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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

地名・北広島と市名・北広島の関係

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記事数=7件/更新日:2005年11月10日/編集者:YSK

北広島市は広島県民の入植地としての広島町が市制施行時に広島県の広島市との同名回避で命名されたというのが一般的ですが、元々北広島という俗称的な呼び名もあったようです。千歳線の駅名も最初から北広島で「きたひろ」の略称で呼ばれていたそうです。北広島市についてのメッセージをまとめました。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[12111]2003年3月30日
三丁目
[12122]2003年3月30日
紅葉橋律乃介
[16773]2003年6月14日
三丁目
[16786]2003年6月14日
NS
[44907]2005年9月15日
北の住人
[45562]2005年10月10日
北の住人
[46250]2005年10月28日
北の住人

[12111] 2003年 3月 30日(日)17:45:11三丁目 さん
きたひろ
[12105]seahawkさん
北広島インターチェンジは北広島市の存在を予言していた

[12107]雑魚さん
広島出身の開拓団に因むと聞く「北広島」は、「北国の福岡」を意味したと思われる東北線二戸駅の旧称 「北福岡」 に通じる命名感覚かと思います。駅名や道立高校名など、以前から広範に使われた
名称の様ですので、最も自然な改称予想例だったのでしょう。

まず、広島の由来は、雑魚さんが聞かれたとおりです。それで。

地元ではかねてから「きたひろ」と略し、駅名も北広島(これは、国鉄時代に広島駅との同名を回避したと聞きました)でしたから、逆に、私はなんの疑問も感じておりませんでした。インターチェンジも同名回避するのかな、と思っていました。ただ、その「きたひろ」が具体的にどこを指したかは、会話の流れで異なるとは思いますが、駅のことだけだったのかな?すいません、私が道在住だったのは、広島町の時代だったものですから。

そういう意味では、北広島駅も、北広島市を予言???というか、逆に、市制施行にあたり、広島市との同名回避と共に、広く馴染まれた「北広島」に改称したのではないかと、私は思っていました。既に市制施行時には道内におりませんでしたので、紅葉橋瑤知朗さんがお近いこともあり、このあたりの事情をご存知かもしれませんね。
[12122] 2003年 3月 30日(日)21:10:31紅葉橋律乃介[紅葉橋瑤知朗] さん
広島という町
[12111]三丁目さん

>既に市制施行時には道内におりませんでしたので、紅葉橋瑤知朗さんがお近いこともあり、このあたりの事情をご存知かもしれませんね。
>地元ではかねてから「きたひろ」と略し、駅名も北広島(これは、国鉄時代に広島駅との同名を回避したと聞きました)でしたから、逆に、私はなんの疑問も感じておりませんでした。インターチェンジも同名回避するのかな、と思っていました。ただ、その「きたひろ」が具体的にどこを指したかは、会話の流れで異なるとは思いますが、駅のことだけだったのかな?すいません、私が道在住だったのは、広島町の時代だったものですから。

 わたしは生まれて25年あまりになりますが、同じ札幌圏内とはいえ、それほど馴染みは無く、北広島はどちらと言うと千歳のほうが“地元”と呼べるのでは?
 「広島町」を「ひろしま」と呼ぶことはほとんどなく、「きたひろしま」・「きたひろ」で通っていましたから、市制施行は通称名を正式名称にするようきっかけになったようです。
 というのも、昭和43(1968)年の町昇格から、20年も経たない平成9(1997)年に市昇格まで、急激に人口が増えつづけ、地元の間では「このままいけば市になれるが、『広島市』になってしまう?」なんて情報番組で視聴者からの疑問に、役場の担当者が「おそらく『北広島市』になるはず」と、何年も前から言われておりました。
 市昇格にあたり、一応町民からも意見を募ったようですが、ごく自然に「北広島」市が誕生していますね。

 ちなみに、北広島駅の開業は大正15(1926)年ですが、当時は私鉄の北海道鉄道として開業。それでも「北広島」と駅名が付いたことから、既に「きたひろしま」で通っていた…のでしょうか。
[16773] 2003年 6月 14日(土)16:59:14【3】三丁目 さん
北広島は、例にふさわしくないと思いますよ。
[16768]faithさん
北海道大百科事典(北海道新聞社、1981年発行)を読んでいたら、「北広島」と冠する、たくさんの記述を目にしました。北広島高等学校、北広島公営団地等です。広島町の時代から、町内にできた公的な施設の中には、すでに「北」広島と冠せられていたものがいくつかあるのです。
この話は、本当は恥ずかしいから、以前はふれなかったのですが、実は私、「北広島町」だと思い込んでいました。何度となく道路地図を目にし、自分の部屋には北海道地図を貼っていたのですが。それほど「きたひろ」は地元で浸透していた呼称なのです。我が地理アドバイザーにその旨を伝えたら、そう誤認してた人も多かったみたいだね、と申しておりましたが。ちなみに、私の道内での居住経験は、苫小牧市、登別市、札幌市ですから、比較的広島町に近いところにおりました。

