[54363] ezekiel さん
幕末~明治初期の神戸についての詳細レス、引き続き有難うございます。
様々な角度からスポットを当て、神戸のルーツについてのご考察をお聞きし、こちらも大変勉強になりました。
ezekielさんより「湊東の興隆」という記事をいただき、此度は後に戦前の神戸市の中心となる湊東区を中心にこちらからもレスさせていただきます。
その前に、まず事実確認から
そして北前船で有名な高田屋嘉兵衛の拠点は、昔からの兵庫津ではなくて湊東の西出町でしたし
確かに江戸期の豪商・高田屋嘉兵衛の店や邸は西出町にありましたが、この西出町は東隣の東出町とともに「湊西」に含まれます。確かに兵庫津全体の中では、湊川河口に向かって東に突き出た部分に位置していますが、それゆえ「出町」と名付けられ、後に東出・西出に分かれたのでしょう。しかし、湊川を越えて東には出ておらず、実際、幕末期の兵庫津において湊川の東、つまり「湊東」に位置していたのは、東川崎町と相生町の2町だけです。
後に神戸区、更に神戸市と発展するにつれて、兵庫湊東の範囲も拡大していきました。
神戸市に区政が敷かれ湊東区が誕生するのは昭和6年9月1日ですが、明治期には既に「湊東区」という区域分けが為されています。
その範囲は前出の2町に加え、明治5年に兵庫津に編入された坂本村南部の仲町部、新福原、明治12年に神戸区となった坂本村残存部、明治22年に神戸市となった荒田村でした。
湊東区は神戸市一の「ミニ区」で、面積わずか2.04km2でした。(人口では湊区の方が少なかった。拙稿
[3421])
町名を全部列挙してもしれているので、範囲の確認のために記しておきます。
湊東区の町名 | 備考 | 湊東区廃止後 |
東川崎町1~7丁目 | もと兵庫津の1町、1丁目は神戸停車場に | 生田区東川崎町1~7丁目 |
相生町1~5丁目 | もと兵庫津の1町 | 生田区相生町1~5丁目 |
古湊通1~4丁目 | もと仲町部 | 生田区古湊通1~2丁目、*兵庫区西古湊通1~2丁目 |
中町通1~6丁目 | もと仲町部 | 生田区中町通1~4丁目、*兵庫区中町西通1~2丁目 |
多聞通1~8丁目 | もと仲町部 | 生田区多聞通1~6丁目、兵庫区西多聞通1~2丁目 |
橘通1~6丁目 | もと仲町部 | 生田区橘通1~4丁目、兵庫区西橘通1~2丁目 |
上橘通1~4丁目 | もと仲町部 | *生田区上橘通1~2丁目、兵庫区西上橘通1~2丁目 |
福原町 | 新福原、旧福原が移転[5887] | 兵庫区福原町 |
楠町1~8丁目 | もと坂本村 | 生田区楠町1~8丁目 |
荒田町1~4丁目 | もと荒田村 | 兵庫区荒田町1~4丁目 |
*印は現存しない町名です。(昭和49~50年:新開地1~6丁目の新設、昭和55年:上橘通を橘通に統合)
私のイメージ(思い込み)では、西国街道の北側に、西から荒田村、坂本村、宇治野村、花隈村というような位置関係で捉えていました。
全くそのとおりで、まず間違いないでしょう。(花隈村の表記については、「花熊村」としている資料が多いようですが、これはどちらでも良かったのでしょう。)
ここで問題となるのは、元来の坂本村の範囲が海岸まで達していたかどうかですが、これは極めて疑問です。史料となる江戸期の地図を持ち合わせていないので断言は控えますが、小生は海岸には至っていないと思います。神戸に属する走水村についても海岸に接していたかどうか?
また、仲町部として整備された古湊通から上橘通までの区域のうち、その西部(荒田村の南方にあたり、現在は兵庫区内)も坂本村域ではなく、兵庫港地方に属していたかもしれません。
さて、ここからが本題ですが、ではなぜ兵庫の地をわざわざ湊川を境に「湊西」と「湊東」に2分する必要があったのでしょうか。
#ここから先の話は小生の主観が強く入るので、史実とは異なるかも知れません。「こう思っている人も居るんだ」という程度に聞き流して下さい。
結論から言えば、湊西を兵庫の街として残す(整備する)一方で、湊東は神戸の新都心として建設しようとしたのではないかと推察します。
湊東区のうち、元々の兵庫津の町は東川崎町と相生町の2町のみですが、両町とも神戸停車場の建設予定地に組み込まれ、坂本村南部の仲町部に新市街を整備し移転、福原遊廓も神戸停車場敷地より移転、神戸駅開業、仲町部多聞通・橘通に湊川神社を新設・・・などなど、自然拡大的な市街化ではなく、おおよそ大部分を計画的に「神戸の顔」強いては「日本の玄関の顔」として造っている印象を受けます。
小生は坂本の名の消滅について、旧坂本村が単に兵庫と神戸の「接着剤」としてではなく、まさに兵庫・神戸を統合した新しい神戸の都心として整備されたからこそ、旧村名を神戸市の町名として残さなかったのではないかと思っています。
今でこそ神戸の都心は三宮周辺となっていますが、これは戦後、特に昭和30年代のはじめ、所謂「三宮トリオ」(=神戸市役所、神戸国際会館、神戸新聞会館)が建設されたことにより加速しました。戦前の三宮地区は、神戸の「東のターミナル」という位置付けであり、都心は神戸駅前の旧仲町部周辺にあり、神戸最大の商業地は湊東区と湊西区の境、旧湊川河川敷を整備した新開地本通でした。
なお、前出の「三宮トリオ」は平成7年の大震災で揃って倒壊しましたが、神戸市役所は震災前に高層の新1号館が完成し、「トリオ」の建物
2号館は、倒壊した上層階を撤去して使用、神戸国際会館は1999年に
再建し、最後に残った神戸新聞会館はつい先日、10月4日に複合商業ビル「ミント神戸」として復活しました(
[54330]小松原ラガーさん)。
最後に、hmtさんの兵庫開港に至る日本史からのグローバルな視点、ezekielさんの神戸村と二ツ茶屋村の関係と庄屋・生島四郎の存在など、色々と新たな勉強になりました。重ねて深く御礼申し上げます。
「食パンの切り厚がどうだ」とか軽い話題の場合は別ですが、まじめに長文の投稿をする場合には、自分自身が以前より持っている知識が、実は「知識」ではなく単なる「思い込み」である場合も考えられ、出来る限り参考となる書籍などの資料の裏付を取るように心掛けています。それでもどうしても確証のもてないものは「思う」「推察する」「小生の主観」などの語句を添えるようにしています。
今回の一連の神戸に関する投稿に際し、裏付に使用した文献は角川書店「兵庫県地名大事典」、神戸新聞社「神戸の町名」、葺合区役所「葺合ものがたり」、神戸市中央区役所「中央区歴史物語」、兵庫区役所「由緒あるまち兵庫」、(財)日本地図センター「地図で見る神戸の変遷」などです。ご参考まで。