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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[99155] 2020年 2月 9日(日)18:29:44hmt さん
全国の市町村数
日本全国の市町村数はいくつ?
廃置分合が頻繁な時代ならともかく、安定期に入った現在では、このサイトの読者にとり「難問」とは思われません。
しかし、過去に遡って「町村制施行以来の全国市町村数の経年データを求める」となると、意外に てこずります。

私が最初の手掛かりにしたのは、[99095] ekinenpyouさん に記されている当サイト内のページ【以下、uubデータと略す】です。
都道府県の市区町村数などをもとに調べてみると・・・

47都道府県の「市区町村数」は、「23特別区+792市+743町+183村、合計 1741 市区町村」でした。
内訳に記されているように、基礎的な地方公共団体である「市町村」の数に、特別地方公共団体ではあるが、公選制の区長、区議会、区立の小中学校などがあり、市町村に準じる自治体と認識されている 「特別区」23が加えられています。

この数字は、言うまでもなく、平成の大合併で大きく変化しました。
uubデータは、遡った年月日【各10月1日】を知ることができるので、篠山合併の前年【1998/10/1】の値を見ると、23+670+1994+568=3255 市区町村でした。
与党が平成合併の目標としていた 1000市町村【出典】には届きませんでしたが、平成大合併による 3255→1741 という数字により、自治体数が半減近くまで減少したことが解ります。

そこで、もう一段階前の昭和大合併の前、具体的には 町村合併促進法施行前の市区町村数を知りたくなります。
残念ながら、uubデータを用いて 現在遡れる限度は 1960/10/1、つまり昭和合併後期でした。

別の調査によると、1953/10/1 には 286市+1966町+7616村= 9868市町村でした。出典は総務省の説明文で、23特別区を加えると 昭和合併前は 9891市区町村で、平成合併前の約3倍、1万近い数の自治体が分立していました。

昔の市町村数を求めるならば、やはり統計局でしょう。
「長期統計」という分類があったと記憶していたので調べてみましたが、統計局サイトは開かず、WARPへの案内が出ました。
残念ながら、統計局では長期統計の更新を止めたようで、古い市町村数統計の存在を確認することができませんでした。

ここまで記して放置していたところ、[99152] ekinenpyouさんの記事により、新たな情報を得ました。
例えば※日本の長期統計系列(第2章人口・世帯)の2-5都道府県,男女別人口などでは(後略)

リンクされたWARP記事から、日本の長期統計系列の目次に戻り、第1章に進むと、1-12表 都道府県別市区町村数(エクセル:65KB)の存在を知ることができ、ダウンロードすることもできます。

国勢調査データを基本にしているようなので 1920年10月1日以降の5年刻みです。
昭和20年のデータが補足されており、昭和22年は無視されています。
この長期統計では、昭和合併(1953年開始)以前の 1950/10/1 全国市町村数は 10500であったことが知れます。
昭和合併前のデータとしは、前記「1万近い数の自治体」の方が、5年刻みのデータより的確なものと考えます。

参考までに、1950年の内訳は 254市+1889町+8357村= 10500市町村。但し 254市の中に 23特別区を1市として算入してありますから、uubデータと揃えると 23+253+1889+8357= 10522市区町村となります。

5年刻み、特別区の扱いなど 現在のuubデータとの相違点はありますが、長期統計系列データを利用して、全国市町村数のuubデータを 1920/10/1まで遡及して頂いたら 利用者としては ありがたいと思います。

なお、1945年の「東京都制」時代は、府県制時代の東京市も 地方自治法の特別区も存在しなかった空白期です。
長期系列データに倣って(当時の35区域を)仮に1市と扱い、集計すればよいのではないかと思います。
[99143] 2020年 2月 1日(土)16:24:26【2】hmt さん
市町村消滅情報
[99126] グリグリさん
ご指摘の点は課題と考えています。当初は、都道府県を越える変遷は異動後の都道府県にのみ変遷情報を登録していましたが、ご指摘通り、すべての都道府県異動の変遷情報の異動前都道府県への何らかのデータ登録が必要と考えています。

