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「県境」の変更

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記事数=43件/更新日:2016年4月17日

明治4年、7月の廃藩置県に続く 11月の再編成で誕生た3府72県[76135]には、その後も大幅な手直しが行なわれました。
府県の数は 明治9年に 3府35県 を記録した後、明治12年(第二次)琉球処分[76118]による 沖縄県設置 以降は増加に転じ、明治21年(1888)12月3日の香川県復活により、3府43県で落ち着きました。この間の変化は、9増(沖縄・徳島・福井・鳥取・富山・佐賀・宮崎・奈良・香川)1減(堺)です。
わが国の地方行政組織の大枠である「都道府県」の地域割りはここで決まりました。

この特集では、原則として これ以後に行なわれた「県境」(正確には「都道府県境」)の変更を対象とします。
この間には、東京府→東京都、北海道庁→北海道、地方自治法施行、沖縄県の戦後処理という 地方行政組織の変化がありましたが、それに伴う区域の変更はありません。
トカラ(1951)・奄美(1953)・小笠原(1968)の復帰は、鹿児島県と東京都との管轄区域を実質的に拡大しました。しかし、これは“「県境」の変更”とは 少し違うと思います。

3府43県体制以後の県境変更は、その大部分が小規模なものです。
唯一の例外として、神奈川県の3郡が東京府の管轄に移された「三多摩移管」(1893)がありました[33700]

46府県が出揃うより少し前の 1886年に、越後国東蒲原郡が福島県から新潟県に移管されました[69172]
これも 県自体には手を付けない郡単位の移動であり、三多摩の事例と並ぶ希少な県境変更事例です。
既に特集・都道府県境 に収録済でもありますが、この特集にも再収録しました。

この2例を除けば、最大規模の県境変更でも「村単位の移動」です。
明治24年に埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村が、府県境を越えて隣接していた石神井(しゃくじい)村の一部などと合併して東京府北豊島郡大泉村[62334]となったのは、「県境越え新設合併」の唯一の事例として記録されています[79541]

明治29年の石井村(岡山県吉野郡→兵庫県佐用郡)、明治32年の金江津村、十余島村、本新島村(いずれも千葉県香取郡→茨城県稲敷郡)、明治40年の保谷村(埼玉県北足立郡→東京府北多摩郡)。以上の5村は、村がそのままの姿で「県境界変更法律」の適用を受けた事例でした[47106]

戦後の村単位の移動は、すべて隣接府県の市に「編入合併」された事例です[79537]。京都府樫田村→大阪府高槻市、栃木県菱村→群馬県桐生市、長野県山口村→岐阜県中津川市。
昭和33年10月15日に行なわれた下記の3事例は、形式的には村単位の編入合併になりますが、実質的には 分村合併でした。埼玉県元狭山村→東京都瑞穂町、福井県石徹白(いとしろ)村→岐阜県白鳥町、長野県神坂(みさか)村→岐阜県中津川市。

町村の一部が「境界変更」によって隣県に移る事例は、その規模に大小があります。
群馬県矢場川村の事例[14616] では、足利市と市街地が連担している町場部分、つまり村の主要部が栃木県に移動しており、手続的には境界変更であっても、実質的には隣県への編入合併に近いものでしょう。
岐阜県三濃村の事例も、愛知県旭村に移った境界変更部分の方が、県内で編入された部分よりも大きいと思われます。

変遷情報収録基準は近世村・大字単位の変遷ということで、人口にすると概ね数百人規模以上でしょう。
県境の境界変更告示リスト[79523]の実例を調べると、近世に備前国福浦村であった赤穂市福浦(No.11)の人口は 1640人。【国勢調査記録による[80458]、最近の赤穂市統計資料では836人と大幅に減少。】
大阪府豊能郡東能勢村(現・豊能町)になった京都府亀岡市西別院町牧及び寺田(No.8)の人口は386人。【豊能町地区別人口では牧地区(<丹波国南桑田郡牧村)が 126人と、これも大幅に減少。】
河川改修で生じた対岸飛地を是正した前小屋(No.39)137人の場合は 近世村単位未達ですが 深谷市の「大字」になったお陰で辛うじて変遷情報収録対象になりました。

栃木県田沼町から群馬県桐生市になった入飛駒(No.17)。これは小学校もあった独立集落ということで 変遷情報収録を希望したのですが、大字基準から外れているということで拒絶されています。
昭和45年国勢調査には、桐生市に編入された旧栃木県安蘇郡田沼町の一部として、昭和40年人口 557人が記録されており、近世村と比較しても全国的に遜色のない規模でした[80458]
ここも、現在人口は減少していると思われますが、現在の町名は県境変更のあった区域と一致せず、統計数値が得られません。

落書き帳アーカイブズには、既に 越境(越県)合併への方途 や、旧長野県山口村の越県合併関連情報 が作られています。こちらもご覧ください。

その他、変遷情報の収録対象にならない境界変更でありながら、この特集で言及した事例が少数あります。
舟渡(No.1と No.4)[36159]、白子川(No.10)[65713]、境川(No.35)[65716]
更にマイナーな境界確定・境界画定・境界修正についても言及しました[79564]

★推奨します★(元祖いいね) グリグリ 今川焼 デスクトップ鉄

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[14592]2003年5月3日
G
[14588]2003年5月3日
Issie
[28373]2004年5月17日
Issie
[31152]2004年7月29日
hmt
[31165]2004年7月30日
みやこ♂
[31291]2004年8月2日
hmt
[33692]2004年10月2日
hmt
[33700]2004年10月2日
Issie
[35756]2004年12月14日
hmt
[36159]2004年12月28日
hmt
[38467]2005年3月10日
hmt
[46914]2005年11月26日
hmt
[46937]2005年11月27日
今川焼
[46981]2005年11月29日
hmt
[47002]2005年11月30日
てへへ
[47003]2005年11月30日
今川焼
[47015]2005年11月30日
作々
[47106]2005年12月3日
hmt
[52705]2006年7月27日
KMKZ
[54252]2006年9月29日
hmt
[54264]2006年9月30日
hmt
[62334]2007年11月1日
hmt
[65713]2008年7月9日
hmt
[65716]2008年7月9日
hmt
[68397]2009年1月19日
hmt
[69172]2009年4月10日
hmt
[78789]2011年7月18日
hmt
[79438]2011年10月8日
hmt
[79523]2011年10月16日
88
[79525]2011年10月16日
グリグリ
[79537]2011年10月19日
hmt
[79538]2011年10月19日
hmt
[79541]2011年10月20日
hmt
[79559]2011年10月25日
hmt
[79564]2011年10月26日
hmt
[79661]2011年11月23日
hmt
[79662]2011年11月23日
hmt
[79666]2011年11月24日
88
[79668]2011年11月25日
hmt
[79754]2011年12月21日
hmt
[80458]2012年3月29日
hmt
[90145]2016年3月30日
hmt
[90148]2016年3月31日
hmt

[14592] 2003年 5月 3日(土)13:12:44G[わたらせG] さん
両毛
[14588]Issieさん YSKさん
広報の市長のコラムに合併関連の話題があったのでかいつまんで

 昭和22年(1947),栃木県足利郡には、この狭い地域に17の市町村がありました。足利市、毛野村、山辺町、三重村、山前村、北郷村、名草村、富田村、御厨町、筑波村、梁田村、久野村、三和村、小俣町、葉鹿町、吾妻村、菱村です。
 昭和30年(1955)に、吾妻村が佐野市へ、昭和34年(1959)に菱村が桐生市へそれぞれ合併し、昭和26年(1951)から37年(1962)までに全部の町村が足利市に合併され、足利郡がなくなったわけです。
 この間、菱村が群馬県に編入するにあたり、群馬県からは矢場川村が編入されるわけでありましたが、村で議論があり、分村という形で全部が編入されませんでした。その代案として、現在の太田市高瀬地区を足利市へとの考え方があったようですが、それも結論に至らず、現状のままとなっています。現在でも高瀬地区の子供たちは、足利の山辺小学校と、山辺中学校へ市(県)を越えて通学しているのです。
 昭和34年(1959)に菱村が桐生市に合併の際は、1140世帯、5700人の人口移動がありました。しかし、矢場川は分村の結果、540世帯、3019人の足利市への流入ということで、合併による単純比較で申しますと、面積は約18k㎡、人口2681人、600世帯のそれぞれ減とらります。
 今頃になって群馬県の栃木県への対応を不満として議論することはできませんが、過去合併の歴史として私たちは認識しておく必要があると思い記述したのであります。

とありました。矢場川村の合併に関しては、他書籍によると、最終的には当時の自治庁による現地調査、調整斡旋が行われるほどの騒動が展開されたそうです。明治期の廃藩置県後の一時期、館林県が栃木県に所属していた時もあり、生活、文化などさまざまな面において、名目上の群馬県、栃木県という括りだけでは済まされない地域が「両毛」なのだと思います。


[14588] 2003年 5月 3日(土)10:50:59Issie さん
新田山田
[14576] YSK さん

例のページの「群馬県編」を作ったのですが
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/03kanto/10_gunma.htm
明治の大合併以降の動きが比較的に緩やかな群馬県の中で,新田郡と山田郡は県境を越えた異動も含めて割りと複雑な動きをしているのに少し驚きました。

たとえば太田市。
“新田地域の中心”なわけですが,現市域の東側半分は山田郡からの編入ですね。
逆に明治の大合併以前の旧新田郡太田町が丸ごと「新・太田町」になったのではなくて,一部は同じ新田郡の鳥之郷村・強戸(ごうど)村だけでなく山田郡の韮川村・毛里田(もりた)村の一部となっている…。大字としては太田町にしか残らず,隣接各村では隣の大字に編入されてしまっているのでよくわからなくなっているのですが,“旧太田町”のひろがりはどのようなものであったのか。
いずれにせよ,このあたりでは郡界をはさんだ異動が結構激しかったことがわかります。
やがては新田地域(太田)と山田地域(桐生)が一体化する,なんて流れも自然かな,と感じたりもしました。

で,知らなかったのが,旧矢場川村の半分が栃木県足利市へ編入されていたということ。
桐生川左岸の菱村や田沼町の一部が栃木県から群馬県の桐生市へ越境編入されたことは有名で,これは20万分の1の地勢図でも旧国界と現県境のズレとして目にすることができるのだけど,その逆もあったというのは知りませんでした。
こちらのズレは地勢図には反映していませんね。

現実には足利地域(足利市)も含めた一体化が進んでいるのでしょうが。
[28373] 2004年 5月 17日(月)19:00:10Issie さん
地図上の旧国界
[28357] 月の輪熊 さん
埼玉県のうち下総国だった地域(旧中葛飾郡)や、大隅国菱刈郡だった鹿児島県伊佐郡菱刈町などは、現在の所属(旧)郡の境に沿って旧国境が引かれていますが、川根町以北は確かにほとんど大井川、大井川鉄道に沿って、駿河と遠江の国境が引かれていますね。

「検定済教科書」である地図帳の場合,旧国界の根拠としているのは,国土地理院の20万分の1地勢図でしょうかね。

地勢図の場合,ご指摘の通り,江戸川の旧流路を利用していた「下総国」中葛飾郡と「武蔵国」北葛飾郡の間の国界(現在の江戸川の流路のうち,“野田市”関宿橋付近~野田市・吉川市・松伏町分界点の間の区間は,江戸時代に開かれた人工の水路です)が記載されずに現在の江戸川筋になっていたり,薩・隅・日3州間の郡域再編後の状況が記載されていたり(「日向国」南諸県郡も郡統合後の「大隅国」噌唹郡として記載されていて,つまり日隅国境は現在の宮崎・鹿児島県境と一致しています)というわけで…,

この地図(シリーズ)に記載されている「旧国界」は江戸時代のものではなくて,実は基本的には「郡制」および「府県制」施行のための郡の再編の終了した1900年頃のものなのですね。

駿遠国境の大井川の場合,左岸(東岸)が駿河国志太郡から遠江国榛原郡の各町村に編入または合体したのは「昭和の大合併」前後のことなので,ここでは1900年頃の国界が記載されているものだと思います。
県境=旧国界を越えて合併の行われた旧長野県神坂村や,旧栃木県菱村などに関連するところでも,合併以前の線が旧国界として残されていますね。

※それにしても,四街道は少しく意外。
[31152] 2004年 7月 29日(木)15:08:21【1】hmt さん
三国境・分水界
[31111]みやこ さん
地図上での国境で,川にあった三国境からへんなのを2例お示しいたします。(中略)
もう一つは,「三国地名」でなかったのでリストには出ていませんが,「摂津・山城・丹波」の,地図上での三国境です。

ここは大阪府が頭一つ京都府に突き出していて、地図を見ると気になる場所です。
旧樫田村[588]は丹波と攝津を分ける分水界の攝津側斜面にあるのに、かつては丹波(京都府)に所属していました。1958年に水系の先にある高槻市に越境合併した結果がこのポリプです。
その西側にも攝津側斜面(旧東別院村)があるのですが、こちらは大阪府への越境をせずに亀岡市に残っているので、分水界と府県境との不一致状態 http://uub.jp/arc/arc299.html を維持しています。
[31165] 2004年 7月 30日(金)00:33:02みやこ♂[みやこ] さん
黒い噂(たぶん,大嘘)
[31152] hmt さん 「三国境・分水界」
三国コレクションにレスをいただき,ありがとうございます。「越境合併」ですか,それで・・・なるほど納得。国境は素直に真っ直ぐだったのに,何で府境になったら曲がってンだろう,と思ってました。

そういえば,我らが両毛地域の「菱村」の越境合併は,誰が見ても納得できるケースだと思います。
そして菱村といえば,今度佐野市になる田沼町の旧飛駒村,その分水嶺の西側(地図リンク)の皆沢地区も,やはり国を越えて桐生市にお嫁入りしていましたっけ。イヨイヨ栃木県民から群馬県民になるという頃,皆沢集落のみなさんと飛駒村のみなさんがサヨナラ宴会をしたと聞きます。
もっともこの例は「田沼町」を割ってのお輿入れですから,「越境合併」とは言わないのでしょう。で,この件に関してですが昔々に変な噂を聞いたことがあります。曰く,
「菱村を群馬県にお渡しし,群馬県から矢場川村の一部を迎えたものの,余計に頂きすぎたので,飛駒の奥をお分けした」
何だか土地をケーキか羊羹みたいに。
菱村が群馬県になったのが昭和34年,矢場川村の一部を栃木県が迎えたのが昭和35年,そしてこの,田沼町の一部が群馬県になったのが昭和43年のことと8年近く離れています。手元に統計資料がないので面積の比較もできませんが,桐生川左岸は結構広そうですし,結局は「田舎オヤジの酒のサカナ話」なのでしょうねぇ。
[31291] 2004年 8月 2日(月)17:13:35hmt さん
越美線
[31283]淡水魚 さん
以前、越美北線とつなげる予定があったとか聞いた覚えがあるのですが

長良川鉄道は、国鉄時代の線路名称(越美南線)が示すように、福井(越前)から美濃太田(美濃加茂市)に通じるべき「越美線」の一部でした。長良川沿いの南線は1934年にできていますが、北線はずっと遅く、福井から越前大野に到達したのが1960年、九頭竜湖は1972年です。

すぐにつながりそうな距離と思うのですが

本来は油坂峠を越えて美濃白鳥に出る路線を予定していましたが、九頭竜ダムの建設により水没し、その後、石徹白(いとしろ)経由に路線変更したあと、工事が打ち切られました。
余談ですが、石徹白も越県合併[588]のあった村です。

鉄道全通の夢が消えた後も、国鉄バス→JR東海バスが九頭竜湖‐美濃白鳥間を連絡していましたが、この「空気を運ぶバス」も2002年に廃止されました。

そして2004年7月の福井豪雨。越美北線は足羽川の鉄橋5基や十数カ所の盛土がを流されて寸断されました。JR西日本社長の会見では明言されていませんが、廃線の可能性大と受け取られているようです。 http://www.nikkei.co.jp/sp1/nt82/20040721AS3K2101W21072004.html

いまさら以下のような妄想を抱いても無意味ですが…
京都電灯は1918年までに福井‐勝山‐大野間を開通させていました。越美北線はこれと重複する福井‐大野間を建設せずに大野からひたすら美濃白鳥間を目指して全通させるべきだったのではないでしょうか。
もっと早く全通していたら、それなりの交通需要も生まれ、高山本線のように生き残れていたかも?
なお、京都電灯線は京福電気鉄道になってから勝山‐大野間を廃止、衝突事故を経てえちぜん鉄道として現存。
[33692] 2004年 10月 2日(土)13:49:04hmt さん
106年前の10月1日に発足した自治体
一日遅れになってしまいましたが、10月1日は「都民の日」。

