005年の(旧)春日部市の人口が202,105人、越谷市の人口が315,792
と全く同じ数字になっているのです。

先ほど自分も冊子の方の国勢調査報告でもそのようになっていることを確認しました。残念ながら修正の記載もありません。まあ国勢調査報告書も小さな間違いは色々ありますし・・・

ところで、白桃さんの[82241]とも関連しますが、図書館に行ったついでに過去の国勢調査報告書を閲覧したところ、人口異動を伴う境界変更について重要な知見がありました。[81919]でオーナー グリグリさんが過去の境域変更に関する情報をまとめていますが、実は昭和25年の国勢調査報告の『国勢調査報告 第7巻 都道府県編 (沖縄を除く全46冊)を閲覧したところ、各都道府県毎に「市町村の廃置分合, 境域変更及び名称変更 (大正9年10月~昭和25年9月)」という注記があり、昭和25年以前の人口異動を伴う境域変更についてもまとまっていました。よって沖縄県を除き、国勢調査開始以降の境域変更の日時は全て情報として存在します。沖縄県も、附録としてどこかに収録されているのかも知れません。

市町村の廃置分合及び境界変更について
 統計表第1表には大正9年国勢調査以来の市町村別人口の変遷を示しているが、これについては次の事柄を注意されたい。
 1 表に掲げてある人口は、昭和25年国勢調査当時と同一の市町村名を有するものに限りこれを掲げることとし、且その人口は各調査当時の境域による人口である。
 2 各調査間における市町村の廃置分合及び境界変更並びにこれらに伴う人口の異動はすべて注記してある。注記については次の事柄に注意されたい。
(1)人口の異動については、次回調査までの廃置分合による人口異動を前回の調査人口により組替え算出した。
(2)前回の調査時にあった市区町村が次回調査までの間に廃置分合によって消滅したときは、その市区町村の人口を備考として記載した。
(3)境界変更のうち人口異動の有無及び人口異動の不明なものをそれぞれ次のように表示した。
 (イ)人口異動があったものは異動人口のみを括弧内に表示した。
 (ロ)人口異動がなかったものは括弧内に「人口異動なし」と表示した。
 (ハ)人口の異動の不明なものは括弧内に「不明」と表示した。

つまり昭和25年の国勢調査報告を作成した時点で、すでに人口異動の有無の不明な境域変更もあったようです。

ただ一点問題なのは、戦中・戦後の酸性紙による冊子の劣化が激しく、ちょっとゼロックスコピーを許可されそうにない点です。というわけで現時点でこれらの情報は簡単にはまとめられません。
[82278] 2012年 12月 1日(土)17:17:55YT さん
国立公文書館所蔵の『昭和19年人口調査表・別表』
[82202]で挙げました国立公文書館所蔵の『昭和19年人口調査表・別表』について、先日国立公文書館に依頼して原史料を閲覧しました。閲覧した史料は、

請求番号簿冊標題
分館-11-003-00・昭54総統00824100昭和19年・人口調査表・別表(内地全体~沖縄県)
分館-11-003-00・昭54総統00825100昭和19年・人口調査表・別表(北海道~岐阜県)
分館-11-003-00・昭54総統00826100昭和19年・人口調査表・別表(静岡県~樺太)
分館-11-003-00・昭54総統00827100昭和19年・人口調査表・別表(香川県)

の四点で、戦中の酸性紙に手書きで書かれており、紙質が非常に悪く、閲覧に注意が必要です。

この内『昭和19年・人口調査表・別表(内地全体~沖縄県)』は、各県の男女別、郡市別、年齢別、職業別人口などをまとめたもので、[82202]にまとめた『昭和19年人口調査 集計結果摘要』(1977年)の補正後、補正前の数字と完全には同じではないのですが、どちらかというと補正前の人口と一致する県が多く、最終集計前後の状態なのでしょう。

一方『昭和19年・人口調査表・別表(北海道~岐阜県)』と『昭和19年・人口調査表・別表(静岡県~樺太)』の二点は、市の年齢別・男女別・職業別人口をまとめた調査表を抜き取って集めたもので、残念ながら特別区部や町村の人口は対象外です。ざっと見た限り、ほぼ『昭和19年人口調査 集計結果摘要』の補正前人口と同一の数字で、当然三鷹市や府中市の表はありません。もっとも豊原市の人口が

男女合計
20,95820,90941,867

となっており、[82202]の樺太市部の人口42,151人と矛盾します。

最後の『昭和19年・人口調査表・別表(香川県)』は、香川県の全ての市町村について、それぞれの年齢別・男女別・職業別人口をまとめたものであり、まさに『昭和19年人口調査 集計結果摘要』(1977年)の「第2表 都道府県、市町村及び郡別人口」の元となる原集計表そのものであることが分かりました。もっとも市町村別人口合計自体に違いは全くありません。