早速のお返事をいただき、ありがとうございます。
下記の記事のように、何年も前から 認識されている。しかし、解決には至っていない課題と承知しました。

[81928] グリグリさん
本論からは少しずれますが、都道府県単位の表示における課題として、長野県山口村の岐阜県中津川市への編入のケースがあります。どういうことかと言うと、平成の大合併の長野県と岐阜県の一覧には、岐阜県側だけに山口村の編入が表示されますが、長野県に関しても山口村が異動し消失したというのは重要な変遷記録です。何らかの記録表示が必要ですが、これも表示仕様を工夫すれば可能だと考えます。

「表示仕様」にどのような制約があるのか?
私には問題の詳細が解りませんが、変更前府県一覧表における記載が既に実現している 保谷村や三多摩移管の事例では、既に「県変更」という変更種別が使われています。

提示された 2005/2/13 長野県木曽郡山口村→岐阜県中津川市 のケースでは、変更種別:編入 です。
このような廃置分合を 長野県一覧表に掲載する場合、例えば「変更種別:編入(岐阜県)・山口村消滅」のような表記にすることが考えられます。これで、何か不都合があるでしょうか?

この 2005年山口村越県編入には、前史があります。
半世紀近く前の 昭和合併時代に行なわれた 隣接地・神坂(みさか)村の 中津川市への越県編入です。

リンクされた詳細情報を利用して、一応 昭和分村合併 の事情を説明しておきます。
当時から 長野県西筑摩郡【木曽郡の方が適切】神坂村の馬籠宿は島崎藤村の生誕地として知られていました。
神坂村を岐阜県に編入する前日に、馬籠付近を山口村に境界変更し、文豪の里を信州に残したのでした。

しかし 平成合併の時代になると、交通事情が変ったように 人々の考え方も変りました。
『夜明け前』に「木曽路はすべて山の中」と記された時代が遠くなった現代人にとっては、文豪が描いた生誕地が岐阜県になることへの抵抗感が弱まりました。中山道馬籠宿を含む山口村も、旧・神坂村の後を追い 中津川市に編入決定。

長野県の変遷情報としては、1958/10/15 にも「変更種別:編入(岐阜県)・神坂村消滅」を加えます。
昭和と平成と、2つの「消滅情報」の追加記載。
これによって、半世紀近くを隔て 岐阜県中津川市で再会した 旧・神坂村の葬式 を出すことができる形になります。

【追記2】
愛知県碧海郡明治村消滅に関する記載を削除しました。
理由:変遷情報における「編入」の意味[90606]を誤解していました。
[85089]と同様のミスを重ねており、お恥ずかしい次第です。
[99125] 2020年 1月 28日(火)12:57:34hmt さん
Re:岡山県吉野郡石井村 → 兵庫県佐用郡石井村
[99116] グリグリさん
当該データの石井村は誤記と判断しました。訂正しましたのでご確認いただければ幸いです。

今回訂正された誤記[99114]につき、その「原因」を 一つ指摘しておきます。
変遷情報岡山県の修正を検討願います。

岡山県吉野郡石井村は、1896/4/1に 兵庫県佐用郡の所属に変更されました。関連記事

しかし、岡山県石井村消滅の経歴は 変遷履歴情報岡山県一覧に掲載されていません。
岡山県の変遷だけに注目していると 英田郡に設置された町村から石井村を削除すべきことに気が付きません。

1896/4/1変更後の兵庫県変遷一覧表には、石井村の郡変更が 詳細と共に掲載されています。
しかし、昔は 変更前の県には
消滅情報が掲載されていなかった
のですね。

都道府県別の変遷情報には、「生成情報」だけでなく「消滅情報」も必要なことは 言うまでもありません。
念の為、1907/4/1の保谷村について確認してみると、東京府北多摩郡保谷村 と共に、埼玉県北足立郡保谷村の消滅も、一覧表と共に記録されています。
[99086] 2020年 1月 17日(金)17:59:35hmt さん
文明の道(2) アイアンロード後編
[99079] hmt アイアンロード前編
今回の「アイアンロード」は、西の起点を「人工の鉄」の発祥地アナトリアとし、東は漢の西域で分岐し、定住国家・中国へのルートも加えた道になっています。(中略)
万里の長城の壁を隔てた2つの国・北の匈奴と南の漢とは、紀元前3世紀から壮絶な戦いを繰り広げました。この争いの中で、スキタイの時代とは異なる革新を遂げ、鉄の物語が進みます。