ですから、広島町に関しては、市制施行に当たり、同名回避という部分が、いくばくかの割合があったとは思われますが、北広島市になったのは、ごく自然なことだったと私は思っていました。

なお、拙稿[16722]で、小学生の頃の思い出を語りましたが、同名回避は、あってしかるべきかな、と私は、思います。例としてあげられていた「大阪狭山市」は、その命名感覚のヒドサをこき下ろすべき問題かと、私には思われました。例えば旧国名から「摂」の字を使うとか、もうひとひねりあってもよかったのではないかと、思っていましたが。
[16786] 2003年 6月 14日(土)20:10:05NS さん
レス諸々
[16784]faithさん
広島町時代から「北広島」を付けていた公共施設については、市制施行時の名称を考慮に入れていた、ということはないのでしょうか?
 札幌に隣接し将来的な発展の可能性が元々低くはなかったとは言え、最初からそのような考えの下で付けられたとは考えにくいですね(北広島市近郊出身者としての実感でもあります)。この手の「北(or新)」+「発祥地名」という組み合わせは、北海道には北広島以外にも「北吉原」(白老町)などいくつか見られますし。
 ちなみに、市制施行時の候補としては「北広島」の他に「南札幌」というものもありましたが(主に札幌市に隣接する大曲・西の里両地区を中心に推されていました)、市街地のある東部地区や北広島団地地区などからの支持が得られず、広く定着していた「北広島」が採用されたという経緯があります(妥当なところでしょうが)。

[16773]三丁目さん
同名回避については、あってしかるべきかな、と私は、思います。
(中略)旧国名から「摂」の字を使うとか、もうひとひねりあってもよかったのではないか
 これらは私も同感(特に市名に関しては)です(理由としては[16336]でも述べた通り、都道府県名抜きの市名表記のみによる全国的な一意性が求められる場合が色々あるのではないかと類推し得るからですが)。

 道路標示版については、両毛人さんの[16755][16765][16783]の通りでしょう。
 ただ、最近は都市部やその近郊地域では距離表示を含んだ案内板が以前よりも少なくなったように感じられ、その代わりに多数のドライバーからの様々な需要に応えるべく各方向への地名が可能な限り複数(各2~3箇所のところが多い)記述されているものが増え、それらに伴い案内板も大型化してきた(少なくとも主要な国道や都道府県道においては特に)ように思われますが・・・
[44907] 2005年 9月 15日(木)22:12:06北の住人 さん
北広島
オーナー グリグリさんへ。
北広島市に関することで、気になっていることがあります。
市町村雑学の高田市ってどこにあるの?と落書き帳アーカイブズの地名・北広島と市名・北広島の関係の次の部分です。
北広島市は広島県民の入植地としての広島町が市制施行時に広島県の広島市との同名回避で命名されたというのが一般的ですが、元々北広島という地名もありました。これは、北広島と呼ばれていた入植地の北部が中心部となったためで、千歳線の駅名も最初から北広島で「きたひろ」の略称で呼ばれていたそうです。
私は隣の市に住んでますが、これを読んでちょっと妙な感じがしました。そこで、私なりに調べていますが、今の所、「元々北広島という地名はない」「入植地の北部が北広島と呼ばれていたことはない」という状態です。

「地名」の定義が難しいですが、俗称ということであれば、駅周辺に「北広島」と呼ばれる地域が存在した様です。ただし、「元々」というほど古くはない様で、多分、昭和40年以降と思われます。
明治期の入植地は、「広島開墾地」と呼称しています。入植当時は駅はできておらず、戸長役場などのある中心地は、現在の駅の北東ですが、入植地の北部というより中央部と言った方が良さそうです。

以下、調査した範囲で述べます。
「北広島駅」周辺の字名としては、「広島村史」(昭和35年)、「広島町の歩み」(昭和47年)によると、広島村成立後は「中ノ沢」でその後「広島」と改正されています。(改正時の旧字名は「中央中ノ沢」か?)
「角川日本地名大辞典」によると、明治期の「広島開墾地」の下に小字「中ノ沢」があったようです。

「北広島」の記載例ですが、「広島村史」では「北広島駅」「北広島陸軍通信所」「北広島集乳所」「北広島線(国鉄バス路線)」「札幌保線区北広島線路班(国鉄)」「北広島教会(キリスト教)」があります。
「日本歴史地名大系 北海道の地名」では「広島村史」の引用として、「北広島郵便局」となってますが、「広島村史」の記述は「広島郵便局」です。
「広島町の歩み」では、「道営北広島団地」「北広島市街地」「北広島ライオンズクラブ」「広島村酪農協同組合北広島支部」「北広島ボウリング場」などがあります。これらの「北広島」は駅名に由来しているのではないかと思います。「北広島市街地」ですが、これは、既存市街地に対して「道営北広島団地」の部分を呼んだもののようです。(団地は駅の南西部に位置)

