残念ながら天候不順の秋ですが、枕草子の「秋は夕暮れ」をテーマに
そうだ 京都、行こう の JR東海。
紅葉の名所ではないが、京都国立博物館で開かれている
特別展も紹介されています。
タイトルに記したように、離散した名画の大部分【36点中31点】が百年ぶりに集合とか。
離散のきっかけは、百年前におきた美術史上の大事件「絵巻切断」でした。
画材は、柿本人麻呂や小野小町など、36人の「歌仙」を描いた絵で、鎌倉時代の絵巻物でした。
秋田藩主佐竹家で所蔵されていましたが、第一次大戦の景気時代に、船成金の山本唯三郎の手に渡っていました。
だが 戦後の不景気により、たちまち手放す羽目に。
しかし、何十万円【現在の何十億円】という高額の絵巻を一人で買い取れる人は現れません。
そのままでは、海外に流出する危険がありました。
画商に相談されたのが三井物産の益田孝(鈍翁)。彼が決断したのが、「絵巻切断」でした。
切断というと乱暴に聞こえますが、絵巻は36枚の絵を貼り合わせた作品です。
熟練した職人が剥がせば、元の36枚に分離することができます。
36枚の絵を、新たな表装を施した掛け軸に仕立てれば、買い手を国内の集め、分売可能になる。
切断と言われているが、その実体は「分離+α」による 「美術品としての再出発」でした。
# 直接関係はないが、ここで 自治体の分離(分立・分割)のことを連想。
百年前の大正8年(1919)12/20。財界人や美術商などが集まり、籤引きで配分を決めました。
人気が高く、最高値を付けた『斎王女御』の絵は4万円。籤では外れた益田でしたが、画商から譲ってもらい 目出度く入手しました。
凝った装飾を施され「掛け軸」に生まれ変わった歌仙絵。茶室に掲げられ、展覧会に供され、大正、昭和、平成に幾度も所有者を流転した作品も。戦後設立の美術館で公開されている絵も多数。
【追記により修正】
益田の邸宅は小田原でした。彼は 戦争が近づいた 1937年に作った横穴式の地下収蔵庫で、所蔵する秘宝を空襲から守る決意でした。しかし結果を見届けることなく、翌年に91歳で死去。
そこで、「そうだ 京都、行こう」ではなく、益田が見届けられなかった結果の調査に出発。
小田原は、1945/8/15の未明に空襲を受けました。正午に玉音放送が行なわれた終戦の日です。
米軍の計画では、同日の熊谷と伊勢崎とが最後の空襲とされているようですが、余剰弾は帰還前に海上投棄するルール。この焼夷弾が、相模湾ならぬ小田原の市街地に落下し、実質的に空襲を受けた国内最後の都市になりました。
出典
このことを知り、特別展の
出品一覧表 を確認したところ、なんと『斎王女御』を発見できず。
Webの中を探してみましたが、この絵の現状の手がかりになる情報は得られませんでした。
三十六歌仙プロフィールにも「展示なし」。
空襲で焼失したという情報もない。しかし、終戦直前の不幸な偶然により、『斎王女御』は 行方不明状態のままである。このように考えざるを得ないという結末でした。【追記終】
「絵巻切断」百年を機会に、NHKも歴史秘話ヒストリアで放送しました【10/29再放送予定】。
NHKは 1983年にも「絵巻切断」の物語を放送したようで、その翌年出版の記録本があります。