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[67407] 2008年 11月 26日(水)13:24:59【1】hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (1) 火山活動がもたらした鉱物資源
[67381] オーナー グリグリさん
小坂鉱山事務所は私には康楽館以上にもっと素晴らしかったです。
明治にこのような素晴らしい建物が小坂の地にあったんですね。鉱山町の繁栄ぶりが伺えます。

みちのくの山の中に鉱山町の繁栄をもたらしたものは、自然の恵みである鉱物資源と、それを利用可能にした人の力でした。
悠久の大地がもたらしたこの地方の金属鉱床の由来から始めて、「小坂」をルーツとして日本の産業を切り開いてきた人々の足跡を辿ってみようと思います。
例によりワイドビューなので、時には「小坂」から逸脱します。この点はご容赦を。

最初に、小坂のある秋田県北東部の鉱物資源のこと。
秋田県北東部は、元々は羽後国北秋田郡(明治11年以前は秋田郡)と陸中国鹿角郡(明治元年12月以前は陸奥国)で、「北鹿(ほくろく)地域」と呼ばれているようです。
小坂(小坂町)の他にも、尾去沢(鹿角市)、花岡(大館市)、阿仁(北秋田市)などに著名な非鉄金属鉱山がありました。もっとも 花輪鉱山 の場合、秋田県側の地名を名乗っていましたが主鉱は岩手県側でした。

秋田大学には、昔から全国でも珍しい「鉱山学部」(1998年から工学資源学部)がありました。そこの先生による 秋田から地球を観察する 黒鉱が語るものpdf 3/5頁の秋田県内の金属鉱山分布図を見ると、尾去沢鉱山・阿仁鉱山など鉱脈型銅鉱床が 65、小坂鉱山・花岡鉱山など黒鉱鉱床が 35 も記されています。

日本が大陸から分離した新第三紀の中新世(約2300~500万年前)。日本海の拡大に伴なって大量の火山岩が噴出しました。緑色凝灰岩(グリーンタフ)地域の火山活動と呼ばれていますが、上記の鉱床は、この火山活動に関連してできたと考えられています。なお日本海側では、石油や天然ガスの鉱床もできています。

鉱脈型鉱床は、鉱物が溶け込んだ熱水が岩盤の割れ目にしみ込み、地表近くで固化したもので、その代表は尾去沢鉱山です。東大寺の大仏や中尊寺の金色堂に使用されたという古い歴史を伝える尾去沢の 金 は涸渇しましたが、元禄時代になると 金鉱に代って銅鉱が発見されました。
北鹿地域の尾去沢銅山(盛岡藩→三菱)と阿仁銅山(久保田藩→古河)とは、伊予の別子銅山(住友家)と共に江戸時代以来の日本の主力銅山でした。

もう一つのタイプの鉱床、小坂鉱山を代表例とする黒鉱鉱床は、海底火山活動に伴う噴気堆積鉱床です。これは 亜鉛・鉛・銅などの硫化物を主とした複雑な岩であり、その他多数の成分も含んでいます。
黒鉱を生成したような噴気は、現在の深海底においても観測され、ブラックスモーカーとかチムニーと呼ばれており、その付近で発見される嫌気性の生命体も注目されています。

黒鉱と同じようなタイプの鉱床は 世界各地に存在し、世界にさきがけてその利用技術が実用化された小坂のある北鹿地域における呼び名から 「KUROKO」が専門分野で通用しています。

名前だけではありません。北鹿地域の黒鉱鉱山は 1994年までに相次いで閉山しましたが、小坂などで長年培われた黒鉱(塊状硫化鉱床)の知識と産業技術(探査・採鉱・精錬など)は、1991年に小坂町に設立された 「金属鉱業研修技術センター」 に引き継がれています。ここでは、多くの留学生を通じて、世界中の発展途上国に鉱業技術を伝えています。
[67425] 2008年 11月 27日(木)16:16:27【1】hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (2) 冶金技術者・大島高任とクルト・ネットー
伝説では和銅(文献では慶長)に遡る尾去沢に比べると、小坂鉱山の歴史は新しいものです。
1829年の 杉原鉛山(誤認) はさておき、幕末(1861年頃)に銀山として発見され、地元民が院内銀山の灰吹き法技術を導入して精錬事業を開始したものの、盛岡藩に召し上げられてしまいました。