「東京市」は、市制町村制が施行された明治22年(1889)に市制ということになっていますが、市制特例法により、東京市長は東京府知事の兼任、事務吏員さんもいないという有様で、形式的な存在にすぎませんでした。
10年にわたる運動の末、ようやく特例法が撤廃されて、自治体としての「東京市」が発足したのが、明治31年(1898年)10月1日。
「都民の日」は、これを記念して1952年に東京都が制定したものです。
# 昨年秋には、[21976](埼玉)県民の日 を投稿しています。

本日のオフ会会場で、
東京市役所東京市史編纂係「東京市十五区全図」(明治40年4月発行 裳華房)をご披露するつもりですが、
この歴史を背景に、そのタイトルを見ると、9年前に「東京府十五区」から「東京市十五区」に変ったのだということを実感します。
「東京府十五区」は、明治11年(1878年)の郡区町村編成法によるもので、その十五区は、おおまかに言えば名称と共に自治体東京市の15の区にほぼ引き継がれていますが、細かく見ると出入があることは、Issieさんが[14798]で例示されている通りです。

この十五区と6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)があった東京府に、神奈川県管下だった三多摩(北多摩、南多摩、西多摩)が編入されたのが、まだ「東京市」が形式的な存在だった1893年。玉川上水の水源管理がねらいでした。三多摩の人々は東京府編入に猛反対したようですが、帝国議会は編入を決定しました。
ところが、3年後の1896年になると、政府は東京市と郡部の武蔵県に分けることを考えたが、市と郡部町村共に反対されて撤回。しかし、翌1897年になると、一般市になることを目論む東京は、郡部を抱え込むことが 財政負担から不利であると考えて、郡部を千代田県として分離しようと、態度を豹変。これも郡部の反対で実現しませんでした。
このようなゴタゴタを経て誕生した自治体「東京市」でした。

その後は、関東大震災を経て、昭和になってから35区に拡大、北多摩郡だった千歳と砧を編入、東京都制、戦災、22区に再編成、板橋区を2分割、地方自治法による特別区へと変化してきましたが、自治体としての東京都の基礎は、1898年10月1日にあるという考えから「都民の日」になっているのでしょう。

「東京市」の件からは外れますが、上で書いた“十五区と6郡があった東京府”の「区は郡と重複して存在していたのではないか」という疑問をIssieさんの掲示板で質問したことがあります【No.269】。
これについては、Issieさん【No.270】の他に、tkshさん(この落書き帳から姿を消されたのは残念)からのご教示【No.278】をいただきました。
これらの記事は近日中に消失する運命にあると思われますので、【No.307】にhmtが要約したことを、この場を借りて記録させていただきます。
(三新法の)“施行順序”達によると、制度上は「郡と重複して区は存在する」が、
これに拘り便宜を妨げざる様心得た結果であるところの
明治11年11月2日の「東京府布達」による区域割りでは
南豊島郡の区域は後の淀橋区、渋谷区から東は原宿・千駄ヶ谷・早稲田各村までとされ、
麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区とは重複していなかった。
すなわち、制度上の重複はともかくとして、実質的にはフレキシブルな運用である「東京府布達」により、郡と区の分離が行なわれたと理解しました。
[33700] 2004年 10月 2日(土)23:10:52【1】Issie さん
三多摩移管のこと
けふは,さほど酔っ払ってはをらないのでした。

[33692] hmt さん
Issieさんの掲示板

すみません。当掲示板は現在休止中です。
そのうちに再開するかもしれませんが(再開しなくてはならないですねえ),そのときには旧掲示板はチャラになっているかもしれません。
何分,当HPについては,思い切り“いい加減な運営”をモットーにしていますので,ご容赦を。最近の合併ラッシュについては,「気が向いたら」の更新を旨としていますので,どうぞよろしく。
(実は津久井地域のバス方面で根本的改訂が必要なのですが,市町村関係で少しく手が回りません。)

玉川上水の水源管理がねらいでした。三多摩の人々は東京府編入に猛反対したようですが、帝国議会は編入を決定しました。

三多摩を「奪われた」ことは神奈川県にとっては少なからずショックであったようで,「県史」にも比較的詳しく触れられています。とはいえ,政治的な生臭いことは公式な記録には残されないのでしょうね。
ともかく,「県史」で少なからずこだわっているのは,水源管理がねらいであれば「三多摩」である必要はなく,北・西の「両多摩」でよかったはずではないか,ということです。

慶応4=明治元年3月に新政府軍が江戸城に入城し,旧幕府直轄領と旗本領を(のちに寺社領も)政府直轄とし関東地方に「府・県」を編成しました。一方で,1万石以上の大名領は翌明治2年の版籍奉還を経て,“公式な行政区画”としての「藩」の管轄に。
多摩郡の府藩県への所属は極めて錯綜していて,1つの「村」が複数の藩・県に分割されることも珍しくなかったのですが(…というより,南関東ではこれが普通),おおよそ多摩川・秋川以南の,のちに「南多摩郡」となる村々の多くは「神奈川県」の管轄とされました(さらに,武蔵南部3郡[久良岐・橘樹・都筑]と酒匂川以東の相模国内の旧幕府・旗本・寺社領が「神奈川県」管轄)。それに対して,後の北・西・東多摩各郡に属する村々は,「品川県」と「韮山県」に分属して…,それはそれは極めて複雑です。
実は,明治4年の廃藩置県後,11月(旧暦)に関東地方の府県の合併再編が行われたときには多摩郡は「東京府」と「入間県」とに分割されると一旦告示されました。しかし,まもなく多摩郡全体が神奈川県管轄に変更され(足柄県管轄された高座郡も),さらに“東に飛び出た”中野町以下の町村がもう1度東京府に移管されて,東多摩郡・豊多摩郡を経て,「23区」入りを果たしています。

北・西多摩郡はともかく,南多摩郡の東京府移管については,この地域が比較的高度に商業化した養蚕・製糸・絹産業の発展を背景に自由民権運動の盛んな地域であったことがしばしば指摘されています。
以前にも同趣旨の発言をしたことがあるのですが,南多摩郡の東京府移管がなければ,八王子は間違いなく「神奈川県北部」の中心都市として発展したことでしょう。立川に地位を奪われることもなかったかもしれない。
同じ「神奈川県」であれば,相模湖(与瀬)・藤野の八王子市への編入は問題なく進行しただろうし,町田市と相模原市の合併のハードルもずっと低かったことでしょう。

やはり神奈川県にとって,南多摩郡を失ったことは返す返すも残念なことだったかもしれないなあ,と思ったりもします。
[35756] 2004年 12月 14日(火)16:08:04hmt さん
矢場川右岸
[35733]両毛人 さん
[9883]にて紹介いたしましたが、太田市から足利市へ向かう道路も県境を5回越えます。

この5回の県境越えのうち、矢場川右岸・太田市側の3回は、[616][2878][27858]で紹介されている矢場川村の越境分村合併(1960.7.1)によって生まれた新しい県境ですね。それ以前、群馬県山田郡の矢場川村と毛里田村との村境だったものが県境に昇格したわけですか。

ところで、この矢場川右岸で起きた越境分村合併(群馬県→栃木県)と、その前年に桐生川左岸・菱村の越境合併(栃木県→群馬県)とを合せた収支?計算は、[14592]で Gさんが引用された(足利)市長のコラムによると、面積・人口共に 栃木県がマイナス。

してみると、
「菱村を群馬県にお渡しし,群馬県から矢場川村の一部を迎えたものの,余計に頂きすぎたので,飛駒の奥をお分けした」
という “黒い噂” の理由付けは、事実と違うことになります。
やはり、[31165]みやこ さんが書かれたように “たぶん,大嘘” なのでしょうね。
合併後の市街化の相違による現在の人口収支は、どうなっているか存じませんが。
[36159] 2004年 12月 28日(火)23:02:23【1】hmt さん
埼玉県の生まれた後―県域変更あれこれ
埼玉県の生まれた頃の経過を3回にわたりたどりました。
(1)埼玉県と入間県の時代[36047]   (2)(群馬・入間両県が統合された)熊谷県と埼玉県の時代[36081]
(3)は「杤木縣」などの話[36083]になって  (4)熊谷県を分割して武蔵は埼玉県へ統合[36111]
これで “ほぼ” 現在の形になったわけですが、このような大きな変化だけでなく、マイナーな県域変更もあるので、一応補足しておきます。

その中で最も目立つものは、江戸川の流路で分断された葛飾郡北西部の管轄修正です。

1875年(明治8年)8月に、下総国葛飾郡金杉村(現・松伏町)ほか42ヶ村が、千葉県から埼玉県に移管されています。
利根川東遷の前は渡良瀬川の下流・太日川だった川筋に、新しい河道(江戸川)が開削されたのは、寛永12~18年(1635~41)というからはるか昔のことです。しかし、庄内古川という名になった旧河道が境界であり続けたために、江戸川により下総台地から切り離された西岸も、下総国・印旛県(千葉県)でした。1875年に千葉県と茨城県の境を利根川に改めたのを機会に、千葉県と埼玉県の県界も江戸川に改めたのでしょう。かくて千葉県は、現在のように“島”になりました。

県界は江戸川に移りましたが、下総国と武蔵国の国界は庄内古川のまま。1879年に「郡」が復活すると、ここは「埼玉県下総国中葛飾郡」となりました。
ところが、1896年になると「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」というのができて、国界も江戸川に移り、中葛飾郡は北葛飾郡に統合して消滅。
わざわざ「国界変更」をしたことは、この時代までは 旧国が実質的な地域名称として機能していた事実を示しています。

この1875年には荒川の南北の飛地も埼玉県川口町と東京府岩渕本宿町との間で交換しています。「東京府へ足立郡舎人町引渡書類」も同じく1875年。
それよりも前、1872年に渡良瀬川の改修で生じた西岸の土地を茨城県から編入しました。

戸田橋付近の改修の結果、荒川の南岸になった浮間(1926年)・船渡(1950年)は東京府・東京都に編入されています。
これは、すぐ後に出てくる保谷に続き、20世紀のできごと。

実現しませんでしたが、21世紀には茨城県五霞町と埼玉県幸手市との合併話[16062]が話題になりました。五霞町は、前記「下総国葛飾郡金杉村ほか42ヶ村」の北側にあり、新旧河道の間に存在するという、同様な条件の土地なのですね。

河川がらみでない府県境越えの移籍もあります。
古くは明治4年(1871)11月に入間県とされた多摩郡の一部が、間もなく神奈川県に移管されています(M5/1/28)。
“多摩郡の一部”とはどこなのか? と調べてみました。
箱根ヶ崎村・増子村・青梅村・拝島村と、入間郡に近接している西多摩の村々については、入間県だったことも一応うなづけますが、北多摩の関前・境村、更には南多摩の恩方村となると、このように離れた村がなぜ入間県だったの?と疑問が湧くばかりです。

1891年には埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村他が東京府北豊島郡石神井村の一部(上土支田)と越境合併して大泉村(現・練馬区)になりました。“企画倒れの大泉学園”が計画されるのは、もっと後のこと。[3868]参照
埼玉県新座郡は、この後1896年に荒川の東の北足立郡に統合され、そこから 保谷村が1907年に東京府北多摩郡への越境編入を果しています。現在は西東京市。
元・新座郡の残党は、現在東上線沿線の4市になっており、近年合併の動きがありましたが、実現しませんでした[13099]

戦後の埼玉県からの越境合併としては、入間郡元狭山村から東京都西多摩郡瑞穂町への分村合併騒動[4049]があります。

もっとマイナーな飛地交換も明治時代には何回も行なわれたようです[4111]
それでも残った飛地があり、この落書き帳で話題を提供しています。
[38467] 2005年 3月 10日(木)17:27:42hmt さん
多摩
[38430]平成少年 さん
「多摩地区」に川崎市多摩区は入るのでしょうか?

「多摩地区」という言葉がどのような場合に使われているのかよく知りませんが、その定義などなさそうですね。

で、私も[38459]中島悟さんのように、「東京都の三多摩地区」を指すのが普通だろうと思います。
昔は武蔵国多摩郡がありましたが、1878年に東西南北、4つの多摩郡に分割されました。そのうちの東多摩郡(現・杉並区と中野区)は南豊島郡(現・渋谷区や新宿区)と合併して豊多摩郡になりましたが、東京市の区部になった旧東多摩郡や豊多摩郡区域を「多摩地区」に含めることはないと思います。

「多摩地区」は、東京都の中で、「区部=23区」や「島嶼部=伊豆諸島、小笠原諸島」と対比させた「三多摩地区」ではないでしょうか。市部が多くなって行政区分としての北多摩郡、南多摩郡が消滅したので、「三多摩」という言葉を使わなくなったのかな?

その「三多摩地区」ですが、[38459]
細かく言えば旧保谷市を除き、世田谷区烏山・砧支所を加えた範囲
には賛同できません。
旧保谷村→保谷町(現・西東京市)は、昔は埼玉県新座郡→北足立郡だったのですが、1907年に東京府北多摩郡へ越境編入されており、れっきとした「多摩地区」の一員です。
一方、烏山などの旧千歳村と旧砧(きぬた)村は、昔は北多摩郡だったのですが、1936年に東京市(世田谷区)に編入されて「区部」になり、杉並区や中野区になった旧東多摩郡の区域と同様に「多摩地区」には含まれないと考えます。

さて、本題の川崎市多摩区。
ここは近世以降は武蔵国橘樹(たちばな)郡ですが、[2035] Issieさん によると、
さらに以前はこのあたりも多摩郡だったらしい
とあります。

そんな昔に遡らなくても、このあたりは「多摩丘陵」です。日野市、多摩市、稲城市に続く多摩川南岸だし、ここの人達は南多摩との一体感があるかもしれません。

もともと三多摩の人々は東京府への移管に猛反対したのです[33692] [33700]。三多摩と神奈川県に残された武蔵国3郡、特に南多摩郡と橘樹郡との間には、そんなに深い溝はなかったと思います。
1893年に作られた府(都)県境で画して、「多摩地区」か否かを論じるのはおかしいのかもしれないし、川崎市が「多摩区」を名乗って「多摩」を東京都に独占させないという気持ちもわかります。

それでも…100年も経つと「多摩地区」のイメージは東京都になってしまっているのではないのかな。
[46914] 2005年 11月 26日(土)23:57:37hmt さん
備前福河
[46891] デスクトップ鉄 さん
・ 赤穂線の兵庫・岡山県境は、備前福河・寒河間にある。兵庫県は、摂津・播磨・丹波・但馬・淡路の5カ国だけでなく、備前国も含んでいたのですね。

兵庫県赤穂市所在なのに「備前福河」という駅名を名乗っているこの駅は、1955年3月1日に赤穂線が播州赤穂から日生まで延長開業した当時は岡山県和気郡福河村に開設されました。同月末に合併で日生町に。
ところが、[41400] ニジェガロージェッツ さんの記事にあるように、1963年に福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)は生活圏を共にする兵庫県側の赤穂市に越県合併したために、現在のように「備前」なのに兵庫県という状況になりました。

「2県にまたがる島」である「取揚島」は、江戸時代から播磨と備前の境界で、その備前部分も「備前福河」駅と同様に旧・福浦村でしたが、この島については、岡山県が漁業権に絡む“領海”を守り抜き、赤穂市への編入から除外させたとされています。
取揚島は無人島で、道路はないと思います。この島での県境越えとなると、まず上陸できるのかな?

