都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
YTさんの記事が1件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[95367]2018年2月2日
YT

[95367] 2018年 2月 2日(金)18:35:23【5】YT さん
大字福浦の所轄について
[95361] そらみつ さん
[95364] Takashi さん
[95365] N さん

横からすみません。そらみつさんが疑問に思われていることは、旧大字福浦の内、どのような経緯で寺山地区(字二本松、東山鼻、入山口、向ヒ、名畑、舟木谷、前、背戸山、田ノ奥)が現在の地図において、大字寒河の所轄となり、鹿久居島の全域が大字日生の所轄となり、取揚島だけが大字福浦に残ったかということだと思います。一連の書き込みを見て、先程『日生町誌』(1972年)を閲覧して来ましたが、

・福浦(の大部分)の赤穂市への編入の経緯に関する記述はおそらくあると思うのですが、どこまで詳細に記述されているかは不明であること


数年にわたる漁業権問題や地域感情の対立など、詳しい編入の経緯についての記述はありますが、肝心の大字の変遷についての記述はありません。

・(今回の問題ではそれほど重要ではないかもしれませんが)鹿久居島の状況も記述はおそらくあると思うのですが、どこまで詳細に記述されているかは不明であること


この点も後述するように、余り記載がありません。ただいくつか興味深い点が見つかりましたのでまとめます。

まず明治の大合併において

日生村=大字日生+大字大多府
福河村=大字寒河+大字福浦

となったわけですが、スタンフォード大学が公開している戦前の日本の地図を見ればわかる様に、鹿久居島の中に村境があり、島全体の西の一部が日生町で、残りが福河村となっております。具体的には後述するように、島の総面積10 km2弱の内、約4 km2が昭和初期には日生町所轄で、残りの6 km2が福河村所轄です。『日生町誌』16頁の鹿久居島の記述によると

(3) 鹿久居島 日生本土から八百メートルの南にあって周囲二十八キロ、面積九八五・五ヘクタール、世帯数十五、人口六十人、岡山県下では最大の島で、国有林になっている。むかしは無人島で、日生、寒河、福浦の三村に属し鹿の野生地として有名で、旧藩時代の狩猟地であった。


一方25頁以降の「第二編 地誌」の解説では

 日生町は日生、大多府、寒河、福浦(寺山)の四つの大字から成っている。
(1) 大字日生 日生本土ど大多府を除く諸島を合わせた区域を総称して大字日生という。

つまり鹿久居島はもともと日生、寒河、福浦に分割されており、越境合併の1963年当時も鹿久居島の一部に大字福浦が設置されていた。ところが『日生町誌』が書かれた1972年までには鹿久居島の全域が大字日生の所属となっていたということになります。具体的に『昭和十年 全国市町村別面積調』や国勢調査時の面積の時系列をまとめると

西暦1935年1950年1955年1960年1965年1970年
日生町13.2512.8642.4142.4135.0135.01
福河村30.0030.00

日生町と福河村の面積の合計が合併後に0.45 km2ほど減るなど、若干数値が異なりますが、まあその辺は測定誤差の範囲でしょう。1963年に赤穂市へ異動となった土地は7.4 km2で、日生町に留まった旧福河村の土地は22.5 km2前後となります。

ところが『日生町誌』の3~4頁の大字別面積によると

大字面積(km2)
日生17.8
寒河16.1
大多府0.4
福浦(寺山)0.7

日生+大多府が18.2 km2、寒河+福浦が16. 8km2となり、6 km2弱の土地が旧日生町側に異動したことになります。10 km2の広さのある鹿久居島の東部分がいつの間にか大字日生の所轄となったことの証左となります。

次に寺山地区についてですが、『日生町誌』33頁によると

(4) 寺山 大字福浦に属する小字である。吉備温故に「寺山新田」とあるが、貞享年間(一六八四~一六八七)に福浦村に合併した。山脈に囲まれた山峡の小集落である。戸数十戸、人口二十八人。
 戦国時代の末期に、戦禍からのがれて、仏法に入る者あg多くなり、この地が山高く、気が澄んでいるため、座禅、修養に適し、大小寺院十三カ寺が建てられたことから、この地名が生まれた。現在は寺院の跡は見られないが、往古は人家も多く、盛んな時代もあった。
 昭和三十八年九月、福浦地区の越県分離の際、この地だけ分離から除かれ、日生町にとどまった。
1 寺山地内の小字名
二本松 舟木谷 東山鼻 前 入山口 背戸山 向ヒ田ノ奥 名畑


向ヒ田ノ奥が一つの字となっておりますが、昭和38年自治省告示第106号に登場する「字」が総て寺山地区のものだということが分かります。それよりも問題なのは、『日生町誌』は本土の方の字は事細かく書いておりますが、鹿久居島や取揚島に所属する小字についてはなんら記載がありません。

以上をまとめると

1963年以前、日生町大字福浦は取揚島の一部・鹿久居島の一部・本州側の地域を含んでいたが、越境合併の結果、取揚島の一部・鹿久居島の一部・内陸の寺山地区が日生町大字福浦に留まった。
1963年~1972年 いつの間にか、鹿久居島の内の大字福浦、大字寒河の所轄が大字日生の所轄へと変更になる。
1972年~現在 いつの間にか、寺山地区が大字寒河の所轄となるが、取揚島の西南部だけが大字福浦の所轄のまま留まる。

こんな感じでしょうか?

越境合併に関連する漁業権の設置された地域などに関しては『赤穂市史 第三巻』(1985年)の629頁に詳しい地図が掲載されています。

【追記】
[95366] Takashi さん

・福浦の中で日生町に留まった地域が存在した理由(漁業権の関係もあるのでそれなりには書いているでしょうけど)
・福浦の中で日生町に留まった地域のその後(これは他のところで記述されている可能性もありますが)
にどこまで踏み込んでいるか……がこの場合は知りたいところですよね?


これについては具体的な記載がありません。当時の住民、とりわけ漁業関係者の利益面と感情的な対立について詳しいことは書かれていますが、執筆者はある意味土地を赤穂市に奪われた側の住民ですし、越境合併からわずか10年程度に執筆されていますので。

【誤記修正】大字➡寒河
【リンク修正】


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示