地名関連の辞典類で調べたところ次の様になっています。
「70年代から北部の西の里や中心地区の北広島に,大規模住宅団地が次々と建設された。」(日本地名地図館、小学館、平成14年)
「千歳線の駅ができたが,山陽本線の広島があるので北広島駅と呼ぶことにした。どこでもそうであるが,今では駅付近の繁華街の辺は,北広島と呼ばれている。」(北海道の地名、北海道新聞社、昭和59年)
「鉄道駅名が、山陽線の広島とまぎれないように北広島とされたためか、このごろでは地名としても北広島と呼ばれている。」(北海道大百科事典、北海道新聞社、昭和56年)
このうち、「日本地名地図館」は北広島市施行後の発行であるので、「北広島」という地名が施行以前からあったかは不明であり、市名をそのまま載せた可能性もあります。
「北海道の地名」と「北海道大百科事典」の引用部分は執筆者が同一(「北海道の地名」の著者である山田秀三氏)で、「北広島」は俗称と考えられます。

以上ですが、市町村雑学と落書き帳アーカイブズの該当部分にしっくり合う記述が出てきませんでした。さらに、調査を進めています。
[45562] 2005年 10月 10日(月)15:56:57北の住人 さん
北広島
[44907] 北広島調査の続き
広島町で出している資料をいくつか調べた所、’84年広島町勢要覧に
 『国鉄の駅や道営団地などの名称として用いられている「北広島」は、広島町の俗称として使われており、本来は広島県と北海道の広島町を区別する意味から、そう呼ばれ始まったものです』
との記述を見つけました。ただ、広島村時代のを含め、他の年度の要覧を5、6冊見ましたが、このように記載されているのはこの年度だけでした。’84年は昭和59年であり、北海道大百科事典(昭和56年)の影響を受けているかもしれません。

「広島町を北広島市とする事についての申請書」(市制施行の前年度に作成されたと思われます)に、市名選定の理由が次のように載ってます。
『「広島」という名称は、明治26年12月月寒村から分離独立するに当たり、村の中心である東部地区へ入植し、開拓に功労のあった和田郁次郎ら団体移住者の出身地である広島県の名を採り、新村名として「広島村」と名付けられたことによります。その後、昭和43年の町制施行により、「広島町」として継承されてきました。
 このように「広島」の名称は、歴史的にも極めて意義深いものがあります。このことから、まず「広島」を選定することにしました。
 次に、他市の名称との混乱を避けるため、北海道の「北」を「広島」の上に冠し、「北広島」としました。
 現在のJR駅は、大正15年8月に北海道旅客鉄道株式会社が札幌-沼の端を開通させるに当たり、広島県の「広島駅」と区別するため「北広島駅」とした経緯があり、又、北海道立高校の校名や各企業、事業所の本支店名に「北広島」という名称が広く使用され定着していると言えます。』

この文の冒頭にあるように、村の中心(字広島)は「東部地区」と呼ばれています。広島村は南北で分けるのではなく、東西で分けるのがいくつかの資料を読んだ上での印象です。この点からも、入植地の北部を北広島と呼んだのかが疑問となるわけです。
「北広島」の地名、おそらく、道立北広島団地ができ流入する人口が増え、特に広島町以外の人との会話の中で一般化されたのではないでしょうか。
他にも資料文献ありましたので、多分、調査はまだ続きます。余談ですが、現在の「北広島インター」は、開設当時は「大曲インター」と呼ばれていました。
[46250] 2005年 10月 28日(金)11:46:04北の住人 さん
北広島
[45562]北広島調査の続き
地元の「北ひろしま郷土史研究会」という団体が出している本を数冊読んでみましたが、地名「北広島」についての話題は見つけることができませんでした。で、こんな話やあんな話を。

エピソード1 明治期の村設定時に、当時の北海道長官が開村の功労者である和田郁次郎の姓から「和田村」と命名したが、本人が固辞し出身地由来の「広島村」となった。

エピソード2 開村当時に飛来した丹頂鶴を明治天皇に献上。しばらく宮中(皇居のことか?)で飼われていた。当時は、丹頂鶴が石狩平野にも棲息していた様子。 

エピソード3 義経の宝が北広島の山中にある!大正期以降、何人かが探索しているがいまだに見つかっていないようです。義経伝説、北海道の海岸部にいくつかありますが、札幌の隣町にも義経が現れていたとは知りませんでした。私も、そのうち地図を入手してお宝でも探そうかと。最近の雑誌に埋蔵金探知機を譲りますなんてのを見ましたが、そんなに高くはないようで、宝が見つかったら十分元が取れます。

鉄道関係の資料に「鉄道敷設法」(大正11年改正)というのがあったので、北広島の辺りを確認しましたが、計画線では村の名称「広島」を使っていました。ただし、胆振国広島となっているのが妙なんですが。当時の計画では、現石勝線は広島から追分方面に分岐してます。というよりも、白石―広島―追分の路線で、分岐は広島―苫小牧という表現ですが。(現千歳線の開業は大正15年)

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