というわけで、東京都の人口を『昭和19年人口調査 集計結果摘要』(1977年)記載の区分人口から修正するためには、『昭和19年・人口調査表・別表(東京都)』とでも言うべきものを閲覧する必要があるわけですが、残念ながら国立公文書館所蔵で公開されている史料にはそのようなものはないようです。

[82202]で挙げた残りの史料についても閲覧依頼を出しておりますが、報告できるのは3週間前後後になりそうです。
[82244] 2012年 11月 23日(金)03:03:23YT さん
1950年12月1日の十島村の国勢調査人口は2938人!
[82235]で1950年の十島村の人口が不明であるかのように書いてしまいましたが、改めて1950年の国勢調査報告を調べたところ、1950年国勢調査結果概要の中に、
1950年の人口には、外国人(連合国軍及び外交関係を除く)及び対日講和条約の規定により1951年12月5日、日本に帰属した奄美群島の十島村(2,938人)を含んでいる。
とありました。つまり琉球政府の公報第27号では省かれていた十島村でもちゃんと国勢調査が実施されており、「国勢調査の穴」というのは私の早とちりでした。

よって、琉球政府公報を元に[82204]以前に私がまとめたデータに関しても、1950年の奄美群島の現在人口は219,048人に、琉球列島米国軍政府管轄全琉球の現在人口も917,875人に改定する必要があります。また1950年の現十島村境域の人口は2,938人、現三島村境域の人口の割合も33.56%になりますし、なによりも、『昭和55年10月1日の境域による各回国勢調査時の市区町村別人口 : 大正9年~昭和55年』(昭和22年と昭和25年の十島村の人口が空欄で、昭和15年以前は三島村の人口が空欄となっており、総て十島村の人口として処理されている)での人口処理にミスがあったことがわかりました。

十島村に関してネット上で調べたところ少なくとも『十島村誌』には人口の情報があるようです。羽原清雅氏による「トカラ・十島村の「格差」と地域の政治―どうなる七つに分散する離島村の闘い」によると『十島村誌』などを参考にして以下の人口変遷が掲載されています。

年次中之島口之島宝島平島悪石島諏訪之瀬島小宝島臥蛇島
187910510529972118068767
18901331334079412185831,061
189714917843993137137991,229
19103332275351291652531101,752
19164282905771421682601281,993
1931646404652138171126992,236
1935793436580135150691052,268
1940873440562150114601332,332
1944768453529148140591152,276
19501,03972056919117395622,938
19521,57660560519718686453,394
19559285845602031829090572,658

1916年以前の人口は現住人口、1950年と1955年の人口は国勢調査人口なのは兎も角として、他の年号の人口は何の調査人口なのかは不明です。ただ、1935年、1940年、1944年の人口をそれぞれ国勢調査・人口調査による現在人口だと仮定すると、

調査年月現十島村境域内現三島村境域内合計三島村の人口の割合備考
昭和5年10月1日3,723
昭和10年10月1日2,2681,3993,66738.15
昭和15年10月1日2,3321,2323,56434.57
昭和19年2月22日2,2761,2603,53635.63
昭和22年10月1日1,304確定
昭和23年8月1日1,384確定
昭和25年10月1日2,9381,4844,42233.56確定
昭和30年10月1日2,6581,3524,01033.72確定
昭和35年10月1日2,6021,3633,96534.38確定

調べてみると案外分かるものです。


[82237] hmt さん

もちろん[65126]には「本土復帰」とは記されておらず、日付も違っております。

かなり以前に参考にした文書に昭和21年10月3日付けで本土に復帰という記述があったのですが、今調べ直したところ、10月3日は奄美群島の大島支庁が臨時北部南西諸島政庁へ以降した日で、三島村領域は昭和21年2月2日の2.2宣言により本土への所属が決定され、昭和21年2月28日内務省告示第22号で鹿児島県所属となったようですね。訂正します。

ところで内務省告示第22号によると

内務省告示第二十二号

昭和十七年七月内務省告示第四百九十号
府県地方事務所ノ名称、位置及管轄区域中左ノ通改正シ昭和二十一年二月二十二日ヨリ之ヲ施行セリ
 昭和二十一年二月二十八日
      内務大臣 三土 忠造
別表鹿児島県ノ部中「鹿児島郡、大島郡十島村ノ内黒島、竹島、硫黄島」ニ改ム

となっており、告示に先立つ昭和21年2月22日付けで鹿児島県の領域の改正が施行されておりますが、この場合は領域の変更は2月22日なのでしょうか?

[82241] 白桃さん
これはひょっとして昭和55年のことですか?

