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hmtさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[98551]2019年11月3日
hmt
[98547]2019年10月25日
hmt
[98544]2019年10月22日
hmt
[98543]2019年10月19日
hmt
[98540]2019年10月16日
hmt

[98551] 2019年 11月 3日(日)14:16:05hmt さん
三十六歌仙絵 補足
[98549] 伊豆之国 さん
その「事件」と「再会」にまつわる話が、今晩のTV東京でも放映されていました。

『美の巨人たち』。時折見ていた程度ですが、今年度からの変更は不評を呼んでいる模様です。
旅番組的な作りになり、小林薫のナレーションでなくなった影響も大きいようです。
それはさておき 伝統ある美術番組です。NHKと違う情報も期待して見ました。

『新・美の巨人たち』では、絵巻の作者は 藤原信実 と伝えていました。
鎌倉前期に写実的な肖像画の画法を大成した歌人・絵師です。
「似絵(にせえ)」と呼ばれ、国宝『後鳥羽院像』など多くの作品を残す。文永2年没とすると89歳の長命。

絵巻の行方:下鴨神社神庫→大正時代に佐竹家から画商の扱う対象になり、船成金を経て財界の美術愛好家・益田鈍翁の決断で切断され、1919年に総額約60万円の分売価格が付きました。

これだけでも現在価値に換算すると 60億円相当ですが、分売された37枚【特別展出品一覧表 51番 住吉大明神を含む】には、新たな所有者の判断により、画題にふさわしい高価な資材を用いた掛軸用の表装が施されています。

Art Travelerは、籤引分売会場の応挙館(品川御殿山から移築された上野の博物館構内)を訪問。このあたりは、旅番組ならではの説明が加えられていたようです。
瀬戸内海・生口島の耕三寺は NHKと重複していましたが、旅人は ここも訪問。
行方不明の「斎王女御」は番組に現れなかったので、小田原・箱根方面への訪問は、放送されずに終りました。
[98547] 2019年 10月 25日(金)18:08:07【1】hmt さん
離散した三十六歌仙絵が百年ぶりに京都で再会
残念ながら天候不順の秋ですが、枕草子の「秋は夕暮れ」をテーマに そうだ 京都、行こう の JR東海。
紅葉の名所ではないが、京都国立博物館で開かれている 特別展も紹介されています。

タイトルに記したように、離散した名画の大部分【36点中31点】が百年ぶりに集合とか。

離散のきっかけは、百年前におきた美術史上の大事件「絵巻切断」でした。
画材は、柿本人麻呂や小野小町など、36人の「歌仙」を描いた絵で、鎌倉時代の絵巻物でした。
秋田藩主佐竹家で所蔵されていましたが、第一次大戦の景気時代に、船成金の山本唯三郎の手に渡っていました。
だが 戦後の不景気により、たちまち手放す羽目に。

しかし、何十万円【現在の何十億円】という高額の絵巻を一人で買い取れる人は現れません。
そのままでは、海外に流出する危険がありました。
画商に相談されたのが三井物産の益田孝(鈍翁)。彼が決断したのが、「絵巻切断」でした。

切断というと乱暴に聞こえますが、絵巻は36枚の絵を貼り合わせた作品です。
熟練した職人が剥がせば、元の36枚に分離することができます。
36枚の絵を、新たな表装を施した掛け軸に仕立てれば、買い手を国内の集め、分売可能になる。

切断と言われているが、その実体は「分離+α」による 「美術品としての再出発」でした。
# 直接関係はないが、ここで 自治体の分離(分立・分割)のことを連想。

百年前の大正8年(1919)12/20。財界人や美術商などが集まり、籤引きで配分を決めました。
人気が高く、最高値を付けた『斎王女御』の絵は4万円。籤では外れた益田でしたが、画商から譲ってもらい 目出度く入手しました。

凝った装飾を施され「掛け軸」に生まれ変わった歌仙絵。茶室に掲げられ、展覧会に供され、大正、昭和、平成に幾度も所有者を流転した作品も。戦後設立の美術館で公開されている絵も多数。

【追記により修正】
益田の邸宅は小田原でした。彼は 戦争が近づいた 1937年に作った横穴式の地下収蔵庫で、所蔵する秘宝を空襲から守る決意でした。しかし結果を見届けることなく、翌年に91歳で死去。
そこで、「そうだ 京都、行こう」ではなく、益田が見届けられなかった結果の調査に出発。