匈奴が発明した強力な鉄の 鏃(やじり)

アルタイ山中に冷蔵保存されていた遊牧民スキタイのミイラ(BC5世紀)から少し後の時代です。
中国の戦国時代は 秦の始皇帝 により統一され、その後、項羽との争いを勝ち抜いた 劉邦の天下になりました。
漢の高祖です(BC202)。中国再統一と言っても、長城の北には 遊牧民の国・匈奴がありました。
BC200年、漢の高祖は 匈奴の冒頓単于を討つ北伐軍を動かしたが、白登山で包囲された。
辛うじて脱出できたものの、その後は 毎年貢物を匈奴に差し出す 屈辱的な条約を結ぶ結果に。

このような軍事的結果をもたらした武器が、匈奴で発明された 強力な鉄の 鏃(やじり) でした。
番組では復元した二段式鏃の一段目が当時の鎧に見立てた銅板を貫き、鏃の二段目で致命傷を負わせるモデルを再現。
また、匈奴の地下式製鉄炉によりスキタイから伝えられた技術の系統を示していました。
去年発見された宮殿近く。12基の製鉄炉を備えた直轄の大軍需工場があった 鉄の軍事国家・匈奴。
現代世界。核兵器や飛道具の開発で 独自の軍事強国を目指している某国が近い。これを連想させる長城の北側でした。

長城の南で 別に起きた 鉄のイノベーション 高炉と炒鋼炉

アイアンロードの行先は、草原の道を進んだ先の匈奴だけでなく、アルタイ山脈の南・天山北路から河西回廊を経由して中国に至るルートもありました。時代的にはこちらが先かもしれません。

2tもの大きな漢代の鉄塊が残されている「鉄牛村」。愛媛大学の村上さん(既出)は4mもの高さがある高炉を紹介しています。高炉による製鉄は能率が良いので鉄の大量生産に向いていますが、鉄鉱石を還元するのに用いた炭素が4%も溶け込んだ銑鉄になってしまい、鋳物には使いやすいが脆くて割れやすい欠点があります。
脆い弱点を克服して「強い鉄 = 鋼」を手に入れる「炒鋼炉」も発明されていました。
半溶融状態の鉄を捏ね回して炭素を除いて錬鉄にする「パドル法」は 1784年に英国で発明とされています。
私はシロウトなので 技術の相違点をよく理解できていませんが、漢代の「炒鋼炉」は、ずっと古い時代、既に大量の空気を使った炭素低減法を実現していたのでしょうか?

劉邦が冒頓単于に敗れた白登山の約70年後、漢の武帝は 革新された鉄の技術によって 匈奴に対する逆襲戦。
強い鉄による大型新兵器の代表は「戟(げき)」であり、匈奴の騎馬武者を引っ掛けて倒したようで、形勢を逆転しました。しかし 決定的打撃には至らず、漢と匈奴の戦いは 果てしなく続いたようです。

丈夫な鉄の大量生産は、もちろん平和的用途にも役立ちました。その代表が「犁[金華](りか)」という鋤で、農地を深く掘り起こすことで作物収量を倍増させる「農業革命」を実現させたとのことです。

このような経過を経て、鉄を作る技術・鉄を使う技術は弥生時代の日本にもたらされました。
「おの(斧)」や「のみ」で代表される鉄の工具は、大きな建物や船の製作に役立っただけでなく、「日本刀」という独特の文化的産物も誕生させました。
[99079] 2020年 1月 16日(木)18:10:59hmt さん
文明の道(1) アイアンロード前編
この記事の主な材料は、最近放送された Nスペのドキュメンタリー「アイアンロード」です。
直訳すると「鉄の道」ですが、鉄道Railroadとは無関係であり、手塚治虫とも関係ありません。
番組【2020/1/18土曜日深夜再放送】を紹介しつつ、関係する雑談を含めて、人類文明の伝わり方について、私なりに理解した内容で続けるつもりです。

