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落書き帳

矢場川村

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[2878]2002年9月2日
YSK
[14588]2003年5月3日
Issie
[14592]2003年5月3日
G
[14616]2003年5月3日
YSK

[2878] 2002年 9月 2日(月)18:38:53YSK さん
菱村と矢場川村の越境合併
[2875][2876]

mikiさんのご指摘どおり、「群馬県菱村」ではなく、「栃木県菱村」ですね。
1959.4.1に、群馬県桐生市が菱村を編入しています。現在は桐生市菱町となっています。

また、1960.7.1には、群馬県矢場川村(当時)が、栃木県足利市と群馬県太田市に分かれて編入されるという、いわゆる「越境分村」がありました。
同様な事例は、埼玉県元狭山村(当時)が、東京都瑞穂町と、埼玉県入間市に越境分村した例があります。
ただし、細かく言えば、

1958.10.14 境界変更により、元狭山村の一部が入間市となる。
1958.10.15 瑞穂町、元狭山村を編入する。

という過程を経ています。

話を元に戻します。
足利市、桐生市、太田市周辺(「両毛地域」といいます)は、県は違いますが、同じ生活圏を共有しています。この特殊な生活圏構造が、相次いで県境を越えた合併を実現させたと言えるのではないでしょうか。また、菱村、矢場川村ともに、県全体からすればわずかな人口であったことも、県議会や国の同意を得やすい要因だったといえます。

このHPの市町村変更情報にもありますように、この地域における合併に向けた公式の組織は、太田市外5町による任意合併協議会があります。この合併協議会発足後間もない頃だったと思いますが、足利市長が記者会見で、「足利市は太田市と合併し、“両毛市”を目指すべきだ。同じ県ならとっくに合併している」と発言しました。実は小学生さんがおっしゃっているのは、この報道のことではないでしょうか?

足利市は、人口では栃木県で第2の都市ですが、近年は人口も停滞し、合併を模索したいところなのです。しかし、栃木県の西端に位置し、適当な合併相手がないのが実情です。そこで、県境をまたいで密接なつながりのある太田市との合併が望ましいのではないか。足利市長の発言の真意はこういったところなのではないかと思われます。

ただ、菱村や矢場川村と違い、足利市は人口約16万の栃木県第二の都市です。越県合併は現実的にはほぼ不可能に近いといえます。したがって、足利市長の発言の後も、越県合併についての目立った動きはありません。
[14588] 2003年 5月 3日(土)10:50:59Issie さん
新田山田
[14576] YSK さん

例のページの「群馬県編」を作ったのですが
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/03kanto/10_gunma.htm
明治の大合併以降の動きが比較的に緩やかな群馬県の中で,新田郡と山田郡は県境を越えた異動も含めて割りと複雑な動きをしているのに少し驚きました。

たとえば太田市。
“新田地域の中心”なわけですが,現市域の東側半分は山田郡からの編入ですね。
逆に明治の大合併以前の旧新田郡太田町が丸ごと「新・太田町」になったのではなくて,一部は同じ新田郡の鳥之郷村・強戸(ごうど)村だけでなく山田郡の韮川村・毛里田(もりた)村の一部となっている…。大字としては太田町にしか残らず,隣接各村では隣の大字に編入されてしまっているのでよくわからなくなっているのですが,“旧太田町”のひろがりはどのようなものであったのか。
いずれにせよ,このあたりでは郡界をはさんだ異動が結構激しかったことがわかります。
やがては新田地域(太田)と山田地域(桐生)が一体化する,なんて流れも自然かな,と感じたりもしました。

で,知らなかったのが,旧矢場川村の半分が栃木県足利市へ編入されていたということ。
桐生川左岸の菱村や田沼町の一部が栃木県から群馬県の桐生市へ越境編入されたことは有名で,これは20万分の1の地勢図でも旧国界と現県境のズレとして目にすることができるのだけど,その逆もあったというのは知りませんでした。
こちらのズレは地勢図には反映していませんね。

現実には足利地域(足利市)も含めた一体化が進んでいるのでしょうが。
[14592] 2003年 5月 3日(土)13:12:44G[わたらせG] さん
両毛
[14588]Issieさん YSKさん
広報の市長のコラムに合併関連の話題があったのでかいつまんで

