[51789]EMM さん
宇高連絡船はどうでしたっけ?
[51790]hmt さん
宇高連絡船の客車航送は、大阪-八幡浜・須崎間
[51787]で参照した1952年12月の時刻表に掲載された「主要旅客列車編成」を見たら、大阪21:15発の準急307列車呉線経由広島行(7両)の後に四国行が6両連結されており、これが宇野発2:20(宇高連絡船3便)3:30高松桟橋着の航路で運ばれていたようです。
私は時刻表は復刻版しか所有していないので(しかも他所においており、手元に無い)、助かりました。
国鉄(JR)の宇高連絡船では、客車航送をしておりました。残念ながら、hmtさんご紹介のとおり東京直行ではないようですね。
宇高連絡船の客車航送の記録です。
参考文献:「宇高連絡船78年のあゆみ」萩原幹生著 成山堂書店、H12(2000)年発行
※:萩原幹生氏は、宇高連絡線廃止時の土佐丸船長で、切絵の作者としても著名
M36(1903).3.18 | 山陽鉄道株式会社(現JR山陽本線)が山陽汽船株式会社と共同運航で岡山(京橋)-高松桟橋間で営業開始 |
| (岡山駅-京橋、高松桟橋-高松駅間は人力車継送) |
M39(1906).12.1 | 山陽鉄道株式会社の鉄道・各航路、国有化 |
M43(1910).6.12 | 宇野線営業開始 |
| 岡山-高松航路を宇野-高松航路とする(宇高航路78年の歴史の始まり) |
T10(1921).10.10 | 渡艀を曳航して貨車航送開始 |
S11(1935) | 客載車両渡船建造計画はあったが、その後戦争のため中断 |
S21頃 | S20、S21の旅客輸送人員増を受け、根本的に輸送力を改革する計画が再び取り上げられる |
| 将来の輸送要請量に対処するためにも客載車両渡船の製造は必然的なものであり、 |
| 財政上の困難を排除して建造、同時に水陸連絡施設も工事開始 |
S22(1947).7.6 | 客載車両渡船第一船紫雲丸就航 |
S23(1948).2.26 | 客載車両渡船第二船眉山丸就航 |
S23(1948).6.25 | 客載車両渡船第三船鷲羽丸就航 |
S25(1950).5.12 | 客車航送試運転実施 |
S25(1950).6.21 | 客車航送試運転実施 |
S25(1950).10.1 | 客車航送開始 |
S30(1955).5.11 | 紫雲丸事故 |
S53(1978).10.10 | 瀬戸大橋着工 |
S63(1988).4.9 | 宇高連絡船廃止 |
S63(1988).4.10 | 瀬戸大橋開通 |
この客車航送ですが、上記文献から引用すると、
"海を行く客車"のポスターで華々しく宣伝された直通夜行大阪発507便は168名の旅客を載せたまま連絡船に積み込まれ、初めて海を渡った。・・・・客車航送能力は1航海6両で一日上・下便合わせて2航海行い、航送定員は上・下とも432名であったが実数は定員を相当上回っていた。・・・・しかし、長距離旅客からはこのように歓迎された"海を行く客車"も、紫雲丸事故によって安全上の見地から昭和30年5月11日限り、好成績を残しながらわずか4年余りで中止となるのである。
とあります。
紫雲丸事故のとき、紫雲丸には、旅客781名、貨車15両、手荷物及び郵便車4両を積載していました(客車航送便ではありません)。犠牲者は、旅客166名(一般旅客58名、修学旅行関係者108名)、船員2名です。
(注:旅客の一般・修学旅行関係者の内訳は、『宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか』萩原幹生著、成山堂書店、H12(2000)年発行)による)
また、客車航送便輸送人員は、このように掲載されています。
| 下り | 上り | 合計 | 1日平均 | 記事 |
S25.10 | 12,585 | 14,295 | 26,880 | 867 | 3便 20便 |
S25.11 | 11,636 | 12,653 | 24,289 | 810 | 3便 20便 |
S25.12 | 14,648 | 14,117 | 28,765 | 928 | 3便 20便 |
S26. 1 | 14,836 | 17,871 | 32,707 | 1,055 | 3便 20便 |
S26. 2 | 14,280 | 15,756 | 30,046 | 1,073 | 3便 20便 |
S26. 3 | 18,366 | 19,098 | 37,464 | 1,209 | 3便 20便 |
S26 | 197,848 | 200,951 | 398,799 | 1,092 | 3便 2便 |
S27 | 215,237 | 212,883 | 428,120 | 1,173 | 3便 2便 |
S28 | 224,417 | 219,205 | 443,622 | 1,215 | 3便 2便 |
S29 | 231,370 | 216,391 | 447,761 | 1,227 | 3便 2便 |
S30. 4 | 21,171 | 21,435 | 42,606 | 1,420 | 3便 2便 |
S30. 5 | 6,840 | 6,263 | 13,103 | 1,191 | 3便 2便 |
S25.10.1からS30.5.11まで、一日平均1,158人でした。
修学旅行生と思しき生徒が客車に乗ったまま積み込まれる写真が、同書にも掲載されています。私も幼少の頃他の文献でこの写真を見たことがあり、よく使われる写真でしょう。
紫雲丸事故を受け、明治以来あった本四架橋案が具体化し、瀬戸大橋につながって行きました。
なお、貨車航送は、瀬戸大橋開通前まで行われていました。桟橋から貨車が積み込まれていく情景は、私にとって連絡船甲板のうどんとともに既になつかしいものとなりました。
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[51790]hmtさんの訂正(
[51800]hmtさん参照)により、引用部分を訂正