[25523] 2004 年 2 月 29 日 (日) 08:16:06 軒下提灯 さん
神戸市垂水区の市街地は神戸本体の市街地とは地形的に隔絶し、むしろ明石市街地と連続状態にあるため、明石&垂水の市街地を1ククリにして1つの都市としています。
軒下提灯さんがご作成の「日本の都市ランキングビッグ1,000!」は、昭和40年代の統計情報がベースとなっているようなので、ここで言う「神戸市垂水区」は現在の垂水区域ではなく、当時の旧垂水区域として考えます。
当時の垂水区は現在の垂水区、西区全域に加え須磨区北須磨のうち名谷団地以西をその区域としており、嘗ては全土が明石郡の郡域でした。
これらの区域は神戸市街地の本体とは急峻な六甲山地の一角にあたる通称「須磨アルプス」(拙稿
[8156][8162]をご参照下さい)に遮られ、市街の連担は物理的に望めません。一方の明石市街とは地形的な障害はなく、現在の垂水区および西区玉津地区、伊川谷地区の西部では事実上市街地は明石と繋がっています。
この現状を踏まえて、時代背景は昭和40年代後半を想定しての話として旧垂水区域を6つに分けて考えてみます。
但し、ここからは小生の主観が濃く入り、客観的なのもではありませんので、ご了承下さい。因みにこの区域には個人的に知り合いも多く、馴染みのある所ですが、小生自身は住んだ経験がないことを付け加えておきます。
当時の垂水区で市街化されていた区域は
(1)国鉄線、山陽電車線、および国道2号線に沿った海岸周辺。一部垂水駅あたりより福田川に沿って内陸に開発の進む市街地を含む
(2)現在の西区玉津地区南部
(3)現在の西区押部谷地区の神戸電鉄沿線
(1)の区域はその沿革から更に細分して考えます
(1-a)東部の塩屋町、東垂水あたり
この地域は戦前期より神戸・大阪圏の別荘地として開発のあった地域で、その意味では同じく別荘地として開けた須磨区西部の丘陵地帯と同一の発展をしたものとして、明らかに神戸との連帯が見られます。
代表的な別荘地としては塩屋町の丘陵に開発された「ジェームス山」が代表です。
漁村としての旧塩屋村は別として、戦後の市街地化もあくまで神戸市街地の一部として発展しています。
(1-b)垂水駅周辺(福田川左岸の東垂水町西部を含む)
垂水漁港を核として古来より独自の発展をした地域で、この限りにおいては神戸でも明石でもありません。
戦後は背後の丘陵地に住宅団地の大規模な建設が始まり、昭和34年の高丸団地を嚆矢(雑魚さんが懐かしい・・)としています。これら一連の住宅団地は神戸市人口増加の受け皿としての側面が強く、その意味においては明らかに神戸の一部です。
住宅団地の形成とともに人口は増え、それに合わせて垂水駅北側では商業核として発展が見られ、町の性格から漁村の要素が薄れてきました。
(1-c)舞子あたり
垂水区の西部に位置し、明石市に隣接しています。嘗ては「山田村」と呼ばれ、江戸期には明石藩領でした。当然明石との結びつきは深く、その意味において神戸ではありません。
明治22年に山田村は東垂水、西垂水、多聞、塩屋、下畑、名谷の各村と合併し垂水村の一部となり、垂水の一翼を担い発展しましたが、昭和16年に垂水町(昭和3年町制)の神戸市編入により神戸市域(昭和21年までは須磨区)となりました。
昭和30年代以降に区内で始まった住宅団地建設は舞子の背後の丘陵地でも始まり、これらの事情は前出の垂水の高丸団地等と同じです。これらの住宅地からは明石海峡の見晴らしが良く、当時は人気がありました。
(1-d)第二神明道路以北
現在の垂水区北部です。昭和44年の5万分の1地形図では舞子の北方にある多聞台団地以外には目立った造成地は無く、ほとんどが古来よりの丘陵地とそれらの谷あいに村落が点々と分布しているに過ぎません。また現在須磨区に編入されている名谷団地の区域でも造成が行われていません。
(2)玉津町南部
明らかに明石市街地の一部です。
実際に明石市は昭和18年に玉津村との合併を県に申請しましたが、これは不成立に終わりました。背後には当時神戸市において市域拡張により大神戸市を建設する構想が始動し(前出の垂水町の神戸市編入はその一環。拙稿
[8578]に既述。但し戦時非常時により中断)、明石市そのものが神戸市域に編入の構想になっていたことも一因と考えます。
そして現在の市街化も神戸の一部というよりは明石市街地の拡大による性格が濃いと思われます。
(3)押部谷町の神戸電鉄沿線
明石とは全く関係の無い地域です。この地域を走る神戸電鉄粟生線は神戸高速新開地駅(兵庫区)と三木市街を結び、この区域の発展は神戸の一部(三木派も考えられますが、こちらは少数派でしょう)としてのものです。
但し、昭和44年の5万分の1地形図では現在のような顕著な市街化は見受けられません。
最後に参考の付表として、国勢人口推移データを提示しておきます。
区域\年次 | 昭和40年 | 昭和45年 | 昭和50年 | 昭和55年 | 昭和60年 | 平成2年 | 平成7年 | 平成12年 |
旧垂水区域計 | 148,014 | 207,880 | 275,279 | 320,357 | 363,483 | 423,436 | 491,509 | 486,330 |
垂水区南部 | 97,670 | 144,929 | 166,747 | 163,993 | 161,851 | 161,839 | 163,044 | 151,475 |
垂水区北部 | 7,581 | 16,419 | 38,682 | 48,765 | 62,361 | 73,415 | 77,214 | 74,895 |
須磨区名谷団地以西 | | | 1,637 | 20,657 | 28,497 | 29,602 | 29,088 | 24,197 |
西区伊川谷 | 5,506 | 7,447 | 11,784 | 14,696 | 21,623 | 42,662 | 60,791 | 61,209 |
西区櫨谷 | 2,844 | 2,876 | 2,938 | 2,963 | 7,875 | 25,265 | 45,383 | 54,744 |
西区押部谷 | 5,762 | 6,497 | 14,659 | 23,039 | 26,983 | 28,617 | 33,610 | 32,400 |
西区玉津 | 11,966 | 12,160 | 19,945 | 26,068 | 28,572 | 32,533 | 37,622 | 40,871 |
西区平野 | 4,193 | 4,305 | 4,498 | 4,325 | 8,088 | 9,943 | 23,175 | 23,172 |
西区神出 | 6,773 | 7,335 | 8,070 | 8,369 | 8,608 | 8,515 | 8,548 | 8,682 |
西区岩岡 | 5,719 | 5,912 | 6,319 | 7,482 | 9,025 | 11,045 | 13,034 | 14,685 |
注)垂水区の南部・北部の人口計算は、昭和45年~平成7年のデータは国勢統計区ベース、昭和40年および平成12年のデータは町名ベースで算出。おおよそ第二神明道路を区切りとしました。
昭和55年以降、伊川谷、櫨谷、平野で人口の激増が見られますが、これは西神ニュータウン、西神南ニュータウン、学園都市の造成、市営地下鉄の西神中央への延伸に寄るところが大きく、いずれも神戸の発展の一環と見ることができます。
最後に垂水在住(舞子を含む)の小生の知人連中から受けた印象では、やはり神戸の住民との意識が強く、明石に対してはその意識が全くといってよいほど感じられません。
*記事訂正 平成12年の垂水区南部・北部の人口値を修正。