【おことわり】
内容は、
[43643]「剱岳の高さが決まるまでの36年」に、明治以来の経過を追補し、表現を全面的に改めた改訂版です。
「山の高さを知りたい。どっちが高いのか比べてみたい」というのは、昔から人々の思いでした。
しかし、測量技術が発達していなかった頃は、柳田国男「日本の伝説」に紹介されている加賀の白山が富士山と背比べをした話(
[34785] EMM さん
白山のわらじ)のように、正確な比較は不可能でした。
明治になって、三角点網が全国に張り巡らされ、水準測量とあいまって山の高さの正確な値がわかってきました。この過程で、日本の山のほとんどが、陸地測量隊によって登頂されましたが、最後に残された山が 「剱岳」でした。弘法大師が 3000足の草鞋を使っても登れなかったという山です。
民間の初登頂計画に先んじて旗を立てなければ測量隊の恥、というわけで登頂に挑戦した陸地測量手・柴崎芳太郎の苦闘は、新田次郎の「剱岳・点の記」に記されています。明治40年(1907)やっと山頂にたどりついた彼が目にしたものは、古代の修験者が残したと思われる錆付いた鉄剣と銅製の錫杖の頭でした。
結局、この時には、あまりにも険しい場所での大掛かりな作業は困難ということで、四等三角点(地籍測量を目的とする現在のそれとは性格が異なり、三等三角網の一時的な補完点)を設置することはできず、剱岳の標高は、周辺の山からの観測による、三角点よりも精度の低い標高点として 2998mが求められ、5万分の1地形図に記載されました。
剱岳の標高点値 2998mは、昭和5年(1930)に3003mに改定されました。♪アルプス一万尺…には少し足りなかったにしても、一時は「3000m」の大台を確保した剱岳でした。
ところが…
1968年、国土地理院で北アルプスの空中写真(
このへんでしょうか?)を図化機を通して覗き込んで仕事をしている若い技師がいました。
この地方に新たに作成する2万5000分の1地形図の原図作成作業です。2枚の写真の立体視(原理的には
[43502]たもっちさん と同じ)によって剱岳の山頂の標高を測定した結果は、2997m。
前記のように、当時の5万分の1地形図では3003m。
剱岳が3000m級の山から転落ということになると、世間を騒がすニュースになる。というわけで、慎重に測り直したがやはり2997m。
ところが、新しい2万5000分の1地形図には、2998mと記されて発行されたそうです。上司曰く、標高点の数値に数mの誤差があるのは当然だ。写真法の測定結果からみれば3003mより、昭和5年以前の2998mのほうが正しいようだから戻した。
上記のいきさつは、野々村邦夫さんの
「剱岳は何メートルになるのかな?」(2004年)に紹介されています。
この野々村さんこそ、36年前に2997mという、地図上では幻の数字となった測定値を得た技師本人で、長く勤めた国土地理院を院長で退官、現在は日本地図センター理事長です。
上記のコラムは、
[43552]でeiji_t さんが紹介してくれたコラム「地図一途」の前身「駅弁地理学」の一つなのですが、
04.11.04からのバックナンバーも読めます。
と紹介されているように、昨年10月以前のバックナンバーが、ネットでは殆んど読めなくなっている(単行本になっている由
[43678])中で、奇跡的にキャッシュとして生き残っている頁です。
そのタイトル「剱岳は何メートルになるのかな?」は、国土地理院が、剱岳に三角点を設置してGPSによって標高を測量するという予定をふまえたものです。
そうです、剱岳の三角点設置とGPS測量(「剱岳測量100周年記念事業」らしい)は、3000mの大台を達成するかどうかで、昨年の秋にこの
落書き帳の話題にもなったテーマです。
その中で、
[34307]みやこさんが
剱岳は,たしか一番最初は2998mだったと思います(かすかな記憶・・・)。それがいつ頃か3003mとなって,さらに戦後,いつの頃だったか,またどういう理由でか,2998mに舞い戻ったのです。
という疑問を呈しておられますが、それに対する当事者の立場からの回答は、野々村さんのコラム明らかになりましたね。
前記の「駅弁地理学」2004/5/20は、剱岳の山頂に三角点が新設される前でした。
GPS測量によって三角点の標高が2997.1m、最高地点はそれよりも1.5m高く、地形図には2999mと記されることになった後日談については、新しいコラム「地図一途」の最新号(July 21, 2005)に「3000mに届かなかった剱岳」と題して掲載されています。
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[43552]参照。