小田原は、1945/8/15の未明に空襲を受けました。正午に玉音放送が行なわれた終戦の日です。
米軍の計画では、同日の熊谷と伊勢崎とが最後の空襲とされているようですが、余剰弾は帰還前に海上投棄するルール。この焼夷弾が、相模湾ならぬ小田原の市街地に落下し、実質的に空襲を受けた国内最後の都市になりました。出典

このことを知り、特別展の 出品一覧表 を確認したところ、なんと『斎王女御』を発見できず。
Webの中を探してみましたが、この絵の現状の手がかりになる情報は得られませんでした。
三十六歌仙プロフィールにも「展示なし」。

空襲で焼失したという情報もない。しかし、終戦直前の不幸な偶然により、『斎王女御』は 行方不明状態のままである。このように考えざるを得ないという結末でした。【追記終】

「絵巻切断」百年を機会に、NHKも歴史秘話ヒストリアで放送しました【10/29再放送予定】。
NHKは 1983年にも「絵巻切断」の物語を放送したようで、その翌年出版の記録本があります。
[98544] 2019年 10月 22日(火)14:06:11【1】hmt さん
即位式/戴冠式
[97342] hmtの年初書込み
2019/5/1(即位の日)と 2019/10/22(即位を国内外に正式に示す戴冠式の日)とを祝日扱いとする 特別法(平成30年法律第99号)

2019/10/22 臨時祝日の根拠になった行事は「即位礼正殿の儀」であり、「戴冠式」は不正確でした。
「戴冠式」という言葉を使ってしまったのは、60年以上前に 世界的に大きな話題になった「女王戴冠」【1953/6/2 イギリス・エリザベス2世】を記録映画で見た記憶からでしょう。

ウェストミンスター寺院で行われた エリザベス2世の戴冠式は、史上初のテレビ中継。
日本からは、昭和天皇の名代で当時の皇太子が列席していたが、もちろん日本のテレビで同時に見ることはできない時代でした。

「戴冠式」というからには、カンタベリー大主教の手により戴く王冠。純金製で重さ約2kgとか。
さすがに重すぎるので、戴冠式以外の使用機会はないようです。

ヨーロッパ大陸では、聖職者から授けられる「冠と聖油」とが 権威のしるし とされる伝統があるようです。
その代表例は、800年に「ローマ帝国再興」を果たした フランク王 シャルルマーニュ【カール大帝】が、ローマ教皇から受けた「帝冠」です。
しかし、中国では 易姓革命思想に基づく異なる伝統があります。

【追記】
日本の即位関係行事は また様子が違い、三種の神器の承継と並んで重視されるのが、大嘗祭です。
これは 新嘗祭(毎年11月23日)の初年版なのですが、即位後最初である大嘗祭は、特に大規模に行われます。
今回の大嘗祭スケジュールなど

万世一系の日本で大切なこと。
それは、内外の人々に対して 支配者の変更を告知する 戴冠式よりも、祖先神に対する報告である。
西洋と日本における式典の違いを このように理解しました。【追記終】

日本でも冠位十二階など身分を表す「冠」の制度はありました。
しかし、「帝冠」としての使用は聞きません。
ハード的にも貴金属と宝石から作られる王冠と異なり、繊維製品系の帽子です。
戦後の日本製「冠」で世界に冠たる地位を築いたのが、クラウン・コロナ・カローラ・ティアラなどのトヨタ車。

頭は目立つので、性別や身分を表す目的には、冠だけでなく髪型も利用されます。
未婚者の髪型「総角(あげまき)」は『源氏物語』第47帖の名ですが、朝鮮語読みの「チョンガー」は、独身者に対する蔑称として使われました。…話が脱線してきたのでやめます。

新しい君主の即位を人々に知らせる即位式にあたり、西洋の「帝冠」「王冠」との違いを感じ、落書き帳に書き留めた雑文でした。
[98543] 2019年 10月 19日(土)18:14:07【1】hmt さん
真夜中に半鐘の音を聞いて逃げた
台風19号で堤防が決壊した千曲川。(私は視聴していなかったのですが、)昨夜の NHKニュースウォッチ9が伝えた体験談を、信州 News Webと、産経に掲載されたハザードマップとを使って紹介します。

最初に、報道とハザードマップとを、マピオンと対照させて得た予備知識。
報道された地域の自治協議会、すなわち千曲川左岸の穂保(ほやす)地区は、下流(北)から赤沼、津野、穂保、大町の4大字です。