小坂で最初に利用された鉱石は、最初に紹介した「黒鉱」[67407]ではなく、それよりも浅い所から採掘される「土鉱」と呼ばれる銀鉱石でした。
慶応2年(1866)盛岡藩勘定奉行加役の大島高任は小阪の鉱床を調査して“希有の良山”と評価し、藩営事業計画を立てたものの、戊辰戦争の混乱で中絶しました。

大島高任 は、これより前の1855年に水戸の烈公(徳川斉昭)に招かれて大砲鋳造用の反射炉を築造しています。ここで鉄鉱石による銑鉄の必要性を知り、鉄鉱石を求めて盛岡藩に戻り、釜石近くの陸中国閉伊郡大橋鉄山に西洋式の高炉を建設しました。安政4年12月1日(1858年1月15日)にわが国最初の出銑に成功しています。
12月1日は「鉄の記念日」になっており、「近代製鉄発祥150周年記念」切手 が、近々発行されます。

それはさておき
明治維新の結果、小坂鉱山は盛岡藩の手から新政府の工部省による官営に移りました(明治3年)。大島高任は、今度は鉱山正権として熔鉱炉や英国式分銀炉を設けて洋式製錬を導入し、翌年岩倉使節団の随員としてドイツの鉱山を視察。大島帰国後の明治6年に、小坂では、ドイツ人技師 クルト・アドルフ・ネットー によりわが国最初の湿式精錬が実現。
クルト・ネットー関係の資料は、小坂鉱山事務所[67381]に展示されていました。

「お雇い外国人教師」のネットーが明治10年に東京大学に転じた後、元藩主の南部氏が小坂の設備を政府から借り受けましたが、その経営を巡って長州系政商の「鉱業会社」と盛岡藩出身の大島高任とが対立。
大島が去ると南部氏の経営は悪化し、明治13年に小坂鉱山を返上。
第2次官営になると大島も戻り、ドイツで習得した溶鉱炉を使わないオーガスチン収銀法を実施しました。
このように、小坂では土鉱からの銀を主とする時代から、当時最新鋭の冶金技術が実施されてきました。
小坂町郷土館[67381] で開催中の特別展では、大島高任関係史料の展示もありました。

当初官営事業による近代化を推進した明治政府は、この頃になると官業の民間払い下げに方針を転換。55万円もの資金を投じた小坂鉱山も払い下げられることになりました。
幕末に小坂銀山の開発を最初に手がけたものの、盛岡藩主に取り上げられ、そのまま明治政府に移されていた地元の小坂村では、この機会に銀山を取り戻そうと払い下げを陳情したが、却下されてしまいました。資金力に劣るのもさることながら、何よりも政府高官への有力なコネがある競願者には太刀打ちできなかったのでした。

その競願者こそ誰あろう、大阪の御用商人・藤田組でした。
藤田組の中心人物は、長州・萩出身の藤田伝三郎です。
この男、高杉晋作の奇兵隊員だった経歴から、井上馨などの政府高官とのコネができ、大阪で陸軍に革靴を納めるなど、政商として活動していました。当時偏見のあった皮革を扱う仕事という着眼点もユニークでした。
明治12年に起きた贋札事件も冤罪となり釈放された後ですが、小坂鉱山払下申請人は共同経営者で実兄の久原庄三郎名義になっています。
藤田組は、首尾よく 20万円・25ヶ年賦という極めて有利な条件で小坂鉱山を手に入れました。明治17年9月18日のことで、藤田組から同和鉱業、DOWAホールディングスと改名した会社は、この日を創立記念日としています。
[67436] 2008年 11月 28日(金)19:08:29【1】hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (3) 藤田伝三郎
小坂鉱山を経営することになった元奇兵隊員・藤田伝三郎[67425]のことを続けます。
政府高官とのコネを利用して金儲けをし、ねたみを買った御用商人の藤田は、長州閥追い落としの標的にされ、贋札使いの疑いで逮捕されるピンチを招きました。
しかし、彼は明治17年頃から、日本の産業の根幹に係る二大事業に専念して汚名をそそぐことになります。
その二大事業とは、小坂を始めとする鉱山事業と、児島湾干拓事業です。

