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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[99982]2020年7月12日
hmt

[99982] 2020年 7月 12日(日)18:04:23【1】hmt さん
変遷情報 小笠原(3)小笠原支庁
[99980] ekinenpyouさん
小笠原に関する情報源の紹介、ありがとうございます。
特に、これまで見落としていた 東京都小笠原支庁のサイト。2件共に多数の情報を含んでいました。

都道府県市区町村からは「仲間はずれ」にされている 中途半端な存在のように感じられる「小笠原支庁」。
しかしながら、小さな村役場だけでは人手が足りない事柄について、東京都という大組織の中で、それなりの仕事をしていることを改めて認識しました。

…というわけで、村の変遷情報には直結しないのですが、ご紹介いただいた東京都小笠原支庁の管内概要 から拾った記録を 一つ引用しておきます。

明治10年、内務卿・大久保利通により建てられた「開拓小笠原島之碑」です。

それより前、幕府による小笠原回収の翌年には 八丈島からの移民 30人が送られました。[26683]
しかし、その後で生麦事件など英国との確執があり、実質的な日本の領有・開拓・統治は休止状態に。

このような日本に対して外圧を加えたのは英国でした。再度にわたり 小笠原の所属を質問。
ここに至り明治政府は 1875年に外務省の 田辺太一らを 明治丸で小笠原に派遣。
神奈川駐在の英国領事も同行して日本側の管轄を既成事実として承認しました。

石碑の原文は 24コマ、下記の訓み下し文は 25/250コマです。【表記の一部 省略】
乃ち外務省 田辺太一等を遣し、往いて之を視さしむ。太一等還り具状を以聞す。
九年内務省 小花作助に命じて土民を勧誘し、【耕作・植林・漁業・牧畜を通じ】全島を統轄せしむ。
初め文禄二年、小笠原貞頼 始めて此の島を検出し、木標を建てて以って我が版図たるを表せり。
勿論、証拠になる木標が残っておらず、そのように言っただけでしょう。
因りて小笠原と名つく。
延宝三年、幕府島谷某を遣し其の地を巡視せしむ。
享保十二年貞頼曾孫【と自称する】貞任、祖志を紹ぎ自ずから請いて往き、漂流して還らず。
既にして内民稍々移住し、外人も亦来り駐まる者有り。
文久元年、水野忠徳を遣し、居民を撫輯し法令を頒布し、碑を建て顛末を記せり。

小笠原貞頼の名は、hmtマガジン小笠原諸島の第5回に登場しており、それ以降の数回にわたり、発見と命名に関する記事が続いています。

[78725]で「詐欺まがいの話」と書いたように、その根拠は必ずしも明確でない話なのですが、文禄2年(1593)という年代は、オランダ東インド会社による 1639年に先んじるもので、島谷探検隊 1675年の事績[68669]を補強する「先発見」の伝承として、1861年の「小笠原回収」の際に行なわれた住民に対する説得だけでなく、各国への説明にも利用されたのでしょう。

このようにして、「回収」によって「無人島」から 新時代の Frontier に変った島は、その名も「小笠原島」が定着しました。
利用された 甲斐国巨摩郡小笠原 という名については、[78750]に記してあります。

『巽無人島記』を根拠に、先祖の小笠原貞頼が南海の島を発見し、「小笠原島」と命名したという宮内貞任の話は、[78720]にも記していました。

改めてWebを調べてみると、同じような話がありました。前編後編

漂流して戻れなかったのは甥であり、貞任本人は後に罰せられたと伝えているなど、今回の石碑と少し違う結末ですが、元々の 小笠原貞頼伝説 自体が「怪しい話」なので、追求するのは無意味でしょう。


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