「長沼」という総称もあり、【追記】これは 明治合併から昭和合併まで 62年間の村名でした。

長野市大字穂保と大字津野との境界付近の 決壊地点付近には、長野市長沼支所【大字穂保941】があります。北陸新幹線車両基地は、それより北の赤沼。

この地域は、江戸時代から繰り返し水害の被害があった地域で、当時の浸水の水位を示す「水位標」も残され、長沼・赤沼という地名と共に水害の記憶は深く刻まれていました。

市が避難準備の情報も出していなかった 2019/10/12の17時前から、自治会では1人暮らしの高齢者や障害者など支援が必要な住民の避難を呼びかけ。
この後、2019/10/13 深夜0:20頃から水が堤防を越え始め、4時頃に堤防決壊に至ったとのことです。

深夜の午前1時ごろに消防団分団長の指示で、地域内の火の見やぐらに設置されている4つの半鐘が鳴らされました。半鐘を鳴らすことは近年あまりなかったが、見たことのない高さまで水位が上がっていたため、本気で避難をしてもらおうと、とっさの判断で半鐘を鳴らすことにしたとのこと。

津野の消防団員・山田さんは、班長から言われていたそうです。
とにかく5分間、目いっぱい連打して、すぐ逃げてくれ。

赤沼の小滝さんも「半鐘が鳴る状況は普通じゃないと感じて避難した」と語っていました。

参考までに長野県内での水害死者は3人(長野市2名)になったようです。【追記

広く普及している防災無線は、市内全域のような広範囲に知らせるのに威力を発揮するのでしょうが、間延びした口調では緊迫感が伝わりません。
「狼少年」の話のように 「またか」と受け取られるかもしれません。
激しい雨音の中では、内容が聞き取れない虞(おそ)れもあります。

めったに聞かない半鐘の連打。ローテクですが、切迫した災害を確実に予告する手段として威力を発揮したのでした。

12年ぶりに書いた 半鐘の記事でした。
[98540] 2019年 10月 16日(水)17:54:30hmt さん
海と島(36)歯舞群島
[98539]で記した国土面積は、もちろん国の機関である国土地理院が用いる公称面積です。
例えば根室市の面積は 506.25km2 と記されていますが、下記の注釈により、第二次大戦後に日本の実効支配が及ばなくなった「北方地域」(5003.05km2)との関係が示されています。
★歯舞群島の面積94.84km2を含む

…というわけで、歯舞という地名、歯舞村、群島の名。この3つについて記します。

「はぼまい」の語源は、アイヌ語の「アプ・オマ・イ」で、意味は“流氷のあるところ”という意味とか。日本の島へ行こう

本来の歯舞は 離島ではなく、 根室半島先端近くの漁港集落です。
昆布などの 海産物輸送を目的を目的として、昭和4年(1929)に、根室との間 約15kmに 根室拓殖鉄道【ナローの軌道>1945年鉄道に変更】が開通しました。自動車用の道路が整備されていない時代のことです。

歯舞駅は 日本最東端の駅でしたが、路線の環境は過酷でした。
1959/4/1 歯舞村が根室市に編入された約半年後、自動車輸送に敗れた鉄道は廃止されました。

次に「歯舞村」について… 
鉄道より前の時代に遡りますが、Wikipediaの歯舞村には 【もちろん町村制ではないが】1897年に発足し、1915年(大正4年)に5村を合併して二級町村になったと記されています。
変遷情報では、1915年の花咲郡歯舞村新設の記録が、「歯舞」のデビュー記事になります。

この時に合併した一員に「珸瑤瑁村」がありました。
「ごようまい」と読みますが、この村が 根室半島と色丹島との間に連なる離島【珸瑤瑁諸島】です。
歯舞村になった後に「歯舞諸島」が使われるようになり、国土地理院の地図にも使われていました。
そして、根室市からの変更要望により、歯舞群島に変更(2008/3/21)。

昭和十年全国市町村別面積調によると、1935/3/31 歯舞村面積は 165.00km2です。
歯舞群島の最新面積は前記のように94.84km2ですが、Webで遡れる1988年面積調には「歯舞諸島 101.60km2」と記されています。出典の8コマ

約100km2の離島部は、歯舞村役場のあった本体、つまり半島部(約65km2)よりも 明らかに面積が大きかったことがわかります。


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