すみません。国勢調査報告に掲載されている人口異動情報は昭和30年までということで1955年と書きましたが、内容としては昭和25年10月2日まで遡るので、1950年10月2日以降の間違いです。

当たり前のことですが、異動人口(該当区域の境界変更直前の国勢調査人口)が分っているからこそ『昭和55年10月1日の境域による各回国勢調査時の市区町村別人口 : 大正9年~昭和55年』なるものが出版されたのですよね・・・。

確かにその通りですが、公表された出版物の中で人口異動を伴う境域変更の情報がまとめて掲載されている分が、現時点で判明している限りでは1950年10月2日以降に限られるという点を銘記した上でまとめた方が、より情報がクリアになるということです。確かに統計局の倉庫の中には町丁目別人口の情報があるのかも知れませんが、少なくとも戦前の国勢調査報告書の実物を実際に手に取って見る限り、町村よりも狭い境域での人口の情報は公表されていません。また十島村・三島村の人口按分を行っていなかったりする点を見ると、統計局内部の情報にも何かしら限界があるように見えます。
[82235] 2012年 11月 22日(木)04:03:07【1】YT さん
1950年の琉球列島米国軍政府管轄全琉球における十島村の人口の謎
[82194]でも触れました十島村・三島村の過去の人口を調べている内に奇妙なことに気づきました。

過去に[65126]でむっくんさんが触れられているように、昭和21年10月3日付でトカラ列島北部の三島が「十島村」として本土復帰し、遅れて昭和27年2月10日付でトカラ列島南部が十島村として本土復帰します。その際に先に復帰した十島村は「三島村」となります。
1947年の臨時国勢調査から1950年の国勢調査まで、十島村の人口としてカウントされているのは、実際には後の三島村の人口です。

調査年月十島村三島村合計現三島村境域の人口の割合(%)
大正9年10月1日3,3383,338
大正14年10月1日3,3403,340
昭和5年10月1日3,7233,723
昭和10年10月1日3,6673,667
昭和15年10月1日3,5643,564
昭和19年2月22日3,5363,536
昭和22年10月1日1,304
昭和23年8月1日1,384
昭和25年10月1日1,484
昭和30年10月1日2,6581,3524,01033.72
昭和35年10月1日2,6021,3633,96534.38
昭和40年10月1日1,8488742,72232.11
昭和45年10月1日1,4076552,06231.77
昭和50年10月1日6281,1201,74835.93
昭和55年10月1日6199031,52240.67
昭和60年10月1日5527871,33941.22
平成2年10月1日5037901,29338.90
平成7年10月1日5137761,28939.80
平成12年10月1日5007561,25639.81
平成17年10月1日4626731,13540.70
平成22年10月1日4186571,07538.88

ところで昭和25年10月1日においては、現十島村境域は未だ米国統治下にあり、1950年12月1日付で実施された国勢調査琉球確定人口に十島村は含まれるはずです。ところが琉球政府広報を見ても、十島村の名前がありません。

可能性としては、確定人口が公表された1952年10月13日の時点で十島村は本土復帰をしており、国勢調査の結果表から欠落してしまったということでしょうが、こんなところにも国勢調査の穴が生じているとは予想外でした。

さて、過去の十島村の島毎の人口配分がどうであったかを調べてみましたが、残念ながら『三島村誌』『十島村誌』をすぐに調べられる環境にはありません。ただ明治30年度以前の『鹿児島県統計書』には島別の人口が掲載されていました。

M28M29M30
竹島134134148
硫黄島457457470
黒島346346354
口之島169173178
中之島151146149
臥蛇島939499
諏訪之瀬島129132136
平島979793
悪石島135138137
宝島437437439
現三島村境域937937972
現十島村境域1,2111,2171,231
現三島村割合(%)43.6243.5044.12

残念ながら戦前のトカラ列島の人口の割合の変化を推計するには情報が少なすぎますが、どうもトカラ列島は明治後半~大正にかけて南部の方でより人口が増えたようです。ただ多分昭和30年の人口比で按分してもそう実態とはかけ離れてはなかっただろうことは予想がつきます。【戦前の十島村の人口約3500人に対して30%~45%の人口比を按分すると、大体±300人程度の誤差が生じることになりますが、『昭和55年10月1日の境域による各回国勢調査時の市区町村別人口 : 大正9年~昭和55年』でこの辺の按分を行っていないということは、島別の人口の情報がないんでしょうね。】

なお[80480]以前の投稿を含め、自分がアップしたファイルでは昭和21年に十島村全域が復帰したかのように記述していましたので、そこは要修正です。

[82230][82231][82232][82233] 88 さん オーナーグリグリ さん
現在の境域における過去の国勢調査人口を推計するという観点では、1980年国勢調査時点での情報をまとめた『昭和55年10月1日の境域による各回国勢調査時の市区町村別人口 : 大正9年~昭和55年』が利用できるので、1980年から2010年までの人口の異動を伴う境域変更を調べてまとめ、計算に利用しました。

しかしながら過去の人口異動を伴う境域変更が判明する時期は限られています。自分はこの件に関して特に意見表明をしていませんでしたが、確かに情報の整合性という点では問題があり、この点に関しては88さんの意見に賛同します。過去の人口異動を伴う境域変更に関しては情報源が1955年以降に限られることを銘記した上で雑学のページにまとめた方が良いかも知れません。


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