なお、県境をはさんで岡山県側にある寒河(そうご)駅は赤穂線全通を前にした1962年4月開業。この駅名は、旧・福浦村と共に福河村になった旧・寒河村に由来します。「合成地名」コレクション参照。
[46937] 2005年 11月 27日(日)14:41:20今川焼 さん
兵庫県は七ヶ国
[46891] デスクトップ鉄 さん
・ 赤穂線の兵庫・岡山県境は、備前福河・寒河間にある。兵庫県は、摂津・播磨・丹波・但馬・淡路の5カ国だけでなく、備前国も含んでいたのですね。
すみません重箱レスです。
[5301] でニジェガロージェッツ さんも触れておられますように、現佐用町の北部(旧石井村・旧江川村)は明治29年までは旧美作国(岡山県吉野郡)でした。(参考第三次兵庫県の県域
リンク先の地図で比べると、面積では赤穂市の福浦地区より数倍広いですが、100年以上も前のことですし、「備前福河駅」のようなわかりやすい物的証拠もないので案外見過ごされています。

ところで、その佐用町の北部に第三セクターの智頭急行石井駅があります。この路線はもともと旧国鉄の路線として計画されていたものですが、もし国鉄時代の早い時期に開通していれば、徳島県石井町の徳島線に石井駅がすでにありましたから、こちらの石井駅は「美作石井駅」になっていた可能性もあります。(まぁ、あくまで「可能性」です。この駅の計画段階の仮称は大字名の「下石井」でした。)
[46981] 2005年 11月 29日(火)16:59:37hmt さん
地勢図で「県界変更史跡」めぐり
[46937]今川焼 さん
現佐用町の北部(旧石井村・旧江川村)は明治29年までは旧美作国(岡山県吉野郡)でした。

これは知りませんでした。
早速、20万分の一地勢図「姫路」で現状を確認してみたところ、兵庫・岡山の県界と、播磨・美作の国界とは一致していました。

この県界変更が行なわれた明治29年(1896)は、明治23年に公布された「郡制」が全国的に施行の時期を迎えた時代です。
兵庫県についての直接の資料は持っていませんが、埼玉県では同じ明治29年に、中葛飾郡(最近春日部市と合併した旧・庄和町など)が北葛飾郡に併合されました。

実はこの地域は、もともと利根川が太日川として東京湾に注いでいた時代の川筋(庄内古川、現在は中川の一部)の左岸(つまり下総側)でしたが、17世紀に江戸川の開削によって下総台地の本体から切り離されました。しかし、ずっと下総国の一部であり、明治8年に千葉県から埼玉県に移管されて中葛飾郡という名が付いてからも相変わらず下総国でした。
ところが、明治29年になると、わざわざ「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」によって、武蔵と下総の国界を庄内古川から江戸川に移し、埼玉県全体は武蔵国の一部になりました。
このような「国界変更」が行なわれことは、旧国が実質的な地域名称として機能していたことを示しています[36159]

旧美作国吉野郡石井村・江川村が兵庫県佐用郡に移管されたのは、これと同じ明治29年です。県界変更と同時に播磨・美作の国界も変更され、県界との一致を保ったものと思われます。

つまり、兵庫県内には「美作国」の地域はなく、1896年の時点では、摂津(一部)・播磨・但馬・丹波(一部)・淡路の五ヶ国でした。1963年に日生(ひなせ)町の一部(旧・福浦村)編入により備前の一部が加わった後は六ヶ国となり、首位の座を固めています。

旧国が既に実質的な地域名称として機能を失った戦後の県界変更になると、それに伴なって国界を変更して一致させる必要性はなくなりました。
そのために、20万分の一地勢図上ので県界と国界との不一致として「県界変更史跡」が残されることになりました。

“備前国で兵庫県”の備前福河[46914]は地勢図「姫路」で、“丹波国で大阪府”の旧・京都府樫田村[31152]は地勢図「京都及大阪」で県界変更の跡を見ることができます。
“越前国で岐阜県”になった旧・福井県大野郡石徹白(いとしろ)村[31291]は、「岐阜」と「金沢」にまたがっています。手持ちの昭和43年発行の地勢図「岐阜」を見ると、石徹白付近に“白鳥町”の注記はあるものの、13年も前にできた筈の岐阜・福井県境が描かれていません。

同じく1955年に愛知県に越境合併した旧・岐阜県三濃村の一部の「県界変更史跡」は、地勢図「豊橋」にあります。この付近を中心として、北の現県界、東の明智川、南の矢作川、西の国界(表示なし)に囲まれた範囲が“美濃で愛知県”です。

有力メンバーの多い栃木・群馬県界の変更については、さすがにこの落書き帳に多数の記事があります。
地勢図は「宇都宮」で、手持ちの昭和34年版と平成10年版とを比較してみます。
昭和34年版でも桐生市街の対岸にある旧栃木県菱村[14592]は、明瞭な「県界変更史跡」を見せています。この“下野国で群馬県”の地域が、平成10年版になると、北方に更に拡大しています。これが1968年に桐生市に編入された栃木県飛駒村の一部[31165]ですね。

逆に“上野国で栃木県”になったのは、旧・群馬県矢場川村の一部[14616] です。昭和34年版は足利市編入の前年ですから、当然ながら県界=国界であった矢場川の南はすべて群馬県でした。矢場川は、渡良瀬川の旧河道[4618]で、その名も両毛橋が架けられています[25139]。平成10年の地勢図では、栃木・群馬県界が矢場川の少し南に移っているのは良いのですが、矢場川の位置に残るべき国界が消されています。
YSK[両毛人]さんのご指摘[17073] により、国土地理院は昭和56年からの編集ミスを認め、昨年発行の図から訂正されて、「県界変更史跡」が復活したようです。

最後に、“信濃国で岐阜県”の地域。地勢図は「飯田」です。
手持ちの昭和35年発行図を見たら、恵那山の北方に“中津川市”と記され、昭和33年に長野県西筑摩郡神坂(みさか)村の一部が越県合併した時に生れた新県界が、信濃・美濃国界から離れて北東へと描かれているのですが、ほんの一部だけで途切れ、東と北の県界は描かれていません。要するに「県界変更史跡」は未完成状態。
今年の2月に、長野県木曽郡山口村の岐阜県中津川市への編入が実現しました。“信濃国で岐阜県”の地域は、更に拡大したわけです。

“岐阜県でも信濃国”ですから、この地域の馬籠宿で生まれた島崎藤村は、[37786] 北の住人 さんのおっしゃるように、「信濃国出身」と書くことができます。たしかに「岐阜県出身」よりは数等「まし」な言い方です。
しかし、藤村本人の意識としては、彼の生まれた馬籠宿は、「筑摩県」でも「長野県」でも「信州」でもなく、「木曾」だったのだと思います。[37785]参照。
「信濃国」や「長野県」、「岐阜県」のような広域であり、かつ行政の都合で変化してしまう地名を「出身地」に使うことは、誤りではないにしても、「ふるさと」という感覚からはあまり適切でないケースがあるように感じます。

# 実は、県境の話題とは関係ないことなのですが、来年の3月になったら、メンバー紹介記事の「出身地」をどのように記すべきかと悩んでいるのです。
[47002] 2005年 11月 30日(水)13:10:43てへへ さん
国界変更、郡界変更、郡廃置
[46981]hmt さん
明治29年になると、わざわざ「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」によって、武蔵と下総の国界を庄内古川から江戸川に移し、埼玉県全体は武蔵国の一部になりました。
(中略)
旧美作国吉野郡石井村・江川村が兵庫県佐用郡に移管されたのは、これと同じ明治29年です。県界変更と同時に播磨・美作の国界も変更され、県界との一致を保ったものと思われます。
に関連して。1896年(明治29年)以降、国界変更とともに全国的に郡廃置や郡界変更の法律が施行されていましたが、1982年(昭和57年)7月23日にまとめて廃止されています。その法律の廃止対象の項が丁度この手の法律の一覧になっていましたので少し長いですが、衆議院のサイトの制定法律>昭和57年法律第69号より抜粋します。
法律第六十九号(昭五七・七・二三)
◎行政事務の簡素合理化に伴う関係法律の整理及び適用対象の消滅等による法律の廃止に関する法律
第二章 適用対象等の消滅及び行政目的達成等による法律の廃止(第三十七条―第四十九条)
(自治省関係法律の廃止)
第四十九条 次に掲げる法律は、廃止する。
 一 神奈川県下郡廃置法律(明治二十九年法律第十九号)
 二 長崎県下郡廃置法律(明治二十九年法律第二十号)
 三 新潟県下郡界変更及び郡廃置法律(明治二十九年法律第二十一号)
 四 山口県下郡廃置法律(明治二十九年法律第二十二号)
 五 和歌山県下郡廃置法律(明治二十九年法律第二十三号)
 六 福岡県下郡廃置法律(明治二十九年法律第二十四号)
 七 佐賀県下郡廃置法律(明治二十九年法律第二十五号)
 八 宮崎県下郡廃置法律(明治二十九年法律第二十六号)
 九 東京府下郡廃置法律(明治二十九年法律第三十七号)
 十 大阪府下郡廃置法律(明治二十九年法律第三十八号)
 十一 兵庫県下郡廃置及び郡界変更法律(明治二十九年法律第三十九号)
 十二 埼玉県下国界変更及び郡廃置法律(明治二十九年法律第四十号)
 十三 群馬県下郡廃置及び郡界変更法律(明治二十九年法律第四十一号)
 十四 千葉県下郡廃置法律(明治二十九年法律第四十二号)
 十五 茨城県下郡廃置及び郡界変更法律(明治二十九年法律第四十三号)
 十六 栃木県下郡廃置法律(明治二十九年法律第四十四号)
 十七 奈良県下郡廃置法律(明治二十九年法律第四十五号)
 十八 三重県下郡廃置法律(明治二十九年法律第四十六号)
 十九 静岡県下郡廃置法律(明治二十九年法律第四十七号)
 二十 滋賀県下郡界変更及び郡廃置法律(明治二十九年法律第四十八号)
 二十一 福島県下郡廃置法律(明治二十九年法律第四十九号)
 二十二 岩手県下郡廃置法律(明治二十九年法律第五十号)
 二十三 富山県下郡分離及び廃置法律(明治二十九年法律第五十一号)
 二十四 鳥取県下郡廃置法律(明治二十九年法律第五十二号)
 二十五 島根県下郡廃置法律(明治二十九年法律第五十三号)
 二十六 熊本県下郡廃置法律(明治二十九年法律第五十四号)
 二十七 鹿児島県下国界並びに郡界変更及び郡廃置法律(明治二十九年法律第五十五号)
 二十八 岐阜県下郡廃置及び郡界変更法律(明治二十九年法律第八十六号)
 二十九 愛媛県下郡廃置法律(明治二十九年法律第八十七号)
 三十 広島県下郡廃置法律(明治三十一年法律第八号)
 三十一 愛媛県下郡界変更法律(明治三十二年法律第二十二号)
 三十二 香川県下郡廃置法律(明治三十二年法律第四十一号)
 三十三 大分県下郡界変更法律(明治三十二年法律第四十二号)
 三十四 岡山県下郡廃置及び郡界変更法律(明治三十三年法律第二十八号)
 三十五 京都府下国界並びに郡界変更法律(明治三十五年法律第十四号)
 三十六 和歌山県下郡界変更法律(明治四十年法律第三十六号)
 三十七 愛知県下郡廃置法律(大正二年法律第五号)
 三十八 埼玉県下郡界変更に関する法律(大正十年法律第六十五号)
ここに出てこない都道府県は北海道、青森、宮城、秋田、山形、福島、石川、福井、山梨、長野、徳島、高知、沖縄です。北海道と沖縄は府県制郡制の対象外として、他の11県は郡廃置や郡界変更がなかったのでしょう。
さて本題の「国界」に言及しているのは埼玉県(12項)、鹿児島県(27項)、京都府(35項)であって、兵庫県(11項)には出てきません。

また国立国会図書館のサイトの日本法令索引 の制定法令検索にて「国界」で検索しても検索結果はこの3府県分だけです。国界変更施行日は埼玉県と鹿児島県が明治29年3月30日、京都府は明治35年3月11日となっており、埼玉県についてはhtmさんの指摘のとおり、中葛飾郡の北葛飾郡への併合と時期が一致しています。

 ここまでのおさらいしてみると、不明点は以下の3点です。
1、旧美作国吉野郡石井村・江川村が兵庫県佐用郡に移管された県界変更と同時に、本当に播磨美作の国界が変わったのか?(法令的には痕跡がない?検索単語があまいせいか?)
2、明治29年の鹿児島県での変更はどこか?(旧日向国諸県郡のうち鹿児島県に移管された南諸県郡と関係があるか?それとも旧大隅国菱刈郡が薩摩国伊佐郡に併合したことと関係があるか)
3、明治35年の京都府での変更はどこか?(見当もつきません)

ナゾが深まっています。私にはこのあたりで限界ですが、どなたかご存知の方はご教示ください。
[47003] 2005年 11月 30日(水)14:35:58今川焼 さん
明治35年の京都府の国界変更
[47002] てへへ さん
3、明治35年の京都府での変更はどこか?(見当もつきません)
与謝郡(丹後国)雲原村の天田郡(丹波国)への移管ではないでしょうか。
[42778] 今川焼
1902年に与謝郡から天田郡へ郡が変更

[31129]今川焼では
明治38年に与謝郡雲原村が天田郡に編入
と書いていますが、これは明治35年の誤りだと今気がつきました。
[47015] 2005年 11月 30日(水)23:50:20作々 さん
国界変更
お疲れ様です。

[47002] てへへ さん
明治29年の鹿児島県での変更はどこか?(旧日向国諸県郡のうち鹿児島県に移管された南諸県郡と関係があるか?それとも旧大隅国菱刈郡が薩摩国伊佐郡に併合したことと関係があるか)

ちゃんと調べが付いたわけではありませんが、変更は以下の3点だと思われます。
北大隅郡、菱刈郡:大隅国→薩摩国
南諸県郡:日向国→大隅国
十島薩摩国→大隅国

北大隅郡とは桜島(東桜島村、西桜島村)のことで、このときに鹿児島郡の一部となっております。
同様に菱刈郡(菱刈村、東太良村、西太良村)は伊佐郡の、南諸県郡(東志布志村、西志布志村、月野村、大崎村、野方村、松山村)は囎唹郡の一部となっております。
また、十島はこれまでは川辺郡の一部でしたが、このときに大島郡へと所属が変わっております。
[47106] 2005年 12月 3日(土)23:45:55hmt さん
明治の法律による府県界・国界変更
てへへ さんは[47002]日本法令索引 制定法令検索にて「国界」で検索して3件という結果を報告されていますが、[47041]の結果を参照して「界変更」「県境」「境界」で検索してみました。

ヒットした法律の中には、既に[47002]の「適用対象等の消滅…による法律の廃止」(昭和57年)で紹介された「郡廃置法律」(主として明治29年)の一部も含まれていますが、検索結果の中から、府県界、国界変更に関すると思われる明治の法律を年代順に列挙し、この落書き帳の 関係記事 をリンクさせておきます。やはり、明治29年とその前後が多いですね。

明治と言っても、「法律」の時代になってから以後に限られ、明治初期の「太政官布告」時代、例えば大規模な県の組み換えが行なわれた明治8~9年(1875-76)の県界変更は、当然のことながら含まれておりません。


東京府及神奈川県境域変更ニ関スル法律(明治26年3月6日法律第12号)
神奈川県だった三多摩(西多摩郡、北多摩郡、南多摩郡)の東京府への移管 [33692] [33700]

東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法(明治28年3月30日法律第24号)
法律を見ておらず境界変更地不明ですが、利根川水系の流路変更に伴なう部分的な修正でしょうか?

埼玉県下国界変更及郡廃置法律(|明治29年3月30日法律第40号)
明治8年に埼玉県に移管されていた下総国中葛飾郡を武蔵国北葛飾郡に編入 [755][36159][46981]

鹿児島県下国界並郡界変更及郡廃置法律(明治29年3月30日法律第55号)
日向国南諸県郡が大隅国噌唹郡に、大隅国北大隅郡(桜島)と菱刈郡が薩摩国鹿児島郡と伊佐郡に  [28373][47015]

岡山県兵庫県境界変更並福岡県大分県境界変更法律(明治29年3月30日法律第56号)
岡山県吉野郡石井村(美作国)が兵庫県佐用郡(播磨国)へ [5301][46937]
同時に県界が変って兵庫県佐用郡江川村になった部分は、旧岡山県吉野郡讃甘(さのも)村の一部で、江川村はもともと兵庫県でした。([46981]の訂正)
福岡県大分県の境界変更地は不明

千葉県茨城県境界変更法律(明治32年2月8日法律第4号)
利根川北岸の千葉県香取郡金江津村、十余島村、本新島村が茨城県稲敷郡に所属変更 [1639]
(この時も美作国→播磨国のケースと同様に、下総国→常陸国の変更があったと思われます。)

京都府下国界並郡界変更法律(明治35年3月11日法律第14号)
与謝郡(丹後国)雲原村が天田郡(丹波国)に所属変更 [47003]

東京府北多摩郡埼玉県北足立郡境界変更法律(明治40年3月18日法律第8号)
埼玉県北足立郡保谷村が東京府北多摩郡に所属変更 [4111][38467]。共に武蔵国なので国界は影響なし。

東京府神奈川県境界変更ニ関スル法律(明治45年3月28日法律第5号)
これも境界変更地不明ですが、多摩川または境川の流路変更に伴なう部分的な修正でしょうか?
[52705] 2006年 7月 27日(木)12:10:19KMKZ さん
群馬県太田市南前小屋地区が埼玉県深谷市編入へ
群馬県太田市でありながら利根川右岸(埼玉県側)にある南前小屋地区の埼玉県深谷市編入が実現へと動き出しました。

群馬県太田市南前小屋地区、深谷市へ編入求め両市議会に請願提出

利根川の両岸には、南前小屋地区のような飛地が何箇所かありますが、これを契機に他でも編入により利根川と県境を一致させる動きが起きるかもしれませんね。
[54252] 2006年 9月 29日(金)23:33:47hmt さん
埼玉・群馬県境変更へ
[52705] KMKZ さん 群馬県太田市南前小屋地区、深谷市へ編入求め両市議会に請願提出
[53313] いっちゃん さん  国盗り物語