 昭和22年(1947),栃木県足利郡には、この狭い地域に17の市町村がありました。足利市、毛野村、山辺町、三重村、山前村、北郷村、名草村、富田村、御厨町、筑波村、梁田村、久野村、三和村、小俣町、葉鹿町、吾妻村、菱村です。
 昭和30年(1955)に、吾妻村が佐野市へ、昭和34年(1959)に菱村が桐生市へそれぞれ合併し、昭和26年(1951)から37年(1962)までに全部の町村が足利市に合併され、足利郡がなくなったわけです。
 この間、菱村が群馬県に編入するにあたり、群馬県からは矢場川村が編入されるわけでありましたが、村で議論があり、分村という形で全部が編入されませんでした。その代案として、現在の太田市高瀬地区を足利市へとの考え方があったようですが、それも結論に至らず、現状のままとなっています。現在でも高瀬地区の子供たちは、足利の山辺小学校と、山辺中学校へ市(県)を越えて通学しているのです。
 昭和34年(1959)に菱村が桐生市に合併の際は、1140世帯、5700人の人口移動がありました。しかし、矢場川は分村の結果、540世帯、3019人の足利市への流入ということで、合併による単純比較で申しますと、面積は約18k㎡、人口2681人、600世帯のそれぞれ減とらります。
 今頃になって群馬県の栃木県への対応を不満として議論することはできませんが、過去合併の歴史として私たちは認識しておく必要があると思い記述したのであります。

とありました。矢場川村の合併に関しては、他書籍によると、最終的には当時の自治庁による現地調査、調整斡旋が行われるほどの騒動が展開されたそうです。明治期の廃藩置県後の一時期、館林県が栃木県に所属していた時もあり、生活、文化などさまざまな面において、名目上の群馬県、栃木県という括りだけでは済まされない地域が「両毛」なのだと思います。


[14616] 2003年 5月 3日(土)21:01:16YSK さん
矢場川村(やばがわむら)について
[14588]Issieさん
旧矢場川村の半分が栃木県足利市へ編入されていたということ。
私も過去ログ[616][2878]で、この「越境分村」について書いております。

現在の住所表記でいいますと、

足利市:南大町(足利市街地に「大町(だいちょう)」がすでに存在していたので、もとの字名「大町」に「南」を冠しました)、 里矢場町、新宿町(あらじゅくちょう)、藤本町、荒金町

太田市:矢場町、植木野町、東新町の一部

が「旧矢場川村」の村域でした。旧村名にもなっている矢場川の流路が旧県境です。

県道足利千代田線(39号線)が同川を渡河する橋の名前は「両毛橋」。現在は足利市堀込町と同市藤本町との間にかかる橋となっていますが、地域の歴史がその橋の名に刻まれています。

Issieさんもご推察の通り、旧矢場川村の足利市に編入された地域は、隣接する足利市山辺地区と市街地が連担しており、また現在の県境となっている地域には水田が広がって市街地は一応途切れているので、旧県境よりもむしろ現県境のほうが、より地域の実態にあっているように感じられますね。

(旧矢場川村域における、20万分の1地勢図の旧国界と現県境との)ズレは地勢図には反映していませんね。
この点は、私も気づいておりました。旧菱村や旧飛駒村の一部にかかわる、旧国境と現県境とのずれは明確に記載されているのに、どういうことなのかな、と。地域住民として、国土地理院に確認を求めてみようかな?

矢場川村にあった小学校は、足利市に市立矢場川小学校として存続していますが、1つの中学校を維持する規模ではなかったため、「矢場川中学校」は廃止となりました。同小学校の児童は、卒業後隣接地区の山辺中学校へ通学することとなります。

太田市に編入された地域は、やはり独立した小中学校を設置するほどの規模ではなく、隣接する韮川地区の小中学校の学校区に編入されました。中学校は、太田市街地北東に接する現北中学校。かなりの距離の通学を強いられたことになりますね。現在は、韮川地区東部に「城東中学校」が開校しています。

行政地区でも、「矢場川」は「韮川地区」に編入されています。


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