脇道に入りますが、ここで藤田組による児島湾干拓事業について触れておきます。
児島湾の大規模な干拓事業は、17世紀末に池田光政の家臣・津田永忠 によって実現し、幕末には興除新田 [62064] が造成されました。
明治になると、失業した士族が結社を作り、大規模な干拓を政府に働きかけました。明治14年に内務省のお雇い土木技師の ローウェンホルスト・ムルデル が児島湾干拓の基本設計書を作成しましたが、資金難の政府は、干拓事業を実施することができませんでした。

事業主を求めた士族結社が行き着いた先が藤田組でした。藤田としても採算の見通しは持てなかったと思いますが、大きな決断して明治17年出願。小坂払い下げの年です。
明治22年の認可後も防災対策・漁業補償などのハードルを越す必要があり、着工できたのは明治32年(1899)でした。なお、ムルデルは利根運河通水直前の1890年に既に帰国しています。

藤田伝三郎も第2区の完成を見る直前の明治45年(1912)にこの世を去りました。
しかし、この地域に新設された岡山県児島郡 藤田村 [53951]には、広大な藤田農場が生まれました。

第1区から第5区(計画図参照)までは藤田組単独事業で、1905年から1950年にかけて完成。戦後の農地改革と共に第6区、第7区は農林省の国営事業として引き継がれ、1963年(着工から65年目)に総計55km2(5500町歩)の干拓事業が完成しました。
児島湾の一部は堤防で海から仕切られ、淡水化した「児島湖」になりました[37037]

児島湾干拓事業の初期には、本山彦一pdf が藤田組に在籍して尽力しています。後に毎日新聞を代表的な全国紙に育てた人物です。

児島湾干拓はこのくらいにして鉱山業に戻ります。
「小坂鉱山」を手に入れた藤田組ですが、やがて鉱石の「土鉱」の埋蔵量が涸渇して、銀の生産量は明治25年頃から下降線をたどります。追いかけて明治30年に「金本位制」が採用され、銀の価格は暴落します。藤田組は赤字に転落。

それを救ったのが、新たに豊富な資源「黒鉱」の精錬を可能にした技術開発でした。製品としては、銀から銅への転換ということになります。これについては次回(久原房之助)で改めて記します。

大正4年(1915年)には北鹿地区内で同じく「黒鉱」を産出する花岡鉱山(大館市)を買収。その翌年には岡山県の柵原鉱山を買収しています。後者は硫酸原料の硫化鉄鉱を産出し、片上鉄道[57376]による鉱石輸送が行なわれていました。

昭和になり戦時色が強まると、非鉄金属は統制下に置かれ、遂に1943年藤田組の事業は国策会社の帝国鉱業開発に強制的に吸収されました。

戦後、復帰した藤田組は「同和鉱業」と社名変更し、「藤田」の名が消えました。“和衷協同"という言葉に由来。

戦後の発足ながら「藤田」を名乗る会社は「藤田観光」です。東京・目白の「椿山荘」は山縣有朋の私邸でしたが、名園を保存したいという意向を受けて藤田平太郎(伝三郎の息子)が購入したものです。
山縣有朋は明治陸軍の大ボスですが、市制・町村制制定の明治21年当時の内務大臣でもあり、落書き帳の記事にも登場します。藤田との昔の関係では奇兵隊の軍監でした。

藤田伝三郎は、明治期に数々の事業を手がけただけでなく、調停者としての能力もありました。関西財界の重鎮(大阪商法会議所会頭)になり、民間人として初の「男爵」の位を得ました。


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