新聞記事(読売2006/9/29)によると、埼玉県深谷市と群馬県太田市とのそれぞれの市議会は、9月28日に、群馬県太田市南前小屋地区から出されていた深谷市への編入合併を求める請願を全会一致で採択したそうです。

大正年間の利根川改修工事で集落が分断され、利根川南側になってしまった南前小屋地区(20ha)には、36世帯147人が住んでいるそうですが、小中学校への通学を含めた生活圏は、当然のことながら、完全に深谷市側になっています。
今回の請願採択で県境変更への道が開けたことは確かですが、両市の間や県、国との間の県境変更手続きに要する時間があり、実現は2~3年後の見通しとのこと。

河川改修から80~90年という年月を要したのは、どのような事情があったのでしょうか。
そして、ようやく方向性が決まっても、行政手続に更に2~3年とは。
明治時代の「小さな政府」は、大規模な変革を、もっと素早く実現させたのに。

少し下流の熊谷市妻沼小島地区(利根川北岸)の場合では、住民の足並みの乱れと熊谷市の消極的態度とがあいまって、太田市への編入運動は、実現性が薄いようです。

埼玉県の県境変更については、[36159]で概略を記しました。
その中に記した戦後の事例は、船渡(1950)と元狭山村(1958)だけでしたが、1961年の 北足立郡大和町(現・和光市)と東京都練馬区との間の境界変更 が最も新しい事例のようです。
と言っても、50年近く前のことになりますね。県境変更を阻むいろいろな思惑の存在が推察されます。
[54264] 2006年 9月 30日(土)20:00:54hmt さん
戦後の県境変更事例
[54252](利根川をめぐる県境修正)のようなマイナーな県境変更とは少し意味合いが違いますが、県境変更に触れたついでに、戦後に実現した主要な事例を年代順に並べてみました。

1958年10月15日に3件も集中しているのが注目され、これを含む1955~1960年(昭和30年~35年)には7件です。
これに比べて、平成の合併ではわずかに1件。

下記の事例に関する記事の一部も集めてみました。戦後の県境変更事例
既にアーカイブズ 「越境(越県)合併への方途」 がありますので、併せてご覧ください。

1955年4月1日 岐阜県恵那郡三濃村の一部が、水系の先にある愛知県東加茂郡旭町に編入(現・豊田市)[46981]

1958年4月1日 京都府南桑田郡樫田村が、水系の先にある大阪府高槻市に編入[31152]

1958年10月15日 埼玉県入間郡元狭山村が、東京都西多摩郡瑞穂町に編入[4049]。(一部は埼玉県入間市へ分村。)

1958年10月15日 長野県西筑摩郡神坂(みさか)村の一部が、岐阜県中津川市に編入[25925]
馬籠など一部は長野県西筑摩郡山口村に編入。

1958年10月15日 福井県大野郡石徹白(いとしろ)村が、岐阜県郡上郡白鳥町に編入(現・郡上市)[31291]
九頭竜川水系の村が、中央分水嶺を越えた長良川の方に鞍替え。どんな事情があったのかな?

1959年1月1日 栃木県足利郡菱村が、群馬県桐生市が編入[2878][14592]。これは桐生川の水系に従う。

1960年7月1日 群馬県山田郡矢場川村の一部が、栃木県足利市に編入[2878][14616] [14588]。残りは群馬県太田市に編入。

1963年9月1日 岡山県和気郡日生町の一部(旧福浦村の大部分)が、兵庫県赤穂市に編入 [41400] [46914]
備前福河駅のある場所。
# 一部編入だから市町村合併情報に収録されていないでしょうか?

1968年4月1日 栃木県安蘇郡田沼町の一部(旧飛駒村の奥の桐生川水系流域部)が、群馬県桐生市に編入 [31165]
1959年の菱村の上流。

2005/2/13 長野県木曽郡 山口村 が岐阜県中津川市へ編入[46924]他。
木曽川水系は長野県側にも及んでいるが、馬籠峠から西は岐阜県側の斜面。
[62334] 2007年 11月 1日(木)19:19:31hmt さん
東京府豊島郡大泉村
[62333]で「練馬区大泉学園町」に言及したついでに、その前身の「東京府豊島郡大泉村」が学校に関係して成立したことを少々記しておきます。

この村は、明治の町村制施行(1889)から2年後に、埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村が、同郡新倉村長久保[4111]と共に、白子川の南岸、東京府に属する豊島郡石神井村上土支田[36159]と越境合併[37980]して成立したものですが、その理由は小学校の統合による経費節減だそうです。

ねりま区報
そのころ、上土支田には…豊西小学校が、榑橋村には…榑橋小学校があった。当時の学校費は村費全体の5割ないし8割にも当たっていた。両校の距離は1kmもない。もし両村が合併すれば、小学校は一つですみ、村の経費は大幅に節約できる、と考えた。

このような理由で越境合併が OK になるとは、府県境の壁が大きく立ちはだかる現在の市町村合併との違いに驚くばかりです。

なお、榑橋村は以前は小榑(こぐれ)村と橋戸村でしたが、1889年の町村制施行にあたり、例の「参互折衷」[37482]により命名されました。
現在の町名では、前者は大泉学園町・西大泉・南大泉、後者は大泉町(住居表示実施前は北大泉町)。
# 余計なことですが、「前者・後者」という表現を読んで「クスリ」ときた方は、過去ログをご存知の方です。
1891年の合併相手である(旧)上土支田村は 白子川右岸、大泉学園駅周辺の東大泉。

越境合併でできた「大泉」という村名の由来は、それ以前は府県境だった白子川の水源になっている 湧き水 だったのですね。

# 西大泉(1~6丁目)の他に、「西大泉町」[4113] TN さん があります。落書き帳の有名地名の一つ。参考
[65713] 2008年 7月 9日(水)15:59:30hmt さん
内間木から岩渕にかけての荒川の流路と行政境界線
[65707] ryo さん
笹目橋より西側の怪しさは只者ではありません。(このあたりは和光市の境界線も怪しすぎる…)

笹目橋の西側、つまり彩湖の南端部で 和光市が戸田市に突出している境界線付近 を、古い地形図で確認してみました。

明治42年測量図では、上流側の内間木村から荒川の蛇行が続いています。対岸の美谷本村(合成地名コレ集録済み)にある「曲本」なんて地名も、曲流からきているのでしょう。
新河岸川との合流点を過ぎた後にある、ご指摘の和光市(当時は新倉村)が戸田市(美谷本村・笹目村)側(北)に突出する境界線も、もちろん蛇行した荒川の流路です。

その先、白子川を合わせて東京府と埼玉県の境界になると蛇行はおさまり、少し東流した後、船渡で南に突出、更に浮間で大きく南に突出するというのが、改修前の荒川の流路です。
浮間は、[65477]で言及した浮間ヶ原の所在地で、岩淵町の赤羽(鉄道駅ができてからはこの地名が有名)に隣接しています。

江戸時代の西遷工事[38111][39453]によって入間川の流路に押し込められた荒川。
「荒ぶる川」が旧入間川流路で納まっていたはずもなく、江戸時代にもたびたび洪水に見舞われました。
そして、近代になると明治43年(1910)の大水害を契機として、新たな大改修工事が行なわれました。

下流部の対策の柱は岩渕で分水する荒川放水路[35860]
そして、中流部において水を抑える手段としては、連続堤防や横堤によって1~2kmもの川幅に洪水滞留させる構想です。
中流部の末端に位置するこの付近も、蛇行していた流れを直流に変え、広い河川敷を確保する対策が取られました。

# “広い河川敷”といえば、国土交通省認定 「川幅日本一」 地点も荒川にあり、その川幅は 2532mとのことです。航空写真

内間木・岩渕間の荒川流路に話を戻します。
昭和31年応修の地形図になっても、直流化された荒川に沿って、かつての蛇行の痕跡をたくさん認めることができます。
右岸の内間木村は戦時合併[37842]で志紀町になりましたが(皇紀2604年の2月11日紀元節)、この際に荒川左岸の地は一足先に発足した美笹村に編入され、行政境界線は荒川の新流路と一致することになりました。昭和合併を経た昭和31年地形図では朝霞町。

一方、その前年(1943)に同じく戦時合併によって右岸・大和町(現・和光市)と左岸・美笹村(現・戸田市)とが発足した時には、このような調整が行なわれず、境界は旧河道のまま残りました。
昭和43年の地形図になると、旧河道の跡はほとんど消え、“怪しすぎる”境界線だけが目立つことになりました。

ここよりも下流側で荒川の直流化によって南岸に取り残された2つの埼玉県突出部も後に東京に編入されました。[36159]
埼玉県北足立郡横曽根村(現・川口市)のうち浮間が、東京府北豊島郡岩淵町(現・北区)に編入されたのは 1926年。
その上流側の埼玉県戸田町船渡が、東京都板橋区に編入されたのは 戦後の1950年。
戸田葬祭場や戸田変電所の名称に、かつてこの地が戸田町であった歴史を留めています。

笹目橋より西側の埼玉県と東京都の境界。
これは基本的には白子川(矢川)の流路でしょう。この川に流入先は、荒川改修の結果、並行する独立流路が設けられた新河岸川に変わっています。小さな川ですが、白子川も直流化の結果、現在の流路と都県境とは不一致になっています。
神奈川県と東京都の境界にあるその名も「境川」よりも短距離ですが、たびたび言及されている境川と類似した情況にあるようです。

この白子川を遡ると、その水源は「大泉」という地名の由来になった湧き水です。
現在は完全に練馬区内になっている大泉地区ですが、元々は左岸の埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村と右岸の東京府豊島郡石神井村上土支田とに別れていました。学校統合による経費節減を狙った越県合併であったことを[62334]で記しました。
流路変更とは無関係ですが、ここでも府県境の変更が行なわれていました。
[65716] 2008年 7月 9日(水)22:56:15hmt さん
境川対岸に残った「領地」の交換
[65708] 北戸 さん
(東京都町田市の面積が 2003年9月1日現在と2008年7月1日現在とで)僅か0.01平方kmですが、変動しています。
つまり5年以内に県境変動が起きていると言う事ですね・・・。

官報のオンライン検索[26215]が可能な、1947年5月3日以降の事例について「都道府県界の境界変更一覧」を調べた結果が ウィキペディア に出ていました。
これによると、上記の約5年間において、町田市が関係した境界変更は、2004年と2007年に各2件、合計4件あるようです。

各2件というのは、相模原市→町田市と町田市→相模原市とがペアになっているからで、境川改修に伴ない対岸に残ってしまった土地のうち、両市の間で合意が得られた箇所につき「領地交換」が実現したのがこの結果です。

推測になりますが、ぼぼ同面積になるように仕組んだ交換であり、その結果、4件の差し引きは僅かな値になったのでしょう。
更に言えば、記載された地名と地図によって、境界が直線化された箇所を推測すると、住宅団地や公有地など、権利者が少数で合意が得られやすい場所から実現しているように思われます。

[65700] Issie さん
人が住んでいる「飛び地」については住民の意思があって,なかなか進んでいないのですが,それでも現在の境川と都県境とが一致する区間は少しずつ増えているようです。

1999年の3件を加えて10年間に実現した「領地交換」は僅かに7件! 地形と行政境界の一致は前途遼遠?
[68397] 2009年 1月 19日(月)19:18:30hmt さん
昭和大合併を前に桧峠にジープを通した石徹白、スキー場で冬季も“実質的な飛び地”でなくなる
[68387] ぼたん さん
石徹白村は福井県大野郡から岐阜県郡上郡白鳥町に越県合併した地域ですが、合併当初は白鳥町の中心地域とは車道が通じていなかったと聞いた気がします(裏を取ろうとしたのですが、見つかりませんでした…)。

白山の神地として、無主無従の村民自治体制が中世から維持されてきた越前と美濃の国境の村・石徹白(いとしろ)。
18世紀には、郡上藩の取り潰し・幕府幹部の処罰という結果をもたらした石徹白宝暦騒動の舞台でもありました。
明治になると、この地は九頭竜川水系の上流にあたる越前国ということで、郡上八幡の支配を離れて、福井県に所属することになりました。

この山里の交通事情が、[54300] ズッキーさん がリンクした資料「桧峠」(現在はリンク切れ)に出ていたので、紹介します。

自動車が普及してきたのは、昭和10年代後半のこと。福井県は当然のことながら、大野市への道を優先。岐阜県側の郡上への道の新設には消極的でした。
石徹白村は、そこで岐阜県北濃村と力を合わせて林道で結ぶことになり、1943年着工。戦後の1951年念願の桧峠林道が開通したが、まだ自動車の通行は不可でした。

桧峠を越える自動車道路の開通は、昭和28年施行の町村合併促進法がもたらした結果した。
この時に、福井県大野郡石徹白村が選んだ道は、全国でも例の少ない越県合併(→岐阜県郡上郡白鳥町)でした。
奇しくも、石徹白宝暦騒動のあった郡上サイドに戻ることになるわけですが、ズッキーさんも書いているように、(桧峠さえ越すことができれば、)生活上は白鳥町との合併が有利と判断されたのでしょう。

この合併を実現させる環境整備として、白鳥町と石徹白村双方から桧峠への工事が行なわれ、昭和32年(1957)7月、ジープが通行可能になりました。

越県合併事案は、下記の2件と共に新市町村建設促進中央審議会で審議され、いずれも認められて、一部を分村(前日に境界変更)して元の県に残した上で、1958年10月15日に「越県合併」が実現しました。
長野県西筑摩郡神坂村→岐阜県中津川市 [55505]、埼玉県入間郡元狭山村→東京都西多摩郡瑞穂町 [4049]

つまり、昭和合併が実現する前年には、石徹白と白鳥町の間に自動車通行可能な林道が一応は完成しており、合併後は役場のジープが日に3往復ほど連絡しました。
この林道は、合併実現後に県道になり、変更・改良工事が加えられました。
しかし、通行量の少ないこの道は、冬季常時除雪体制をとることは不可能。
穴馬(福井県和泉村、現・大野市)経由で白鳥町本体と結ばれていた冬季に限れば、石徹白地区は岐阜県白鳥町の“実質的な飛び地”であったと言えるかもしれません。

この状態が解消したのは1972年でした。この年に石徹白地区内有志がスキー場を建設。全国的な雪不足の中で雪に恵まれた幸運もあって、名が売れました。岐阜県もこれに応じて除雪体制を整備。

石徹白小学校の元教師の回顧による、戦時中~戦後の交通事情(特に冬季の交通途絶)。これも出典はリンク切れの資料「桧峠」
当時、石徹白は福井県だったので、学校といえば当然福井の学校へ通ったのです。夏の間は、石徹白から福井県和泉村、大野市へバスが通っており、大野市から福井まで電車で出て、そこから鯖江までは電車でもバスでも行けました。
それが11月から4月の冬の間だと大変です。新学期になって学校へ戻ろうと思っても、雪が多く、和泉村へ出ることはできません。桧峠を越えて(中略)北濃駅まで歩いて、そこから越美南線、高山線東海道本線、北陸本線と乗り継いで、鯖江まで行ったのです。行くだけで1日がかりでした。
[69172] 2009年 4月 10日(金)14:07:24hmt さん
飯豊山に奇妙な県境が誕生するまで
福島・新潟・山形の3県が境を接する飯豊山。そこにある奇妙な姿の県境は、この落書き帳にこれまで何回も登場してきました。
またかという気もしますが、NHK教育テレビ「県境の謎」(火曜日朝05:35に再放送)にもちょっとだけ登場した機会[69164]をとらえ、「登山道の幅だけ福島県」[24072] という県境誕生の過程を記しておきます。

最初に、現在の地図を出しておきます。Mapion
画面中央付近の三国岳の南東側が福島県の本体で、陸奥国(明治以後は岩代国)でした。ここから三尺幅の登山道が北西に伸びて、画面上部の飯豊山神社奥宮に達し、山頂から更に西の御西岳に至ります。

約8kmもある臍の緒のように細長い尾根の周辺だけが福島県喜多方市の領域で、南西側の谷は新潟県東蒲原郡阿賀町、北東側は山形県西置賜郡小国町という3県の境界地帯。更に御西岳の西側、喜多方市の臍の緒の先端では新発田市と僅かに接しているので、4市町の点接触(グレートジャンクション)もどき [24052]

futsunoおじさんの 「県境の交通路」コレクション 07福島県-15新潟県 で確認すると、始点は喜多方市・新発田市・小国町の3県境点で、新潟県はすぐに(0.0km)阿賀町に移ります。三国岳までの臍の緒県境の距離は 8.1km。

「国界」が示されている 20万分の1地勢図で確認すると、福島県だけでなく、岩代国も越後と羽前の間の稜線沿いに伸びています。つまり、臍の緒の南東端の三国岳では、越後・羽前の両国は隣接しておらず、三国境ではないということのようです。みやこ♂さんの 「三国」コレクション においても、地名を尊重して三国岳の地図をリンクしながら、“厳密には御西岳”という注釈が加えられています(#3)。

落書き帳で、6年前にこの奇妙な県境を最初に持ち出したのは、自称ビジュアル系のペーロケ[utt]さんでした[10123]
これに答えた ken さんの記事[10531] には、福島県耶麻郡山都町のHPがリンクされており、そこには、このような県境が生まれた経緯が記されていました。
しかし、残念なことに2006年に行なわれた 合併 に伴なって、このサイトは閉鎖されてしまいました。

リンクが切れてしまった現在、この県境が福島県庁の郡山遷都騒動に端を発していたとことは、落書き帳の中では、[10575]に名残を留めるだけになっています。
というわけで、旧山都町が残してくれた情報を埋もれさせないためにも、この県境誕生の概要を、改めて記しておくことにします。

飯豊山信仰は、会津だけでなく、中通り・置賜・東蒲原の各地に及び、神仏習合の時代から信者獲得のためには、熾烈な管理権争いもあったようです[10575]。白山を巡る対立抗争史[68519]を思い出しました。

明治6年以来、飯豊山神社は若松県の郷社として、麓宮(拝殿)のある耶麻郡一ノ木村(山都村を経て喜多方市)の管理下にありました。地図をスクロールさせて少し下を見ると、鳥居のマークと一ノ木という注記が見えます。

飯豊山神社のあった若松県北部は、岩代国耶麻郡の西にある越後国東蒲原郡をも領域としていました。明治9年に福島県・磐前県と統合した後もその状態は続き、巨大な福島県の県庁所在地である信夫郡福島町は、現在以上に偏った位置にありました。

そんなこともあり、明治16年(1883)になると、県庁を県の中心に近い安積郡郡山町に移転する建議が福島県会に提出され、明治18年には可決されるに至りました。
しかし、遷都反対派は猛烈な運動を展開。遂に内務省を動かして、福島からの県庁移転を阻止しました。

その決着の際、越後国東蒲原郡は新潟県に移管されたのでした。明治19年勅令第43号
どのような経過を経て、県庁移転を東蒲原郡移管にすり替えることができたのか興味のあるところですが、詳細は知りません。
福島県の枠組みを変え、県庁所在地の偏りを是正するとでも強弁したのか?