自然の恵み・人類の知恵・そして偶然もからんで産み出された「文明」の成果。
交通・通信技術が発達した現代では、遠い世界の新製品・新技術情報を、す早く知ることができます。
しかし、歴史を遡ると、文明の伝播は 人々の移住に伴うものでした。
それは 基本的には人の歩行速度に制約されたものであると共に、緯度の違いによる自然条件の制約を受けるものでした。この制約を打破したのは、騎馬技術と外航船の発達でした。

南北に長いアフリカ大陸やアメリカ大陸は、緯度に伴う自然条件の変化が大きく、これが文明伝播を妨げました。
地球上に「東西最長の大陸」として存在するユーラシアだけは、遠く離れた地域でも帯状の自然条件で結ばれており、人類の文明伝播が可能で、壮大な歴史物語を形成しました。その一端を繙いてみます。

番組タイトル「アイアンロード」は「シルクロード」よりも古い「文明の道」として、愛媛大学アジア産業考古学研究センターの命名を用いたものと推察します。番組には、村上恭通さんなど関係者が登場しています。

遊牧民のスキタイと匈奴により、鉄が、ユーラシア大陸を はるばると東に伝えられたルートは、「草原の道(ステップ・ルート)」と呼ばれていました。
今回の「アイアンロード」は、西の起点を「人工の鉄」の発祥地アナトリアとし、東は漢のに西域で分岐し、定住国家・中国へのルートも加えた道になっています。

砂漠を通る「絹の道」より北に位置する「草原の道」は、その北側の タイガと呼ばれる亜寒帯針葉樹林地帯と接していました。このような地理的条件から、このルートは 製鉄に必要なエネルギーを得ることが可能で、「アイアンロード」になる条件を備えていました。

万里の長城の壁を隔てた2つの国・北の匈奴と南の漢とは、紀元前3世紀から壮絶な戦いを繰り広げました。この争いの中で、スキタイの時代とは異なる革新を遂げ、鉄の物語が進みます。

アルタイ地域で発見された金髪のミイラは スキタイ人

地図を眺めると、ユーラシア大陸の中央部に ロシアR、モンゴルM、中国C、カザフスタンKの4ヶ国が国境を接しているように見える場所【便宜上RMCK地帯】があります。MC国境沿いに連なるアルタイ山脈の北端。

6年前、アルタイ山脈で発見されたBC5世紀の巨大な墓で 男性の「ミイラ」を発見。
現在この地の住民は アジア系・黒髪のトゥバ人だが、聖なる山に丁重に埋葬されたミイラは「金髪」で、王族とされた。副葬された鉄製短剣の独創的なデザイン(ハート形)から、西に4000kmを隔てたウクライナの遺跡(ビルスクヒルフォート)と同じスキタイ人と判明。鉄の工具を使って制作された金の工芸品。

古代ギリシャ人からは野蛮人視されていたスキタイだが、彼らは馬を乗りこなした。
騎手の意思を正確に馬に伝える技術 のポイントは、鉄製の「はみ」(馬銜)= 轡の馬の口にくわえさせる部分。
この「移動革命」が史上初の「騎馬軍団」を生み出し、東西4000kmに及ぶ大国を作ることができた。

脱線するが、現代のアルタイ地域住民トゥバ人から思い出したのが、子供時代に見た地図にあった「ツバ人民共和国」という国の存在。18世紀に乾隆帝が緩衝国のジュンガルを滅ぼした後、ロシア人が扇動してアルタイに建国させた属国らしい。中華民国は現在でも自国領と主張しているとか。

アルタイまで進出していたスキタイから西に逆行するが、アナトリア【現在のトルコ】が「人工の鉄」の発祥地になったカギは、かの地の厳しい自然環境だったらしい。
鉄の製錬には銅よりも500度高い1200度が必要。自然のもたらす強い季節風が製鉄炉の高温維持に役立ち、ヒッタイト人【聖書のヘテ人】に最初の量産化を成功させた。ふいご送風。
ヒッタイト人は、この貴重な金属を武器に使うだけでなく、安全保障外交の切り札に活用した。
BC13世紀には、大国エジプトとのカデシュの戦いの後で、世界最古の平和条約が結ばれた。
番組では、中近東文化センター アナトリア考古学研究所長 大村幸弘さんのコメントがありました。


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