鬼県令と呼ばれた三島通庸が福島県令だったのは明治17年までですが、いずれにせよ福島県がまだ完全な地方自治体でなく、内務官僚による強圧的な地方支配が行なわれた時代であったと理解しています。
参考までに、東蒲原郡移管は、三多摩移管[33700] [54421]の7年前のことでした。

こうして、福島県庁移転問題に端を発した動きが、東蒲原郡の新潟県移管という思わぬ展開を見せた結果、明治初年から耶麻郡一ノ木で収まっていた飯豊山の領有争いが再燃しました。

すなわち、新潟県になった東蒲原郡実川村(明治22年から豊実村)は、早速明治20-21年に飯豊山の領有と山頂の飯豊山神社を東蒲原郡郷社にする願いを出したのです。
これまで飯豊山神社を管理していた耶麻郡山都村一ノ木も、負けているわけにはゆきません。
証拠文書を集めて反論。拝殿のある麓宮から山頂の奥宮までの登山道(巡礼道)を境内地に編入することを願い出て(明治31,33年)、明治38年には内務大臣の編入許可を得ています。

このように既成事実を作りながらも、主張と証拠の応酬が20年も続けられ、その結果、明治40年に現地査定が行なわれ、引き続き査定報告と協議の会合が開かれました。
協議会には、当事者である一ノ木と実川の総代、山都村と豊実村の役場組合長、福島県耶麻郡と新潟県東蒲原郡の郡長代理、宮城と長野の大林区署【注】が出席し、飯豊山頂の境内地と登山道が福島県側の山都村一ノ木に帰属することが認められました。

明治19年の東蒲原郡移管以来続いていた「境界未定」の状態に、ようやくピリオドが打たれ、奇妙な姿の福島県境が確定したのでした。

臍の緒のような形の県境は、地図で見る形だけでも興味をそそりますが、その背後には、県庁移転問題・東蒲原郡移管・一ノ木と実川の領有争いという20数年に及ぶ一連のストーリーが存在したのでした。

【注】大林区署とは、国有林の管轄者だと思います。現在は福島県も新潟県も関東森林管理局管内です。
[78789] 2011年 7月 18日(月)13:15:00hmt さん
渡良瀬川改修に伴う茨城県・埼玉県の境界変更
[78776] 88 さん
埼玉県側への境界変更があったとしか考えられないのですが、具体的情報に不足していますので、情報がありましたら、ご教示いただければ幸いです。

およその時期が 1930年代初頭とわかっているので、浦和の埼玉県文書館で 埼玉県報を閲覧するのが 最も確実なのですが、近くの図書館で済まそうと、『新編埼玉県史』を調べました。
しかし、昭和初期の県境変更に関する記載を見出すことはできませんでした。

図書館で地名事典を調べると、平凡社も角川(下記に引用)も昭和5年となっており、1932年は誤記だったようです。
昭和5年7月に現在の渡良瀬川が茨城・埼玉の県境となり,右岸の伊賀袋の大部分と立崎の一部が埼玉県北埼玉郡川辺村へ合併され,大字伊賀袋となる。

年代が確定したので、「渡良瀬川 昭和5年 伊賀袋」でウェブを検索すると、加須市、騎西町、北川辺町及び大利根町の合併の歴史(PDF:111KB) がヒットし、1市3町の廃置分合経緯図2コマに、「S5.7.1」という日付も 明記されていました。
冒頭の説明文には、渡良瀬川河川改修にともない、茨城県猿島郡新郷村大字伊賀袋・立崎【の一部】から編入されたものであることも記されています。

ここから先は、オーナー グリグリさん宛です。

上記1市3町の廃置分合経緯図は、「明治22年以降の市町村合併の経緯を分りやすく表現した図」[75486]に該当すると思われるのですが、一つ気になるのが、[76001]に示された収集基準の (5) です。
(5) 自治体の公式HPに情報掲載ページへのリンクを掲載したページがあること
・公式HP内検索で引っ張り出せる孤立したページは対象外

加須市HP を見ても、既に合併協議会へのリンクはなく、サイトマップの中にもありません。
合併そのものは、既に過去の歴史になっており、合併協議会のページは記録として保存されているが、現在の公式HP内でのメンテナンスはなされていないものと理解できます。

一方、[76013]において、グリグリさんは、次のように説明されています。
収集基準の(5)の意図は、「自治体の公式HPからのリンクであることを重視」というよりも「最新情報として更新管理されている保証がない」というのが真意です。公式HPからのリンクがある=更新管理対象である、という判断です。

過去に存在した市町村に関する情報が、2010年に新設合併で誕生したした自治体「加須市」のHP内で「最新情報として更新管理」されていないことは事実です。
しかし、「明治22年以降の市町村合併の経緯を分りやすく表現した図」を集める という[75486]の趣旨からすれば、2010年に役目を終えた 「歴史的存在」である合併協議会のページに、収集基準の (5) までを求める必要があるのでしょうか?
[79438] 2011年 10月 8日(土)17:10:00【1】hmt さん
県境変更に伴うデータ
hmtマガジンの 利根川と国境・県境との関係 は、まだここまで行き着いていないのですが、埼玉県深谷市と群馬県太田市との境界が 2010年3月1日に変更されています。

利根川改修で生まれた南前小屋地区の対岸飛び地の是正については、2006年の請願提出から昨年春の実施まで、落書き帳記事 でフォローされていますが、関係する両市のサイトからもリンクしておきます。
深谷市住所表示一覧表 【深谷市前小屋と深谷市二ツ小屋】
平成22年3月1日から、群馬県太田市前小屋町および二ツ小屋町が深谷市に編入されました。
広報おおた2010/2/20
3月1日から南前小屋地区は埼玉県深谷市に【深谷市高島地区の一部が太田市大舘町に】なります
市議会上程議案 の末尾に位置図があります。ぼやけていますが 中央が新上武大橋で、右下側(下流右岸)が 38世帯 141人の住む南前小屋地区で、群馬県から埼玉県になりました。
地図の左側(新上武大橋より上流左岸)は無人のゴルフ場の一部などで、埼玉県から群馬県になりました。

昨年のオフ会参加の道すがら、[76893] Hiro_as_Filler さんが訪問。
たまたま通り道にあった「前小屋入口」の看板に誘われ深谷市前小屋にふらりと入りこむ

本題その1
市区町村変遷情報に、本件の「境界変更」を入力するのが適当ではないでしょうか。>でるでる さん

本題その2
都道府県の基本データ、市区町村の基本データへの影響があるはずです。>オーナー グリグリさん
面積については、都道府県市区町村全体が、まだ 2009年面積調のデータのままなのですね。
これが 2010年面積調 の値に更新されれば、2010年の県境変更に伴う変化も、自動的に取り入れられていたわけですが。
市の変遷については、変遷情報に連動するものと思っています。

以前から子供の通学先も深谷市であった南前小屋地区では 住民の意向が一致しており、県境変更の壁を乗り越えることができました。

少し下流の利根川左岸・熊谷市妻沼小島地区の住民は、太田市編入を求めて陳情書を出しています。
しかし、妻沼小島地区は南前小屋地区よりも大きな集落で、学校もあり、土地改良事業[54536]もからんでいるようなので、問題はより複雑です。
妻沼町時代の 2004年に太田市編入署名を集めた時は、賛成113戸、反対10戸、無回答40戸だったとか。
合併後の熊谷市も消極的態度。

全12世帯中、1世帯の反対があることで編入手続きは当面見合わせとなった栃木市下宮地区の事例[79417]に照らしても、妻沼小島地区の群馬県編入への道は遠いように思われます。
[79523] 2011年 10月 16日(日)09:28:0688 さん
市区町村変遷情報 県の境界にわたる境界変更の事例について(S22.5.3以降告示)
[79522]の続きです。
県の境界にわたる境界変更を抽出しました。
情報元は官報情報検索サービスであり、このため、S22.5.3以降に総理府告示等があったものに限ります。
ひととおり網羅したつもりですが、遺漏があるかもしれません。
番号告示年月日告示番号施行年月日編入側編入される側
1S25.3.27総理府告示第58号S25.4.1東京都板橋区埼玉県北足立郡戸田町
2S28.11.30総理府告示第242号S28.12.1島根県仁多郡八川村広島県比婆郡八鉾村
3S28.11.30総理府告示第243号S28.12.1広島県山県郡八幡村島根県那賀郡波佐村
4S29.4.30総理府告示第448号S29.5.1東京都板橋区埼玉県北足立郡戸田町
5S30.3.30総理府告示第907号S30.4.1愛知県東加茂郡旭村岐阜県恵那郡三濃村*1
6S30.12.29総理府告示第1569号S31.1.1千葉県印旛郡栄町茨城県稲敷郡河内村
7S31.9.8総理府告示第417号S31.9.10長崎県松浦市佐賀県伊万里市
8S33.3.31総理府告示第75号S33.4.1大阪府豊能郡東能勢村京都府亀岡市*2
9S35.7.1自治省告示1号S35.7.1栃木県足利市群馬県山田郡矢場川村
10S36.7.1自治省告示213号S36.7.1埼玉県北足立郡大和町東京都練馬区
東京都練馬区埼玉県北足立郡大和町
11S38.7.17自治省告示106号S38.9.1兵庫県赤穂市岡山県和気郡日生町*3
12S39.7.31自治省告示90号S39.8.1宮城県登米郡中田町岩手県西磐井郡花泉町
岩手県西磐井郡花泉町宮城県登米郡中田町
13S40.4.1自治省告示63号S40.4.1京都府福知山市兵庫県氷上郡市島町
兵庫県氷上郡市島町京都府福知山市
14S41.10.28自治省告示158号S41.11.1岡山県笠岡市広島県福山市
広島県福山市岡山県笠岡市
15S43.1.27自治省告示7号S43.2.1神奈川県横浜市東京都町田市
16S43.3.25自治省告示40号S43.4.1栃木県足利市群馬県太田市
栃木県足利市群馬県邑楽郡邑楽村
群馬県太田市栃木県足利市
群馬県邑楽郡邑楽村栃木県足利市
17S43.3.27自治省告示45号S43.4.1群馬県桐生市栃木県安蘇郡田沼町
18S46.3.18自治省告示47号S46.4.1茨城県下館市栃木県芳賀郡二宮町
栃木県芳賀郡二宮町茨城県下館市
19S47.3.16自治省告示68号S47.4.1茨城県行方郡潮来町千葉県佐原市
千葉県佐原市茨城県行方郡潮来町
20S47.9.2自治省告示228号S47.10.1千葉県佐原市茨城県稲敷郡東村
茨城県稲敷郡東村千葉県佐原市
21S51.2.20自治省告示25号S51.3.1茨城県真壁郡協和町栃木県芳賀郡二宮町
栃木県芳賀郡二宮町茨城県真壁郡協和町
22S53.12.21自治省告示221号S54.1.1栃木県足利市群馬県太田市
群馬県太田市栃木県足利市
23S55.5.24自治省告示129号S55.6.1茨城県下館市栃木県小山市
24S55.5.24自治省告示130号S55.6.1栃木県小山市茨城県結城市
茨城県結城市栃木県小山市
25S55.5.24自治省告示131号S55.6.1群馬県館林市栃木県佐野市
栃木県佐野市群馬県館林市
26S57.11.26自治省告示217号S57.12.1茨城県下館市栃木県芳賀郡二宮町
栃木県芳賀郡二宮町茨城県下館市
27S60.1.29自治省告示12号宮崎県都城市鹿児島県曽於郡末吉町
鹿児島県曽於郡末吉町宮崎県都城市
28S60.1.29自治省告示13号S60.2.1東京都町田市神奈川県大和市
神奈川県大和市東京都町田市
29H3.1.25自治省告示3号H3.2.1栃木県芳賀郡茂木町茨城県東茨城郡御前山村
茨城県東茨城郡御前山村栃木県芳賀郡茂木町
30H9.1.17自治省告示2号H9.1.20岩手県西磐井郡花泉町宮城県登米郡中田町
宮城県登米郡中田町岩手県西磐井郡花泉町
31H10.6.24自治省告示168号H10.7.1茨城県結城市栃木県小山市
栃木県小山市茨城県結城市
32H11.11.1自治省告示219号H11.12.1東京都町田市神奈川県相模原市
神奈川県相模原市東京都町田市
神奈川県大和市東京都町田市
33H12.5.15自治省告示108号宮崎県えびの市鹿児島県姶良郡吉松町
鹿児島県姶良郡吉松町宮崎県えびの市
34H13.3.26総務省告示第160号H13.4.1岩手県西磐井郡花泉町宮城県登米郡中田町
宮城県登米郡中田町岩手県西磐井郡花泉町
35H16.10.5総務省告示第739号H16.12.1東京都町田市神奈川県相模原市
神奈川県相模原市東京都町田市
36H17.1.13総務省告示第23号H17.2.1栃木県芳賀郡二宮町茨城県下館市
茨城県下館市栃木県芳賀郡二宮町
37H19.3.26総務省告示第159号宮崎県都城市鹿児島県曽於市
鹿児島県曽於市宮崎県都城市
38H19.10.17総務省告示第574号H19.12.1東京都町田市神奈川県相模原市
神奈川県相模原市東京都町田市
39H22.1.7総務省告示第1号H22.3.1群馬県太田市埼玉県深谷市
埼玉県深谷市群馬県太田市*4
40H22.8.31総務省告示第337号H22.12.1東京都町田市神奈川県相模原市
神奈川県相模原市東京都町田市

*1大字浅谷及び野原
*2西別院町牧及び寺田の大半の区域
*3大字福浦の大半
*4二ツ小屋町,前小屋町のそれぞれ一部

これら4件は、実質、近世村単位または町・大字単位であるため、すでに市区町村変遷情報の対象として反映済みです。


・例えば上記の10は、 東京都練馬区の一部が埼玉県北足立郡大和町に境界変更される内容と、埼玉県北足立郡大和町の一部が東京都練馬区に境界変更される内容が、ともに含まれています。
・施行年月日が「-」のものは、告示中に施行年月日の記載がないものです。本来ならば記載があるべきところですが、遺漏しているのと思われます。

これらの境界変更は、ほとんどは、土地区画整理事業または土地改良事業により区画整理・圃場整備を行ったことによるものではないかと推測します。
[79525] 2011年 10月 16日(日)11:22:45オーナー グリグリ
Re:市区町村変遷情報 境界変更の取扱いについて (県の境界にわたる境界変更についてを含む)
[79522] 88さん
当市区町村変遷情報における境界変更の取扱いについては、これまでにも方針を述べてきた内容だとは思いますが、改めて述べます。
お手数をお掛けしてすみません。
◆結論◆
これら(1)(2)から、H22(2010).3.1付けで群馬県太田市の一部を埼玉県深谷市へ境界変更したとの情報を追加しました。
なお、同日付けでの、埼玉県深谷市の一部を群馬県太田市へ境界変更したとの情報は追加しません。
◆結論◆
栃木県栃木市の一部(栃木市藤岡町下宮)を埼玉県加須市へ境界変更する情報は、今回は追加しない。正式に境界変更が決定された時点(総務省告示がなされた時点)で追加する。
明確な結論をありがとうございました。私は異論ありません。すっきりしました。ありがとうございます。

市区町村変遷情報の編集方針は、合理的、客観的なものが求められるものであり、3県境だから、オフ会オプショナルツアーだからと言った感傷は不要である、ということは、承知されていることは思いますが、念のため申し添えます。
まったく仰せの通りなんですが、年齢を重ねると感傷が合理性や客観性を凌ぐ判断が生まれてくるのも事実です。変遷情報には参考情報は似合わないのですが、雑学やマガジンなどの編集で代替できればスマートなんだろうなと思ってしまいます。

[79523] 88さん
県の境界にわたる境界変更を抽出しました。
そう言う意味では、このリストは貴重な資料でしょう。何らかの形で残したいものです。hmtマガジンの特集は如何でしょうか。あるいは88マガジン創刊は?

ところで、
[79522] 88さん
町・大字は、現在の住所を表示するのに際し重要な事項ですが、各地図サイトなどでも、次のような疑問があります。
・正式な町・大字が何なのか
・通称であるのか否か
・小字はあるのかないのか、表示されているものだけが小字なのか
・地番区域は大字単位か、小字単位か
 (地番区域が大字単位の場合、住所では省くことが通常・・・この件、改めて投稿予定)
これは私もいつも悩んでいる事項です。投稿楽しみにしています。
[79537] 2011年 10月 19日(水)18:11:44【1】hmt さん
県境の変更 (1)県境変更手続
[79523] 88 さん
県の境界にわたる境界変更を抽出しました。(中略)S22.5.3以降に総理府告示等があったものに限ります。
[79525] オーナー グリグリ さん
このリストは貴重な資料でしょう。何らかの形で残したいものです。

88マガジン創刊も期待したいところですが、とりあえずは、hmtマガジン のテーマ「境界」の中に 特集「県境の変更」を新設して、収録しておきたいと思っています。

県の数は、明治4年(1871)廃藩置県で生まれた3府302県が 3府72県にリセットされました[76179]
その後も、かなり大幅な手直しが行なわれ、明治9年(1876)に3府35県の最小値を記録しました。
明治12年以降、9増(沖縄・徳島・福井・鳥取・富山・佐賀・宮崎・奈良・香川)1減(堺)があり、明治21年には3府43県で落ち着きました。

当然、これまでの間には極めて多くの「県境変更」があったわけですが、県自体の改廃が行なわれた 明治前期の県境変更は、今回のテーマとは別次元のものと捉えるのが妥当でしょう。

さて、都道府県の廃置分合又は境界変更は 法律を必要としますが(地方自治法第6条第1項)、都道府県の境界にわたる 市町村の設置又は境界変更 があれば、県境も自動的に変更されます(同第2項)。
現行法下では、特別法を作る前者の事例は皆無で、現実の県境変更事例は、すべて市町村の廃置分合又は境界変更に伴う後者です。

県境を越えた市町村合併について調べていたら、その手続きをまとめた 下関市の 参考資料 がありました。
この資料を参照し、示された11件(大部分[54264]に収録)の越境合併を、手続きで分類した結果は次の通りです。

A 既存のどちらかの県に属する場合
 A1 編入合併により元の町村はなくなる
  A1.1 村全域の編入(越県廃置分合)
   例:樫田村 [31152]菱村 [2878][14616]山口村 [25925][46924]
  A1.2 事実上の分村編入(前日に県残留地区を境界変更で分村してから越県廃置分合)
   例:元狭山村 [4049]石徹白村 [54300][68397]神坂村 [25925][55505]
  A1.3 分村編入(越県地区は境界変更、県残留地区は廃置分合)
   例:三濃村[46981]越県 残留矢場川村 越県 残留

 A2 町村の一部が境界変更で他県に編入(元の町村は存続) 変遷情報には大字単位を収録
   例:亀岡市西別院町の一部、日生町福浦[46914]、田沼町入飛駒[31165]

 A3 新設合併
   例:戦前の制度では 大泉村 があるが、現行法では該当事例なし。

B 既存の県から独立して新たな県をつくる場合
   例:もちろん該当事例なし。この項目の存在には“さすが”と感じたが、下関市topから辿れず、何の参考資料か不明。

便宜上「村」とか「町村」とか書きましたが、正確には「市町村」です。特別区への適用は地方自治法283条。
「県」と書いた部分も、もちろん正確には「都道府県」です。

下関市HP参考資料は「合併」だけを対象にしたものですが、県境変更には、合併(広義には廃置分合又は境界変更)を伴わず、(C)特別法による県境変更があります。

先に記したように、地方自治法下では特別法による県境変更の該当事例がありませんが、変遷情報が戦前に及んでいる以上、大日本帝国憲法時代の法律における県境変更も参照することにします。
すると、府県制 第3条と 明治23年の旧府県制 第1条とに、地方自治法第6条と同様の規定がありました。

そして、戦前の県境変更については、特別法の事例があり、過去記事[47106]もありました。
これについては、別記事で補足します。
[79538] 2011年 10月 19日(水)19:43:18hmt さん
県境の変更 (2)戦前の県境変更事例
[79537]で記したように、明治前期の県の改廃に伴う県境変更は、今回のシリーズの対象外とします。
県の新設や廃止と無関係に「郡単位の管轄変更」が行なわれて、県境が変更された事例は2件あります。

最初は、福島県庁の郡山移転騒動がすり替えられたという 東蒲原郡の新潟県への移管です。
この地は、かつて会津領だった関係で明治になってからも若松県→福島県に所属していましたが、元々の越後国に戻されたわけです。
明治19年5月12日勅令第43号 の日付は、市制町村制に続いて制定された「郡制」や「府県制」という地方行政の法律体系ができ上がるより 少し前の時代に行なわれた変更であったことを示しています。

そのいきさつは、[69172]を御覧ください。東蒲原郡の移管自体は、明治22年(変遷情報の起点)よりも前でしたが、飯豊山の領有争いが決着して 奇妙な姿の福島県境 が確定したのは、ずっと後の明治40年(1907)でした。

郡単位での移動のもう一つの事例は、東京の水源確保を名目として、神奈川県西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡が 東京府 の管轄になった 三多摩移管 です。明治26年3月6日法律第12号(4月1日施行)

この法律は、明治23年の旧府県制 第1条に基づき制定された特別法でした。
明治時代には、このような大規模な県境変更だけでなく、町村単位やそれ以下の規模の県境変更を定める特別法がありました。
その大部分については、既に[47106]で簡単な説明を加えています。
ここでは、更に若干の補足を記します。

東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法(明治28年3月30日法律第24号)
江戸川河川改修の結果生じた対岸飛び地を、本体側に編入するもので、他県から千葉県への編入を+、逆を-として表記して数えると、東京府+1-3、埼玉県+3-6、茨城県-1、合計14件。例えば江戸川が 妙見島 の東を流れるように改められたので、この島は東京府の所属になりました。

岡山県兵庫県境界変更並福岡県大分県境界変更法律(明治29年3月30日法律第56号)
福岡県→大分県の境界変更地は、山国川支流東側の編入。[59173]にて既報。

東京府神奈川県境界変更ニ関スル法律(明治45年3月28日法律第5号)
多摩川の流路変更に伴なう対岸飛び地を、本体側に編入するものでした。1~6号が東京府から神奈川県。7~12号が逆。
例えば第1号には布田、第2号には宇奈根・瀬田・野毛、第3号には 等々力 という具合に、「自治体越えの地名」コレクション 収録対象地名が見えます。
流路変更に伴なう対岸飛び地が神奈川県に変更されたことが 地名の「自治体越え」の原因であることを、はっきり示しています。

東京府荏原郡玉川村大字等々力の内多摩川以南を神奈川県橘樹郡中原村に編入す。
[79541] 2011年 10月 20日(木)16:29:32hmt さん
県境の変更 (3)戦前の県境変更事例 新設合併・境界変更
[79538]のタイトルは「戦前の県境変更事例」でしたが、特別法による明治の事例が殆んどであり、市町村合併や市町村間の境界変更を事由とするものは対象外になっていました。
今回のシリーズの発端となった[79523] 88 さんのリストは、まさにこの種の県境変更に関するものですが、情報元の官報情報検索サービスの制約上、利用できるのは 戦後の事例に限られます。

町村廃置分合や境界変更に関する戦前の記録探索は、全国を対象に実行するとなると、県報へのアクセスなどでの困難があると思われます。
そこで、完全は期し難いことを承知の上で、既に変遷情報に記録されているものの中から、県境変更事例に該当すると思われるデータを拾ってみました。(手法は、県別リスト内で Ctrl+F 県)
明治32年の利根川北岸 金江津村などもヒットしますが、既に[47106]で検索された特別法によるこれらのものを除くと、戦前の事例として3件が残りました。

最初の2件は、東京周辺部ということもあり、割合有名な県境変更地です。
しかし、3件目の伊賀袋クラスになると、未発見の県境変更地が まだまだ多数あるのではないかと思われます。

明治24年(1891) 東京府北豊島郡大泉村となった新設合併
[62334]で引用した『ねりま区報』に記されているように、東京府北豊島郡石神井村上土支田と埼玉県新座郡榑橋村との学校統合による経費節減が目的とのことです。新座郡新倉村長久保も参加しています。
榑橋村は、保谷村ほどではないにしても、埼玉県としては南端に近く、東京府の側にやや突き出た位置にあります。
合併後の大泉村が「東京府所属」になることを選んだのは、自然の成り行きと思われます。

その保谷村も明治40年(1907)には東京府に所属変更。こちらは合併を伴わないので、特別法でした[47106]

2番目は大正15年(1926) 埼玉県北足立郡横曽根村であった浮間を 東京府北豊島郡岩淵町に境界変更
浮間は、かつて大きく南に蛇行していた流路を短絡した結果、荒川の南岸になった場所です[36159]

変遷情報に最近記録されたのが、昭和5年(1930) 茨城県から埼玉県に境界変更された伊賀袋 です。
利根川と同時に行なわれた渡良瀬川改修により、茨城県から見れば対岸飛び地になっていたので、これを解消。
私は 2010年オフ会記録資料作成過程において明治の輯製図を現代の地勢図と見比べて、流路と県境とが変更されていることを偶然に発見しました[76950]。その後で落書き帳を「伊賀袋」で検索してみると、 2003年の記事 で既に県境変更(但し 1932年と記載)に言及されていました。落書き帳恐るべし。

余談ですが、会津オフ会で利用する方が多いと思われる東武日光線。利根川を渡った直後に、この伊賀袋を通過します。
旧河道跡も残っているので車窓必見スポット?
1929年の開業から1年3ヶ月間だけは、茨城県の対岸飛び地だった![11207]
[79559] 2011年 10月 25日(火)13:11:52hmt さん
県境の変更 (4)県境変更のいろいろ 特別法・市町村の廃置分合・境界変更
3府43県が出揃い(M21=1888)、市制町村制が施行された(M22=1889)「明治中期以降」の県境変更について記しています。
M23に公布された府県制は、郡の再編が進まずに施行が遅れました[62662]

地方自治法では“都道府県の境界変更は法律でこれを定める”ことを本則としています[79537]
しかし 現実に行なわれた県境変更事例は、この本則によるものではありません。
戦後のすべての県境変更事例は、“都道府県の境界にわたる市町村の境界”の動きに従属して“自ら変更する”ことになった県境です(地方自治法第6条第2項)。
つまり、主役は県境の「市町村」であり、都道府県の境界変更につれて市町村の領域が変化したものではない。
これが、県境変更の現実の姿です。

もっとも、明治後期には 政府や府県が主役となり、県境変更の特別法を制定した事例が いくつかありました[79538][47106]

明治26年の 東京府及神奈川県 境域変更に関する法律 による 三多摩移管がその代表例です。しかし、当時の東京府・神奈川県にはまだ府県制が施行されていませんでした。この特別法は、府県制とは一応無関係に制定された法律 であったようです。

余談ですが、北多摩郡が東京府になったことで、武蔵野台地にあった“平地の3府県境”[75152]は 消滅し、更に埼玉県“新座半島”[68760] 先端の保谷村が北多摩郡に編入されて(M40)、“元3府県境”は 東京府の中の ありふれた3村境(保谷村・武蔵野村・石神井村)[68760]になってしまいました。

東京付近で もう一つ目立つトピックスは 県境河川改修にからむ県境変更です。
江戸川(M28)[79538]・利根川(M32)[47106]・多摩川(M45)[79538]は、改修工事の後で それぞれ定められた境界変更法により、新流路が新県境になりました。

もちろん戦前にも 合併や境界変更による 市町村主役の 個別的県境変更事例 がありました [79541]
戦前の事例につき この種の記録を全国的に探索するとしたら、県報へのアクセスなどでの困難が予想され、完全なリスト作りは難航するおそれがあります。このことは既に触れました。

引き続き、現行の法体系下、つまり昭和22年5月3日以降に行なわれた 県境変更事例の種類について記します。

下関市の参考資料[75937]に示された 11件の事例を、廃置分合による越県と、境界変更による越県とに分けてみました。

廃置分合事例 6件

 5件は、昭和大合併の際に認められた越県合併[55505]の仲間です。昭和の 新市町村建設促進中央審議会が 5件(境界変更[79523]の5番、8番、9番を加えれば8件)を認めたのに比べて、平成大合併では僅かに1件というのは時代の違いでしょうか。
 5件のうち、樫田村と菱村とは 村まるごと編入です。 元狭山村・石徹白(いとしろ)村・神坂村の3件は、村内の一部地域を前日に分村(境界変更)して 県内に残留させるという手法を取った点と、越県合併の施行日(S33.10.15)とが共通しています。

 S33. 4. 1 京都府桑田郡樫田村が、まるごと大阪府 高槻市に編入
 S33.10.15 埼玉県入間郡元狭山村が 東京都西多摩郡 瑞穂町に編入【分村先 武蔵町
 S33.10.15 福井県大野郡石徹白村が岐阜県郡上郡白鳥町に編入【分村先 和泉村
 S33.10.15 長野県西筑摩郡神坂村が 岐阜県 中津川市に編入【分村先 山口村
 S34. 1. 1 栃木県足利郡菱村が、まるごと群馬県 桐生市に編入
 H17.2.13 長野県木曽郡山口村が、まるごと岐阜県 中津川市に編入
 昭和大合併では島崎藤村の故郷・馬籠を長野県に残したことで有名な分村事件でしたが、その山口村も、平成大合併では岐阜県になりました。

境界変更事例 5件  リスト番号は、[79523]88さんによる告示順の番号です。

 リスト番号 5 S30.4.1 岐阜県恵那郡三濃村大字浅谷及び野原が 愛知県東加茂郡旭村へ【残る横通は 岐阜県内明智町編入
 リスト番号 8 S33.4.1 京都府亀岡市西別院町牧及び寺田の大半が 大阪府豊能郡東能勢村へ【亀岡市は存続】
 リスト番号 9 S35.7.1 群馬県山田郡矢場川村の東部地域が 栃木県足利市へ【西部地域は 群馬県内太田市編入
 リスト番号11 S38.9.1 岡山県和気郡日生町大字福浦の大半が 兵庫県赤穂市へ【日生町は存続】
 リスト番号17 S43.4.1 栃木県安蘇郡田沼町入飛駒(いりひこま)地区が群馬県桐生市へ【田沼町は存続】

入飛駒について
ここは、大字飛駒の一部で「大字」単位には該当しない との判断から、変遷情報の境界変更収録対象に不採用なのかもしれません。
しかし、桐生市の変遷【注】 によると 面積は5.65km2もあり、事実 20万分1地勢図でも充分に県境変更を認識することができます[46981]
かつては老越路峠を越えて飛駒の本体と連絡するのに一日がかりだったと伝えられる 事実上の別集落で、小学校もありました。
なお、桐生川ダムの梅田湖ができて一部が水没しました(1983)。
事実上独立した集落であったことに配慮すれば、入飛駒地区の境界変更は、他の 10事例と同様に、変遷情報に記録してもよいのではないでしょうか。>88さん
【注】
この頁の表の部分は [75906] おがちゃん さん 報告による 桐生市|市域の変遷 と同じです。しかし、二分された状態の市域図が描かれているだけに、より分りやすいと思います。
収集基準[76001]の (5)からすると、採用は難しいのでしょうか?> オーナー グリグリさん
[79564] 2011年 10月 26日(水)18:21:58hmt さん
県境の変更 (5)廃置分合・境界変更に加えて 境界確定・境界画定・境界修正
「県境にわたる境界変更」については、既に 88さんにより、官報情報検索サービスを使った時系列順のリストが紹介され[79523]、これが 今回のシリーズ の発端になりました。
しかし、既に見てきたように、「境界変更」は県境変更手続の一部です。事例数としては多数あるが その大部分はマイナーな変更です。

村まるごと、又は一部を分村した村の大部分を隣接県に編入する「廃置分合」事例は、戦後に6件ありました[79559]

地方自治法下の廃置分合については、官報情報を利用した告示の確認により、市区町村変遷情報の裏付けが行なわれています[79228]。この作業は必要に応じて行われているものであり、変遷情報データが「官報掲載の廃置分合を漏れなく集めていること」を保証するものではないでしょう。

しかし、「県境にわたる廃置分合」の調査については、変遷情報の調査により、戦後の事例を ほぼ把握できるものと考えています。実は[79541]で記した調査により、戦前(該当なし)だけでなく戦後の結果も出ているのですが、[75937]のA1に記した8件がすべてでした。

特別法による県境変更[79537]は 収録対象となる戦後の事例なし。

その他に、境界未定であった地域につき行われる、境界確定や境界画定の制度があります。
また、実体との相違点が明らかになった地形図上の境界には、境界修正が行なわれます。
境界変更を含めた4種類の変化については [68691]参照。この内、境界変更と境界確定とは、総務省告示の対象になっています。

境界確定等の記された情報として、昭和63年以降の「面積調」が、国土地理院から公開されています。
県境にわたるものに限定すれば、数も限られていますから、これも広義の「県境変更」であると考え、収集する事例に含めておいた方が便利と思われます。

調べてみると、マイナーではあるが、県境マニアにとり興味深い事例がありました。

平成2年面積調 の57コマを見ると、埼玉県三郷市と東京都葛飾区との間に 64.99km2の境界未定地が発生したことがわかります。これは、現在に続いている水元公園の「小合溜」[79063]で、ウオッちず を見ると、確かに都県境線が途切れています。

面積調の摘要欄から、平成2年8月1日地形図「草加」に加えられた境界修正(6)の結果であることがわかります。
近年になってから小合溜の都県境に疑惑が生じ、両側の自治体の申請により地形図から都県境が消されたようです。
境界修正に至った事情の詳細は知りませんが、人跡稀な山岳地帯に限らず、このようにして「県境未定」の地域が発見されることもあるのだということを実感しました。

ついでに記すと、平成6年に同じようにして埼玉県戸田市と東京都北区・板橋区との間の 都県境未定が発生 58コマ(8) しましたが、こちらは短期間で 境界画定 55コマ(2) しました。浮間[79541]の隣接地ですが、戸田市が僅かに荒川南岸に突出しています。

最も最近の県境変更事例は、1年前の 2010年9月30日九州山地でした。熊本県球磨郡水上村と宮崎県東臼杵郡椎葉村との境界確定 3コマ(3)
落書き帳に予告記事[73875]がありました。県境未定だった場所は、国道388号 湯山峠の南側[66867] だそうですが、現在のウオッちずには既に県境が途切れなく描かれています。

この種の県境データ。少なくとも境界確定は総務省の告示がありますから、官報情報で昭和22年までの遡及調査可能なはずです。境界画定や境界修正は、地形図を所管する国土地理院から発表され、これも官報情報の対象になっていると思われますが、未確認です。
[79661] 2011年 11月 23日(水)12:46:06hmt さん
県境の変更 (6)埼玉県としては 80年ぶりの出来事
2010年3月1日に 埼玉県の面積 が 0.83km2広くなり、人口も 137人増えました。
埼玉県全体に対する比率で言えば 面積で 5000分の1、人口では5万の1という僅かな変化なのですが、「集落単位での埼玉県編入」という点では、実に 80年ぶりの出来事でした。

勿体ぶった表現で書き出しましたが、利根川の対岸・群馬県との間で行なわれた 前小屋県境手直し が、渡良瀬川の対岸・茨城県との間で行なわれた 伊賀袋県境手直し から数えて 80年ぶりだったということです。

この2つの事例は、変遷情報の主体になっている市町村の廃置分合に該当しない「境界変更」であるために、ある意味では市町村よりも上位の区分である【注】都道府県に関係する「県境変更」であるにもかかわらず、最近まで変遷情報の記録対象になっていませんでした。
【注】
「上位の区分」という言葉は、現行法では存在しないはずの自治体間の上下関係を思わせるので、「基礎的自治体」の対語である「包括的自治体」と言った方が適切かもしれません。

そこで、[76950][79438]で変遷情報への記載を提言したところ、 [78859][79522]とで編集対象と認められました。
もっとも[79660]によると、88さんとしてはこの編集方針を見直し、「近世村単位」のみに戻す考えもあるようです。
80年を隔てて実現した上記2件の「県域変更情報」が、このまま「都道府県市区町村変遷情報」の対象として生き残れるかどうかについて、楽観は許されない状況です。

埼玉県の県域の変遷については、2004年以降いくつかの記事 を書いています。

千葉県との境界が 明治8年に庄内古川から江戸川に移り、翌明治9年(1876)には熊谷県のうち武蔵国の領域(旧入間県)を編入し、“ほぼ” 現在の形 になりました。
しかし、その後で 東京府に隣接する 大泉(1891)、保谷(1907)、浮間(1926)が 埼玉県域を離れ、戦後も 舟渡(1950)、元狭山村(1958)と東京都域への編入が続き、長期的な県域面積は減少傾向と思われます。

ここで過去記事の誤記に気がついたのでお詫びしておきます。
舟渡の過去記事を検索したら、5件中4件まで「船渡」と誤記していました
大船渡に引きずられた?

埼玉県の面積に戻ります。
長期統計(統計局)の都道府県別面積 は 1920~2000年に限られており、この間の埼玉県に大幅な変化はありませんが、伊賀袋編入や元狭山村転出による増減を見ることができます。
理解できないのが 昭和25年の面積で、この年だけ5km2以上増加し、5年後にはまた戻っています。
変遷情報 で前後の年の動きを見ても、県の面積に影響しそうなものが見当たらないのですが、何でしょうか?

戦後は舟渡や元狭山村の後、1961年に行なわれた 北足立郡大和町(現・和光市)と東京都練馬区との間の境界変更 を最後として県域に変化のない状態が続いていました。最後の事例は、告示中に「河川敷地」という文字が見えることから、都県境の白子川[65713]直流化改修に伴う手直しと思われます。

さて、前小屋の事例に関連して、「境界変更」という手続で行なわれた戦後の県境変更リストが、88さんから提示され、それを「きっかけ」として、今回の県境変更シリーズが始まりました 関係記事

この記事集の3番目[79523]に列挙された 40件の境界変更リスト。
埼玉県については、No.1と No.4が舟渡で、No.10(白子川)から 49年ぶりの事例が No.39(前小屋)ということです。

前小屋の事例[79438]は、約 140人の人口移動を伴った境界変更ということでも、最近の境界変更の中では特筆に値すると言えるでしょう。半世紀前のことながら 埼玉県としては直前の事例であった 白子川のケース(境界変更リスト[79523]の No.10)は、人口移動なしの無人地帯でした。
近年では 2004年町田-古渕間の境川での境界変更事例(リスト No.35)で 13世帯31人が移動したのが顕著な例だったようです(毎日2010/3/2)。

もちろん変遷情報の収録対象になっている大字単位の境界変更の場合には かなりの人口移動を伴います。
しかし、境界変更リスト番号が示すように、いずれも昭和中期の事例になります。 No.5 岐阜県三濃村→愛知県旭村、No.8 京都府亀岡市西別院町→大阪府能勢村、 No.9 群馬県矢場川村→栃木県足利市、No.11 岡山県日生町大字福浦→赤穂市。
変遷情報に収録してもらえない No.17 栃木県田沼町入飛駒→群馬県桐生市も、これらに次ぐ規模と思われますが、人口移動数は不明。

参考までに、21世紀になってからの県境変更で 最大の人口移動を伴った事例は、2000人規模の人口を持つ長野県木曽郡山口村の 岐阜県中津川市 への編入と思われます。
これは廃置分合ですから、40件のリストには含まれていません。
[79662] 2011年 11月 23日(水)13:05:34hmt さん
県境の変更 (7)河川改修と県境変更
[79661]に引き続き、前小屋の事例から出発し、県境変更の原因となる河川改修について記します。

落書き帳を遡ると、利根川右岸(埼玉県側)にありながら群馬県太田市であった南前小屋地区の住民が、2006年に深谷市へ編入求め両市議会に請願を提出した記事があります。[52705] KMKZ さん
一見すると、前小屋地区における県境変更手続の歴史は、2006年からの4年弱のように思われます。

しかし、境界変更の原因になった河川改修は、明治43年の大水害を契機として内務省により立案実行された 大正から昭和初期にかけての利根川第三期改修工事(1918~1929)です。
つまり利根川の流路が変更されて、左岸(群馬県)にあった土地が右岸になってしまってからでも 80年以上であり、この間には水面下を含めて多くの県境変更運動が行なわれたもの推察されます。
原因になった大水害から数えれば、境界変更リスト[79523] No.39の境界変更は、実に 100年越しの問題解決だったのでした。

付言すると、昨年オフ会への参加途中の Hiro_as_Filler さんが、“看板に誘われ深谷市前小屋にふらりと入りこむ ”[76893]際に渡った 小山川が利根川の旧河道で、38世帯 137人が住む前小屋の集落は 小山川と利根川との間の導流堤上に並んでいます。写真の(4)

[79523]で示された境界変更リストから、河川に関連しそうな箇所を拾ってみました。
利根川では印旛沼付近の No.6と 佐原付近の No.20。
リストには挙げられていませんが、その間にある 滑川駅対岸と 神崎の市街地上手(昭和40年12月13日自治省告示第167号)も 「県の境界にわたる境界変更」に該当すると思われます。
常陸利根川では No.19。上流部では No.39の前小屋。
利根川水系では、No.23が鬼怒川付近ですが、河川改修との関係は不明。矢場川付近(No16、22)も不明。

荒川は No.1、4(舟渡)とNo.10(白子川)で、いずれも既報。
東京・神奈川の都県境を流れる境川直流化がもたらした県境との食い違いとその是正(領地交換)については、過去記事 で度々話題になりました。境界変更リストでは、No. 28、32、35、38。

このように境界変更リストから拾い上げてみると、関東地方に集中しています。
明治時代の特別法による県境変更[47106][79538]も、江戸川(明治28年3月30日法律第24号)、利根川(明治32年2月8日法律第4号)、多摩川(明治45年3月28日法律第5号)と関東地方に集中。

もっと前になると、木曽川沿いの 松山中島村が1887年に愛知県から岐阜県に移された事例[79347]もあるし、江戸時代の初めには 木曽川の新流路が濃尾国境になったことにより 羽栗/葉栗・中島・海西3郡が 美濃と尾張に分割されたという歴史[39454] もあるのですが、現代の河川改修による県境変更が 概ね関東だけに見られる現象は何故なのでしょうか。

[4248] でるでる さん
【北川辺町や藤岡町】の他にも流路変更によって、現在の行政区域とが一致しないところは多いですよね。
利根川を挟んだ茨城県と千葉県(佐原市周辺)、同じく利根川を挟んだ群馬県と埼玉県、筑後川を挟んだ福岡県と佐賀県が特に目立つかなという印象があります。

筑後川の場合、江戸時代に行なわれた河川改修の後も、筑後国(柳川藩)と肥前国(佐賀藩)との国境は変更されず、これが現在の県境と流路との不整合に持ち越されているようです。mapion
佐賀県道・福岡県道19号諸富西島線が、「県境跨ぎ」の道路になっています。

これで何百年もやってきたのだから、今更県境を流路に合わせる必要はないのではないか。
そう言われると、それも御尤もな意見と思われてきます。

筑後川の地図を出したついでに、県境変更とは無関係の余談を。
河口部にある大野島(福岡県)/大詫間(佐賀県)は、元々別々の中洲であったものが、砂の堆積により陸続きになったもののようです。「2県にまたがる島」コレクション[41368]
[79666] 2011年 11月 24日(木)21:10:1088 さん
【追加】市区町村変遷情報 県の境界にわたる境界変更の事例について(S22.5.3以降告示)
[79523]で、県の境界にわたる境界変更を、官報情報検索サービスで抽出した結果を一覧で示しました。
このときは、検索文字列を「の境界にわたる」「境界変更」などとしたものでした。これは、通常の境界変更は、総務省等の告示の表題が「市町の境界変更」などとなるのに対し、県境の移動を伴うものは「県の境界にわたる町村の境界変更」などとなることによるものです。
単に「境界変更」では膨大な数となることが理由です。

[79662] hmt さん
リストには挙げられていませんが、その間にある 滑川駅対岸と 神崎の市街地上手(昭和40年12月13日自治省告示第167号)も 「県の境界にわたる境界変更」に該当すると思われます。
個別に示していただいたので、同告示を確認しました。
すると、この告示だけは表題が「県の境界にわたる町村の境界変更」となるべきところ、単に「町村の境界変更」となっており、[79523]では遺漏しました。
改めて、今度は、検索文字列を根拠法令である「地方自治法」「第七条第三項」で検索しました。なお、「条」は「條」の場合も確認し、また、S27.8.15法律第306号地方自治法の一部を改正する法律までは、根拠法令は第七条第二項であったことも反映しました。
その結果、ご指摘のS40.12.13自治法告示第167号とあわせてもう1件の遺漏を発見しましたので、[79523]のリストに追加する形で以下に記します。(通し番号は従前のものを生かすため枝番としました。法令の条の追加と同手法です。)

番号告示年月日告示番号施行年月日編入側編入される側
9-2S35.11.1自治省告示第150号S35.11.1栃木県下都賀郡野木村茨城県古河市
茨城県古河市栃木県下都賀郡野木村
13-2S40.12.13自治省告示第167号S41.1.1茨城県稲敷郡河内村千葉県香取郡下総町
千葉県香取郡神崎町茨城県稲敷郡河内村
千葉県香取郡神崎町茨城県稲敷郡東村

――――――――――
仮に、境界変更を「県の境界にわたる」という観点で頭出しするとすれば、都道府県市区町村においては、市区町村変遷情報ではなく、例えば市区町村雑学あたりが適切ではないかと考えます。この場合、面積の多寡に拘ららずに対応でき、また、岐阜県中津川市へ長野県木曽郡山口村を編入する例なども、容易に併記できます。
市区町村変遷情報で取扱うには、他の数多くの境界変更事例(大多数は面積が微小のため対象外としている)との棲み分けが困難であろうと考えます。
[79668] 2011年 11月 25日(金)15:29:50hmt さん
河川改修による県境・国境の変更事例、木曽川 そして 大和川
[79665] むっくん さん
明治期の木曽川周辺での郡・県変更の事例は松山中島村だけではありませんので、補足します。

明治13年(三重県 15村が愛知県へ)、明治16年(三重県 3村が岐阜県へ)、明治20年(岐阜県4村が愛知県へ、愛知県松山中島村が岐阜県へ)という流域3県(伊勢・尾張・美濃3国)間の変更事例をご紹介いただき有難うございます。
明治政府が治水事業に力を注いだ木曽川水系では、関東の利根川水系河川改修等に先立ち、かなりの規模の県境変更があったのですね。

明治の初めの段階では堺の町の真ん中を摂津・和泉の国境が通っていました。

リンクされた天保国絵図・摂津国の下端(南端)を見ると、太い赤線で描かれた紀州街道は、住吉大社の南の安立町で大和川を越え、七道村から堺の市街に入ります。赤線が切れた所に「摂泉国境大小路」と記され、摂津国が 堺市街地の北半分に及んでいたことが確認できます。

大小路から南は、国絵図の和泉国北端を右回転。記されているのは町名ではなくて南宗寺など社寺の名のようです。
東側に3つ見える山の中央が大仙陵、つまり仁徳天皇陵です。
三県境ならぬ「摂河泉三国の境界点」は、北側の反正天皇陵の近くになっています。

2005年12月には、摂河泉三国の「堺」と大和川との関係を話題にしました。記事集

しかしながらM4.9.30付けの堺県無号達で摂泉国境は大和川中央と定まり、摂津国住吉郡でも大和川以南の村々は、和泉国大鳥郡に国替えとなり、堺の町もすべて和泉国大鳥郡所属となりました。

明治4年(1871)11月の府県再編成の2ヶ月前に、大阪府と堺県との境界が変更されていた ということでしょうか。
府県境変更は、元禄17年(1704)の 大和川付替工事完成(新川切り通し)から 167年後のことでした。

現代の摂河泉三国の境界点 は、「三国丘」の石碑 から、4km足らず北東に移動しています。
この地点の上流側には、大阪市・松原市の境界(大阪・堺の旧府県境)と流路との不一致が残っています。
その中でも特に眼を引くのが、「注射針」のように南に突出している 矢田の阿麻美許曽神社参道 です。
[79754] 2011年 12月 21日(水)16:13:35hmt さん
県境の変更 (8)実現しなかった県境変更 熱海市泉地区
88さん[79523][79666]による「県の境界にわたる境界変更告示リスト」(合計42件)と、下関市の 参考資料 に記された「越境合併一覧」(11件)とを主な材料にして、戦前の事例などにも言及しながら 「県境変更」 について記してきました。

今回は少し材料を変えて、昭和大合併の 1955年に行なわれた越県合併騒動について記しておきます。
その舞台は熱海市泉地区で、名前の示すように温泉地ですが、「熱海温泉」ではなく「湯河原温泉」なのです。

[38323] 白桃 さん
今、湯河原から帰って来ました。で、私も昨晩泊った旅館は、てっきり神奈川県足柄下郡湯河原町なんだと思ってたのですが、なんと、静岡県熱海市だったのです。

千歳川の谷沿いに続く温泉街。実態としては両岸が一体になった湯河原温泉ですが、行政的には県境の千歳川右岸(南西側)は静岡県であり、「伊豆湯河原温泉」という名もあるようです。

この県境ができたのは、直接には足柄県[24127]が解体されて、相模国が神奈川県・伊豆国が静岡県へと分れた明治9年(1876)のことです。
しかし、そのまた原因を探れば、次の疑問になります。

相模国と伊豆国の国境は、何故熱海との間にある岩戸山【注】でなく、山麓の集落の間を流れる さほど大きくもない千歳川なのか?
【注】
湯河原と熱海の間にある岩戸山は、箱根外輪山の一つです。熱海さんぽの峠 に、山頂から「泉越」(放電峠)などの峠に通じる尾根を示した図があります。この尾根の下を貫く「泉越トンネル」2457mは、丹那トンネルに次ぐ東海道本線第2位の長さの山岳トンネルです。熱海側山麓には伊豆山神社があります。

伊豆と相模の国境を決めたのは、結局のところ伊豆山権現の勢力だったと思われます。秀吉の小田原攻めに敗れたため、泉地区が一時的に相模国になったこともあるようですが(保善院朱印状)、結局は元禄の境界争いで千歳川以南(泉地区)を確保。

天保国絵図 伊豆国を見ても、千歳川に「此川中央国境」と記されています。そして、伊豆国内に「和泉」など4集落が描かれていますが、何故か「相模国宮上村之内」という文字を冠しています。地理上は千歳川を境界とする伊豆国の側にあるが、村の実体は相模国宮上村の一部として機能していたという両属的な性格だったのでしょうか。

明治になって足柄県が分割された時は、この千歳川に存在した国境が、新しい県境位置になった筈です。

熱海市泉地区の県境騒動 の記載は次のようです。
泉は、明治11年に制定された「郡区町村編制法」に基づき、神奈川県足柄下郡宮上村飛地字泉を静岡県賀茂郡泉村とし、明治22年に熱海、伊豆山などと合併し、熱海村となっている。
しかし、明治13年の『郡区町村一覧』 を見ても、静岡県伊豆国賀茂郡には「泉村」の記載がありません。
もちろん28コマ(神奈川県足柄下郡)にも記載なし。
尾根の北側の神社領「泉」は、おそらく尾根南側を占める「伊豆山村」の一部になったと推察します。

昔の話が長くなりましたが、静岡県熱海市の泉は、神奈川県の湯河原と県境で分れたまま戦後を迎えます。

昭和28年(1953)に 町村合併促進法 が公布・施行。同年末翌年末 の改正で、「都道府県の境界にわたる市町村の境界変更」に関する規定が設けられました。

実質的に「お上主導」の特別法や 河川改修に伴う県境手直しに限られていた県境変更。
ところが、今度の法律は 時限立法とは言え「住民主導」の「越県合併」に道を開いたものではないか。
熱海市の本体と「山」で隔てられた泉地区では、この機会に分離し、実質的に同じ町である湯河原町との合併を推進したいという動きが出ました。

前記 「熱海市泉地区の県境騒動」 によると、推進派は 住民の8割の署名を集めたそうです。
反対派は これに驚いて、熱海市と静岡県とに働きかけ、強力な反対運動を展開。
両者の争いは調停に持ち込まれました。
その結果、調停案 が出され、1955年10月20日に 言わば 水入り とも言える形で小休止。
そして、6年後の最終的な内閣総理大臣裁定では、「現状どおり」。
結果的には、当初は劣勢だった反対派が挽回して、県境変更は実現せずに終りました。
[80458] 2012年 3月 29日(木)21:54:55hmt さん
国勢調査に記録された 市町村変遷情報 (2)変遷の規模を示す「人口の移動」
多くの方がご承知のことと思いますが、国勢調査の人口表では、前回調査との対比がなされています。
そして、前回調査との間に行なわれた廃置分合等による市町村区域の変更を考慮して、前回の数値には「組替」【注】がなされます。
【注】人口欄の「平成17年(組替)」は,平成22年10月1日現在の市区町村の境域に基づいて組み替えた平成17年の人口を示す。(下記の表の注を引用)

今回国勢調査による人口等基本集計の都道府県結果の表を見ると、境域年次2010と2000とが示されており、廃置分合の対象となった旧市町村については 今回と前回の人口が示され、その値により この10年間、つまりほぼ「平成大合併」と重なる期間に、所属が動いた地域の規模がよくわかります。

例えば2006年に深谷市と合併した3町の規模が これによってわかるのですが、残念ながら 2010年に群馬県太田市からの「境界変更」により埼玉県になった前小屋地区[79661] の人口までは 表示されていませんでした。
# 「廃置分合」によって中津川市に編入された 20431長野県山口村地域の人口については、岐阜県内から編入の6町村と並び 示されていました。

それはさておき、[80441]で記した国勢調査に記録された「市町村の廃置分合,境界変更及び名称変更」の情報。
昭和30年国勢調査を調べると、注釈 + 全国3地域で 合計4ファイル(55ah02a~55ah02d.pdf)もありました。

その内容を見ると、年月日 異動地域に加えて「昭和25年人口」という欄があります。
つまり、「組替」前の自治体の前回調査人口が、この文書に既に示されていたわけです。
例えば川口市を見ると、昭和25年鳩ヶ谷町分立による人口減少が記録されています。
昭和30年といえば、昭和大合併の最中ですから その関係が多数あり、全国で3ファイルにもなったのでした。

これを見て気がついたのが、栃木県から群馬県に越境した入飛駒[79559]の規模を示す人口が得られる可能性です。
早速、昭和45年国勢調査から「70ah03.pdf」というファイルを探し出し、9/26コマ(桐生市)を見ると、1968.4.1に旧栃木県安蘇郡田沼町の一部からの異動があり、昭和40年人口は 557人であったと記されています。

この「入飛駒」は、大字飛駒の一部であり、形式的には「大字単位の境界変更」に該当しません。
しかし、500人以上という人口は、前小屋の約 140人より多いのは勿論のこと、近世村と比較しても全国的に遜色のない規模であると思われます。

参考までに、[79523]で列挙された境界変更に係る地域の人口は次の通りでした。
No.5  S30.4.1岐阜県三濃村→愛知県旭村 1805人【55ah02c.pdfの23/35】
No.8 S33.4.1 京都府亀岡市西別院町→大阪府能勢村 386人【60ah02b.pdf の26/41】
No.9 S35.7.1 群馬県矢場川村→栃木県足利市 3131人、群馬県大田市へ 1404人【60ah02b.pdf の9/41】
No.11 S38.9.1 岡山県日生町大字福浦→赤穂市 1640人【65ah03c.pdf の13/26】

[79523]境界変更リストの No.1は人口変化の記録なし。No.2~No.11の人口変化を調べたところ、100人以上の上記4件と違い、100人以下の 6事例は、「変遷情報」も収録されていませんでした。
No.2 S28.12.1広島県比婆郡八鉾村→島根県仁多郡八川村 57人【55ah02d.pdfの3/34】
No.6 S31.1.1茨城県稲敷郡河内村→千葉県印旛郡栄町 93人【60ah02b.pdf の12/41】
No.3, 4, 7, 10の各ケースは無人でした
[90145] 2016年 3月 30日(水)19:17:43【2】hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (3)県境の事例
人数では[90105]の5000人以上に及ばないものが大部分ですが、hmtが ずっと注目して 落書き帳に書き続けてきた 県境変更の事例中には、かなりの人口異動を伴うものもあります。

大正9年以来の「都道府県間の境界変更」は、[90107]で紹介されているように 国勢調査の一覧表 参考6 に集められています。
今回は、その中から人口異動を伴うものを抽出し、面積異動や関係過去記事、変遷情報収録状況と共に示すことを試みました。

県境変更に伴う面積異動の値については、栃木県「入飛駒」のように過去記事[79559]に記した例もありますが、ほとんど未調査でした。栃木県菱村や京都府樫田村のように「村ごと」の場合は、変更前の1955年国勢調査に村の面積があるので容易に知ることができます。
2005年に県境変更した長野県山口村の場合は、国土地理院の2004年面積調の値が使えます。

では、分村のケースで面積を知るには? 
1958年に境界変更により分村し、翌日岐阜県白鳥町に編入した 福井県大野郡石徹白(いとしろ)村を例に 計算で求めてみます。

一部を福井県に残すために 前日実施した境界変更(分村)による面積異動を計算します。
1955年当時 (178.22+128.29=)306.51km2であった穴馬2村の面積が、1960年和泉村332.26km2となっていることから、福井県に残留した面積は 25.75 km2であったことが判ります。
越県合併の相手方・岐阜県郡上郡白鳥町の面積は、石徹白村併合により22.39から110.78へと88.39 km2増加しています。
合計114.14 km2は、1955年の石徹白村面積103.07km2と少し合いませんが、岐阜県に越県合併した面積が大部分であることは知れます。人口異動も1297人で、昭和30年国勢調査人口1402人の大部分です。

1955/4/1に岐阜県恵那郡三濃村から愛知県東加茂郡旭村に越境した事例の面積異動も、同様の計算で求められると思ったのですが、1950年国勢調査は人口だけであり、面積がなかったので1955年面積との比較ができません。
現在の地図で見ると豊田市浅谷町(あざかいちょう)を主とし、須渕町の部分もあるので、豊田市の町別面積人口表から両町の面積を加えて、越境合併した面積は 5.59km2と見積りました。

2010年 前小屋の県境手直しにおいては、面積調でも交換した面積異動の差0.83km2迄しかわからなかったのですが、変遷情報の詳細には深谷市への編入119.6haという値が記録されていました。

こんな具合に、いろいろなデータから面積異動の値を求めて作ったのが、下の表です。
面積異動の値が不明や、計算不一致で信頼できない結果となった地域も含まれています。ご容赦下さい。
境川を挟む領地の交換について:人口異動は国勢調査の実数(4件合計61人)が示されていますが、面積異動は「無人地帯と併せてほぼ0」の差額で発表されており、面積異動の実態は不詳です。

都道府県境に関係する人口異動を伴う市町村変遷情報(大正9年国勢調査以降)【注】

関係自治体(数字は県code)地域名*日付人口異動(人)面積異動km2記事変遷情報
08新郷村→11川辺村伊賀袋1930/7/1 144?[78789]境界変更
08河内村→12栄町利根川1956/1/1930.71[79523]の6番未収録
09田沼町→10桐生市入飛駒1968/4/15575.65[54264] [79523]の17番[81913]未収録
09菱村→10桐生市菱村1959/1/1572421.90[2878][14592]編入
09足利市←10矢場川村矢場川1960/7/131313.66[2878][14616] [79523]の9番境界変更
10太田市→11深谷市前小屋2010/3/11391.20[79438][79661] 境界変更
11元狭山村→13瑞穂町元狭山1958/10/1521303.53[4049] [54264] 編入
11戸田町→13板橋区舟渡1950/4/1289 [65713] 未収録
11横曽根村→13岩淵町岩淵1926/10/1412 [65713] 境界変更
13町田市→14相模原市境川1999/12/13[79523]の32番未収録
13町田市←14相模原市境川2004/12/142[79661] [79523]の35番未収録
13町田市←14相模原市境川2007/12/110[79523]の38番未収録
13町田市←14大和市境川1985/2/16[79523]の28番未収録
18石徹白村→21白鳥町石徹白1958/10/15129788.39[31291][54264]編入
20神坂村→21中津川市神坂村1958/10/15143236.53[25925][54264] 編入
20山口村→21中津川市山口村2005/2/13204024.67[46924][54264] 編入
21三濃村→23旭村浅谷*1955/4/118055.59[46981][54264] [79523]の5番境界変更
26亀岡市→27東能勢村牧・寺田*1958/4/13868.08[79559] [79523]の8番境界変更
26樫田村→27高槻市樫田村1958/4/188918.00[31152][54264] 編入
33日生町→28赤穂市福浦1963/9/116407.50[41400][46914] [79523]の11番境界変更
34八鉾村→32八川村三井野原*1953/12/1571.01[90148][79523]の2番未収録

* 地域名のうち、従来使っていた三濃村などの旧町村名は 現在ではあまり使われなくなっていました。
これを今回改め、現在の地図でも見ることのできる 浅谷(あざかい)、牧・寺田、三井野原にしました。

【注】
1 この表よりも前の明治時代には、特別法による県境変更が行なわれました。[85062]の前半は特別法による事例です。後半は県境にある自治体の境界変更による事例で、この記事の表の旧版と言えるでしょう。
2 この表の21件のうち、人口異動最大の菱村を始めとする6件が「編入」として変遷情報に収録されていました。いずれも元の自治体の消滅を伴うもの、すなわち廃置分合の1種としての編入です。
変遷情報に「境界変更」として収録された7件の大部分は自治体の領域が変るだけで消滅しないものですが、矢場川村と三濃村のケースは分村によって消滅しました(廃置分合)。
変遷情報未収録の8件は主として比較的小規模の境界変更ですが、入飛駒だけは未収録で残されていることを不自然と感じさせるほどの規模です。
[90148] 2016年 3月 31日(木)13:02:43hmt さん
中国山地の奥で 小さな県境変更があった 三井野原
大きな人口移動を伴う境界変更と題したシリーズの中に、ちょこっと忍ばせた 小さな県境変更 のお話です。
近畿以東が大部分を占める[90145] の一覧表。その末尾に広島県八鉾村から島根県八川村への境界変更が記されています。中国山地の山奥で、面積異動も人口異動もミニサイズ。

2011年 [79523]の表では 40件中の2番に記されていたのですが、村名を聞いて実感の浮かぶ地名ではなく、放置していました。今回のシリーズで国勢調査「参考6」を見た機会に 調べる気になりました。

変遷情報で追いかけると、島根県仁多郡八川村→1957斐上町→1958横田町→2005奥出雲町。
松江オフ会2013の後で訪れた地[84520]に近いことを知りました。県境ということなので 地図で木次線沿いを南下すると、島根県最後の駅が三井野原。この名ならばスキー場として知られています。
落書き帳では 付近の奥出雲おろちループや 出雲坂根スイッチバックも話題になっていました。

三井野原スキー場の沿革を調べたら、香川県からの入植者2代目という人の昔話がありました。
この時の住所は広島県、行政サービスは島根県から、という矛盾があり、昭和32年に三井野原も島根県になったんですよ。
昭和24年にスキー場は開設されました。スキー場を作ったのは、三井野原に駅がほしかったから。そして、冬季期間の収入を確保したかったからです。昭和26年に、高松宮殿下が来られた事により、三井野原は一躍有名となりました。

県境変更の年は昭和28年の記憶違いでしょう。三井野原駅の正式開業は記念写真にあるように昭和33年ですが、仮乗降場開設はスキー場と同じ昭和24年ですから、この点はOKです。
国勢調査では1955年の八川村面積61.14km2が記録されていますが、1950年がありません。
変更前は昭和10年面積調を用いると60.13km2。県境変更による面積差は1.01km2とごく僅かです。
県が変ったのは 開拓地やスキー場のあった 字「三井野」の一部だけ に限られていたと思われます。

参考までに、広島県側の比婆郡八鉾村(大部分)はS29/3/31の合併で西城町の一部になり、平成合併の結果、庄原市の一部になっています。
余談ですが、「比婆」という地名から連想するのは、イザナミノミコトが葬られたという比婆山。
そして、広島県に住んでいた1970年頃に話題になった未確認動物「ヒバゴン」です。

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